「生まれ変わり」の真実

森本 晃次

第1話 生まれ変わりの真実


 廣田美由紀は、今年で三十歳になるが、離婚経験もあるので、年齢よりも落ち着いて見えた。

 それは、老けて見えるというわけではなく、時々口をポカンと開けていて、何も考えていないように見えるからであった。考えていることはよく分からなくても、普段から優しい美由紀は、仲良くなれば、結構長く付き合っていける相手であった。

 実際に、学生時代からの付き合いの人も多く、むしろ社会人になってから友達になった人よりも、学生時代の頃の友達の方が多いくらいだ。それでも、皆結婚したり、仕事が忙しかったりで、なかなか連絡を取り合う相手が減ってきたのも事実だった。

 それでも、学生時代からの友達は大切にしていきたいという思いから、誘いがあった時は、なるべく参加するようにしている。それでも離婚した最初の年の同窓会は、さすがに辛く、途中で帰ってきたほどだった。当時は目立っていた美由紀が、今は控えめな性格になっていることも、辛くなる要因だったが、離婚を経験すれば、それも仕方のないこと。好きだった人の顔をまともに見ることができなかった自分が、まだまだ学生時代の友達に会えば、気分は学生時代に戻ってしまうことも分かった気がした。

 美由紀は、学生時代の友達に会うのが嫌なわけではない。だが、その中の一人と会うのは嫌だった。名前を迫丸といい、彼からは、いつも苛められているイメージしか残っていなかった。

「好きな女の子は、苛めたくなるっていうからね」

 後から、他の人から、迫丸が美由紀を好きだったことを聞かされ、却って気持ち悪くなった。迫丸という男は、美由紀から見て、気持ち悪さしかない男性だった。視線を思い出しただけでも身震いするほどで、

「あんな男に好かれていたなんて」

 と、思っただけで、まるでヘビに睨まれたカエルの絵を見ているような気持ち悪さが襲ってくるのだった。

 ただ、彼の思いはどうやら本物だったようだ。美由紀に対しての思いは、少し異常なところもあったようだが、好きだという気持ちは純粋なものだった。

 美由紀のことを好きだと言って、告白してくる男子もいたが、気持ち悪さは感じないが、本当に好かれているのかが、美由紀には分からなかった。少なくとも、どこまで好かれているのかという判断は、見ただけでは分からない。付き合って見なければ分からず、実際に付き合ってみると、

「付き合うんじゃなかった」

 と、失望させられることが多かった。

 だが、彼らに対して気持ち悪さがないだけに、呆れてしまってはいるが、もう二度と会いたくないという思いはない。お互いに、好きでもない相手と付き合ってみて、結局、当然のごとく別れるようになっただけである。

 同窓会では、彼らとも顔を合わせることになるが、お互いに気にしていない。むしろ、学生時代の思い出として、今では笑い話になるくらいだった。卒業してしまえば、心境も変わる。特に成長期では、変化に飛んだ毎日を過ごしていたからである。

 迫丸に対してだけは、笑い話では済まない。付き合った経験もないが、彼には悪戯をされた感覚が強かった。

 しかも、ハッキリと覚えていないのだ。何か睡眠薬のようなもので眠らされて、悪戯をされた感覚があった。最後の一線を超えることはなかったが、それも、彼の性格で、眠っている相手を犯しても、興奮に至らないというのが、理由だったようだ。

 目が冷めた状態で、美由紀が蹂躙され、迫丸に犯されるなどということはありえなかった。

 迫丸は、身体も小さく、気も小さい男だった。相手を好きになったら、自分も好かれるようにしようという考えはなく、蹂躙することで、快感を得る方に走ってしまっていた。蹂躙することで、相手の羞恥心を煽り、羞恥心で精神が歪んでしまった様子を見て、自分が快感に震えるといった、変態チックな恋愛しかできない男のようだ。

 彼から好かれると、金縛りにあったような気分になる。

 まわりの誰も気づかないが、好かれた本人である自分だけが気付くことで、震えが止まらなくなる。助けてほしいという反面、知られたくないという思いが交差して、

「どうして、私がこんな目に遭わなければいけないの」

 と、被害妄想だけが、美由紀を包んでいた。

 被害妄想は、自分の運命の性に恨みを求める。恨んでみても、どうすることもできないが、まずは時間だけでも先に進んでくれないかという思いを抱くだけであった。

 迫丸は、なかなか美由紀を抱こうとしない。じっと見つめているだけで、自分の興奮を高めているようだった。

――早く済ませてよ――

 蹂躙されることを認めたわけではないが、どうせ逃げられないのなら、早く済ませてもらった方がいいという考えに至った。美由紀のそんな気持ちを悟ったのか、迫丸の顔は、淫らに歪んだ。

 笑っているように見えるが、とても微笑んでいるようには見えない。

「笑い顔にも種類があるなんて」

 と、その時に美由紀は初めて悟ったのだ。

 その時の感覚は段階に近いものだったに違いない。

 笑顔が、穏やかな感覚を醸し出すのに対し、迫丸の笑った顔は、笑っていると、どうして分かったのかと思うほど、歪に歪んでいた。

――人がこんな顔をするなんて――

 映画やテレビで見た悪魔の形相に似ていた。

 ひょっとすると、映画やテレビで作られている悪魔の顔の原型は、人間を元にしているのではないかと思った。悪魔というものだって、結局は昔の人が創造したもの、実際に会ったことがある人などいないと思えば、人間の中でも歪な形相を、悪魔として創造したのであれば、理屈に合う。元が人間だということが分かれば、少しは恐怖心も和らぐというものである。

 だが、実際にはそうではない。悪魔が実際にいるかいないかは別として、悪魔を想像するに至るだけの人間が存在しているということである。それは誰もが疑わない暗黙の了解の元、悪魔の存在を信じない人でも、人の恐ろしさを知っている人はいることだろう。子供の頃には、分かっている人は少ないが、それでも知っている人はいたことだろう。迫丸は、

「人間の皮をかぶった悪魔」

 ではないだろうか。

 迫丸は、美由紀の顔を舐めるように見ると、今度は、足元に顔を寄せてきた。

「ひぃ」

 思わず、声にならない声を発したが、その声に気付いたか気付いていないか分からないが、迫丸は、足元に神経を集中させていた。

 指が勝手に動いた。痙攣してしまうのではないかと思ったが、必死で堪えることができた。もしこのまま足が痙攣してしまったら、意識が遠のいてしまうのではないかと思い、必死に堪えたのだった。

 薄暗い部屋であった。そこがどこだか分からない。とにかく逃げたい一心だが、どこだか分からないのに、闇雲に逃げるのも、危険である。

 だが、そんな心境にも関わらず、次第に薄暗さに目が慣れてくるどころか、さらに暗さが押し寄せてくるほどだった。

――前が見えない――

 目を瞑っても開けていても、同じ感覚であった。目の前に真っ赤な放射状の細かい線が、まるで毛細血管のように、張り巡らせていた。

 今度は、胸の鼓動の激しさを感じた。

 シーンとした静寂の中で、耳鳴りが響いているのだが、耳鳴りの中に、胸の鼓動が同じ間隔で、まるで地響きであるかのように攻めあがってくるかのようだった。

 胸の鼓動は、指先に痺れを伴い、痺れの感覚がマヒしてくると、今度は激しい頭痛に襲われた。

 自分の置かれている状況に、さらなる激しい頭痛。何も考えられないはずなのに、絶望感だけが、容赦なく襲い掛かってくる。

 襲ってくる頭痛は、自分の中で、

――何も考えなくてすむんだ――

 と、頭痛さえ起こっていれば、容赦だってあるはずだという思いが頭を巡ってくるのだが、そんな甘くはないようだ。

 迫丸の息が足首に当たっている。

――気持ち悪い――

 肌に決して触れようとしない迫丸の行動は、美由紀にとて、恐怖心をさらに煽るものだった。

――早く済ませてほしい――

 という思いも、ここに至っては、絶望でしかないことで、いっそのこと、何も考えない方がいいと思うようになった。

 しいていえば、

――これが夢だったら、どれほどいいだろう?

 という思いが、頭を巡った時だった。

 カッと見開いた目は、一瞬、自分がどこにいるのか分からない感覚に陥らせた。だが、見覚えのある光景に、思考よりも先に安堵感が湧き上がってきたのだが、それは、そこが自分の部屋のベッドの上だったからだ。

 もちろん、迫丸がそんなところにいるはずもない。夢だったことは疑いのない事実のようだ。

「夢だったんだ」

 と、感じたが、その割りには、リアルな感覚に襲われていた。その証拠に、指の痺れは収まらない。夢の中で、痺れがマヒしてくる感覚に陥ったことで、目が醒めてから、痺れを取るすべとタイミングを失ってしまったのではないかと思うほどだった。そのせいで身体を起すことができない。それでも、すぐに身体が元に戻ってくると信じて疑わない美由紀だった。

 夢の続きを見ることはないので、安心していた。

 いい夢はいつもいいところで終わってしまい、もう一度続きが見たいと思っても見れるものではない。悪い夢も同じで、見たくない夢なので、見ないに越したことはないが、見ることができないのは、ありがたいことだった。

 だが、この夢だけは不思議だった。

 最後に目が覚めた瞬間から、ちょうど続きを見てしまったのである。

 それが次の日だったのか、だいぶ後になってからだったのか、それとも、その間に他の夢が入り込んでしまっていたのか、そのあたりも分からないでいた。

 最初に感じたのは、足首に当たる息だった。

――まさか――

 すぐに、前に見た夢の続きだということは分かった。

――どうして? 夢の続きなんて見ることができるはずがないのに――

 と思いながら、今の状況を必死で分かろうとしていた。

 前に見た夢の終わりが、どうにも曖昧なのだった。いい夢であれば、ちょうどいいとことで終わるのだが、こんな嫌な夢は、どこで終わっても、後味が悪く、気持ち悪いものだ。したがって、続きを見る時でも、どこから見たとしても、それはただの続きであって、感情など、どこにも入り込む余地はない、つまりは、

――流される――

 という感覚しかないのである。

 本当にそんなバカなことがあるのだろうか?

 夢の続きを見ることは、夢と現実世界の間でのタブーのようなものだと思っていた。望んでも叶えられるはずのないもの。どちらも自分なのにである、

 今度は、前の夢よりも、リアルな感じがした。恐れていたように、足首に生暖かいぬめりを感じたからだ。

「きゃあ、気持ち悪い」

 思わず声が出たが、迫丸が、美由紀の足首から、次第に膝の方へと、舌を這わしてきたのだ。暖かさは一瞬で、すぐに暖かさを覆った部分に、鳥肌を立たせる。迫丸は、すべてを悟ったような表情で笑っているが、やはり、口元は怪しく歪んでいる。

――あの時の顔だ――

 やはり、夢の続きを見ていることに間違いはないようだ。

 迫丸は、あの時のままだが、美由紀は、あの時の美由紀ではない。確か、あの時は、まだ小学生だったような気がしたが、今は高校生になっていた。ということは、この間見た夢は、小学生の頃の自分を夢で見たということになる。

――いや、それとも、本当に小学生の頃に見た夢を、何年か経って、忘れた頃に続きを見ているということなのだろうか?

 夢と夢の間に現実があるのだが、現実を通り越して、まるで昨日のことのように昔の夢を見ているという感覚も、まったく考えられないことではない、

 美由紀の中での感覚が問題だった。本当に昔の夢を今見ているということであるならば、夢の続きという考え方は、少し違うのではないかと思う。あくまでも、新しい夢を見ていて、ただ、過去の記憶だけが残っているというのは、おかしな考えであろうか。

「目が覚めると、夢は忘れてしまうものだ」

 という考えが頭にあるから、新しい夢だという思いも抱けるのかも知れない。

 迫丸は、しつこい性格だった。話をしたこともなく、彼の話題に触れるだけでも、悪寒が走りそうな意識が最初から、美由紀の中にあった。

――待てよ?

 話をしたこともなく、意識もしたことのない人に対し、どうして最初から悪寒が走りそうな感覚になるというのだろう?

 それだけ彼を意識していたということなのだろうか。

 いや、美由紀の中で迫丸という男の存在は、まるで異次元のようなものだった。普通の時系列で考えてはいけない相手であり、時系列で考えてしまうと、感じていないことまで感じてしまうことになってしまう。

――大げさに考えてしまうのは、その思いがあったからなのかも知れないわ――

 夢にしてはリアルすぎる。本当にこの男に犯されてしまう自分を想像してしまうのは、自分の中にマゾヒストな部分があるからだろうか?

 嫌だと思いながらも、求めてしまう感覚。夢でよかったと思うべきなのか、夢でも見てしまったことに対して、自己嫌悪を感じてしまう。

 迫丸の指が、美由紀のふくらはぎを撫でている。足が攣りそうになるのを、必死に耐えていたが、すでに一度攣ってしまった後のように、熱く脈打っているふくらはぎを感じるのだった。

 息を感じないのは、それだけ指に身体が集中しているからなのか、それとも、本当に顔が遠くになるのか、どちらなのか分からない。ただ、美由紀は少なくとも、指に身体が集中しているのは事実だ。

――感じているなんて、ありえないはずなのに――

 と思いながらも、気が遠くなりそうな自分に気付いて、ハッとしてしまう。

 指の主がもし、迫丸でなければどうだろう?

 確かに、気持ち悪いとは最初に感じても、迫丸の指でさえ感じるようになってしまったのだから、相手が違っていたら、もっと感じているかも知れない。そうでなければいけないと思った美由紀は、自分が淫乱なのではないかと、その時、初めて感じたのだった。

 淫乱という言葉は、嫌悪に値するものだった。何も自分が清純で、穢れなき女性だとは言わないが、少なくとも、淫らなことなど縁のない女性だと、ずっと思ってきた。それは、美由紀に限らず、皆そうだったのかも知れない。途中で淫乱な自分に気付いて、ハッとする。その後、自覚してからは、淫乱さを表に出す人と、隠そうとする人の二通りに分かれることだろう。美由紀は、隠そうとする方だと思っていたが、実際に気が付いてしまうと、案外、表に出そうとするタイプなのかも知れないと感じていた。

――だから、こんな夢を見たりするんだ。この夢は、自分に対して自覚を促すことに繋がり、これからの自分を、どう方向づけるかを考えようとするために、見ているのだろう――

 そんなことを考えていると、嫌悪感を悪いことだとして感じることなど、サラサラないのだろう。

 迫丸の指は、巧だった。今まで抑えていた声が、思わず出そうになる。

 だが、美由紀は我慢した。もし、ここで声を発してしまったら、今の快楽から冷めてしまうように思えたからだ。

 気持ち悪く、吐き気まで催しているくせに、今の感覚から抜け出したくないという正反対の感情を持ってしまったのは、今まで培ってきた美由紀という人格が、今気付いた淫乱という性格の自分に支配され掛かっていることを示しているのではないか。

――培ってきた性格とは、何と弱いものだったのか――

 このことに対して、美由紀は深い憤りを覚える。新しい自分を発見したという言葉だけでは言い表せないものを感じたのだ。潜んでいた淫乱という性格、今初めて知ったかのように思っていたが、本当は、もっと前から知っていたように思う。そうでなければ、いくら何でも夢の中に迫丸が出てきて、次第に快感を与えられるような自分を発見し、それが淫乱に繋がるなど、想像もしていなかったからだ。

 気持ち悪さが快感に変わる時、迫丸の指先を感じながら、痺れていた足の感覚がマヒしてくるのを感じた時だ。

――痺れがマヒする感覚――

 それは、麻酔が効いてくる感覚に似ているのではないだろうか。

 美由紀は、手術を受けたことがないので、麻酔をハッキリとは知らない。せめて虫歯の治療で麻酔を使った程度だが、同じようなものだと思ってもいいのだろうか?

 夢の中で、手術台の上に乗せられたことがあるような記憶がある。想像しただけでも、背筋に寒気が走るが、手術を受けたわけではない。身体の痺れを感じた時、一瞬だけ、手術台のイメージが頭に浮かんでいるようだった。

 看護婦が数人に、医者が一人。皆キャップをかぶって、マスクで口を覆っている。目だけしか見えていない状況だが、相手の顔を想像できてしまいそうなのが不思議だった。だから、夢だと思えるのかも知れない。

 医者の顔を見ると、愕然としてしまった。目だけしか見えないが、明らかにあの顔は、迫丸だった。

――この男が私を蹂躙しようとしている――

 この感覚は、夢の中で、迫丸から辱めを受けている時、初めて感じたものではなく、それ以前から感じていたもののようだ。手術台の気持ち悪さは、次に見る夢すら、予期していたのだろう。

 次に見る夢、それが蹂躙されている夢だと、どうして分かるのか、実際にはその間に他の夢もたくさん見ているはずである。いきなり迫丸の夢を見たのでは、

「夢の続きを見た」

 という感覚にしかならないだろう。

 膝を通り超えた迫丸の指は、太ももを撫でまわす。

「あ、いや」

 言葉が漏れた。それほど感じる場所なのである。

――あれ?

 嫌なはずなのに、気持ちいいという感覚が、気持ち悪さを完全に上回っていることに気付いた。それなのに、ちっとも嫌ではない。それどころか、快感に身を委ねている自分に自己嫌悪を感じることはなかった。

「身体は正直なのさ」

 今まで無言で、息遣いだけしか聞こえなかった迫丸が、初めて声を発した。しかし、その声は今までに知っている迫丸の声ではなかった。もっと低くハスキーな声だと思っていたのに、聞こえてきた声は、少しか細い、女性のような声であった。

 そういえば、息遣いも、男性というよりも、女性の悶え声のような気がしていた。女性である美由紀が聞いても、淫靡な声は、濡れ場にふさわしい声であり、身体に入りかけた力が、次第に抜けていくかのようだった。

 時々、深呼吸をしているような感じだった。過呼吸になるのを抑えているかのようで、その様子は、相手を蹂躙しているというよりも、自分すらコントロールできていないのではないかということを思わせた。

――この人、本当に悪い人なのかしら?

 ここまでの行動で、同情の余地などないほどの、ひどいことをしてきているのに、何を今さら相手に好意的な考えを持ってしまうのだろう? 美由紀はそんな自分が信じられない気持ちもあって、身体から力が抜けていくのを感じたのだ。

 力が抜けてくると、後は、快楽に身を任せる自分がいるだけだ。身を任せることで気持ち悪さは失せていた。思考能力はすでに失われていて、考える力がなくなっていた。それでも必死で何かを考えようとするのだが、結局は、快楽に行きついてしまう自分に、気付かされるだけであった。

 身体は正直だと言われて、

――まさしく、その通りだわ――

 としか、答えようがない美由紀は、身体の奥に神経を集中させることに躍起になっていた。

 どこが一番感じているのか、その時の美由紀には分からなかった。何しろまだ小学生である。どこが感じるかなど、分かるはずもなかった。

 だが、一旦感じる場所を知ってしまうと、それは、以前から知っていた快感が呼び起こされた気がした。小学生の自分がそんな以前に、快楽を知るなど考えられない。それでもその頃の美由紀は、いつも何かを考えているような子で、考えは、高校生くらいの発想が浮かんでいたかも知れないと思うほどで、それが一つに繋がっていなかっただけである。

 高校生になったから繋がるというものではないのだろうが、少なくとも身体の成長と、生きてきた年月の違いに勝るものはない。いくら、発想が大人じみていたとしても、高校生になった自分に適うわけはないと思った。

――高校生の自分は、どんなことを考えているのだろう?

 今でこれだけのことを考えているのだから、さぞや、発想が大人びているに違いない――

 ただ、本当にそうだろうか?

「二十歳過ぎたら、ただの人」

 ということわざもあることから、あまり早く早熟しても、どこかで帳尻が合うようになっているのではないかと思うと、美由紀は自分が大人になった時のことを、考えたくないと思うようにもなっていた。

 とにかく、小学生の頃の美由紀は、考えることが好きな女の子だったのだ。

――この夢も、発想が突飛すぎるけど、でも、考えが少しずれただけでここまでになってしまったのではないか――

 と思うようになっていた。身体の反応が、考えに勝るなど、思ってもみなかった美由紀にとっては、最初、自分が否定されたかのように思えたことが悔しく、さらには、恥じらいのない自分がこのまま成長すれば、そんなオンナになってしまうのかと考えると、恐怖に震えが止まらなかった。

 快感に身を委ねるようになって、考えることが無駄であることに気付いた。むしろ、身を委ねることで、浮かんでくる発想を大切にすることが、その時の美由紀には大切ではないかと思えたのだ。

――夢は私に何を見せようというのだろう?

 夢と現実の狭間で快感に身を委ねる。それが、その時の美由紀だったのだ。

 小学生だった美由紀が、次の瞬間には、中学生になっていた。

――次の瞬間――

 それは、迫丸の指が、美由紀の乳首に触れた時だった。

 すでにブラジャーは剥ぎ取られていて、男の人差し指の腹の部分で、ゆっくりと愛撫されていたのである。

――中学生の頃の私って、すでに感じる身体だったのかしら?

