ラットレース

1

 エミリア・ミラーの後悔は深かった。彼女は大きなため息をつきながら、車のステアリングを両手で握る。本当は真っ当な会社、殺し屋を斡旋する機関などではなく、証券会社の事務や経理や営業や……なんでもいいが暗部とは無関係の仕事に就くつもりだった。

 不可能だった。エミリアにはただちに金が必要だった。破格の給料に必要資格が運転免許証だけである求人票を見た瞬間、意思や望みや業種に関係なく応募の電話をかけていた。

 その結果が、殺し屋の送迎ドライバーだ。

 初めて企業の車に乗って言われた場所に人を迎えに行った日、いつまでも相手が現れず不可解に思っていると、担当の上司から電話がかかってきてすぐに逃げろと言い渡された。どういうことか聞けば乗るはずの相手が仕事に失敗し殺されたということで、迎えのエミリアも襲撃される可能性があると説明され、実際にすぐ発砲された。

 エミリアは車内で泣きながらアクセルを踏み込んだ。どうにか逃げ仰せたが、この仕事は無理だとはっきり感じ、辞めさせてくれと戻るなり上司に頼み込んだ。

 上司は唸り、一旦保留にし、そのタイミングで社内が新体制になった。トップが変わったと社内報アプリのトピックを見て知った。

 辞める準備をしていたエミリアに上司は行った。

「ミラーくん、ちょっと性格に難があるけどほぼ必ず勝って帰ってくる相手の専属ドライバーなら、問題ないよね?」

 問題しかなかった。しかしエミリアは、辞めさせてもらえないと悟った。

 ほぼ必ず勝って帰ってくるという眉唾説明に不信感しかなかったが、頷くしかなかったし、手当てをつけるとダメ押しで言われてしまい、残留が決定した。エミリアは金が必要だった。事故で半身不随になった両親を養いつつ、弟の学費を捻出する必要があった。

 エミリアは夜の中を走り、恐々としながら現れるはずの殺し屋を待った。

 相手は案外とすぐに現れて、安堵したのも束の間、銃口を突き付けられて心の中で十字を切った。結果的に無事だったが、この仕事は自分もいつ死ぬかわからないのだと諦めるには充分だった。エミリアは自分にかける保険のグレードを上げた。

 性格に難しかない相手であるロベルト・ブラックは、ぶっきらぼうだけど優しい少年を連れていた。

 オリバー・マッデンと名乗った彼がなぜ、何のために、ロベルトに連れまわされているのか。エミリアは少し気にかけていた。

 自身の弟を彷彿とさせる年齢であったことも関係していたが、単純な興味、どうにもちぐはぐに見えるオリバーとロベルトのコンビがどう結成されたものなのか、聞いてみたい気持ちがなくはなかった。

 聞くと撃たれる。だから実際に口に出したことはない。

 どこにいようが命の危機が常にあり、エミリアは毎日後悔し続けている。



「オリバー、ちょっと買い物に行こうか」

 アレスと共に転がって昼寝をしている最中、ロベルトが突然言い出した。オリバーは体を起こし、どこに、ととりあえず聞く。生活に必要なもの、主に食材などは、注文して持って来させる方が多い。

 ロベルトは笑い、解体した愛銃が入っているカバンを肩にかける。オリバーとアレスに歩み寄るとまずアレスの頭や体をわしわし撫でた。アレスは鼻を鳴らし、懐いた瞳をロベルトに向けた。オリバーはアレスを筆頭に犬にやたらと好かれるが、こういう時は、やはりロベルトがアレスの飼い主なのだと実感する。

 ロベルトはアレスを撫でていた手をオリバーに向けた。ついでに自分も撫でられるのかとオリバーは思ったが、掌は迷いなく襟首を掴んで引っ張った。気管支がぎゅっと絞まった。

「うぐ……」

「どこにせよ、君は僕についてくればいいんだよ、オリバー」

「わ、わかったよ、ロベルト」

 オリバーは頷きながらなんとか身を捻り、ロベルトの無慈悲から逃れた。

 一ヶ月ほど前に犬たちが囚われている屋敷での任務をこなした時は、多少信頼が重なった気がしたオリバーだったが、ロベルトは相変わらず自分に厳しい。

 最も、厳しくされるのはオリバーではなく、人間全般だ。

「都市部まで行くつもりだから迎えを呼んだよ」

 ロベルトは爽やかに言い、スマートフォンをオリバーに見せる。

「初めは気に入らなかったけど、専属ドライバーというのは便利だね、オリバー。電話をすれば来る以外の選択肢がなくなるし、断れば撃ち殺して別のドライバーを要求できる。その場合は企業を通さず、個人でドライバーを雇っても良い」

 あまりの言い草にオリバーは溜め息も出なかった。犬への愛情が人間に向いたことはないのだろうか、昔の相方であるグレイソンへの態度を見るになさそうだけどと、得体の知れない笑みを浮かべたままのロベルトを眺めつつ思う。

 ちらりと窓の方向をうかがえば、ちょうどシルバーの社用車が入ってきたところだった。運転席には疲れた顔のエミリアが座っていた。同情せざるを得なかった。


 任務以外の送り迎えを頼まれたエミリアは、まず上司に相談した。上司は殺されたくなければ行けと言い、同意だったため仕事として特別手当をつけてもらう約束をどうにか取り付け、通い慣れたロベルト宅への道を進んだ。

 このところ、ウジのように細かい任務ばかりが多い。エミリアはロベルトの送迎以外は主に事務的な雑務をこなしており、企業に来た殺しの依頼メールを毎日のように整理して、営業部に投げていた。

 細かい、そう大変でもない任務は、ロベルトに振られることはない。

 そのためエミリアがロベルトとオリバーに会うのは、森の中の屋敷まで送り迎えをした時以来だった。

「ふつうのお買い物の送り迎えだけだし、まあ大丈夫でしょ……」

 相手がロベルトとはいえ、ちょっとした箸休めの気持ちでエミリアは車を走らせていた。

 この仕事を始めてから一番の命の危機が迫っているとは、知る由もなかった。

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