8
会場は大きな湖のそばにある開けた大地で、何万人もの観客が音楽を聴くためだけに詰め掛けている。オリバーには、光景のどれもが珍しい。人間は多いのだと実感する。
パフォーマンスを終えたロックバンドに送られる拍手や歓声は分厚い。外であるのに熱気が常に立ち上っている。
随分汗をかいていた。訪れた幕間に一息ついてから、オリバーはイヤホンマイク越しにロベルトを呼んだ。
『なんだい、オリバー』
「次のバンドが、確か、目当てのやつだよな?」
『ジークによればね』
オリバーは頷いてから、わかった、と口で言い直した。ロベルトは含み笑いだけを返して、それ以上は黙った。
意識を通話ではなく、会場の雰囲気へと戻す。ステージにはギターやベースの調整をするスタッフがいて、左右に取り付けられた巨大なモニターはフェスのプロモーションが流されている。
オリバーは人波を掻き分け、なるべく前列へと進んで行った。次の出演者がオリビアの目的だ。何年も前に解散したロックバンドが、今日だけの再結成を果たす。
それを観るためにわざわざチケットを用立てたのだから、遠くでぼんやりと眺めるのではなく、堂々と前に来るはずだ。
そう話したのはロベルトではなくジークだった。
ステージにかなり近付いた。しかしまだ、何十列も前に人がいる。オリバーは一旦諦めてその場で待った。空が明るい。ステージの上にいたスタッフは、舞台袖へとはけている。
モニターのプロモーションがふっと途切れた。四方から大きな歓声が上がり、オリバーはちょっと驚いた。三組ほどすでに演奏していたが一番の盛り上がりだった。モニターの真ん中にバンドネームが表示された瞬間、万雷のような拍手が沸き起こった。
『あれが
騒がしさの中でロベルトの呟きが聞こえた。
「見えるのか?」
『双眼鏡だから、かなり遠いけどね。Cold turkey、伝説のロックバンドらしいよ……グレイソン曰く、だけれど』
オリバーは顔を上げてステージの中央へと視線を走らせる。三人の男が、随分と落ち着いた足取りで歩いてくる。楽器を持ち、或いは前に座り、黙々と演奏の準備を始める間に、会場は嘘のように静まり返る。
挨拶などはないまま、楽曲が始まった。激しい曲で、スピーカーからは爆音が迸った。観客が声を張り上げ拳を突き出す。オリバーは人混みに揉まれながら、ステージ上のCold turkeyから視線を外して周りを見た。みんながみんな、今日限りの再結成に沸いていた。
オリバーはどうにか身動ぎ、少しずつ場所を移動する。かなりの広範囲を捜索できるが流石に人の数が多い。自分よりも背の高い相手がいれば視界自体が塞がって、中々思うようにはいかなかった。
悪戦苦闘の間に一曲目が終わったが、ラストコードは途切れず次の楽曲へと巧みに繋がった。またテンポの速い、客席を煽るような激しい曲だ。オリバーは前列を窺おうと顔を上げ、はっとした。
前列まで移動できる上に、長身の誰かに邪魔もされずに人を探せる方法が転がってきたからだ。
「ロベルト、イヤホン外れたら、ごめん」
聞こえるか微妙だなと思いつつオリバーは断りを入れた。それから見よう見まねで、自分の前に立っている男性の肩に手を置いた。
力を入れて浮き上がり、密集した人波の上へと転がり出た瞬間に、
『ああ、ダイブか。君には合ってる方法かもね』
ロベルトの揶揄するような声が聞こえた。オリバーは何も答えないまま、足を折り曲げ人の上を転がった。
妙な体験だった。すぐに落とされるかと思いきや、観客は慣れた様子で伸ばした腕をオリバーに絡めた。そして行こうとする方向へ、曲調に合わせて流してゆく。ボーカルのシャウトが間近で聞こえた。オリバーは視線を動かし、ボーカルと目線を合わせて、随分と近くまできたことに気が付いた。
ごめん、と謝りつつ、オリバーは体を捻った。ダイバーの作法としてはよくないが、ぐるりと体を回転させて無数の人の頭を見渡した。様々な人間と目が合った。オリバーの若さに意表を突かれた雰囲気の人が多い中、対抗するような視線を飛ばしてきた女性を見つけた。年齢は不詳だったが、ロングヘアーを左手で大きく掻き上げる仕草を、オリバーはこの数日間毎日のように見続けていた。
オリビア・ギャリーだ。オリバーはイヤホンマイクがまだ耳にあると確認してから、
「見つけた」
ロベルトに報告した。
その間も視線を合わせ続けていたオリビアが、オリバーの口の動きを読んで表情を変えた。
「あ、ごめんばれた」
そちらもすぐに報告した。曲がサビに入って一層盛り上がり、ロベルトはイヤホン越しに大笑いした。
『そりゃあバレるよ。まあ、頑張って引き摺り出して』
人任せな言い草にオリバーは苦笑しかけるが、そんな暇は全くない。更に体を捻ってオリビアの方へと向かおうとする。
しかし、すぐに止める。オリビアの体が浮き上がり、オリバーと同じよう、人の壁の上へと躍り出たからだ。
オリビアは片頬だけを引き上げて笑った。その顔は、グレイソンに少し似ていた。
目立つところにわざわざ出てきてどうするつもりなのかとオリバーは訝るが、オリビアの行動は予想を超えていた。
ボーカルの歌声が途切れ、ギターソロが激しく掻き鳴らされる。ドラムが追随し、ベースも奥で曲を支えるように響いていく。
この間奏が一分以上続く、演奏を聴かせるためのパートだということをオリバーは知らなかった。
だから、飛び掛かってきたオリビアに最前列の更に奥……ステージ端のアンプの近くへと押し出されて、まごついた。
オリビアがCold turkeyのパフォーマンスの一環として戦闘を始め、オリバーを半殺しにするつもりだったことには、ナイフを振り下ろされた瞬間に気がついた。
イヤホンの向こう側で、ロベルトが堪え切れなかったように噴き出した。
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