 美由紀は、中学の時は、典型的な暗い女の子だった。まわりが集団を作っていく中で、自分はいつも端の方にいて、誰とも接しようとしない。完全に気配を消していたと言ってもいいだろう。

 もちろん、彼氏がいるわけもなく、男の子からも、近寄りがたいと思われていたに違いない。

――話題にすら上がらない女の子――

 それが美由紀であり、自分でも毎日何を考えていたのか不思議なくらいだった。まだ小学生の頃の方がいろいろ考えていたように思う。気が付けば何かを考えていたのが、小学生の頃だったからである。

 迫丸は、家が近かったこともあって、同じ中学校に進んだ。彼も、男子の中では、美由紀と同じように、皆から気持ち悪がられていたようだ。かくいう美由紀も迫丸を気持ち悪いと思っていて、

――私は彼とは違うんだ――

 という意識だけは、ハッキリと持っていた。

 中学の頃から、迫丸という男は、今夢で見ているようなことをするだろうという思いを持っていたような気がする。

――それがまさか夢だとはいえ、自分に対してするなんて――

 夢とは潜在意識が見せるものだという意識がある美由紀は、迫丸に悪戯されている夢を見ることに嫌悪感を感じる。確かに、幼い頃の記憶に、迫丸から悪戯されたというイメージが残ってはいるが、ここまでハッキリした記憶ではない。幼児体験としては、ショッキングではあったろうが、記憶から消そうと思えば、消せないことはないと自分で思っていたことであった。

 それなのに、今さら蒸し返すような夢を見るというのは、どうしたことだろう? しかも内容は、想像を絶するようなことである。

 小学生から中学生に掛けてというと、本当に美由紀の人生の中では、一番暗かった時期だったかも知れない。高校時代は、受験というものが控えていたこともあり、誰もが孤独さを持たなければいけなかった時期だと思っている。ただ、それも美由紀の中だけで感じていることなので、実際には違うのではないかということを、かなり後になって思うようになっていたのだが……。

 迫丸の指は、決して力を込めようとしない。それは、同じリズムで愛撫されていて、急に快感で、身体が弾けるような反応を示す美由紀にとって、物足りなさを感じるくらいだった。

 そう思った瞬間、それまで無表情だった迫丸の顔に、笑みが浮かぶ。その顔には余裕が感じられるようで、癪な気がした。こんな屈辱を受けながら、相手に余裕を与えてしまっていると思うと、美由紀は腹が立った。それは誰に対して腹が立ったわけではない。他ならぬ自分に対してであった。

 迫丸は、そんな時、一瞬力を込める。その時に余裕の表情は、少し歪みを見せる。

――これが、この人の感情なのかも知れないわ――

 それまでいくら笑みを浮かべようが、余裕を感じさせようが、彼に感情を感じなかった。しかし、力を込める時に歪む顔にだけ、感情を感じるというのもおかしなものであった。それがどんな感情なのか分からないが、それでも感情を見せた彼に、美由紀は一瞬、ホッとしたものを感じていた。

 ホッとしたものを感じた瞬間、美由紀は激しい快感に襲われた。それは、さっきまでの身体だけの反応ではなく、感情が働いているのを感じるようだった。美由紀が感じた感情、それは、

――相手を求める感情――

 そんな感覚だった。

 三十歳を超えた今までに、相手を求める感情は、感覚から生まれるものだった。本当であれば、感情が先にあって、感覚で感じるものだと思っていたが、美由紀の場合は、感情よりも先に感覚が動いてしまう。

――この人を感じたいわ――

 その思いは感覚であり、感情ではない。感じたいと思っても、求めているという思いは、身体が反応しているだけだったのだ。

 身体が反応してしまって、その人のことを欲すると、感情に訴えてみる。ほとんどの場合、感情は感覚に逆らうことなどできないが、たまに、感情が拒否することもあった。

――こんな感覚になるなんて――

 自分でも不思議だった。

 しかも、その相手というのは、誰が見ても人間としても立派な人で、そんな人に好かれた時に、感情が拒否してしまうのだ。

「あんた、どうしてそんなことができるのよ」

 と、まわりからは言われるだろう。

「何、お高く留まってるのよ」

 と、いう声も聞こえてくるだろうし、もし、これが他の人であれば、美由紀も同じことを感じたかも知れない。

――女性から見て、これほど嫌な相手はいない――

 という思いにさせられるのだ。

「ああ、だめ」

 声を押し殺しても漏れてしまう声に、やっと、迫丸は余裕の笑顔を見せた。

――ち、違う――

 その笑顔は、さっきまで見せていた憎らしい感情に至るような笑顔ではない。同じ余裕の笑顔でも、そこには、相手を包み込む感情が含まれていた。

――この人はいくつの顔を持っているのかしら――

 顔というのは、感情という言葉に置き換えてもいいだろう。

「感情の数だけ、表情がある」

 表情とは、つまり顔である。迫丸にどれだけの感情、つまりは顔があるのか、興味を持った。さっきまで嫌で嫌でたまらない相手に対して、興味を持ったのである。

――これが夢の持つ力なのかしら?

 と思った。

 だが、本当に夢の力なのかどうか疑問であった。夢の力だとすれば、美由紀には寂しさが残る。このまま夢として終わってしまえば、目が覚めてから、何も残らない気がしたからだ。

「覚めないで」

 夢の中で、快感に身体を震わせながら、呟いた。

「覚めやしないさ。君は僕のものさ」

 彼の声は、最初に感じた高い声ではなく、いつもの低い男らしい声だった。その声は、包み込むような表情に合っていたのだ。

――夢の世界では、相手の表情で感じた感覚を、自分の中で表現でき、さっきまで夢に支配されていたと思っていた自分の感覚が、次第に自分から夢を支配するような感情に変わっているのかも知れない――

 と、感じていた。

「もっと、愛して」

 美由紀は、吐息とともに、呟いた。

――信じられないわ。私がこんなことを言うなんて――

 好きな相手と愛し合っている時だって、こんな言葉を発したことはない。快感が、無意識に言わせた言葉なのだろうか?

 ということであれば、好きな男性と愛し合っている時に、ここまでの快感を感じたことがないということになる。信じられないと思ったのは、そのことだったのだ。

 それも、無意識のうちに考えたことだった。迫丸に愛されていて、他のことを考える余裕など、自分の中にはなかったはずだ。快感は感情を支配し、感覚だけが研ぎ澄まされているはずであった。それを快感以外の感情を抱けるというのは、夢の中だからなのだろうか?

 いや、そんなことはないだろう。夢の中だからこそ、却って、あまりいろいろ考えられないような気がする。それは、夢を見ている自分が、現実世界の自分とは違っていると思っているからだ。

 現実世界で、夢の世界を思い出せないように、夢の世界でも、立ち入ることのできない現実世界があるはずである。夢の世界は確かに潜在意識が作り出すものなのだから、潜在意識として残っている現実世界での意識がなければ成し得ないだろう。そう思うと、美由紀の中の感覚は、夢の中であっても、快感が作り出す感情もあるのではないかと思うのであった。

 胸を愛していた迫丸だったが、今度は、顔が近づいてくるのを感じた。満を持してのキスに、うっとりしてしまった美由紀は、気が付けば舌を差し入れていた。

 恋愛から身体の関係に入る時、最初は必ずキスから始まると思っている。それは美由紀だけではなく、誰もが感じていることであろう。

 身体を密着してのキスは、胸が相手の身体に当たり、そして、男性の一番敏感な部分が、女性のお腹のあたりに当たっている。

 今までに何度か感じたことのある感覚では、貪るように絡み合う時間は、これから始まる「儀式」の前座などでは決してない。本当の意味での愛情表現なのだと、美由紀は思っている。

 だが、夢の中での迫丸とのキスは少し違っていた。

 すでに身体は快感に痺れ切っている。いつ達しても不思議のないところまで追いつめられている感覚である。きっと、このまま抱きしめられて、身体を貪るようであれば、一気に昇りつめてしまうことは分かっていた。

 それを迫丸は許さない。ここから彼の「焦らし」が始まった。

 現実世界での恋愛でも、「焦らし」はあった。それは達してしまう寸前の焦らしではなく、高まっていく快感に対しての焦らしでしかなかった。それを思うと、

――何と現実世界での焦らしが物足りないことか――

 と、感じてしまうのだった。

――それにしても、どうして、ここまで現実世界と比較してしまうのだろう?

 この感覚は迫丸に対し、最初に感じた、

――余裕の表情――

 に起因しているように思えてならなかった。

 余裕の表情を感じることで、美由紀にも自分の感情が戻ってきた。蹂躙されていた感覚が解放され、自分で考えることを許されると、それまでただの恐怖しかなかったものが、根本から覆されるのを感じたからだ。

 迫丸のキスの時間は、それほど長いものではなかった。今までのキスが、時間を感じさせなかったものであるのに対し、迫丸は、完全に時間を区切っているかのようだった。逆にその方が快感を誘発されることを美由紀は感じた。普段のキスがダラダラだとは言わないが、段階を踏むことによって、次第に快感が増してきて、貪るような感情がないにも関わらず、それと同様、いや、それ以上の快感を得ることができるのだ。

――包み込まれる快感――

 それがキスであることを、迫丸は教えてくれた。普段も同じように包み込まれる快感だったはずなのだが、それを意識できるわけではなかった。きっと、それは、その後に訪れる「儀式」による快感によって、打ち消されてしまうからなのかも知れない。前座ではないと思いながらも、結局前座にしてしまっているのは、本当は自分だったのかも知れない。

 キスによって得られた快感、これ以上何があるというのだろう?

「えっ?」

 迫丸は、それ以上進めるのを、戸惑っているようだった。

 初めて見せる迫丸の戸惑い。普通であれば、主導権を握っている相手が戸惑ってしまえば、自分はどうしていいのか分からず、途方に暮れてしまうことだろう。置き去りにされてしまった感覚に陥るからだ。

 だが、迫丸に対しては、そうは思わない。彼であれば、きっとすぐに何か行動を起こしてくれるのが分かったからだ。

 迫丸の戸惑いが、美由紀に対して見せた、初めての気遣いなのかも知れないと思うと、急に目頭が熱くなり、涙が流れてきた。その顔を見た迫丸は、指で美由紀の顔を拭った。

「大丈夫」

 この一言だけだったが、

――これがこの人の優しさなのかしら?

 他の人になら、素直に優しさだとして受け入れてしまうような行動だが、迫丸に対しては、それだけではないような気がして仕方がなかった。

 まだ、迫丸が、美由紀の一番敏感な部分にまったく触れていないではないか。その間に美由紀は、小さなものを含めて、何度も達しているのを感じていた。しかもそのすべてに幸福という感情を込めた快感が滲み出ていたのだ。

 しばしの時間が過ぎ、いよいよという時、迫丸の顔が、変わった。それまで優しさを感じさせる顔だったものが、今度は、オトコを感じさせる顔になった。これは最初に感じた恐怖を感じさせる金縛りに遭わせるような表情ではなく、逞しい男らしさを感じさせる表情である。

――この夢の中で、何度彼の違う表情を見たことだろう――

 現実社会で感じてきた迫丸に対しての厭らしい感覚が、一気に変わっていった。

――彼に対してだけは、私の今までの人生の中で偽りだったのかも知れないわ――

 果たしてそんなことがありえるのだろうか? 一人の男性への記憶だけが、まったくのウソだったということである。誤解という言葉で片づけられるものではない。だが、どこかで自分の思い込みが誤解を生み、一人の誤った人格を自分の中で作り上げてしまったのかも知れない。この夢は、その誤りを正すために必要な夢なのだろう。

――でも、どうして今なの?

 美由紀はそう思い、さらに夢の中の快感に身を委ねた。そうすることで、何か今まで感じていた疑問まで解決できるような気がしたからだ。

 迫丸の指が、足の付け根を這っている。

「あぁ」

 思わず、身悶えをしたが、今度の身悶えは、感情がハッキリと伝わってきた。感情というのは、美由紀自身が感じた迫丸への思いだった。

――私は、勘違いしていたんだろうか?

 這わせて来る指に、微妙な力が加わった。そのたびに反応する身体を抑えることができない美由紀は、急に意識がハッキリしてきたことを感じた。

「あ、いや」

 夢から覚めようとしているのが分かった。ちょうどいいところで目が覚めるのは、夢の宿命だが、今目を覚ますことは、美由紀にとって、生殺しの感覚だった。

「夢なら覚めないで」

 と、テレビなどでよく聞くセリフだが、まさしく同じ気持ちだった。もちろん、程度の差はあるが、こんな気持ちになるなんて、自分が怖いくらいだった。

 だが、目が覚めるまで、まだ少し時間があるようだ。

――早く、本当の絶頂まで持っていかなければ――

 身体に支配された感情は、夢が覚めることに気付くと、後は、絶頂を迎えるために動くことを望む。身体の中に流れる血潮は、焦りを伴い、時間との戦いという、現実社会の俗性に向かって、滾っているかのようだった。

 迫丸は、これが夢であることを分かっているのだろうか? 元々自分の夢の中では自分が主人公、迫丸は「共演者」でしかないとすれば、迫丸の感情は関係ない。美由紀自身が、――夢だから、ちょうどいいところで目が覚めるに決まっているわ――

 と思ったとすれば、望みは叶わないだろう。だが、

――彼は私の夢に入り込んでくれているんだわ――

 と思えば、迫丸次第である。

 だが、それでも最後は、夢の主導権を握っているのは自分。どこまで夢を見ることができるかは、美由紀に掛かっているに違いないのだ。

 美由紀の足の付け根を這っていた指は、実際に敏感な部分を捉えていた。布地を通しても、快感は十分に伝わり、それが恥かしさを呼んで、さらに身体の痺れを誘発するのだった。

 生まれたままの姿にされるまで、さほど時間はかからなかった。夢だという意識があるからなのだろうが、夢だと思えば思うほど、リアルに感じるのはなぜだろう?

――本当に夢なのか?

 どこかで味わった感覚をデジャブと呼ぶが、リアルとデジャブは背中合わせの関係なのかも知れない。

 迫丸は、いつの間にか生まれたままの姿になっていた。胸元から汗が滲んでいる。

――この人も緊張しているのかしら?

 自分のことよりも、相手を気にする余裕が出てきた。それは、快感によってもたらされたものなのか、それとも、彼から滲み出るオーラによるものなのか、分からない。今は、――夢から覚めないで――

 という思いが、最優先で、快楽は二の次だった。

――こんな気分になるなんて――

 快楽に目覚めたのなら、快楽だけで身体が十分満たされるはずなのに、それ以上のことが頭にあるなど、今まででは考えられないことだった。一気に昇りつめてしまった快楽は、自分に余裕を与えるだけのものだったに違いない。やはりデジャブだった。

 迫丸の身体に力が入る。一気に貫こうというのだろうか?

 苦痛だけしか残らないはずだった。前戯も何もなく、ただ、指を這わせただけだったにも関わらず、ここまで高ぶった気持ちも今までになければ、それでも一気に貫こうとしている相手に、何も抵抗を感じることなく受け入れようとする美由紀。信じられない気持ちは、やはり、夢の終わりに近づいていることを示すものだった。

 身体の中からこみ上げてくるもの、今は、残像でしかない。痛みもなければ、快感も次第に薄れていく。ただ、絶頂を味わった時、身体が自分のものではないのではないかと思うほど、痺れが身体のマヒを呼んだのだ。

 静寂の中で息も絶え絶え、真っ暗な中で、湿気だけを感じている美由紀は、そばに迫丸がいることの安心感に委ねられるようにしながら、夢から覚めていないことを不思議に感じていた。

――まさか、夢じゃないということなの?

 確かに小学生から始まり、中学生。そして、最後の絶頂は、今の自分が感じたものだった。これが夢でないとすれば、どういうことなのか? 自分の中の妄想が、形となり夢を見ている感覚の中で、現実と夢の間の狭間に落ち込んでしまったのかも知れない。

――一体、何が真実なのだろう?

 美由紀は、自分の置かれている立場を、真実という言葉に置き換えてみようと考えた。しかし、夢ならとっくに覚めているはずのものが、覚めずにそのまま快楽の中にいる。

 快楽を与えてくれたはずの迫丸の存在が、今は感じられないのは、どうしたことか? まるで自分だけが宙に浮いてしまったのではないかと思うのだった。

 そんな中で、一番知りたいものは、「真実」だった。本当は状況を知りたいはずなのに、それよりも真実を求めるというのは、真実さえ見つかれば、元に戻れると思っている。逆に見つからなければ、ずっとこのままなのかも知れないという思いもあるが、実は、美由紀の中で、

「このままでもいいのでは?」

 と考えている自分がいるのも事実だった。

 快楽だけを求める自分がいる。そのことを教えてくれたのが、この世界。そして、快楽だけを求める自分が、他の誰でもないと思っているくせに、真実とは程遠い存在であることを感じさせる。これを教えてくれたのも迫丸なのだ。一体、迫丸は美由紀の真実の、どこまで関わっているのだろう?

――迫丸という男、私にとって、一体何なのかしら?

 夢から覚めたわけではないのに、次第にこの世界でも、彼に対して快楽を与えてくれる以外に、考えられない存在に、戻ってしまっていたのだ。

――今は夢から一刻も早く覚めてほしい――

 一体、どこで変わってしまったのか、極端な心境の変化は、ひょっとするとその中に本当の真実が隠れているのではないかと思わせた。

――夢という言葉で、勝手に自分の真実を作ろうとしているのではないだろうか?

 美由紀は、そんなことまで感じるようになっていた。

――夢でなかったら?

 などという感覚が打ち消されたのは、それからすぐのことだった。いつものように小窓から、光が差し込んでくるのが見えたのだ。

 自分の部屋で寝ているのを感じると、ホッとした気分になった。やはり、見ていたのは夢だったのだ。しょせん、夢は夢。現実には勝てないのだ。

――現実こそが真実――

 リアルすぎる夢を見ただけで、美由紀は、自分が思っていたよりも淫乱だったということを思い知っただけなのだ。

「夢と現実の狭間で出られなくなるよりも、よほどよかったではないか」

 夢の中に、まだいるであろう自分に語り掛けた起き抜けの美由紀だった。

 美由紀にとって、迫丸を思い出すのは、一体いつ以来だったのだろう。確かに迫丸という男が、美由紀の小学生、中学生の頃、同じクラスにいて、悪戯されたことがあったという記憶があるだけだったが、後になって思えば、その記憶も本当に子供の頃のものなので、悪戯でも何でもなかったのかも知れない。美由紀の感覚の中のどこかで、迫丸を悪人に仕立てあげなければいけない何かがあったのだろう。

 迫丸は、人から何かを言われても、まったく表情を変えようとはしなかった。責められても、反省の顔もないが、逆らうこともない。何を考えているのか分からない雰囲気だった。

 学校でも、いつも一人だった。同じようにいつも一人だった美由紀は、意識していないつもりで、気が付けば迫丸を気にしていた。一人でいても、寂しいという雰囲気を醸し出すことのない不思議な男の子で、見られていても、別に気にならない。ひょっとして、公衆の面前で裸にさせられても、彼なら、まったく表情を変えることもないかも知れない。

――羞恥心が感じられないわ――

 恥かしいという言葉は、彼から感じられない。それだけに、何をしても、彼ならありえそうで、それが怖かったのだ。美由紀が、彼を意識しないつもりで意識していたのは、何をしても不思議ではない、その雰囲気に圧倒されていたからだろう。

 いつも一人だと思っていた美由紀には、迫丸が仲間であるという意識もあったのかも知れない。もちろん、本人は表に出ている感覚では否定していた。しかし、裏にはもう一つの思いがあったことも事実で、そのうちのどこまでを、迫丸が支配していたのかということを考えると、今回見た夢と思しき感覚も、なまじ、昔から美由紀の中にトラウマとして残っていたものが、表に出てきたのかも知れない。

 もし、迫丸が仲間だとすれば、仲間意識のない仲間の存在を認めなければならない。それが嫌なので、迫丸に対してのイメージを正反対に残しておくことを決めたとすれば、悪戯されたという意識は、仲間意識の歪な変化だったのかも知れない。

――迫丸の中にも、美由紀に対して似たような意識があったのかも知れない――

 ただ、それはどんな意識なのか、迫丸にしか分からない。ひょっとすると、美由紀を愛する気持ちに近かったのかも知れない。

「好きな子を苛めたくなる」

 子供にえてして多い感覚だが、同じものを迫丸が持っていたとして、どこに不思議があるだろう。

 迫丸は、美由紀のことをどう思っていたのだろう? 子供の頃から、気持ち悪さだけしか見えなかった少年だ。高校生になって、まったく違った高校に入学し、

「やっと、離れられた」

 と思ったのも、事実である。

 迫丸自身、本当に美由紀を意識していたのかどうか分からない。苛められたと言っても、そうしょっちゅうだったわけでもない。ただ、苛められたりしたことのない美由紀にはショックだったということと、気持ち悪さに関しては、最初から意識していたということだけだった。

 美由紀の勝手な過大妄想だっただけのことなのかも知れない。それにしても、ずっと忘れていたはずの相手を、今さらどうして思い出さなければならなかったのか、そして、あれだけ毛嫌いしていた相手に、自分の隠れた性癖を夢の中とはいえ、曝け出さねばならなかったのかを思うと、情けないと思う美由紀だった。

 恥かしさよりも、情けなさで見も震えんばかりだった。確かに夢の中では彼に対して、恋心に近いものがあった。しかし、それを認めてしまうと、自分の淫乱さを認めることにもなり、今まで自分の中にあった気持ち悪いという感覚を、根底から覆さなければいけなくなる。それは美由紀にはできないことだった。

 彼を気持ち悪いと思うことで、美由紀は自分の中である種の性格を形成してきたような気がする。それが何なのか、夢から覚めるにしたがって、考えてみた。だが、目が覚めると忘れてしまうのが、夢の中のこと、意識がしっかりして来れば、それだけ夢の中での出来事は、夢の中のこととして、風化されてしまいそうだった。

――あの男のことを、認めなければいけないのか?

 一体、何を認めようというのだろう? 自分が彼を好きになったということ? それこそ、夢の中でのたわごとに過ぎない。快楽に溺れてしまった夢を見たことは、自分にとって情けないことだが、迫丸のことを自分の中で認めなければいけないとなれば、情けない自分でも、甘んじて受け止めなければいけないと思えるくらいだった。

 夢は次第に覚めていく。意識がしっかりしてくると、窓から差し込んでくる明かりが懐かしい。

――やっと悪夢から目覚められた――

 そういえば、前にも怖い夢を見た時に、同じ感覚を味わった気がした。怖い夢を見た時に共通しているのが、どうやら小窓から見える明かりを感じることで、目が覚めたのだという意識になることのようだった。

 夢から覚める時独特の気持ち悪さはなかったが、その代わり、頭痛に苛まれた。最初は気持ち悪さだと思っていたが、案外、気持ち悪さがないことに気付くと、次に感じるのが頭痛だったのだ。

 頭痛に苛まれるのは、吐き気から襲ってくる頭痛があることに気付いたのは、実はこの時が最初だった。吐き気から襲ってくる頭痛は、他の頭痛とは違い、かなりのキツさを伴っていた。頭痛が収まる頃には再度吐き気が戻ってきて、そのまま発熱してしまうこともあるくらい、厄介なものであった。

 それにしても、どうしてあれだけ夢の中で、あの男を愛してしまう感覚に陥ってしまったのだろう? さらに、今さらあの男の夢を見るなんて……。不思議なことを多く感じさせる夢であった。

 しかも、夢から覚めてしまうと、あれだけ愛していると思った感覚が、一瞬にして冷めてしまったのだ。それは、夢の中で自分が淫乱であることを証明したかのようで、思い出しただけでも顔が真っ赤になりそうだ。夢の中では、どんなに厭らしい格好をしても、恥かしさはなかった。あったのかも知れないが、快感が羞恥心を超越し、支配していたと言ってもいいくらいであった。

 迫丸の夢を見た時の目覚めは、普段よりも気持ち悪いものだった。夢の中と、目が覚めてからの感覚があまりにも違っていたからなのかも知れない。夢と現実のギャップは、あって当然だと思っているが、根本では変わりがないはず。夢が潜在意識の成せる業だと思っているからで、もしそうだとするならば、迫丸に対してのイメージの、夢と現実での決定的な違いは、どう説明していいか分からない。分からないだけに、ギャップがジレンマとして残り、ジレンマが目覚めの不快さを、さらに苛めているのかも知れない。

 夢から覚めたその日、窓から日差しが差し込んでいたのを朝日だと思っていたが、実際には夕日だった。

「そうだわ。今、夜間の勤務だったんだ」

 美由紀の仕事は、シフト性で、夜間もありだった。ずっと日中の仕事ばかりだったが、最近、夜間の人が辞めてしまったことで、美由紀も時々夜間の仕事をするようになっていた。

 仕事は、きついわけではないが、勤務時間が不規則になるのは、思っていたよりも、つらかった。人が帰宅する時間に出勤し、寝ている時間に働くのだ。最初は事務所内の静寂が、恐怖心を煽るくらいであった。

 ただ、その日は夜勤明けで、その日の夜の出勤がなかったのは幸いだった。もし、出勤ということになれば、気持ちの切り替えが必要で、迫丸の夢を見た後での気持ちの切り替えは、かなり無理をしなければいけないと感じていた。

 出勤がないのはありがたかった。気分転換に、近所のスナックに寄ってみようと思ったからだ。最近は夜勤が入ったため、なかなか立ち寄ることもなかったが、一時期は、仕事の帰りに毎日のように立ち寄っていた。寂しさから解放されたいという一心で立ち寄ったスナック。今では常連となっていて、気分転換にはちょうどよかった。

 軽く夕食を摂り、テレビを見ていると、あっという間に午後八時になっていた。表はすでに夜のとばりが下りていて、明るさは、街灯と、それぞれの家から洩れてくる明かりくらいだった。美由紀の部屋は住宅街の一角にあるコーポであり、最寄りの駅までは徒歩で十五分と、少し中途半端な距離であったが、美由紀は気に入っていた。

 駅前から商店街を抜けて帰るのだが、昔ながらのお店も乱立していて、最近では店を閉めたところも少なくはないが、それでも情緒を感じさせる商店街が好きだった。

 コンビニやスーパーで、その日の食事を調達し、家に帰りつくと、テレビを見ながら夕食を食べる毎日だった。

 一人で気楽な時もあるが、寂しさは突然襲ってくる。寂しさを感じた時は、自分が躁鬱症ではないかと思うのだが、鬱状態に陥った時は、あまり動かない方が賢明だということに気が付いた。

 そう思って、ずっと部屋に引きこもっていたが、悪い時には悪い方にしか考えないもので、悪循環から、体調を崩すこともあった。なるべく動かないことは確かに賢明なのだが、気分転換は必要である。そういう意味で、どこか気に入ったお店を見つけようと思っていたところに、家の近くのスナックに思い切って立ち寄ったことから、そのまま常連になったのだ。

 その店は、昼間は喫茶店もしている。昼間も常連で、休みの日や、夜勤明けで、その日に勤務のない時など、仕事帰りに立ち寄り、モーニングサービスを食べるのが好きだった。

 モーニングサービスに出てくる、スクランブルエッグが好きだった。自分も作ってみたが、あの味付けがどうしても出せない。作り方を聞いてみて、やってみたのだが、結果は一緒だった。

「やっぱり、ここで食べるのが一番ですね」

「そう言ってくださってありがとうございます。嬉しいですよ」

 朝は、マスターとアルバイトの女の子が二人でやっている。夜はスナックになるくらいなので、さほど店は大きくない。こじんまりとした雰囲気が、常連に親しまれるのか、朝もいつもメンバーであった。

 部屋を出る頃には、頭の中から半分、迫丸のことは消えていた。普段であれば、嫌な夢を見てスナックに出かけようと思う時、嫌な夢の印象はなくなっているのだが、さすがに本人と同じで、夢の中の迫丸もしつこかった。

 だが、あれだけ印象深かった迫丸が、半分とはいえ、消えているというのも、さすが、夢と現実の違いを感じさせた。すっかり夢からは覚めていたのだが、夢から覚める途中でも、

――あの男のことを見た夢は、当分記憶の中から褪せることはないわね――

 と思ったのだ。

 それでも半分は消えていた。ただ、記憶の中でどの部分が消えて、どの部分が残っているのかが、ハッキリしない。ハッキリとしないくせに、どうして半分だと分かるのか、不思議な気がしたが、自分の中で、少しでも意識が残っていれば、半分だと思うのか、それとも、逆に、消えていく記憶があるのを感じることで、半分だと感じるのか、どちらにしても消えゆく記憶は流動的で、意識の中の半分も、かなり幅の広い意識の中にあるものではないかと思うようになっていた。

 夜のスナックの時間は、マスターはたまにしか出てこない。それよりも、奥さんであるママさんが、夜のお店を切り盛りしている。女の子も三人雇っていて、日に一人の時と、二人の時がいるようだ。週末の金曜日、土曜日は女の子二人体制で、あとは、いつもママと女の子一人のパターンだった。

 開店は八時頃だが、店に客が集まってくるのは、大体十時頃くらいになるだろうか。美由紀はその日は、八時半頃に店に赴いた。

「お帰りなさい」

 美由紀を見た途端、その日の女の子が、美由紀に声を掛けた。美由紀に対しては、

「いらっしゃいませ」

 ではなく、

「お帰りなさい」

 なのだ。

 それは、美由紀が言い出したことで、

「このアットホームなところが好きなのよね」

 と、ボソッと言ったことが、いつの間にか、このお店が「第二の家」になってしまったようで、お帰りなさいという言葉が一番似合っているのだ。言われた美由紀も一番しっくりくる言われ方なので、満面の笑みを浮かべると、誰もが美由紀に対して、

「お帰りなさい」

 というようになった。それは、常連客からも例外ではなかったのだ。

 挨拶一つで、その場の雰囲気に一気に馴染んでしまうことがある。まさしく、このスナックは美由紀の望む環境が揃っていた。嫌なことがあっても、忘れられる場所だし、いいことがあれば、いいイメージがずっと保てるような雰囲気を与えてくれる。自分にその日話題がなく、何も話すことはなくても、他の人の話を聞いているだけで、勝手にいろいろ想像ができる自分が、この店の中にある暖かさを感じることができるからだと思っていたのだ。

 店に入って、いつもの席に座った。美由紀のいつもの席は、カウンターの一番奥。

「誰もそこには座らないから、本当に美由紀ちゃん専用なのよ」

 とママさんが言っていた。しかし、それは美由紀に限ったことではなく、常連の席は決まっていたのだ。どんなに時間帯が違っていても、一人の常連さんの座る席には誰も座らない。つまり、時間を超越して、完全に指定席が決まっているのだ。

「こんな不思議なこともあるのよね」

 と、ママさんが話していたが、まさしくその通りだと言わんばかりに、美由紀も頭を軽く何度も下げて頷いていた。

 いつもの席に座り、いつものように、店内を見渡す。この席が好きな理由は、ゆっくり佇みながら、店内を一望できるところだ。見渡して、そこに自分の今までの記憶と何ら変わりのないという当然のことに、納得することが、美由紀の満足感を充足させるものだった。

「おや?」

 その日、いつものように見た光景が、いつもと違っていることに違和感を感じた。何が違っているのか、最初は気付かなかったが、よく見ると、いつもよりも、狭く景色が感じられたのだ。

 そして、じっと見ているうちに、さらに狭くなっていくのを感じ、目の錯覚かと思い、目を瞑り、少しこすってみてから、再度見渡した。すると、今度は、普段と変わらない景色が広がっていたのだが、じっと見ていると、やはり、狭まってくるのを感じるのだった。

 だが、一度瞬きをすると、また、元の広さに戻っているのを感じた。

――こんな錯覚、初めてだわ――

 今までに似たような錯覚を感じたことがあったような気がしたが、それがいつ、どこでだったのかなどの記憶はまったくない。記憶違いではないと思うが、記憶が錯綜しているのは確かなようで、ただ、今下手に記憶を呼び起こそうとすると、思い出したくもないことまで思い出しかねないと思い、気になっている気持ちを残しながら、意識を別に置いてみた。

 思い出したくない記憶というのは、他でもない、迫丸のことだった。完全に覚めてしまった夢は、余韻を残したまま、記憶の奥に封印を試みたが、どうにも封印はできそうにもなかった。

 封印ができないのであれば、それでもいい。しかし、無理に思い出すこともないので、何とか記憶の隅に置いておいて、他の楽しいことを考えた方がいいという思いから、スナックにやってきたというのが、その日の来店の一番の理由だった。

 店内を見渡していた時間がどれほどだったのか分からないが、自分では結構長い時間だったのではないかと思ったが、実際にはあっという間だったのかも知れない。

 そうでなければ、

「どうしたの?」

 と、女の子が声を掛けてくれてもいいかも知れないからだ。いつもの美由紀は物思いに耽ることもあるが、座っていきなり、固まってしまうようなことはないので、心配してくれるかも知れないと思ったからだ。

 ただ、その時の美由紀は少し頭痛を感じた。

――どこかで感じたような頭痛――

 頭の重たさが、考えることを妨げる。考えれば考えるほど、襲ってくる頭痛に、固まってしまった感覚があったのも仕方のないことだった。

――店内が、狭く感じたり、次第に狭まっていくのを感じたのは、頭痛への序曲のようなものだったのかも知れないわ――

 前兆を、序曲のように感じたのは、その日の店内には、珍しくクラシックが流れていたからだ。

 そういえば、今日の女の子は、大学で音楽を専攻していると言っていたのを思い出した。

「私はクラシックが好きで……」

 という話をしていて、美由紀も小学生の頃から、クラシックが好きだった。クラシックを聴いていると、当時流行っていた音楽が、どうにも幼稚に聞こえてくるくらいで、何百年もの間、ずっと愛されてきた音楽、それがクラシックだと思うことで、クラシックに対する造詣も深くなっていったのだ。

「クラシックを聴いていると、眠くなる」

 という話をよく聞く。美由紀もクラシックを聴いていると眠くなってくる方だが、美由紀にはそれがいいのだった。

「私も眠くなるんだけど、眠くなるっていうことは、それだけ、脳神経に刺激を与えているってことでしょう? リラックスしたい時など、最高なんじゃないかしら?」

 と、答えたが、相手はどこまで納得したか分からないが、頭を何度か軽く下げ、頷いていた。

 だが、今の言葉は、美由紀としては、相手に話すというよりも、自分に言い聞かせる感覚の方が強かった。クラシックはそれだけ、美由紀にとって、脳神経を刺激することを意識させるだけの効果を持った音楽だということであった。

「やっぱり、クラシックよね」

「えっ、何か言いました?」

「やっぱりクラシックはいいわね」

 そう言っている間に、さっきまで兆候のあった頭痛が引いていくのを感じた。何か他のことを考えた方が頭痛を回避するにはいいのかも知れない。

 クラシックを聴いていると、小学生時代を思い出す。学校では、休み時間の間、いつもクラシックが流れていた。音楽の先生の趣味なのか、それとも学校教育の一環なのかは分からないが、クラシックというと小学生の頃だった。

 本当はあまり思い出したくない小学生の頃なのに、クラシックを聴いていると、嫌な思い出はあまり思い出すことはない。今もクラシックを聴きながら、気持ちよくなっていくのを感じるが、それでも小学生の頃の思い出がよみがえってきそうで、何とか、ギリギリのところで踏みとどまっているのを感じた。

 ゆっくりと、心地よさが身体を包む。スナックの中が暖かくなってきた。夏が近い梅雨の終わりのこの時期は、蒸し暑さからか、どうしても冷房を利かせすぎる傾向にある。寒さが身体に沁みていたが、身体を包んだ心地よさは、暖かさを含んでいるようだった。

 暖かさの中に、心地よさだけではなく、匂いも感じるようになっていた。

――何だろう? この匂いは――

 香水の匂いには違いないのだが、香水や花の香りには疎い美由紀には、それが何の匂いなのか分からなかった。だが、きつすぎるわけでもなく、甘い香りの中に柑橘系を感じさせる香りは正反対の匂いを交互に感じさせるものであった。

 花の香りは、誘惑の香りがあると聞いたことがあるが、淫靡な感じもしてくるのを感じた。美由紀が、最初に自分が女であることに気付いた時に感じた匂いに似ていた。

 あれは、まだ小学生だった。早熟なわけではないと思っていたのに、急に身体の奥から、何かムズムズするものが湧き出してくるような気がした。それは何だったか思い出せないのだが、後になっても思い出せるということは、それだけ衝撃的な香りだったのだろう。

 今は、その匂いを半分好きで、半分嫌いだ。それは、一緒に感じるものではなく、好きな時と嫌いな時があり、匂いを感じた時の比率からすれば、半々くらいの思いではないかと思っている。

 淫靡な香りは、淫乱な自分を呼び起こす。先ほどの夢のような感覚を、今までに何度も経験していた。ただ、夢を見ている時は、毎回、

――初めての感覚だわ――

 と、思っているのだ。

 目が覚めてからは必ず、夢の中で匂いを感じたかどうか、思い出そうとしている自分がいるようだ。思い出せる思い出せないは別にして、意識としては、身体が覚えているのだった。

 淫乱な自分が、一体いつから自分の中にいるのか、分からない。それを知りたいといつも思っているのだが、それが、本当に夢を見るようになってからのことなのかどうかが、一番気になるところであった。

 淫乱な自分は、夢でしか見ることができない。現実世界の自分は、他の人に清楚であることを見せつけたいと思っているのだろう。そのわりには、あまりまわりを気にしているつもりはないのはなぜなのだろうか?

 クラシックに、淫靡な香りが漂うスナック、しかも暖かさは湿気を帯びて、淫靡な匂いを醸し出している。

 これだけの環境が揃うと、次第に意識が朦朧としてくるのを感じる。

――いけない――

 と、思いながらも、睡魔に襲われてくる自分を感じるが、すでに、心地よさを跳ねのけるだけの気力が残っていなかった。美由紀はそのまま、意識が遠のいていくのを感じたが、遠のいた記憶がどこに向かっているのか分かっているつもりなのだが、不安感を拭い去ることはできない。

 なぜなのかというと、終点が分からないからである。

 底なし沼ではないことは分かっているが、終点がないという感覚もおかしい。

――覚めない夢はない――

 ということは分かっていても、

――もし、このまま目が覚めなかったら?

 という思いが漂っている。目が覚めて、まったく違う人間になっていたなんて発想、誰にでもあるのではないだろうか。

 人間であればまだしも、人間以外の動物で、思考能力だけが人間であれば、どんな気持ちになるだろう?

 いくら訴えても声になるわけではない。人間は、人間以外の動物に対しては、ペットならまだしも、それ以外は、本当に虫けら同然だ。ペットであっても、自分の思いのままにならなければ、簡単に捨ててしまう。そんな残酷な面を持っている人間に、何をされるかと想像しただけでも恐ろしい。

 美由紀にとって、自分がこれからどうなっていくのか、少なくとも夢の中での自分がどうなのかという目先のことだけを考えるだけで精一杯である。

「美由紀さん、美由紀さん」

 遠くの方で、美由紀を呼ぶ声が聞こえる。もはや、返事などできるはずもないが、何とか答えようとしている自分を健気に思いながら、心地よさに身を委ねながら堕ちていく自分に、美由紀は快感という本能を感じていた。

――本当は、本能は嫌いではないのに――

 そう思っていると、本能から逃げられない自分を、可哀そうに思うもう一人の自分がいて、本能は、もう一人の自分を決して支配することができないことを、堕ちていく美由紀は感じていたのだ。

 クラシックが、そろそろ終わろうとしている。次の曲を美由紀は聴くことはできないだろう。すでに、別世界の扉は開かれているからだった……。

 夢の中では、やはり、香水の匂いが漂っていた。

――どこかで嗅いだような匂いだ――

 それは、懐かしくもあり、思い出すと、身体の奥から滲み出てくるものがあるのを感じたが、淫靡な感じは不思議となかった。

 夢の中で、自分は彷徨っていた。まるでテレビドラマの中で見る。夢を彷徨う人を見ているようだ。足元にはドライアイスを敷き詰めたような煙が出ていて、前から白装束の幽霊でも現れるのではないかと思ってしまうほどの光景に、いつの間にか馴染んでくる自分を感じていた。

 馴染んでいるというよりも、

「帰ってきた」

 という感覚もあった。まわりには何もなく、一人の世界が広がっているのだが、そこでは何も起こらない。何も起こらないから、考えること自体が、無駄なのだ。そう思っていると、一番会いたい人が目の前にいるのを感じた。それは、小さな女の子で、まだ幼稚園に入学する前後くらいではないだろうか。あどけない表情で、美由紀を見上げている。

「美由紀ちゃん」

 その声に驚いて振り向くと、そこには、一人の女性が女の子に向かって叫んでいる。不意に自分の名前を呼ばれて美由紀も振り向いたが、お母さんと思しき女性は、美由紀の存在にまるで気付いていない様子だった。

「お母さん」

 母親の大きな声とは別に、消え入りそうな女の子の声は、きっと誰にも聞こえないような気がした。美由紀も唇の動きで、女の子が喋ったように見えたのだが、本当に声を発したかどうか、自信がないくらいだった。

 明らかに女の子には怯えがあった。だが、美由紀が見るからには、母親の表情に、恐怖を感じさせるものは何もない。それなのに、女の子はなぜか怯えているのだ。

「待てよ」

 美由紀は、自分の子供の頃のことを思い出していたが、どうも、同じような思いがあったような気がして仕方がなかった。やはり、美由紀と呼ばれた女の子は、昔の自分で、自分が母親のことを怯えていたのだということを思い出させるために、夢に見たのではないかと思わせた。

――大丈夫なのかしら?

 美由紀は、記憶を呼び起こしてみたが、普段なら思い出せないような記憶でも、夢では容易に引き出せるような気がした。気のせいなのかも知れないが、思い出すことが、ここまで簡単だという意識を持ったことは今までにもあったような気がした。やはり、この夢の世界には、現実世界と限りなく近い何かがあるのかも知れない。

 美由紀は母親を見つめた。それでも母親は、美由紀に気付かない。

――これは子供の頃の記憶だわ――

 あれは、友達とかくれんぼをしていて、何かに閉じ込められた記憶があった。そこの近くに母親が通りかかって、必死に探しているのに、気付いてくれない。本人は一生懸命に声を出しているのに、声になっていないのか、気付いてくれなかったのだ。

 だが、それは夢だったのだ。美由紀の小さな頃に、そんなどこかに隠れるような場所があって、母親が見つけられないというようなシチュエーションは考えにくい。むしろ母親の年齢くらいの人の子供時代であれば、ありえなくもないが、

――ということは、あれは、母親じゃなくて、おばあちゃんだったのかしら?

 女の子は自分ではなく、母親だったのかも知れないと思った。厳しかった母親も、少女時代は、美由紀と同じように、声を発することができないほど、気が弱い女の子だったのではないだろうか。

 それなのに、何か懐かしさを感じるのは、自分にも似たような経験があるからなのかも知れない。母親を呼んでも、答えてくれなかった記憶が、心の奥に潜んでいる。では、それは一体どんなシチュエーションだったというのだろう? なかなか思い出せるものではなかった。

 美由紀の友達に、晴子という女の子がいた。確か、中西晴子ではなかったか。他の人とは交流がなかったのに、晴子だけは、避けようとしても、寄ってくる。ただ人懐っこいタイプではなかったので、他の人であれば、煙たがられて仕方がないに違いないが、美由紀には、なぜか好感が持てた。友達としてというよりも、ただそばにいるだけという感じで、そばにいないと、どこからか吹いてくるすきま風が、骨身に沁みる気がしたのではなかったか。

 晴子の家は、すぐ近くで、母親同士は仲が良かったようだ。時々母親に連れられて、家に遊びにきていた晴子だったが、その時の情けなさそうな顔は、今でも忘れられない。きっと母親に連れられてくることに羞恥があったのだろう。子供の頃に背伸びしたがる子供にありがちな感覚であった。

 晴子は、目がパッチリとした女の子で、男の子と一緒に遊ぶのが好きなほど、活発な女の子だった。活発ではあったが、美由紀から見ると晴子は、お姉さんのような頼りがいのある人で、とても同い年とは思えなかった。子供の頃の方が、年齢差をハッキリ意識しているもので、一つ違いであっても、まるで、成人したお姉さんと変わらない感覚に見えるくらいだった。

 晴子と一緒にいると、まわりの男子連中も、一目置いているように見えた。別に一目置かれたいという気持ちがあるわけではないが、気持ちがいいのには変わりない。相手を見下ろすのが気持ちいいことだというのを教えてくれたのは、晴子だったのかも知れない。

 美由紀は、いつの間にか、男性を見下ろすことに快感を覚えていた。それは、見下すことでもあり、自分の優越感に火が付いていることを示していた。

 優越感は、一人になって考えると、少し惨めな気分にさせられるが、晴子と一緒だと、優越感は、自分の生きる支えとまで思えるほどであった。

 子供なのに、ここまで大げさなことを考えるのはませているからだろうか? いや、子供だからこそ、大人では羞恥のため考えることができないものを考えられるようになるのだ。そう思うと、大人と子供の差というのは、結構ありそうで、実際には、さほどないのではないかと思った。

 ただ、隔たりはあるだろう。大人になることを拒否したい気持ちになったことが今までに何度あったことか。それは、理不尽な思いが大人になることであるのだとすれば、隔たりは、気持ちの中に大きく存在しているものである。実際に見えている隔たりとは、違うものに違いない。

 男性を見下ろす快感は、晴子の中にハッキリと見えていた。大きな瞳はつぶらな瞳というよりも、見えないものは何もないと言いたげで、何でも見えている感覚が、果たして晴子のそばにいる男性たちがどのように写っているのだろう? きっと、写真のように平面で、動いているのかいないのか、晴子のまわりにいる男の子は、気付かないうちに、晴子の奴隷のような意識を無意識に感じさせられているのかも知れない。

「洗脳されているようだわ」

 危険な発想だったが、ただ、晴子は女の子に対しては、その能力を発揮できない。男の子にだけ発揮できる能力なのに、美由紀は、まるで自分も洗脳の輪の中にいるのではないかという意識に苛まれたことがあった。その時には、晴子から離れようとしても、離れられないでいたのだ。

――迫丸とは違った意味での気持ち悪さが、晴子にはあった――

 迫丸と晴子、それぞれ美由紀を挟んで、一緒に存在したという意識はない。迫丸がいる時は、晴子は隠れていて、迫丸が隠れている時、晴子が現れる。

――同一人物なんじゃないのかな?

 と思わせるほど、二人が美由紀の前で時間を共有したことはなかったのだ。

 晴子のことを思い出すのは久しぶりだった。

 小学生の時だけの付き合いで、迫丸よりも付き合いとしては短かった。頭の中では友達だと思っているが、果たして本当に友達と言えたかどうか、少なくとも、晴子には友達という表現はふさわしくない。

 彼女に、本当に友達と言える人がいたであろうか? 近いと言えば、美由紀しかいなかったに違いない。だが、それも晴子から見ての主従関係に近いものがあった。少なくとも美由紀には、

「従っていた」

 という記憶しか残っていない。

 小学三年生の頃、初めて話をしたが、話の内容は、他の女の子にはないような感覚で、大人びていたというよりも、子供らしさのない話だったように思う。何か相手を従わせることにだけ発想が行っていて、他の人が話していれば、バカバカしいと思うようなことも、晴子が話せば、当然のごとくと思えるくらい、様になった話し方だった。

 今度の夢の主人公は、どうやら、この晴子のようだ。

 大人びていた晴子が、大人になった姿を想像すると、さほど変わりはなかったが、身体はグラマーにしか想像ができない。それでいて、どこかボーイッシュなところも感じるところから、ショートカットが最初にイメージできた。

 妖艶な雰囲気は、さらに深まり、美由紀が知っている、どんな女性よりも妖艶さを持った女性像が出来上がっていて、妖しさというよりも、艶っぽさの方が強かった。

 迫丸との夢の中で見せた自分が妖しさの方が強かった気がしたのに対し、艶っぽさが強い晴子は、ひょっとして、美由紀の中での一番強い女性像なのかも知れない。

――晴子になら、身体が反応するかも知れない――

 そんなことを思ってしまった自分に対し、羞恥を感じたが、夢の中だという意識があるからか、恥じらいをいつの間にか打ち消しているようだった。

 夢の中の晴子は、美由紀に対して最初から積極的だった。先ほどの夢の続きを思わせることで、美由紀には恥じらいはすでになかった。大胆とも言えるほどの気持ちが大きくなっていて、身体の反応は、準備万端であった。そのあとは、この先の展開で、どうにでもなるかのような美由紀の期待と、晴子の表情に、夢の中での美由紀は胸躍らせていたのだった。

 晴子にとって、美由紀を蹂躙することは、子供の頃から意識としてあったようだ。だが、美由紀本人には、晴子に蹂躙されているとは思っていない。むしろ守られているという意識の方が強かった。

 いわゆる洗脳されていたのかも知れない。被害に遭っている方が、都合よく考えられるというのは、洗脳されていると考えるのが、一番理屈に合った考え方に思える。被害という言葉は大げさであるが、子供社会の中では、意外と横行していることなのかも知れない。何が正しく、何が間違えているのかという確固たる考えもない中で、一番相手を洗脳できるのが、この頃なのかも知れない。

 洗脳する方も無意識だ。相手の心を支配してやろうなどという大それたことまで考えていないのではないか。無意識だからこそ、大人が考えても大胆に思える発想が、子供の中に生まれてくるのだと考えると、ゾッとする美由紀だった。

 大人になった晴子を、自分の中で想像してみたことがあった。それもごく最近だったように思う。道ですれ違った女性を、大人になった晴子だと思って、ビックリして思わず途中まで追いかけたことがあった。それほどまでに、晴子に対して美由紀の中で、意識があったのだ。

 最近までは確かに忘れていた存在だった。何かをきっかけに晴子を思い出したのだとすれば、それは、やはり似た人を見たからではないだろうか。それも今から思えば、ただの偶然だったとは思えない。出会うべくして、出会ったのだ。

「交差点というのは、人が出会ったり別れたりするところだ」

 と、言っていた人がいて、漠然としてしか聞いていなかったが、今から思えば、その言葉が頭から離れなかったことも、晴子のことが今頃になって意識させられる一因になってしまったのではないかと思えた。

 夢の中に出てきた晴子は、二十歳前後の女性に見えた。クリっとした目は、可愛らしさを含んでいる。そして、その笑顔には小悪魔的な表情が浮かんでいて、笑顔とは程遠さを感じさせた。

 夢の中の自分は、今度は今の自分である。迫丸相手の自分とは明らかに違っていた。同じ自分であっても、その時の年代が違えば、まったく違った人間として見ているのかも知れない。

 迫丸が相手の時は、完全にもう一人の自分のイメージだった。だが、晴子が相手の自分は、今の自分であり、夢の主人公として、今度は自分が主導権を握れるものだと思っていた。

「晴子さん、お久しぶり」

 声を掛けた美由紀は、明らかに上から目線だったが、晴子はそんな美由紀に対して、挑戦的な態度は取らなかった。それどころか、下手に出ている態度は、今までの晴子にはなかったもので、美由紀は、これが夢であることの本当の意味なのだと感じ、ホッとした気分になっていた。

「お久しぶりです」

 声のトーンも、かなり高めで、

――この子、こんな高い声が出せるんだ――

 と、感じたほどだった。そこに美由紀の油断があったことも事実だが、それも致し方ない。何しろ、晴子に対しては、

――何を考えているか分からない――

 というイメージを強く持っていたのだからだった。

「どうしたんですか?」

 一瞬、ボーっとしてしまっていたようで、ふいに声を掛けられ、ビックリした。思ったよりも、晴子は相手を観察しているようだった。だが、そのこともその時は別に気にならなかった。なぜなら、晴子は自分よりも年が若く、そして、下手に出ている彼女の姿、今までに見たことがなかったからである。別人でもないのに、ここまで変わってしまうのは、改心があったとしか、美由紀には思えなかったからだ。

 ここまでは、夢だと思いながらも、イメージは現実社会のイメージが濃かった。普通に出会って、普通の会話。逆に夢だと思いながらも、普通の会話ができることを不思議に思ったくらいだった。

 晴子の目が大きく、クリっとしているのが小さな頃と変わっていなかったことが、美由紀にとって晴子を感じる中で一番の誤算だったのかも知れない。

 一番特徴があって、その人を表している表情。それは、相手を見つめる時の瞳の輝きだった。

 子供の頃には、そこまで感じられなかった。今ではその目で見つめられたことで、ドキッとなるほどであった。それは、美由紀自身が、大人になってきた証拠であり、淫靡さを自覚してしまった今だからこそ感じることなのだ。

――ということは、迫丸の夢を見たから、その影響で、晴子の夢を見たのかも知れない――

 晴子の夢が、まるで迫丸との夢と繋がっているという感覚だ。

 自分が淫乱だという自覚が、どこまで美由紀の中にあるのか分からない。自覚していると思っているが、自覚ではなく、妄想に近いものなのかも知れない。妄想だとすると、夢の中で暗躍する晴子は、美由紀の思いによってかなり着色されている可能性もあるということだ。

 自分が淫乱だという意識を持っている美由紀は、今度は自分が責めてみようという思いが頭を過ぎった。

 すると、背景がどこかの部屋に変わっていた。大きなダブルベッドの中で戯れるように横になっている美由紀と晴子。そこは明らかにラブホテルだった。

 淫靡さを感じさせるうす暗い中でのピンク色の照明。いかにもラブホテルという部屋ではあるが、照明が控えめに感じたのは、心のどこかで、完全に淫乱になりきれない自分がいることに、美由紀が気付いたからに違いない。

 すぐそばで、晴子は眠っていた。スヤスヤと寝息を立てていて、深くはないが、眠っていることには違いなさそうだ。

 美由紀自身も、少し頭が重たい感じがした。それは、寝起きの気だるさを感じさせるもので、たまに起こる目覚めの際の頭痛であることは、状況から見て、間違いのないことのようだった。

 美由紀は晴子を起さない程度に、顔を近づけ、目を瞑り、口づけしようと試みた。恐ろしく時間がゆっくり進んでいるようで、なかなか晴子の唇に届かない。すると、一瞬、違和感を感じ、思わず目を開けると、目の前に飛び込んできたのは、晴子の大きな眼差しだった。

 それは驚きの表情ではなく、一瞬何が起こったのか分からないという戸惑いの表情で、ウブという言葉とは縁遠いと思っていた晴子に対して、今まで感じたことのない感覚を味わった瞬間だった。美由紀はそのまま晴子の視線から目を離せなくなった。

――まずい――

 と一瞬思ったが、あとの祭りで、それが、本当の夢の始まりであったことに気付いたのは、目が覚めてからだったのは、本当に皮肉なことだった。

――本当にこの夢から覚めるのだろうか?

 と思ったほど、晴子の視線は眩しかったのだ。

 先ほどの迫丸との夢がよみがえる。

 あの時は好きでもないはずの男性に犯されるシチュエーションだったが、今度は、相手が女性というシチュエーションだった。

 どうして、晴子とのことが夢だと思ったか? それは、シチュエーションがラブホテルだったからである。

「ラブホテルには、女性だけでは入れないって聞いたことがあるんだ」

 と、以前に付き合ったことのある男性から教えられたことがあった。女性一人の時は、自殺が考えられるということだったが、女性だけというのは、何があるというのだろう。その時に理由を聞いておけばよかったと、今になって思っていた。

 晴子の目力に圧倒されたはずなのに、今では、眠っているのをいいことに、何をしようと考えたのだろう?

 いきなり目を開けた瞬間に飛び込んできた晴子の目力は、さすがに美由紀の想像をはるかに超えたものだった。口づけ寸前で、それ以上、顔を近づけることができなくなったのも、無理のないことである。

 ここがラブホテルであることを一瞬忘れていたほど、口づけに集中させた神経が、晴子の目力で、一気に目を覚まさせられるくらいの威力を感じる。

――まさか、夢じゃないとかいうことはないでしょうね?

 と、現実なのかも知れないという思いまで出てくる始末だった。

 身体の震えが止まらない。部屋が明るかったのは意外だったが、部屋が暗ければ、今度は、必要以上に晴子の目力を感じることになるのが怖かった。まるで、ネコのように、

「闇に光る眼」

 が不気味であることは間違いない。淫靡な雰囲気が、恐怖を帯びると、どんな感覚に陥るのかを味わってみたい気がしてもいたが、それもこれが夢の中で会った場合のことである。現実世界の延長であれば、晴子の目を恐怖としてしか感じないに違いない。

 晴子の目が妖しく光って、一瞬身体を固くしたが、思ったより、すぐに身体が自由になった。金縛りに遭ったと思ったのは、気のせいかも知れない。晴子との二人だけのこの世界は、普段の常識では、計り知れない何か不思議な力が働いているのかも知れないと感じたのだ。

 美由紀は、自分の欲望を思い起してみた。

 迫丸に対して、これ以上ない嫌悪感と恐怖心を味わいながら、身体が受け入れてしまったことで、迫丸を好きだったのではないかとまで思った美由紀である。納得できるわけではないが、

――これが私の性なんだわ――

 と思うことで、ある程度の説明はつきそうな気がした。もちろんそれは自分に対してであって、自分にとって迫丸が与えた影響が、感情となって、好きだという気持ちに変わったのかも知れない。

 人を好きになるというきっかけは、意外とこういうことなのかも知れない。性欲を感じることができるような相手であれば、それは十分に恋愛対象になりえるということである。ただ、それはあくまでもきっかけであって、過程がなければ成立はしない。夢の中であっても反応してしまった身体。

――本当に自分の身体なんだろうか?

 と思うほどの快感は、気が遠くなるのを必死に堪えている時、一瞬、身体から気持ちが離れて、身悶えしている自分を表から見た。

――なんて気持ちよさそうなのかしら――

 自分を表から見ることが、これほどの快感を煽ることを初めて知った美由紀は、その瞬間に、エクスタシーに達したのだ。

 達してしまったエクスタシーは、美由紀の気持ちを蹂躙し、再度戻ってきた感覚に、再度のエクスタシーを与える。震えが止まらないほどの快感で神経がマヒしたように感じるのは、この一瞬の精神の離脱が影響しているのかも知れない。

 自分が淫乱だと感じた美由紀は、そのきっかけを与えてくれた迫丸を好きになった。もちろん、夢の中の迫丸であって、もし、本人が目の前に現れたら、どんな気分になるだろう?

 せっかく感じた気持ちを冷めさせる鬱陶しい存在に感じるだろうか?

 それとも、自分の気持ちを確かめようと、彼に抱かれる覚悟を抱くのだろうか?

 もし、覚悟を抱くのであれば、かなりの勇気がいる。一度作り上げたものを崩してしまう勇気がなければできないことだ。

 ひょっとして、その心境を違う意味で確かめたいと感じたことが、夢の中に晴子を登場させることになった理由なのかも知れない。

 そう思うと、美由紀は、夢の中に出てきた晴子を、正面から見つめなければいけないのだと思うのだった。

 晴子の目力に負けないように、気持ちをしっかりと持たなければいけない。だからと言って、晴子のように自分も目をカッと見開いてしまえば、もし、迫丸との時に感じたエクスタシーの際のような、身体から離脱している自分が見ていたとすれば、これ以上怖いものはないと思うだろう。あの時はエクスタシーの際にしか、表から見ている自分を感じなかったが、実際には、もう一人の自分と、実際の自分を、交互に行き来しているのではないかと思っていたのだ。

 迫丸との間では、痺れてしまった身体に神経を集中させていたこともあって、エクスタシーの際にしか感じなかったが、晴子と入ったラブホテルでは、明らかにもう一つの目を自分の中に意識していた。

 実際に、晴子の目を、恐ろしいと感じていた。気持ち悪さまで感じる。しかし、淫靡な雰囲気を部屋の中から感じていると、逃れられない目力に、自分の淫乱な部分が共鳴しているかのように思うのだった。

 淫乱というのを、悪いことだとしてしか見ていなければ、決してもう一人の自分の存在を感じることはできないに違いない。もう一人の自分の存在を感じることは、自分が二人ではなく、三人分、いや四人分の感覚の幅を感じることができるのだ。ただ、もう一人の自分の存在を知らない間では、普段の自分の性格が、一本の直線上にしかないことを知る由もないだろう。

 どんなに複雑な性格であっても、人から見れば、一つに見えるのは、そのせいかも知れない。目の前に現れたことしか見えないのではなく、総合的に判断して、平均的な線として見えるのだろう。人の性格を判断できる時点で、一本の直線上でしか、性格というものは、しょせん見ることはできないのだ。

 晴子の目力は、美由紀に笑顔を与えた。目力に何を返せばいいのか分からなかったが、分からない時は、最初に感じたことを素直に出すことが一番だと思ったのだ。

 一瞬意外そうな表情になった晴子。だが次の瞬間には晴子も笑顔になった。その笑顔を見ると、さっきまで激しいキスを想像していた美由紀は、自分が欲しているのは、激しさではなく、余裕だということに気が付いたのだ。

 それも、迫丸に対して抱いた気持ちに余裕を抱くことが、恐怖を愛情に変えてしまった一番の感情であることに気が付いた。

――あの時は分かっていたのに――

 そう、夢の中では分かっていたことだったはずだ。

 美由紀は自分が淫乱であることに気が付いた。それは、もう一人の自分の存在を肯定するものだった。もう一人の自分の存在を、淫乱である自分の言い訳にしようという思いが、一番の理由だったからだ。

――何て安直な考えなのかしら――

 淫乱という定義について考えてみた。

 美由紀は、何度も淫乱だと思うような夢を見たことがあった。

 シチュエーションとしては、電車の中で男の人に触られたり、好きな人と、抱き合っているところを、表から見られているのを感じていたり、下着を付けないで、出かけてみたりするような夢を見ていた。実際に犯される夢までは見たことはない。好きな人に抱かれる夢を見て、ちょうどいいところで目を覚まし、下着が濡れていることに気付いて、羞恥に顔を赤らめたのも、淫乱な夢だと自分で思っていた。

「人には話せない内容」

 それが、淫乱な夢の定義なのかも知れない。

 また、誰かに恋愛の夢の話を聞かされて、本人はそれほど意識していなくても、聞いている自分が恥かしくなるような内容であれば、それは淫乱な夢に値する。きっと自分が見れば、

「私って、淫乱なんだわ」

 と、思うに違いないからだ。

 晴子のことを親友に限りなく近い友達だと思っていた。ハッキリ親友だと口に出して言えなかったのは、どうしてなんだろう? もし他の誰かから、

「お二人は仲が良くて、親友なんですね」

 と言われたら、一も二もなく、即行で否定したに違いない。

 男の子を洗脳するような危険な能力を持っているように思えた晴子も、その能力は女の子には通用しなかったが、美由紀に対してだけは、通用していたのではないだろうか。

 というよりも、男女問わず、自分に近づいていてくる相手を自分のペースに引き込み、その意識を相手に持たせないことが能力だと思っていた。自分のペースに引き込むことはできても、相手にその意識を持たせないことは、難しいことであろう。

 晴子は、たくさんの男性を従えていたように見えたが、実際には、それほど強く引き付けていたわけではない。一緒にいる時だけは、確かに強い繋がりで結びついていたが、そばにいない時の男性は、自分の世界に戻っていた。

――晴子は、勘違いされがちな女性なのかも知れないわ――

 とも思ったが、晴子がそばにいる時に従っている男性にも、他に彼女がいたりする。彼女たちは、晴子に対してどんな意識を持つだろう? いくら自分がいない時、男性は我に返るとはいえ、晴子と一緒にいる時は、まるで従属関係にでもあるかのような雰囲気に、気が気ではないのではないか。

 当然のごとく、その恨みは晴子に向くはずである。晴子の中にどれだけ、自分が男性を従属しているという意識があるのだろう? 最初は、男性を従属する悦びに、晴子は目覚めているのだろうと思っていたが、どうもそうではないようだ。

 晴子を一番恨んでいた女性に、平松鈴音という女性がいた。鈴音と付き合っていた男性が、晴子に引っかかってしまったのである。

 彼は、元々惚れっぽい性格で、熱しやすく冷めやすいタイプだった。名前を田島洋三というが、洋三は、誰が見ても分かりやすい性格で、それが彼のいいところでもあり、炭素でもあるのだと、美由紀は思っていた。

 美由紀の性格からすると、洋三のようなタイプの男性は、それほど好きなタイプではないはずだ。晴子からすれば、寄ってくる男性は拒まない性格なので、鈴音が誤解したのも仕方がない。

 問題は、洋三の気持ちだが、最初は晴子のことが気になったかも知れないが、いつものように次第に冷めてきているのかも知れない。しかし、洗脳されてしまった頭の中では、晴子から離れることができなくなっていた。離れられないことは、洋三にとって悲劇であるが、それは同時に鈴音にも悲劇であった。そして、その恨みを受けることになる晴子にも悲劇であり、結局三人の間で、悲劇が堂々巡りを繰り返すことになっていたのだ。

 鈴音が洋三と付き合い始めるようになったのは、洋三の一目惚れだった。最初は、むしろ鈴音は消極的だったのだ。

 人当たりのいい女性である鈴音だったが、改まって男性に好かれたことはなかった。きっと、男性から見て、人当たりがいいだけに、鈴音には、きっと彼氏がいるに違いないという思いがあり、男性の間で、遠慮があったに違いない。

 もちろん、鈴音はそんなことは分からない。自分が単純にモテないだけだと思っていたのだ。モテない理由については想像もつかない。まさか男性同士で遠慮があるなど、想像もしていないからだ。逆に知らない方がよかったのかも知れない。知ってしまっても、鈴音の方から何か行動を起せるわけではない。何もできないのであれば、知らない方がいいに決まっているではないか。

 鈴音は、一目惚れなどしたことがない。好かれたから好きになるタイプだった。美由紀にはよく分かるタイプだが、そんな鈴音も、最初は洋三に警戒心を抱いていた。

 好かれたから好きになるタイプの中にも、すぐに好かれたことを受け入れて、相手を好きになる人と、好きになられたことで、我に返り、警戒心を強める人と二通りがいる。鈴音の場合は、完全に後者だった。

 鈴音には、今まで本当に好きになった相手は、洋三だけだった。あれだけ警戒していたのに、なぜ、こんなに好きになってしまったのか。警戒心が解けてくると、相手に対する信頼感が強くなり、完全に警戒心がなくなると、鉄板になる。信頼感がマックスになることで、洋三が晴子に惹かれてしまった理由がまったく分からなくなり、恨みだけが残るのだ。

 もっとも、信頼度がマックスでなくとも、洋三の行動は、付き合っている女性を裏切っていることには違いない。

 誰が見てもその通りで、美由紀が見ても同じだった。

 美由紀が、晴子を巡って、洋三と鈴音の関係を知ったのは、本当に偶然だった。

 美由紀の会社に、鈴音が中途入社で入ってきたからである。鈴音と美由紀は性格的には違っていたが、なぜか気が合った。仕事が終わってから、一緒に食事をすることもあった。それまで、まったく何もなかった美由紀には、信じられないことだった。

 美由紀から、晴子に近づくまでに、少し時間がかかった。馴染みのスナックにいる時に、晴子のことを思い出し、その日のうちに夢を見てしまうほど、晴子の存在を感じたのだが、まさかその晴子の存在を、鈴音を通して知ることになるなど、想像もしていなかった。

 鈴音の話から、洋三のことを聞いたのだが、鈴音の話を聞いていると、どこまで信じていいのか分からなかった。鈴音がウソをついているというわけではない。どうしても、悲劇のヒロインは自分なのだと思っている相手なので、思い入れが激しいのは仕方がないことだ。仕方がないということは、それだけ、一方の話だけを聞くわけにはいかないので、なるべく、洋三というまだ見ぬ男性のイメージを抱かないようにしていた。

 ただ、それでも感じたこととしては、熱しやすく冷めやすいタイプで、猪突猛進型、そして、あまり深く考えない人で、さらに気が弱そうな人ではないかということだった。そこまでは、一気に頭の中を駆け抜けるように想像できたのだが、そこからは、まったくできなかった。

――ひょっとして二重人格な人なのかも知れない――

 二段階の性格があるという意味での二重人格で、一般的に言われる二重人格とは、少し違っているかのように思えたのだ。

 一方が出ている時は、鳴りを潜め、相反する正反対の性格を持っている「ジキル博士とハイド氏」的な二重人格、洋三のように、分かりやすい性格が表を飾っていて、一見分かりやすい性格に見えるが、実際にはその奥に、なかなか見ることができず、表に決して現れることのない二段階式の性格と、二つあるのだろう。

 洋三という男性の話を聞いてみると、なぜか別れた旦那を思い出していた。勝手なイメージを抱かないようにするために、鈴音からの話を聞いて判断しないようにしていたはずなのに、どうしたことだろう?

 別れた夫のことを今さら思い出すこともない。

 元々、どうして結婚する気になったのかと言われても、今となってはその時の心境を思い出すのも難しい。

 離婚してから、いろいろな心境の変化があったことで、記憶の上に、新しい記憶が覆いかぶさって、掘り起こすことが不可能になったからなのかも知れないが、それも意識しているからこそ、感じることであった。

 考えすぎてしまうことが、余計な意識を呼び起こし、必要以上に、記憶が積み重なってしまったと思い込んでいまっているようだ。

 忘れてしまったわけではないことで、他の男性を意識してしまうと、心の底に沈んでいた思いが浮かんできたとしても、それは不思議のないことだ。ただ、どうして洋三を意識してしまうと、旦那を思い出すのかが、すぐには分からなかった。

 確かに、元旦那も、変な性格ではあった。離婚も、まるで恋愛中の自然消滅のように、お互いに、

「離婚までしなくてもいいが」

 と、思っていたにも関わらず、軽い気持ちで、美由紀の方から、

「離婚、する?」

 と聞いたところで、旦那の方も、

「それもいいか」

 と、まさかの答えが返ってきたことで、美由紀も引き下がれなくなってしまった。引き下がれないという気持ちの中に、旦那が否定してくれなかったことへの怒りも重なり、離婚への気持ちは急降下爆弾のように一気に炸裂してしまった。

 旦那が否定してくれなかったのは、

「お前のことなんか、愛してはいないんだ」

 と、宣告されたという事実と、こちらの気持ちを最初から分かっていて、言いにくいことを、美由紀に言わせたのではないかという疑念が、頭から離れなかったからだ。

「それもいいか」

 と言った時の旦那の表情は、明らかに冷静だった。冷静な表情の裏には、厭らしい笑みが浮かんでいたようで、その時の表情こそ、頭の中にありながら、決して思い出してはいけないものだとして、封印したものだった。

 元旦那の顔を思い出そうとしない。離婚の原因についても考えようとはしない。そして、どうして結婚しようと思ったかということ、これも思い出してはいけないことだとして封印していた。きっと、どうして結婚しようと思ったかということは、一番大きな心の中に空いた穴だったように思うのだ。

 洋三のことを勝手に想像してはいけないと思ったのは、旦那をイメージしたからだというのも、その一つであろう。

――私って、本当に主婦をしていた時期があったのかしら?

 と思う。

 そして、夢に今さらながらに出てきた迫丸と、晴子。この二人が自分にどのような影響を与えているかを考えると、美由紀は自分の運命が、本来進んでいた道と違う方向に進んでいるような気がして仕方がなかった。

 結婚経験があり、離婚した女性を何人も知っているが、

「私とは違う」

 と、どこが違うのかは分からないが、明らかに違う。それは、他の人と比べるからで、自分の中では違いが分かったとしても、その違いに何が影響してくるかまでは分からなかった。

 本当なら恐怖を感じるべきなのだろうが、恐怖は感じない。その代わり、これから出会う男性に対して、本当に愛情を抱くことができるかの方が、よほど気になっていた。

「すでに私は、男性に対しては冷めた目しか持つことができないんだわ」

 と思ったからである。

 そんな中で見た迫丸に犯され、快感を味わうという、羞恥に満ちた夢。夢は、これからの美由紀を、どこに導こうというのだろう。

――熱しやすく冷めやすいタイプで、猪突猛進型、そして、あまり深く考えない人で、さらに気が弱そうな人ではないか――

 このイメージを抱き、旦那を想像してしまったということは、抱いた思いというのは、洋三や、旦那という人間に対してではなく、

「今、自分が一番嫌な男性のタイプを思い描くとしたら、どんな人になる?」

 というイメージで想像した相手だということになるだろう。

 鈴音と仲良くなったのも偶然だった。家が近いというのも、大きな理由だった。当然帰り道も一緒になり、偶然、コンビニで買い物をしている時にバッタリ出会って、

「お近くにお住まいなのに、今までお会いしなかったのが、不思議なくらいですよね」

 という鈴音の言葉がきっかけだった。

 鈴音は本当に人当たりがいい。会社で一緒に仕事をしている時は、それだけではダメなので、本当の鈴音を見失っていたのかも知れないと、美由紀は感じた。鈴音のプライベートを覗けたことは、美由紀にとっても嬉しいことで、自分のプライベートを思い起してみると、本当に一人寂しい人生を歩んでいたことを、今さらながらに思い知らされたのだった。

 最初の頃は鈴音の部屋に何度か行ったが、そのうちに、美由紀もさすがに、人の部屋ばかりに行くわけには行かないということで、自分の部屋に招き入れた。

 それは美由紀にとって、覚悟のいることだった。誰に対して持っていたわけではないが、自分の中に持っている戒律に、

「人を自分の部屋に入れない」

 というのがあった。

 あくまでも部屋は自分の城であり、他の人が入り込むと、今まで抱いていた信念が、揺らいでしまうと思ったからだ。

 どうして揺らぐことを嫌うかというと、自分の信念というものが、ハッキリと分かっていなかったからである。少しの揺らぎがあるだけで、どれほどの影響があるか分からない。そのため、自分の中に戒律を作り、破らないようにすることが必要だった。美由紀は、クリスチャンでも、どこかの宗教の門下生でもないが、戒律という考えには深い思いがあったのだ。

 鈴音は、美由紀が守ってきた戒律を、あっけなくこじ開けてしまった。最初に部屋に連れてきた時、激しい後悔に襲われた美由紀だったが、鈴音の顔を見ていると、

――この娘にだけは、戒律を無視してもいいかも知れないわ――

 と思うようになった。

 一人に対して破ってしまっては、その時点で戒律ではなくなるのに、今でも美由紀は、鈴音以外の人を部屋に入れない限り、戒律を守り通していると、思っているのだった。

 戒律を定めたのは、離婚してからだったかどうかすらハッキリしない。そもそも戒律という意識もなく、漠然と考えていたことを、ある時から、戒律と意識したのだ。それは何か夢を見た時だったように思ったが、それがどんな夢だったのかまでは思い出せない。美由紀にとって、夢を見るということは、何かのターニングポイントに必ず引っかかっているように思えてならなかったのだ。

 最初に鈴音の部屋に入った時、少しビックリした。自分の部屋と、すっかり違うからだ。自分の部屋は、綺麗に片づけている。そのことが自分の中での自慢であり、人に言いたいと思う数少ない感情だった。片づけも全体のバランスを考えていて、一目で、綺麗に片付いていることが分かるのだ。

 それなのに、鈴音の部屋は、逆に、適当に散らかっていた。

 いつも自分の部屋を見ているので、どう見ても、汚く見えてきそうだった。

 だが、それを感じたのは最初だけで、次に感じたのは、

――おや? 綺麗じゃないのかしら?

 という思いだった。瞬きの瞬間に、位置が変わってしまったのではないかと思えるほどで、そんなことは考えられるはずもない。目の錯覚でしかないのだ。

――では、なぜ目の錯覚を起こさせたのか?

 それは、部屋がこじんまりと片付いていることに気付いたからだ。

 こじんまりと片付いているのに気が付くと、今度は部屋が少し狭くなったように感じられた。だが、それでも美由紀の部屋よりも、少しだけ広く感じる。部屋のバランスを重視しているわけではないので、広さに関しては、自分で感じているよりも次第に変わっていくのも分かる気がする。

 自分の部屋をバランス重視にした理由も、

「部屋をいつも同じ広さに感じていたいから」

 というのが、本当の理由だったのだ。鈴音の部屋を見て、そのことをハッキリと知った気がした。

 部屋を不動の大きさにするのは、それだけ部屋に一人でいるのが怖いからなのかも知れない。

 もし、部屋の大きさが違ってくれば、中にいる自分の感じる空気が圧迫されたり、薄くなって、息苦しくなったりするはずである。それがないのは、やはり部屋を一定の広さに感じたいという思惑があっての間取りやインテリアなのである。それも当然のことだと言えないだろうか。

 鈴音の性格と、美由紀の性格の一番の違いが、そのあたりに含まれているのだろう。

 部屋の大きさの違いに気付いた時、同時に、鈴音が神経質であることにも気付いた。

 几帳面であることと、神経質なことは少し違っているが、神経質な鈴音が、洋三のような男を好きになり、その洋三が違う女に走ってしまったことで、精神的に少し乱れてしまったことも頷けた。

 見た目は明るそうで、人当たりもいい鈴音だった。根は神経質で嫉妬深い性格。最近、自分が淫乱ではないかと気付いた美由紀から見れば、鈴音も美由紀に負けず劣らずの淫乱ではないかと思えてきた。

 それも勝手な想像なので、ハッキリと分かったわけではないが、それでも、状況を聞いているだけで、頷けるところは随所にあるのだ。

 そんな鈴音を見ていると、洋三のことをどこまで本気なのかが疑わしかった。好きな男性に対する態度は、美由紀の場合と少し違っていたからだ。美由紀は好きになると尽くすタイプではなかった。どちらかというと、相手に自分のことを理解してもらい、そしてお互いを高め合うというような、それが大人の関係だと思っていた。

 だが、鈴音の場合は、完全に相手に尽くすタイプで、自分を押し殺してでも、相手に尽くしたいと思っている。そこに無理があるのは、見ていて分かる。鈴音は自分に自信がないのだろう。

 小心者と言ってもいいかも知れない。部屋が狭く感じられるような片づけ方には、大胆さが感じられない。几帳面なところがあり、しかも神経質に感じるのは、そんなところから性格が分かるからだ。

 だが、美由紀は、そんな鈴音を羨ましいと思ったこともあった。

 鈴音は、何年か前の美由紀に似ているところがある。今、美由紀は、

「できることなら、数年前くらいからやり直したい」

 と思っていた。

 ただ、この気持ちは定期的にやってくるもので、もちろんやり直すことなどできるはずないことを分かった上で、まるで、ないものねだりをしているかのようだった。

 それでも、すぐにその気持ちは打ち消される。

 まず、一体どの時期まで遡るかということだ。数年前などという実に曖昧な表現しかできないのは、それだけ、遡る時期が分からないからだ。特に美由紀の場合は、過去のことを鮮明に覚えているわけではない。それが時系列となれば特に曖昧で、時系列が曖昧だからこそ、余計に思い出すことが困難になるのだ。

 そのことを意識しているからなのか。美由紀の中で曖昧な記憶を呼び起こそうとすると、どうしても淫乱な性格をともなってしまい、最近では、迫丸の夢を見たり、晴子の夢を見たりしたのだ。

――それにしても、どうして、晴子に対して淫靡なイメージを浮かべてしまったのだろう?

 晴子は、それほど、美由紀に近いイメージではなかったはずだ。迫丸も嫌なイメージしかなかったが、インパクトは強かった。いきなり思い出したというわけではなく、燻っていた厭らしいイメージが、美由紀の中で爆発したことで見た夢なのだろう。

 晴子も、同じ理由で夢に見たのであれば、晴子は、

――静かに燃える思いが燻っていたのだ――

 ということになるのだろう。

 静かに燃えるというのは、まるで、墓場の中で見る、ひとだまのようなものではないか。映画などでは効果音があるが、本当に墓場で見るのであれば、効果音など必要ない。下手に効果音があると、ウソっぽく感じられ、シラケてしまうことだろう。薄青さが真っ暗な中で、明るすぎず、それでも十分目立って見えるのは、本当に不思議な感覚だ。実際に燃えているのを見たことがないので、本当に映画で見るような色なのか分からないが、ひょっとすると、そこには多分な着色が含まれているのかも知れない。

 美由紀は、高校時代、

「私って、レズビアンなんじゃないかしら?」

 と、感じたことがあった。

 確かその時にも、ちょうど、迫丸の夢を見たことがあったような気がした。時系列の記憶が曖昧な美由紀だったが、こういうインパクトの強い記憶は覚えていることが多い。だからこそ、余計に他のことが曖昧なのかも知れないと感じた。

 レズビアンを感じた相手は、クラスメイトの女の子だった。性格的には大人し目で、逆らうことのできない相手を蹂躙することに快感を覚える自分を感じていたのかも知れない。その女の子とはすぐに友達になれた。彼女自身も、美由紀を意識していたらしい。

 レズビアンの傾向にあったのは、むしろ彼女の方だった。それまで、男性に対して恐怖心を抱いていて、いつもおどおどして見えたのは、男性への恐怖心の表れだったに違いない。

 すぐに仲良くなれたのは、お互いに意識するがゆえに、視線を合わせることが多く、美由紀が、彼女の委ねるような視線を感じた時、そのまま強く見返したのだ。

 彼女は慌てて視線を逸らしたが、その時、美由紀が優しく声を掛けた。

「どうしたの? そんなに怯えなくていいのよ」

 すると、彼女は、美由紀を見上げて、懇願の視線を見せたのだ。

――可愛いわ――

 オトコがオンナを可愛いと思う感覚とはまた違っているのだろうが、美由紀は自分が「男性役」になっているかのように思えた。

 ということは、彼女は完全な女性役で、レズビアンの関係がそこで出来上がった。

 美由紀は、彼女を自分の部屋に引き込んだ。

 その頃はまだ、部屋に誰も入れたくないという意識はなく、むしろ自分の部屋に友達を呼ぶことに快感すら覚えていた。それだけ親近感が湧くからであって、もちろん、信用している相手しか呼ぶことはなかったが、それでも彼女を呼んだのは、レズビアンの相手としてだけではなく、普通に女友達としての意識も強かったからである。

 部屋に彼女が入っただけで、フェロモンが一気に充満していった。美由紀が作り上げた部屋に、別のフェロモンが入り込んだだけで、部屋がイキイキしているかに思えた。まるで心臓の鼓動が部屋全体から聞こえてきそうで、それが、美由紀の気持ちを表しているようで、羞恥を感じていた。

――気持ちを見透かされてしまうかのようだわ――

 これから起こることは、自分でも想像がつかない美由紀だったが、多分、自分の中にある無意識の意識が働くことで、勝手に行動に移るのではないかと思えた。それは本能の赴くままの行動であり、それを抑えるだけの理性を、美由紀は持ち合わせていなかった。

「美由紀さん」

 フェロモンに負けたのか、もう少しゆっくり行動するつもりだった美由紀は、思わず彼女に抱き付いた。

 最初はビックリしていたが、抱きしめて唇を強引に奪った。何も言わせたくないという気持ちと、快感の最初はキスだと分かっていたからだ。

 その時、美由紀はすでに処女ではなかった。男を知っていて、快感も知っているつもりだった。

 だが、女性とも感覚は、今までの美由紀の考える大人の世界を究極から変えるものとなるのではないかと思えた。その理由はたくさんあるだろうが、まず最初に感じたのは、肌の細かさだった。

――なんて、柔らかく、そして弾力性があるのかしら?

 太くて逞しく、そして力強さを感じるオトコとは、かなり違っている。繊細で、心配りを感じさせる肌のきめ細かさ、そして、ソフトな絡みは、オトコには決してないものだった。同じ恥かしさを感じるものでも、男性に対しては、半分演技があるのに対し、女性に対しては、演技をする必要はない。

 男性との間では、演技であっても、それが相手に分かったとしても、それでもいいと思っている。

 中にはシラケてしまう人もいるだろう。だが、美由紀はそれでもいいと思っている。相手も、分かっているだろう。そこに、

「男と女のラブゲーム」

 を感じる。だが、男性の中には、女性が感じていることを演技だと分かっていても、素直に喜んでくれる人もいる。美由紀は最初、そんな男性を、

――情けない男――

 と思っていたが、途中から、

――優しい人なんだわ――

 と思うようになった。それは、自分の中の気持ちに余裕ができてきたからなのかも知れない。

「優しくしてね」

 という一言に、スイッチが入った美由紀だった。貪るように、彼女の下着を脱がせていく。彼女は身をよじるようにしながら、脱がせやすくしていった。

「あっ、あぁ」

 時々、悶え声を出すが、そのタイミングが絶妙で、さらに美由紀の気持ちを高ぶらせる。

 敏感な部分に舌を這わせると、身体を一気に硬直させながら、大きな声が出るのを手で押さえながら、耐えている姿が、痛々しく見えるくらいだった。そこに幼さを感じ、自分のサディスティックな部分が顔を出していることにも気づかされて、気が付けば、彼女の下半身は、グジョグジョに濡れていた。

「あ、ああぁ」

 大きな声を発した後は、息絶え絶えに呼吸を整えている。

――イッたみたいだわ――

 美由紀の興奮は最高潮だった。まだまださらに高見の絶頂を目指している彼女を責め続けた。何度も小さな絶頂を迎えた後に訪れる、大きな波。それを乗り越え、彼女は、我を見失っているかのようだった。

 美由紀は何とか自分を見失うことはなかった。一気に責めてはいるが、考えることはできていたからだ。

「優しくして……」

 という言葉が、再度、彼女の口から洩れた。無意識からだったのだろうが、その瞬間、美由紀の中で、何かが落ちた。一気に冷めてしまったと言ってもいいだろう。

 彼女の敏感な部分から舌を外した美由紀は、身体を起した。それでも、まだ恍惚状態にいた彼女は、俄かにはその時の状況を理解できなかったようだが、しばらくして、

「どうしたの?」

 と、声を掛けてきた。すでに正気に戻っていて、美由紀がことを止めたのは、自分が原因であり、それが何かを知るのは怖いが、知らないと先に進めないことが分かっているような、自信がなさそうで、それでも、意を決したかのような口調で聞いてきたのだった。

 美由紀はそれに答えることはしなかった。言葉に発すれば、気持ちを正直に伝えられないと思ったからである。

 彼女は、借りてきたネコのように大人しくなった。

――私がレズビアンに目覚めたのは、確かに彼女の影響だわ。でも、レズビアンの本当の相手は彼女ではない。他にいる気がする。いるとすれば、どんな相手なんだろう――

 と、美由紀は、まだ見ぬ相手に思いを馳せていた。

 行為の最中、同じ言葉を発するのは、仕方がないことだ。だが、最初にまだ興奮が昂りかけていた頃のセリフと、我を忘れてしまってからのセリフを比較した時、さほど気持ちに変わりがないことに気付いた時、急に冷めた気がしたのだ。

 それは、彼女に対して冷めたわけではなく、レズビアンに対しての気持ちが一気に消沈したのだ。

 その理由はまったく分からない。だが、レズビアンの相手に、決して演技は許されないという気分が募ったからだ。

 レズビアンであることを、普段は隠しながら、相手を物色していた時代が高校時代だった。

 そんな美由紀がまわりにはどんな風に見えていたのだろう?

 その頃から、あまりまわりと話をしなくなった。暗くなったと思われていたかも知れない。表情も変わったように思う。それまでは毎日のように鏡を見ていたのに、鏡を見るのが怖くなった。自分では理由が分からなかったが、今から思うと、次第に変わっていく自分の顔を見るのが怖かったからに違いない。

 だが、そんな美由紀も自分がレズビアンであることを次第に忘れて行くようになる。

 きっと真性のレズビアンではなかったからだろう。誘惑を受けて、レズビアン行為に一度走っただけで、普通であれば、レズビアンであることを恥かしく感じ、ジレンマに陥るはずなのに、美由紀は、自分が「目覚めてしまった」と思ったのだ。

――恥じらいがあってこそのレズビアン――

 そう思ったことで、レズビアンであることを忘れていった。忘れて行ったと言っても、まったく記憶から抹消していったわけではなく、自然に消えていったものだ。忘れて行く中で、ホッとした気分半分、残念な気分半分であった。やはり相手がいなければ成立しないこと、相手を探すのも大変だし、自分が男役だと思っていることで、女性の中には、美由紀の視線を、気持ち悪いと感じていた人も少なくなかったに違いない。

 レズビアンであるという意識が薄れていったからと言って、美由紀が男に走るということはなかった。しばらくは、孤独の中にいた。自分から飛び込んだ孤独の中ではなかったが、訪れた孤独を甘んじて受け止めていた。決して居心地の悪いものではなかった。なかなか見つからない相手を捜し求めていたことから比べれば、気は楽だったからだ。

 相手を捜し求めている間も孤独だったはずだ。それでも目的があれば、孤独を感じることはなかった。今となって思えば、顔が真っ赤になってしまいそうな羞恥に打ちひしがれてしまいそうな探し人であったが、その時は、それなりに前を見ていたはずだ。前を見ていれば、孤独を感じることなどない。また孤独を感じたとしても、孤独を嫌なものだとして受け入れることなどないだろう。

 孤独という言葉を考えると、まわりから、自分の内側に向かって入り込もうとしている力を感じる。孤独は力であり、感覚ではないというのが、美由紀の考え方だ。だから、気の持ちようで、どうにでもなるのではないかと思い、場合によっては、孤独を楽しむこともできるのではないかと思うのだった。

 考えてみれば、美由紀は今まで、絶えず誰かを捜し求めていたような気がする。その中で、孤独な期間もあったが、孤独が寂しいと思っていた時期はそれほどなかったような気がする。気が付けば孤独から抜けていて、孤独だった頃を思い出すと、寂しかったという感覚がほとんどなかったことに気付いたのだった。

「忘れていたはずのレズビアン」

 しかも、晴子の夢では、自分の方が女性役だった。

 いや、記憶しているのが女性役を演じていた時だけで、自分が責めていた時間もあったのかも知れない。ただ、責められ役など今までに感じたことはなかった。相手が男性でなければ、自分を責めたとしても、感じることなどないと思っていたからだ。

 美由紀の見た夢の中での晴子を思い出そうとしたが、思い出すことはできなかった。今、最初にレズに目覚めた時、そして鈴音に続く自分の性癖の生い立ちを思い出しているうちに忘れてしまったのだ。

――そんなつもりではなかったのに――

 過去のことを思い出したために、晴子との夢を忘れてしまうなど、思いもしなかった。美由紀は心の中で、

「しまった」

 と呟いている。呟きながら、再度思い出そうとしながらも、思い出せない自分の気持ちが次第に強くなっていくことを自覚していたのだった。

 晴子を鈴音が恨んでいることを知ったのは、鈴音の部屋に初めて入った時だった。

 確かにこじんまりとしていた部屋の中で、どこか、他の人にはない。いや、女性ではありえないような雰囲気が感じられたからだ。それは女性にしか分からないもので、しかも、同じ感覚を持つ人でないと分からない、

――ひょっとして、私も誰かを深く恨んでいるのかしら?

 そう思うと、今までに孤独という意識が薄かったのも頷けた。誰かを恨むことが生きがいのようになっているのであれば、孤独感も前向きな考え方だと言えるだろう。ただ、そのこと全体を含めると、後ろ向きな考えなのかも知れないが、立っている方向に向かって正対していれば、すべては前向きな考え方になってしまうに違いない。

 深く恨んでいる人が、誰なのか分からない。ただ恨んではいけない人を恨んでしまったことで、恨んでいること自体を、自分の中で押し殺しているのかも知れない。

 そんな人がいるとすれば、美由紀にとっては、父親ではないだろうか。

 美由紀の考えていること、子供の頃などは、美由紀がしてみたいと思ったことをことごとく握り潰されたと思っていた。

 父親は、公務員で、厳しい人だった。

 公務員だから厳しいというわけではなかったのだろうが、いろいろなことに厳しかった。時間に厳しい人ではあったが、それは美由紀も同じだったので、時間に厳しいことに対しては、さほど気にならなかったが、それ以外では、ことごとく反対された記憶しかない。

 友達の家に、皆で泊まることになった。それは遊びに行って、子供同士で盛り上がったことで、自然とそうなったのだが、皆家に連絡し、許可を得ていた。

 中学生の頃のことで、友達の少なかった美由紀が、参加したのも、その時お正月で、特別な日だったというのが、その理由だった。

 皆、許可が出る中、美由紀だけが、

「バカなことを言うんじゃない。帰ってきなさい。車で迎えに行くから」

 と言われて、強制送還されてしまったのだ。

 その時の情けなさといえば、今思い出しただけでも、身体が震える。羞恥に対して、さほど感じない美由紀なのに、その時だけは、怒りと情けなさで身体が震えた。羞恥に対してあまり恥かしさを感じないのは、この時の経験で、感覚のどこかがおかしくなったのかも知れない。

 感覚は感情によって左右されるが、感覚で一番大切なものは、バランスなのかも知れない。

「精神と肉体のバランス」

「明るい部分と、暗い部分のバランス」

 いろいろバランスもあるが、総合的に本人に対してどう影響するかで、感情の感じ方が変わってくるはずだ。

 その時の憎しみは、当然父親に注がれる。

「どうして? 皆泊まることになってるのに、私だけが?」

 どう考えても、自分に対する「苛め」としか思えない。理由もなしなんて考えられるはずもない。

「相手のおうちにも家庭があるんだ。家庭のリズムを崩すことはできない」

「え? 私だけじゃないんだよ?」

「お前は、皆がするといえば、殺人だってするのか?」

「何言ってるのよ。するわけないでしょう」

「それと同じだ」

 理不尽だと思った。だが、確かに父親のいうことに一理もある。だが、自分一人だけが帰ってきても、結果は変わらない。事実だけを見れば。これほど理不尽なことはない。

――じゃあ、私の気持ちなんて、どうでもいいの?

 本当はここまで聞きたかったが、言葉にすれば、平手打ちが飛んでくる気がした。きっと、

「それはお前のわがままだ」

 と、言われるに決まっているからだ。

 その時、美由紀の感覚のバランスは、間違いなく崩れたのだ。

 自分が原因で崩してしまったのなら仕方がないが、外からの影響、しかも、それが、

「父親の威厳」

 という、自分ではどうにもならない、昔からある悪しき伝統のようなものに左右されるのは、ショックが大きかった。

 それだけに、美由紀の恨みも尋常ではなかった。もちろん、一緒に暮らしているのだから、友達の家から強制送還されたことは、氷山の一角にすぎない。それでも一番大きな氷山で、恨みのほとんどが、その出来事に由来していることは間違いない。

 ただ、他の人を恨む感覚とは、違っていた。実際に、考えてみないと思い起すことができなかった。無意識に思い出さないようにしているのか、この感覚を誰かに知られたくないからなのか、美由紀は、感覚のバランスが崩れてしまったまま、まだ治っていないことを自覚していた。

 鈴音が晴子を恨んでいる感覚は、

「感覚のバランスが崩れている」

 という見方で見ると、確かに崩れていた。

 美由紀は、父親を恨んでいることを再確認できたことにより、誰かが誰かを恨んでいることが、見ていて分かるようになったのだ。

 感覚のバランスの崩れを感じるようになったからで、そのおかげで、晴子を思い出してしまったのだ。

 思い出したくない人間を思い出したというべきなのか。ただ、晴子に対して美由紀は、直接的な恨みを持っているわけではなかった。

 晴子に対しての恨みは、鈴音の中で、表に出ないように努力はしているようだった。努力をしてはいるが、

「頭隠して尻隠さず」

 見る人が見れば、丸見え状態であった。

 美由紀が晴子に対して持っているイメージは、恨みではない。感覚のバランスを崩されたことで、精神的に少し不安定になったことはあったが、それも昔のこと。恨みを抱くようなことはない。

 鈴音が恨む気持ちも分からなくはないが、冷静に考えると、男女関係のことは、当事者の問題なので、ハッキリと分からないまでも、付き合っている男性を取られたのだ。

 洋三があれからどうなったのかを、鈴音が教えてくれた。

「あの人は、あっけなくあの女に捨てられたのよ。今では以前のあの人ではなくなってしまって、本当の腑抜けのようになってしまったの。それもこれもあの女の仕業なんだけど、しいて言えば、まさかあの人がここまで落ちぶれてしまうなんて思ってもいなかったので、ある意味、頼りがいのない人だったということよね。そのことを教えてもらえただけでも、あの女に感謝しなければいけないのかも知れないわ」

 好きだった人の、見たくなかった姿を見せられ、鈴音は、その時のことを思い出すと、本当に雰囲気が豹変した。それまで泣きわめいていた人が、急に我に返って、冷静に話し始めた感覚だ。それを思うと、

「人間、何が幸いするか、また災いするか、分かったものではないわね」

 と、鈴音には聞こえないほどの小さな声で呟いたのだった。

 美由紀は、鈴音と洋三を見ていると、自分のことを思い出さないわけには行かなかった。離婚したのも、

「まさか、晴子が影響しているのではないか?」

 などという妄想に取りつかれそうになった。

「いくら何でも、ここまでの偶然はありえないわ」

 と、思いながらも、

「もしかして」

 と、同じところを何度も繰り返して考えていた。もちろん、結論など出るはずもない。あくまでもただの発想。それ以上でも、それ以下でもないのだった。

 考えが堂々巡りを繰り返すのは、今に始まったことではない。以前から、一つのことを考え始めると、時間の感覚がなくなってしまうほど、考え込んでしまう。

 考え込んでしまうと、妄想はとどまるところを知らず、果てしなく広がっていくだろう。その広がりを抑えるには、堂々巡りをさせるしかないのではないかというのが、美由紀の中で堂々巡りを繰り返すことの「真実」だった。

 真実が決していいことだとは限らない。

 真実を見つめることは大切だが、真実ではない真実もあるのではないだろうか。

 誰もが自分の中での真実を持っている。それは他人が犯すことのできないものだ。だが、それだけに、人の真実ではないことも、他人にとって真実であれば、重ねてみることのできないものではないだろうか。人と共有できる真実などありえないというのが、美由紀の考えだったのだ。

――似ているようでも、絶対にどこかが違う。それこそが真実――

 そう思っているのだった。

 美由紀の前に迫丸が現れたのは、晴子のことを思い出してから、一月ほどしてのことだった。迫丸の夢、そして晴子の夢と、立て続けに見たような気がしていたが、実際には、その間に数日が経っていた。しかし、それから一か月、すでに迫丸のことはおろか、晴子の夢のことも、そろそろ過去だと、自分で納得し始めた頃だったのだ。

「何で今さら」

 完全に忘れ去ってしまってであれば、また感覚は違ったことだろう。中途半端に記憶に残っているだけに、現れた瞬間に、胸の鼓動は本当に自分のものなのかと疑いたくなるほどであった。過呼吸で、息苦しさを感じるほどで、立っているのが、やっとの気がしていたのだ。

 またしても偶然なのか、それとも、ここまでのことも偶然ではなかったということなのか、美由紀には、何か今の自分が、一つの方向に向かって進んでいることを悟った気がし――進んでいる方角は、今まで進んできた方角と違うところを目指している――

 そうは思ったが、見えているものが変わった気はしないのだ。きっと、気付かぬうちに違う道に迷い込み、さらに迷ったため、元の道に戻ってきたのではないかと思えるくらいだった。

 出会ったというわけではなく、見かけただけだったので、それが本当に迫丸だったのかと言われると、自信がない。ただ、その時の迫丸の顔は、夢の中に現れた迫丸だった。もっとも、夢の中の男性も、本当に迫丸だったかどうか分からない。夢の中で、美由紀が勝手に想像しただけだ。

 夢で見た男性が目の前に現れたのも事実だ。これは疑いようがない。

 だが、これも考えようでいくらでも説明はつく。

「夢で見た男性に少し似ていたからということで、夢の中に出てきた男性のイメージを後から変えてしまった」

 という考え方、また、同じような考えであるが、

「目の前に現れた男を、迫丸だと思ってしまったことで、夢の中の男性を迫丸に仕立て上げることで、迫丸だと思い込んでしまったことを正当化させようとする、辻褄合わせのようなものだ」

 という考え方である。

「本当に私って、昔から、あまり余計なことを考えないタイプだったのかしら?」

 不眠症の人の話を聞いて、

「眠れない夢を見ていた」

 という笑い話のような話を聞いたことがあるが、余計なことを考えないようにしようという思いを抱いていただけで、実際には、無意識に考え事をいつもしていたのかも知れない。それも自分の考え方が自分にとって、理に適ったものであることで、余計なことを考えているという気がしないだけなのかも知れない。

 考えているからこそ、幻だって見るのかも知れないと思うのだが、そういえば、子供の頃から、変わったことばかり、まわりに起こっていたような気がした。

 変わったことばかりが起こるから、余計なことを考えないようにしていたのかも知れない。余計なことを考えるから、さらに自分の中の真実を見失うのだろう。

 迫丸という男も、どこまで美由紀に対して影響があったのか、今から思い出すと曖昧だ。

 悪戯されたという記憶だけはあった。

「好きな女の子に対して、男の子は悪戯したくなる」

 というのを聞いたことがあるが、悪戯されたことよりも、この話を聞いた時の方が、美由紀にはショックだったように思えてならなかった。

「好きな女の子」

 この言葉に反応したのである。

「男性から好かれて、嫌なことなんてないわ」

 と、言っていたおませな友達がいたが、彼女に対して、そうとばかりは言えないと、言い返せるだろうか?

 言い返すということは、自分の中に迫丸に対して、嫌いだという意識を明確にしなければいけないと思うからだった。美由紀には、迫丸を明確に嫌いだと言えるほどの根拠がない。人を好きになるにも、嫌いになるにも、根拠などいらないはずなのに、どうしてそう思ってしまうのか、美由紀には不思議に思えてならなかった。

 男性から好かれるにしても、どこを好きになられるかということも重要である。

「ただ、漠然と好きなだけ」

 と、言われて誰が嬉しいだろうか。明確に好きなところを指摘されて、初めて嬉しいと思うのではないだろうか。

 ただ、中には、

「口に出すのは恥かしい」

 と、言う男性もいる。

「とにかくお前が俺は好きなんだ」

 と、言われてしまうと、それ以上追及することはできなくなるだろう。しつこすぎて、嫌われるのを避けたい気持ちは誰もが持っているだろうし、しつこい女を嫌いな男は、たくさんいることも分かっている。

 また、それを男らしいと思う女性もいる。感じ方は人それぞれで、美由紀も、きっと追求することはしないだろう。

 美由紀は、自分がレズビアンではないかと思い始めて、男性を好きになるのを躊躇っていた。元々好かれてから好きになる方なので、レズビアンの自分を好きになる男性なんていないだろうと思っていたのだ。

 実際、暗かったのは自分でも分かっていたし、

「こんな女の子を誰が好きになるもんか」

 とまで思っていた。

 実際に、好きになられたから、好きになるタイプの美由紀を、誰も変には思わなかっただろう。暗かったように見えても、本人は、レズビアンであることを知られたくないという思いも強かったことから、余計に、男性を惹きつけないと思っていた。

 ただ、好きになられたから、相手を好きになるという感覚も、

「レズビアンだから」

 という思いが強いのかも知れない。

「私には、男性を好きになる資格はないんだ」

 という思いもあった。

 美由紀は、時々無性に自分を卑下したくなる時がある。自己嫌悪なのかと思ったが、そうでもないようだ。謙遜でもなく、その中間に位置する、中途半端な考えではないだろうか。

 迫丸に悪戯された時も、

「私が悪いんだ」

 と、思ったものだ。

 それには、理由があった。

「誰にも知られたくない」

 という思いがあり、特に親には知られたくなかった。知られてしまったら、きっと、

「お前はなんて、ふしだらな女なんだ」

 と言われかねない。

 父親は、娘のことなんかより、自分の立場のことしか考えていない。もし、母親がことを公にでもしようものなら、

「大げさなことをするんじゃない。お前は俺の立場を分かって言ってるのか」

 と、罵倒することだろう。娘のことなど眼中にない。自分可愛さから、自分の立場しか見えないのだ。

 母親も、そんな父親には逆らえない。逆らってみたところで、どうにもなるものでもない。特に母親は性格的に、人に逆らうことのできないタイプで、普段から大人しかった。父親に逆らうなど、ありえないことである。

「お父さんは、まさか、そんな性格だから、お母さんを妻にしたのかしら?」

 と、考えたりした。

 逆らうことを知らない人間を自分のまわりに置く。それが最初の自分の野望だったら、その野望の落ち着く先はどこなのだろう? そんな家庭環境に育った美由紀が、

「正常な精神状態でいられるわけはない」

 と思うのも無理はない。

 いや、そう思うことが、一番自分を正当化するのに一番であった。

「言い訳が自分の正当化なんだ」

 と、美由紀は、心のどこかで自覚している。そんな自分が嫌で、時々、自分を卑下したくなるのかも知れない。

 卑下してしまったら、立ち直れなくなるのではないかと、思っていた時期があった。それは小学生の頃で、そんな時に、迫丸から悪戯されたのだった。

 悪戯されても、誰にも言えない。自分を卑下すれば、少しは気が楽になったかも知れないが、立ち直れなくなることを恐れて、卑下することもできない。そのせいで、やり場を無くしてしまった美由紀は、自分で引きこもるだけしかできなくなってしまった。

 悪戯されたことを、ハッキリとした記憶で残っていないのは、そのせいであろう。

 普通であれば、ショッキングな出来事を忘れることはない。もし忘れてしまっているのであれば、その前後の記憶も一緒に忘れているだろう。それなのに、美由紀の記憶は、すべてが曖昧に残っているのだ。

 すべてを忘れてしまうことを、自分の中で許せない気持ちが働いているのかも知れないが、その理由として思いつくことは、

「正当化できない」

 ということに尽きるだろう。

 言い訳したくないのは、父親への反発心もある。言い訳を、一番の極悪のように話している父親に準ずる気持ちになることは、美由紀の中で許されることではなかった。

 美由紀がレズビアンに抵抗がないのは、父親への反発心も影響しているのかも知れない。

――父親が一番嫌がること――

 それを自分がすれば、さぞや痛快であろう。ただ、それも自分で納得できなければいけない。レズビアンを納得できるわけではないが、自分の中で、嫌がっている感覚ではない。もし、自分にその気があるとするならば、甘んじて受け入れてもいいだろう。父親の頑固で潔癖症な性格だけが、何も正義ではない。美由紀の中にある性格を、誰が咎めることなどできるであろう。それはいくら父親でも同じこと、美由紀は、断固父親のタガからから外れ、自分の納得できる性格に行きつかねばならないと思うようになっていたのだ。

 比較になるはずなどないが、父親と、迫丸を比べてみると、二人が、美由紀の底辺で、蠢いているのを感じる。まるで井戸の底から這い上がろうとしても、できるはずもない。その時、父親は、どのような態度を取るだろう。

 迫丸を犠牲にしてでも、自分だけ助かろうとするかも知れない。

「お前のような下司な男が生きていても、世の中の役に立つわけではない。私が生き残る方が、世の中のためになるんだ」

 と、自分が生き残るための言い訳を口走って、それを口実として、自分を正当化しようとする。

――結局皆、自分を正当化しようとするのは、自分が可愛いからなんだ――

 と、美由紀は思った。自分も程度の違いこそあれ、自分を正当化しようとして、苦労している。美由紀も、自分が這い上がるために見つけた自分の性格、レズビアンという性格を、正当化するために、苦労している。這い上がるために苦労して、這い上がるための口実を正当化するために、また苦労する。

――これこそ、堂々巡りを繰り返しているようじゃないかしら?

 と思うと、大なり小なり、皆同じことをしているに過ぎないことが分かった。

 迫丸は、父親と同じ井戸の底で這いあがろうとして、どうするだろう? 同じように父親を手に掛けてまで助かろうとするだろうか?

 不思議なことに、迫丸に対してだけは、そんな気持ちが想像できない。甘んじて、今の自分を受け入れるのではないかと思えるのだ。普段から、欲望と自己満足で生きている人間のように見えるのに、実に不思議な感覚だ。

 迫丸は、相手が、美由紀の父親だと悟ると、きっと何もできないかも知れない。それは、自分に罪の意識があるからだ。

――罪の意識を持った人は、他の人に糾弾されれば、それを拒否できない――

 と、迫丸自身思っているのかも知れない。

 では、迫丸は、それが分かっていながら、どうして、美由紀に悪戯などをしたのだろう?

 やはり、美由紀に対して、言葉にできない思いを抱いていて、何かしらの行動に出ないことには、自分に収まりが着かないことを知っているのだろう。

 ただ、やってしまったことを後悔しても遅い。甘んじて、罰を受けようとするのではないか。そんな迫丸を見て美由紀は、

――お父さんとは正反対だわ――

 一緒にしてはいけないところに放り込んでしまったことを、それがもし想像の世界でなければ、後悔するに違いない。

 迫丸という男から犯された夢を見たことは、美由紀にトラウマを残した。

 トラウマは美由紀を、女に変えた。それまで自分がレズビアンであり、男を寄せ付けないというくらいのイメージを抱いていたのだ。

 ただ、不思議なのは、その後、晴子の夢を見て、さらにレズビアンであることを思い出させる。美由紀の中で、二つの人格が、夢を通して、表に出ようと画策しているのかも知れない。

 美由紀はさらに、別のことも考えていた。

「私を犯したオトコ、あれは本当に迫丸だったのか?」

 という思いである。

「迫丸くらいしか、あんなことをする人は思い浮かばない」

 と、思ったからで、夢の中で顔を見たと言っても、子供の頃の迫丸しか知らない美由紀が想像した男は、きっと、今現在、美由紀のそばにいる誰かがモデルとなっているに違いない。

 迫丸にしても、モデルとなった男性にしても、迷惑な話だ。美由紀の勝手な想像で、夢の中に登場させられ、無理やり、強姦魔にさせられたのでは、溜まったものではない。

 美由紀がレズビアンであることを、誰からも知られたくないという思いから、

――男から犯される――

 という、女性としては、誰にも知られたくない羞恥な感情を抱くように見た夢ではないだろうか。

 妄想は留まるところを知らない。あんなに、自分は余計なことを考えない人間だと思っていたのがウソのようだ。自分に対してのイメージすら、最初から考え直さなければいけない。

――迫丸という男を悪者にしてしまっていいのだろうか?

 確かに美由紀の中に眠っていた悪しき心を呼び起こしたという意味では悪者と言ってもいい。少なくとも性癖を呼び起こすためにピッタリな男として選ばれたのは、事実なのだ。

 強姦願望が、レズビアンとどう繋がるのか、自分でも分からない。ただ、迫丸との夢は強姦ではなく、美由紀も合意の上だった。最初こそ、拒否の姿勢を見せたが、それはいきなりでビックリしたためだとも思える。それよりも、美由紀には、自分の中にあるであろうレズビアンの方が、ショックであった。

 迫丸という男性が強引で、グイグイ迫ってくるタイプだとすると、

――強い男性に惹かれる――

 という意味では、別に不思議なことはない。夢の順番が逆になっただけで、レズビアンだからこそ、美由紀は強い男性にしか惹かれないという思いを抱いたのかも知れない。

――こんな私が結婚したことがあったんだ――

 元旦那が、美由紀の性癖に気が付いたとは思えなかった。自分ですら忘れていた性癖である。

 夫婦になってから、旦那とのセックスを拒否したり、煩わしく感じたりしたことはなかった。自分でもレズビアンであることを忘れてしまっていたほど、男性との交わりを大切にしていたくらいだ。

 ただ、元旦那は、美由紀の性格に少なからずの疑問を持っていたことは事実だろう。それは性癖に対してではなく、誰かに対して恨みを抱いていることは知っていたようだ。それが誰なのかが分からずに、

「自分ではないか?」

 と思ったこともあるようだ。

 被害妄想を持ち始めると、その思いは膨らんでくるようで、

「それが離婚の原因だったのではないか?」

 というのが、最近になって感じた思いであった。

 ウスウス気付いていたような気がしていたが、まさか離婚にまで発展するとは思わなかった。ただ、美由紀自身も冷めていくのを感じてはいたのだ。それでも自分から離婚を言い出すことはないと思っていた。

「自分から、危険な橋を渡らない」

 という気持ちが、

「離婚するとしても、相手が悪いんだ」

 と自分を納得させる気分になっていた。

 旦那は、「強い男性」ではなかったのだ。

 美由紀にとって、強い男性が、迫丸ということになるのだろうか? 自分のまわりに強さを求められるような男性はいない。強さを持っている男性は、美由紀に近づいて来ようとはしないのか、それとも、そばにいても、強い男性を見つけることができないのか、美由紀は、相手が寄ってこないものだと思っていたのだ。

 寄ってくる男性の中に男性としての強さを見つけることはできない。適当に自分を誇示し、相手の気持ちを考えるというよりも、誇示することが、強さだと思っているのではないかと思っていた。

「後先のことを考えずに行動するのは、愚かなやつがすることだ」

 これは父親のセリフだった。

 父親を毛嫌いしながら、この言葉だけは、忠実に信じてきた。きっと、美由紀の中の考えと共鳴するところがあったのだろう。

 しかし、そのことが、今までの美由紀を見誤らせていた。父親を毛嫌いしているのなら、この言葉も、さらに吟味してみるべきではなかったか。いや、普段の精神状態であれば、それも難しいだろう。精神的にどこか不可思議なところがあってこそ、疑問を呈することができるからだ。

 父親に対して、最初感じようとした「強い男性」のイメージのメッキが剥がれていき、化けの皮が剥がれてみれば、

「自分のことしか考えていない男性」

 としてしか映らなかった。

 つまりは、自分のことしか考えない男性以外を見つければいいだけなのに、最初に見えてくるのが、自分のことしか考えていないことだった。

 男性を見て、すぐに嫌なところが見つかるというのも、悲しいものだ。

 美由紀は、迫丸に感じたイメージ。確かに強引に襲ってくるのは、相手のことを考えていない証拠に見えるが、迫丸の動作一つ一つを考えれば、今までの男性とは違っていた。次第に惹かれていったのは、強引な中にも気を遣った仕草や、相手の感じるところを微妙なタッチで捉えるところであった。テクニックと言ってしまえばそれまでだが、相手の呼吸や、胸の鼓動を読むことで、相手を惹きつける力があるのだ。美由紀は、その証拠に、次第に迫丸に惹かれていた。たとえ夢の中でも、感じるものは同じだということを、思い知らされた気がした。

「迫丸は、付き合っている女性と別れる時には、どんな態度を取るのだろう?」

 思わず、前の旦那を思い出した。

 別れる時に、お互いに感情を示さなかった。それが、お互いに冷めてしまった感情を蒸し返すことなく、静かに別れることが一番平和に、そして、お互いに自分たちの生活を営んでいける自然な別れ方だと、信じて疑わなかったのだ。

 感情を示さなかった二人の最後は、

「さようなら、お互いの人生をしっかりね」

 という言葉で、最後を結んだ。その時に彼が一瞬微笑んだのを、美由紀は見逃さなかった。その表情を見て、美由紀も微笑んだ。

――微笑んだんだ――

 今さらながらに思い出しながら、不思議な感覚に陥っていた。なぜなら、その時、少なからずの後悔が、美由紀を襲ったからだ。

――どうして別れることになったのだろう?

 別れの話が出てから、冷めてしまった感情をそのままにして、平穏無事な離婚が成立することが、一番お互いにいいことだと思っていたはずだ。

 それなのに、最後の最後で、どうして、後悔が襲ってくるというのだろう。もう、どうしようもないところまで来ていた。追いつめられた感覚もなく、

――やっとここまで来れた――

 と、感じていたはずなのに、後悔の念は、自分に何をもたらすというのだろう。それまで抑えていた感情が、表に出たということか、それとも緊張の糸が一気に取れてしまったということなのか。

 美由紀は、彼の笑顔を恨んだ。後悔の念は、一瞬だったが、最後の最後に訪れたことで、平穏に別れることができず、それまでの平穏に保つための努力が、すべて水泡に帰してしまったことに気付いたのだ。

「終わりよければすべてよし」

 ということわざがあるが、終わりが悪ければ、途中がどんなに良くても、すべてが無になってしまうことだってあるのかも知れない。本当にすべてが無になったとまでは思わないが、かなりのショックを、美由紀に与えたことは否めない。

――別れることが、こんなに難しいなんて――

 と、今さらながらに感じさせられた。やはり、冷めた感情しか残らなかったとはいえ、人と別れる時に、感情のすべてを押し殺すなど、できっこないに違いない。

 迫丸のことを知りたいと思ったのは、元旦那のことを思い出したからだろうか?

 確かに元旦那のことを思い出していくうちに、迫丸のことを知りたくなったのも事実だった。彼が今何をしていて、誰か付き合っている人がいるのだろうか?

 結婚して平凡な家庭を築いているのかも知れない。もし、そうであれば、美由紀が想像した淫らな発想は、一体何だったのだろう? 迫丸に対して失礼ではないかと思ってしまう。

 もし、迫丸が結婚していて、平凡な家庭を築いているとすれば、美由紀は複雑な心境だった。

 自分に悪戯をした迫丸を、その時から、絶対に彼が自分よりも幸せになることなどありえないと思ったからだ。それは、すべての時についても同じであり、美由紀が離婚した時でも、迫丸は、失意の美由紀よりもさらに不幸でなければいけないことになるのだ。

 逆に言えば、美由紀は、最底辺まで堕ちることのないことを自分なりに暗示していることになる。

 今まで、迫丸に対して抱いていた気持ちは、それ以上でもそれ以下でもなかった。もちろん、彼が今どんな状態にあるのかを知りたい思うこともない。思ってしまえば、確かめたくなることもあるだろう。正直確かめるのが怖いのだ。確かめてみて、もしそれが違っていれば、どんなに後悔するか、計り知れないからだ。

 美由紀の気持ちの支えの中に、確かに迫丸は存在している。

――彼は、自分より絶えず不幸な人間なのだ――

 精神を平穏に保っていくための、自分の中にある指標であった。一旦、その気持ちが揺らいでしまうと、美由紀にはどうすることもできなくなってしまうかも知れない。

 迫丸に会ってみたいと思うことは、美由紀の中では禁断だった。禁を犯すことは、自分の感覚のバランスを崩すことになる。

――感覚のバランスを崩す――

 今まで自分には、あまり縁のないことだと思っていたが、迫丸との出会いは、確実に感覚のバランスを崩すことになるのだと思った。

――どうして、迫丸の夢なんか見たんだろう?

 冷静に考えれば、美由紀の中で、迫丸への感情は、自分を狭い感覚に押し込めているということが分かりそうなものだった。分かっていても、どうにもならないものが感情の中にあるのだとすれば、美由紀にとっての迫丸との虚空の関係になるのかも知れない。

 まるで、精神の拠り所のように感じる。自分に対しての言い訳として、表に出さないようにしていた感情が、迫丸の夢を見ることによって、噴出したのだ。

 だが、夢の最後では、美由紀は迫丸を「許して」いる。何を許しているというのだろう? 今さら、子供の頃の悪戯に対して、美由紀が意識することもない。ただ、トラウマとして残ってしまったであろう悪戯は、美由紀にとって、本当に嫌なことではなかったのだ。

 許す許さないという感覚は、迫丸には関係なく、すべてが、美由紀の中だけの問題になるのだった。

 美由紀は、自分の中で抑えきれないものが、吹き出し始めていることを感じた。それが何なのか分からない。もうすでに兆候が出ているのか、それともこれから沸き起こってくるものなのかは分からないが、迫丸、晴子、鈴音、洋三、さらには、元旦那のことを考えるうちに、近づいていることは容易に察しがついた。

 その中で、それぞれに皆微妙に結びついていることは分かっているが、決して同じ夢に登場することはない。個性が強く、惹き合うものがありながら、同じくらいに拒絶し合っているものがあるからなのかも知れない。もっとも、すべてが美由紀の中での妄想、いくらでも考え一つで、変わっていって当然なのである。

 美由紀にとって、誰と一番近しい関係にあるかを考えるのは不可能だった。皆単独で夢に出てくるからである。元々、夢というのはそういうものなのかも知れない。ただ、そこにも意味があるはずだ。考えられることとして、誰が一番近しいという気持ちを抱かせないようにしているからだと思うのだった。

――ひょっとして、この人たちと、夢を共有しているのかも知れない――

 突飛な発想だが、そう思えないふしもない。だが、そう思ってしまうと、急に羞恥で顔が赤くなるのを感じた。今までは自分の夢の中だけの世界で、他の誰も知らないことだと思っていた。勘の鋭い人がいて、美由紀を淫乱だと思ったとしても、その証拠はどこにもない。

 相手に「見られてしまう」ことは、羞恥の中でのターニングポイントだと言えないだろうか。見られてしまうことで、究極の羞恥を感じる人もいるだろう。美由紀は、羞恥を感じることを、誰かに見られたということは、あまり感じたことはない。子供の頃に迫丸に悪戯されたことでのトラウマが、美由紀の中から、羞恥を追い払っていた。冷めた感覚に陥り、誰が見ても、冷静な美由紀は、淫靡には見えないだろうと思っていた。

 しかし、美由紀は、レズビアンに目覚め、晴子という女性を知ってしまった。それによって、

「意外とまわりの人は、自分が思っているより、私のことを知っているのかも知れないわ」

 と感じるようになった。

 まだ、それだけで羞恥を感じるところまでは行っていなかったが、本当の羞恥を知らなかったので、冷静でいられたことを、その時の美由紀は、まだ知らなかった。

「好きな人を苛めたくなる」

 という感覚。それは、子供だけにあるものではない。

 世の中には、SMの関係というのがあるというが、まったく美由紀には無縁な世界だった。

 淫乱で、レズビアンに目覚め、犯されることに願望があるのかも知れないと思っている美由紀だが、SMの関係だけは、理解できなかった。

 ただ、セックスを考えていると、お互いに苛めあっているのではないかと思うことがあった。お互いに愛し合っているということと、苛めあっているという感覚は、背中合わせではないかという思いである。

 美由紀の今までのセックス経験(レズビアンを含んでのことだが)では、お互いに貪るような快感の求め方をしたことがない。必ず、どちらかが責めて、相手がその快感を貪っているのだ。

 相手が快感を貪っている姿を見るのは、責めている方から見ても快感である。快感に身体を震わせている時、責めている方のことを普通の人は考えないらしい。聞いたわけではないが、見ていれば分かる。もちろん、美由紀も責められている時は、自分の快感に集中しているが、相手のことを考えていないわけではない。考えていないように見えるよう、演技をしていると言っても過言ではない。

 もちろん、中には美由紀のように演技をしている人もいるだろうが、美由紀には、演技であれば分かる気がした。それは、自分が演技をしているからで、意識して相手を見ているからだ。

 中には、

「自分のしていることは、されていることに気付かないものだ」

 と聞いたことがあるが、確かにそうかも知れない。ただ、それも、自分がされることをまったく意識していない場合で、それだけ、自信過剰な人なのではないかと思うのだった。

 美由紀の演技は、誰にも知られたくないことで、人が演技しているということも、知りたくないことだった。美由紀が、他の人が演技していないと思うのは、知りたくないという気持ちの方が、気付かないことよりも強かった。

「これ以上、知りたくないことが見えるのは、もう嫌だわ」

 一体、どれだけの知りたくないことを知っているというのか、美由紀にはその大きさが分からない。漠然としているのは、知っているという根拠がないからだ。事実かどうか分からないことを、勝手に知っていると思い込んでしまうのは、美由紀の本心ではないのだろう。

 自分がレズビアンに目覚めてしまったことも、知りたくないことの一つだったのかも知れない。溺れるところまでは行っていないのは、不幸中の幸いなのか、それとも中途半端であるがゆえに、精神的な不安定を呼んでいるのか、体調不良に陥ることが増えたのは、ちょうどレズビアンに目覚めた頃のことだった。

 精神の不安定な状態がもたらしたものなのだろうが、女性ホルモンだけに負担が掛かってしまっているという意識が美由紀にはあった。医学的なこと、心理学的なことに、まったく知識のない美由紀は、すべてを女性ホルモンのせいにして、自分ぼ正当化に勤めようとしているのだろう。

 レズビアンに目覚めたと言っても、実際には数回だけの行為だった。一回してしまうと、その後激しい自己嫌悪に陥り、しばらく、鬱状態が続くのだった。元々、躁鬱症の気があった美由紀には、鬱状態の時に自分がどうなるか、分かっていた。分かっていただけにある程度の対処はできたが、対処というのは、

「時間が解決してくれる」

 と、自分に言い聞かせることに尽きるのだった。

「抜けないトンネルはない」

 という発想で、鬱状態に陥ってしまえば、抜けるまでに要する時間は、あまり変わらない。鬱状態がいつも同じような精神状態になり、その大きさはいつも同じであることを示していた。

 鬱状態は、たいていの場合は、二週間ほどで抜けられる。二週間我慢できれば、あとは大丈夫なのだ。その後に躁状態が待っているのか、それとも普通の状態が待っているのかは、最近では分からなくなっていた。

 以前は、確かに鬱状態の後には躁状態が訪れた。躁状態は鬱状態とは違い、いつ終わるか分からない。一か月以上も続くこともあれば、あっという間に終わることもある。だが、躁状態も、あまり続くのはいい傾向ではないようだ。

 躁状態も鬱状態と正反対の状態とはいえ、背中合わせなのだ。鬱状態が、自分の中に精神を押し込めようとしている精神状態であるのと同じで、躁状態も、自分の中に精神を押し込めようとしているのだ。決して表に出す感情ではなく、ただ、その状態が強烈なので、表から見ると、一目瞭然、溢れてくるものに毒気を感じ、誰も近寄ることができないのであろう。

 ただ、違いは、その長さにある。鬱状態が、決まった期間であるのに対し、躁状態には決まった期間がない。それだけ、精神状態に微妙な影響を与えているのだろう。

「躁鬱症とは、起きていて見る夢のようである」

 と、美由紀はずっと思っていた。

 鬱状態が二週間も続いてしまうと、レズビアンで盛り上がった神経も、萎えてしまう。その後、気持ちが冷めてしまうと感じるのは、この鬱状態のせいなのだ。

 冷めた気持ちを普段から感じているのは、躁鬱症とは関係ない。ただ、冷めた気持ちを持ち続けていることが、躁鬱症を誘発するのではないかと思うことは今までに何度もあった。

 美由紀が、自分が陥ったレズビアンの時の感覚を覚えていないのは、夢のようなものだと思っていることと、冷めた気持ちに拍車を掛ける躁鬱症が襲い掛かってくるからではないかと思っている。一度目覚めた興奮も、冷めてしまえば、気持ちは無に帰してしまったと思っても仕方がない。よほどインパクトのあることでも覚えていないもので、もし思い出すとすれば、夢に見て、それを覚えていることしかなかったのだ。

 レズビアンであるということを知りながら、自分がどれほどの感情を持っているか分からないというのも辛いものだ。自覚ができないということであり、それは、自分に対して言い訳が利かないことを示しているのかも知れない。

――レズビアンである言い訳が利かない――

 それは、言い訳が利くように忘れないようにしないといけないのだろうが、それが自分の躁鬱症に打ち勝つことであるという前提であるならば、困難というよりも、不可能に近いと言った方がいいかも知れない。

「ここまで自分の気持ちを分析したことなど、今までにはなかったわ」

 と、思っていた。実際に、余計なことを考えないようにしようと思っていたのは、考え始めると、堂々巡りを繰り返し、抜けられなくなることが分かっているからだ。

「どこかでやめなければ」

 と思わない限り、永遠に同じところを繰り返し、結論のない底なし沼に落ち込んでしまうだけのことであった。

 堂々巡りは、躁鬱症と同じで、躁鬱症は、繰り返すことを宿命としているものだと思うようになったのも、余計なことを考えて、堂々巡りをしてしまうのを感じてしまったからである。

 美由紀は、自分の性格を変えようとは思わない。レズビアンのままでもいいような気がしているが、それには相手が必要だ。今は相手がいなくても我慢していられるが、そのうちに我慢できなくなるかも知れない。

 何よりも自分が、年を取っていくことに恐怖を感じる。

 確固として、レズビアンであることを自覚し、今のうちに誰か、同じ性癖の人を見つけておかないと、年を取ってからでは、相手にされなくなってしまう。若い時であれば、いつでも相手を見つけることもできるだろうが、少しでも躊躇してしまって、相手が見つからないと、我慢できなくなってからでは遅いのだ。

 最初は、この性癖を何とかしなければいけないと思った。ひょっとして、強姦願望があるのは、レズビアンから気持ちを逸らしたいという無意識の中で働いた本能なのかも知れない。レズビアンであることを忘れてしまうためには、ショッキングなことを自分に課さなければ、このままズルズルと性癖に怯え、暮らしていかなければならないことを、恐れているのだ。

 男と女、自分が求めているのは、どちらなのか。そもそも、自分は女なのだろうかという疑問も湧いてくる。

 確かに姿形は女であるし、医学的には間違いなく女であろう。しかし、精神的なところではどうであろうか? レズビアンでは、男役でも、女役でもどちらもこなした。しかし、それは相手の女性が、女性のタイプなのか、男性のタイプなのかで違う。その見分け方が、美由紀は得意なのだ。

――自分の見る目が、欲する相手を引き寄せる――

 そう思うと、自分が望むのではなく、引き寄せられた相手によって、美由紀は開眼させられたとも言える。

 しかし、同じ相手と、長くは続かないのも事実だった。他のレズビアンの人を知らないので何とも言えないが、すぐに別れるのも自然消滅に近い形だった。そういう意味でも、年齢を重ねていくことに、美由紀は恐怖を感じる。年を取っていくことが、引き寄せる力がなくなってしまうことが怖いのだ。

 美由紀は、鈴音を最初、自分の相手にしようと思ったが、鈴音の中にあるものが、洋三に対する怒りの強さに、

「鈴音を支えているのは、嫉妬心なんだわ」

 と、感じるようになった。

 男に対して、嫉妬心を抱かれることが、美由紀には、たまらなく辛いことだった。しかも、想ってみても、すでに相手の気持ちは、鈴音から離れている。そんな相手を必死につなぎとめようという気持ちが嫉妬心を生んでいる。鈴音の目は、相手が離れていけばいくほど、その男から離れることはない。そんな女性を自分の相手にするのは、かなり疲れを生じることであろう。

 しかも、今は自分が女性を惹きつけると思っているところに、自分にもどうにもならない相手がいることが分かるのも辛いことだ。その理由が他の男への嫉妬心、耐えるには、かなりの体力と精神力を必要とするだろう。

 鈴音が難しいとなると、今、美由紀のまわりにいる女性で、相手になる人は皆無だった。待っていてもなかなか見つかるものでもない。自分から探すことも視野に入れていた。

 スナックに通うようになったのも、相手を探そうという気持ちもあってからだ。

 スナックでは、あまり明るい雰囲気の女性はいない。訳ありの暗さを醸し出す女性が多くいて、彼女たちに以前であれば、気さくに話しかけ、理由も聞けていたのに、今の美由紀はどうしても躊躇してしまう。彼女たちを見ていると、まるで鏡を見ているように思えてくるからだった。

 それでもスナック通いを止めないのは、気になる女性がいるからだった。

 彼女は、スナックにいつも一人で来ている。雰囲気は暗く、スナックに似つかわしい人に見えるのだが、たまに見せる笑顔が、

――どうして、こんな女性がここにいるんだろう?

 と思ってしまうほど、純情で無垢な、そして、世間知らずな雰囲気を醸し出していたのだ。少し小悪魔的にも見える笑顔は、美由紀にレズビアンを思い起させる。年齢的にはまだ二十歳前後であろうか。

――可愛がってあげたい――

 という気持ちにさせたのは、鈴音以来だった。

 彼女もどこか訳ありなのだが、どこが他の人と違うのか、探ってみた。見た目はどこも変わらないが、たまに見せる笑顔にどうやら、何か秘密がありそうだった。

 時々ママさんと話をしているのを見たことがあるが、どんな話をしているのか分からない。彼女の指定席は、美由紀とカウンターの反対側で、入り口に近い席だった。

 不思議なことに、美由紀が彼女を見かける時は、他に客が誰もいない時が多い。逆に彼女がいない時に限って、他に客が多いのだ。

「そうね。確かに美由紀さんと一緒の時しか見ることないかも知れないわね」

 と、ママにも聞いてみたが、ママの話では、彼女が来る時は、必ず美由紀が来ているようだ。ただ、美由紀が来る時に彼女が必ずいるとは限らない。美由紀が来るよりも彼女が来る回数の方が圧倒的に少ないということだ。

 美由紀もそんなに多く通ってきているとは思わない。最近では、彼女がいることで、通ってくることが多くなったが、以前は一か月に一度くればいい方だった。通ってくるのも、それなりに回数が嵩むと、億劫になってくるもので、彼女を意識することがなければ、こんなにも通うことはなかったであろう。

 彼女の名前は、沙織という。

 沙織は、鈴音に実によく似た雰囲気だった。鈴音より年齢は若いが、最初に鈴音を見た時に感じた雰囲気にそっくりだったのだ。鈴音ほどの明るさはないが、その分、純真無垢な雰囲気を醸し出している。あまり明るいと、せっかくの純真無垢さが引き立たないようで、沙織の魅力が半減してしまいそうだった。

 沙織とは、この店でしか見かけたことがなかった。あまりにも純真無垢に見えるので、他の男性客も、誰も話しかけようとはしなかった。年齢を二十歳前後だと思っているが、ひょっとすると、もう少し年齢が上かも知れないとも感じた。

 純真無垢な雰囲気も、たまにならいいのだが、ずっとそばで見ていると、飽きが来るように思えた。

「美人が三日で飽きる」

 ということわざがあるが、純真無垢な雰囲気も希少価値であるだけに、じっと見ていると飽きが来るのかも知れない。

 そんな沙織と表で会ったのは、沙織を意識し始めて、すぐのことだった。

「美由紀さん」

 沙織は、美由紀のことを最初から下の名前で呼んだ。まわりの人も皆馴染みなので、舌の名前で呼ぶが、最初から下の名前で呼んだ人はいなかった。一番最近知り合ったのが沙織だったので、沙織は、ひょっとすると、美由紀の苗字を知らないのかも知れない。

 沙織から、下の名前で呼ばれると、ドキッとしてしまう。他の人に対しての声と、美由紀に対しての声とでは、明らかにトーンが違っていた。

 何となく自信がなさそうで、怯えたような、消え入りそうな声であるにも関わらず、他の人には、もう少しトーンが低く、自信を持って話しているのが分かる。

――これが同じ人間なんだろうか?

 と思ってしまうほどの雰囲気に、他の人から見ると、沙織の雰囲気はまったく違って見えているのかも知れない。

 沙織を最初、純真無垢だというイメージでずっと見ていたが、途中から、雰囲気が変わって感じられた。飽きそうになったことで、雰囲気が変わったように感じられた。まるで美由紀の思いを最初から読んでいたかのようである。

 明るさが少し増してくる。訳ありな雰囲気を漂わせたまま、純真無垢が外れてくると、包み込んであげたい雰囲気に包まれていたのだ。

 純真無垢なイメージの女の子に対して、包み込んであげたいなどという気持ちは、おこがましく感じられるのだ。近づきにくい雰囲気が漂い、まるで後光が差しているかのように思え、まったく違った世界の人間のように見えてくるから不思議だった。

 沙織とばったり出会ったのは、交差点だった。この場所では、以前にも一度、偶然誰かと出会った記憶があるのだが、それが誰だったか覚えていない。沙織も、最初誰だか分からなかったが、相手の視線を感じ、目を合わせると、すぐにそれが沙織であることに気が付いた。

 交差点で、人とばったり出会うというのは、今までにも何度かあった。しかも、ずっと会っていなかった人と出会うということも初めてではない。それもほとんどが忘れかけていた人で、出会ったことで思い出して、また仲が復活したということもあったりした。

「出会えてよかった」

 と思える相手であり、交差点に対しての見方が、少し変わったのだった。

 いつもただ通りかかるだけの道で、前から来る人たちが鬱陶しいと思っていた。避けて通るのも億劫な時があり、気が付けば、人と肩がぶつかっている。屈強な男性が相手だと、吹っ飛ばされてしまいそうで、そんな時、自分が女であることを悔しく思うのだった。

 朝の交差点と、夕方の交差点、さらには、夜の交差点では、まったく趣が違っている。美由紀が好きなのは、夕方の交差点だった。

 会社帰りの気だるい身体を無理やりに動かして、夕日に向かって歩いていると、冬の時期でも、汗ばむことがある。

 汗を掻いている時、呼吸も整わずに歩いていると、急に身体が浮いてしまうのを感じることがある。ふいに前から人を避けた時などに起こりがちなのだが、その時、吹いてもいないのに、風を感じる。

 その風が妙に心地よく、冬は暖かく、夏は涼しいといった、自分の望んだ環境を作り上げてくれる。

 もう歩けないと思うほど、身体が緊張してしまって、交差点で、いつ動けなくなるかと思えてならないことが今までに何度もあった。気だるさから、手足の痺れを生じてくるのだが、最初は、指先から感じるものだった。

 気持ちいい風に吹かれていると、夕方の気だるさから、意識が遠のいてくるのではないかと思えることもある。

――倒れてはいけない――

 と、思うと、気だるさの原因が空腹から来るものであることに気付いた。すると、交差点の真ん中で、おいしそうな匂いがしてくるのだ。

 その匂いはハンバーグの匂い。だが、その匂いは自分でハンバーグを作っても、感じることのできない匂いだった。

 レストランで食べるハンバーグも、同じような匂いがしない。特別なソースを使っているわけではなく、素朴に肉が焼ける匂いがするだけなのだ。香辛料に隠し味があるのだろうが、今まで嗅いだことのない匂いを、ここでだけ、しかも何度も嗅ぐというのもおかしなものだ。

 近くには、工場はあるが、民家やレストランがあるわけではない。どこかの家庭で作っているというわけでもないのだ。

 美由紀の中に、以前に嗅いだことがあり、交差点と似た雰囲気の場所だったことから、思い出すというわけでもなさそうだ。錯覚ではなく、確かに匂いを感じることができる。嗅いだ匂いは、どこからしてくるものなのか分からないが、意識が朦朧としてくる中で、何かを思い出そうとしているのかも知れない。

 交差点で、沙織と出会った時も、夕方だった。

 その日は珍しく、夕方でも身体が気だるさを感じることもなく、いつになく軽快な身体に違和感すら感じていた。

 ずっと蒸し暑かった中で、少し暑さが和らいだと感じていた時であったが、それでもアスファルトからの照り返しは、尋常ではなかった。

 気だるさの中で、ここまで身体が軽いというのは、不思議な感じがしたが、軽いからと言って、無理はできないことは、美由紀が一番知っていた。

 美由紀の身体は、少し衰弱していた。二か月ほど前に貧血を起こして、気分が悪くなり病院で診察してもらったが、

「あまり、無理をしてはいけませんよ。少し体力が落ちているようですね。心配することはいりませんが、今までのように自分の身体が動くと思って無理をすると、入院することになるかも知れませんから、気を付けてくださいね」

 と言われた。

 ハッキリとした病名は、よく分からないようだが、病気と言っても、精神的なものが影響しているらしく、自分が意識していないところで、無理をしているというのだ。特に熱中症などのような病気には気を付けるようにと言われた。

 実際に、それから貧血とまでは行かなくても、立ちくらみを起すことはしばしばあった。急に前が真っ暗になり、治りかけても、目の焦点が合わなくなってくる。焦点が合うようになってくると、今度は頭痛が襲ってくる。歩くことができなくなってしまい、そのまましばらく座り込み、頭痛が収まる時はいいが、収まらない時は、また病院に行かなければいけなくなることもあった。その時の診断も、

「ストレスからくる心労が溜まっているようですね」

 と、言われた。診察する前から分かっていた医者もいたようで、顔色を見ると、症状から、病気が何なのか分かってしまうのだろうか。

 それから、なるべく昼間は出かけないように注意した。出かけなければいけない時は、日傘を差したり、帽子をかぶったり、肌をなるべく露出しないように心掛けた。昼間は事務所での仕事なのは、幸いだった。

 そんな中、その日は久しぶりに身体が軽く、まるで病気が治ったのではないかと思うほどだった。

 ハンバーグの匂いは、その日は感じなかった。

――病気で身体が重たい時に感じるものだったのかしら?

 同じ環境で、いつもの匂いを感じることがないと、それが本当にハンバーグの匂いだったのかというのも、怪しいものだった。

 その日は、いつもに比べて、交差点の人もそれほど多かったようには思えなかった。何よりも、人の動きが、かなりゆっくりだったからだ。

――自分の身体が軽いことで、まわりがゆっくりに感じるのかしら?

 それも間違いではないように感じた。ざわざわという喧騒とした雰囲気に変わりはなかったからだ。喧騒とした雰囲気から、誰もまわりのことなど気にすることもなく、好き勝手に歩いているからだと思っていたが、その中で、美由紀は一瞬ザワッとしたものを感じた。ブルッと震えが走ったかと思うと、気が付けば、その視線の先を無意識に探している自分を感じたのだ。

 視線の先にいるのは、見覚えのある人だった。それが、沙織であるのに気付くまで、少しだけ時間が掛かったようだった。沙織は相変わらず、純真無垢さを醸し出すかのような中途半端な笑顔を浮かべている。

 視線の正体が分かると、美由紀はホッとした気分半分、もう半分は、

――また、以前の純真無垢さに戻ったみたいだ――

 という思いがあり、どうしてまた元に戻ったのかを訝しく思っている自分を感じたのだった。

 美由紀を最初から分かっていたはずなのに、気が付いた美由紀に対して、まったく無表情な沙織に、美由紀は不満を感じていた。

 純真無垢さが嫌な気がすると思った本当の理由は、無表情で、何を考えているか分からないところにあった。それが、まったく知らない人であれば、どう感じたであろうか。知っている相手だからこそ、こちらとしてもどう接していいか分からずに、困惑してしまうのを、さらに無表情で見つめられたら、あれこれ考えるのが、バカバカしくなってくる。沙織の視線の先にいるのが男性であれば、バカバカしいなどと思わないかも知れないが、美由紀には複雑な心境だった。

――女性なら、一発で嫌いなタイプとしての烙印を押すことになるかも知れないわ――

 と感じた。

 そう思うと、美由紀は、自分の発想が、本当に女性なのかと思うようになっていた。女性の性格というのがどういうものかが分かっていないので、ハッキリとしないが、かなり男性寄りになっているのではないかと思っていた。

 女性の性格としては、女性として見ると、かなりアッサリとしていて、

「嫌なものは嫌だ」

 と感じるものだと思っている。

 しかし、男性としての目から見ると、女性の性格としては、優柔不断なところが多く、それがゆえに、愛想でごまかそうとするのではないかと思っていた。だから、沙織のような雰囲気の女の子を、基本的に男性は嫌いではないのだが、どこか信用できないところも感じているのではないかと思えた。

――女性だったら、きっと、一番友達にはなりたくないタイプと言えるでしょうね――

 と、思えてならなかった。

 最初に美由紀は、男性としての目と、女性としての目の両方で相手を見ているかのように思えた。

 沙織と出会った時は、美由紀は男性の目線だったような気がする。話しかけているのは確かに女性なのだが、それは、話をしている感覚と、見ている感覚が違ったからだ。実際にそんなことができる自分が怖いと思ったが、上から目線で見ていながら、口調は遜った言い方、それは、営業などが使う手だと思えば、別におかしなことでもないように思えた。

「こんにちは、こんなところでお会いするなんて、今日はどうされたんですか?」

 美由紀はそこまで言うと、沙織の出方を伺った。沙織に対しては、どこか会話を計算してしまう自分がいることに気付いていたが、それは男の目になっていることで、相手の気持ちを探ろうとする意識が働いているような気がした。冷めているわけではないと思っているが、そのことに気が付いた時、少なからずのショックな気分になったことは、否めなかった。

「こんにちは、本当に偶然ですよね。でも、美由紀さんとは、何となく、偶然どこかで出会うような気はしていましたよ」

 美由紀の先制攻撃を、沙織はサラリとかわし、さらに、自分からも軽いジャブを浴びせてきたかのようだった。表情は相変わらず変化はあまりなかったが、その中で微妙に微笑んで見えたのは、今までに感じたことのなかった沙織の余裕のように見えたのだった。

 その時、

――ちょっと、彼女のことを見誤っていたかな?

 と感じた。

 遅きに持した感もあったが、ここまで来て引き下がれないという気持ちもあった。それだけ、最初に感じた沙織のイメージが強烈だったというのもあったのだが、一度決めたことを諦めるには、それなりに自分を納得させるだけの理由がいる。今の沙織を見ている限りでは、諦めるだけの理由は見当たらない。美由紀は、沙織の見つめる目線を少し変えないといけないとは思ったが、諦める気にはならなかった。

 これは、美由紀にとっての「躊躇」だった。何かを決断する時には、躊躇もありえることだが、決断したあとに、気持ちが揺らいだという躊躇は、今までにさほどあったわけではない。

 気付かなかっただけなのかも知れない。気付かなかったせいで、後になって後悔することになったとしても、後から考えて、躊躇があったことが原因だったとは思えなかった。したがって、躊躇によって失敗したり、後悔しなければいけなかったことがあったという自覚は、美由紀には薄かった。

 交差点で出会った沙織と、その後食事に出かけた。お互いに夕食がまだだったので、意見はすぐに一致した。

 沙織の馴染みの店だというパスタのお店に連れていってもらったが、夕方でも、それほど客は多くなかった。

「ここは、夜、バーになるんですけど、夕方は、パスタをしているんです。私はここのチーズが好きなんですよ」

 薦められたパスタを食べてみたが、結構味付けが濃かった。舌に残る味は、コーヒーというよりも紅茶で流す方がちょうどよかった。濃厚なものに、マイルドな紅茶は、ちょうど合うのだった。

 紅茶には、発汗作用と、利尿作用があり、コーヒーよりも美由紀の場合、顕著に表れた気がした。コーヒーを飲むことが多いのだが。紅茶をどうしても飲みたいと思うもある。そんな時は、食事と一緒の時が多く、特にパスタの時は、ほとんどが紅茶だった。もちろん、相手によってはワインにすることもあったが、基本は、紅茶だと思っていたのだ。

 そんな美由紀に合わせたのか、沙織も紅茶を頼んでいた。紅茶を頼んだ沙織を見て、店の人は怪訝な表情をまったく示さなかったのを見ると、ひょっとすると、沙織も同じような趣味を持っているのかも知れない。自分のような感覚を持った人は珍しいと思っていただけに、複雑な心境だった。

 普通であれば、同じ心境の人がいるのを見つければ、親近感が湧いて、会話も弾むと言うものだが、美由紀にはそれだけでなく、同じ考えを希少価値として自分の中で温めているという一面もあっただけに、まったく同じ考えであれば、それは美由紀にとって邪魔な感覚でもあったのだ。

「沙織ちゃんは、紅茶が好きなの?」

「ええ、紅茶に対しては結構好きですよ。紅茶専門店に寄って、時々店の人と話をしながら、おいしそうなものをチョイスしてもらったりしています」

「お好みの紅茶とか、あるの?」

「その時々の心境によって違いますね。紅茶は、味だけではなく、香りを楽しむことが多いので、その時の心境で、楽しんだり、癒されたりするって感じですね。同じ種類でも、その時の心境によって、味が微妙に変わって感じられることもあったりするくらいですね」

 美由紀のように漠然と、紅茶を一つの種類として見ているわけではないようだ。ここまで趣味として愛しんでいるのを見ると、明らかに自分の感覚とは違っていた。会話をしていても、向上性が感じられ、美由紀の思い過ごしであったことが分かった。

 食事を済ませると、いきなり、

「私のお部屋に来ませんか?」

 と、沙織が誘いを掛けてきた。

 女性の部屋に招かれるのは、あまりあることではない。以前に、鈴音に招かれたことがあったくらいだ。それにしても、いきなりである。鈴音の時もいきなりの感覚はあったが、偶然出会って、その日にいきなりというわけでもなかった。ただ、それでも、相手が沙織だと、いきなりだということでビックリさせられたのは、一瞬だった。次の瞬間には、笑顔で、快諾していたのだ。

 沙織の部屋は、別に感じるもののあまりない部屋だった。鈴音の部屋はこじんまりとした感覚があり、美由紀には新鮮さと、自分のイメージに合わなかったところを、何とか理解しようと考えていたことを思い出したが、沙織の部屋には、すんなりとイメージが入り込むことができたのだった。

 部屋からは、紅茶の香りを感じることができた。

――なるほど、紅茶が好きだと言うのは頷ける――

 小さな観葉植物が点在している部屋に香ってくる紅茶の香りは、次第に部屋のイメージを変えてくる感覚があった。奥にあるテーブルの上に写真立てがあり、そこには、沙織と一緒に一人の男性が写っている。

「これは?」

「前に付き合っていた男性なんですけど、昨年、事故で亡くなったんですよ」

 それほどショックな様子を見せずに淡々と話してくれた沙織だったが、その様子を見ていると、彼の死は、沙織にとって「過去」のこととなっていることを伺わせた。男性をよく見てみると、優しそうな顔をしているが、美由紀には、沙織と本当にお似合いだったかどうか、疑問を感じていた。あまりにも淡々としている沙織を見ているから、そう思うのか、それとも写真の中の男性に、何かありそうな気がしているからなのか分からない。ただ、その時、もう一つの考え方があったのだが、それを美由紀は意識していなかった。わざと意識しなかったのか分からないが、もう一つの考え方というのは、

「自分が男の目で写真の男性を見ている」

 ということであった。

 自分の中にレズビアンの性癖があることを、その時は意識していなかった。忘れていたのか、それとも、無意識に意識しないようにしていたのかのどちらかなのだろうが、美由紀には、意識しないようにしていたのではないかと、あとから思うと感じるのだった。

 美由紀は、元々、レズビアンの相手を沙織に求めていたはずなのに、意識しないようにしていたというのは、どういうことだろう? どのあたりから意識しなくなったのかを思い返してみるが、考えられることとしては、最初に交差点で出会った時なのか、喫茶店でパスタと紅茶を食している時なのか、それとも、沙織の部屋に招かれた時なのかのどれかであろう。

 一番考えられるのは、沙織の部屋に招かれた時である。

 最初に、部屋に何ら感覚的な違いを感じなかった。それなのに途中から、次第に部屋の中の変化に気付くようになった。ということは、部屋に入った瞬間、まるで自分が違う人になったかのような錯覚を覚えたのかも知れない。そう思うと、美由紀の中で心境の変化があったとすれば、それは、沙織の部屋に招かれた時ではないかと思うのが、一番自然ではないかと思うのだった。

 沙織が美由紀を部屋に案内してくれた意図は何だったのだろう?

 美由紀の考えをいち早く察し、警戒していることを事前に知らせようというものだろうか? それには、美由紀が勘の鋭い女性であることを見切っていなければできないことだ。だが、考えられないことではない。美由紀自身、表に自分の考えを出さないようにしているつもりでも、オーラのようなものが発せられることがあるらしい。

 それは相手にもよることだが、美由紀のオーラを感じ、指摘してくれた人も今までにはいたのだ。

 沙織も勘の鋭そうな雰囲気があった。ただ、彼女の場合は美由紀のように、オーラを表に発することはない。いつも冷静で、内に秘める何かがあるのは感じるが、彼女の中で封じ込めて、相手に悟らせないようにしている。あくまでもすべてが美由紀の想像であり、中には贔屓目に見てみたり、大げさに考えてみたりすることもあるが、そのうちに美由紀にも沙織の気持ちが分かる時が来るのだろうと、思うようになった。

「待って?」

 そこまで考えてくると、美由紀は、我に返った。

「私は、いつの間にか、沙織ちゃんのペースに嵌ってしまっていたということ?」

 相手が内に籠っているのだから、相手のことを考えるのは、想像の域を出ないのは仕方がないことだが、元々自分のレズビアンの相手として見ていたはずである。優位性は絶えず自分にないと、レズビアンの相手は務まらないと思っていた。相手のペースで営んだこともあったが、それも最初から望んだことではなかったはずだ。行為の最中であれば、分からなくもないが、自分がペースに嵌ってしまうことは、あくまでも自分の本意ではない。それを思うと、果たして沙織が自分の相手となりうるかという点においては、一気に疑念に満ちた状態になってしまったのだ。

 美由紀は、沙織を見限ってしまったように思った。レズビアンの相手としては、そぐわないと思ったのだ。沙織の部屋を後にして、家路についた美由紀。その時、思い出したのは、小学生の時に父親から「強制送還」を受け、情けない思いをしながら、家路についた時のことだった。

「寂しかった」

 今、思い出しても、あの時ほどの寂しさと、情けなさは感じたことは、後にも先にもなかったことだ。その時の寂しさは、情けなさから派生したものだった。なので、同じ寂しさを感じることは、もうないだろうと思っている。

 それなのに、あの時の寂しさを思い出すというのは、どういうことだろう? 思い出してしまった寂しさは、情けなさを伴ったものではない。だから、誰に対して恨みがあるというわけではない。もちろん、レズビアンの相手を断念したと言っても、沙織を恨むのは筋違いだ。怒りの矛先をどこかに向けなければいけないと思っていたのだが、矛先を変えるはずの怒りが、今度は見当たらない。まるで拍子抜けしたという感覚だけが、残ってしまったかのようだった。

 美由紀は、沙織を諦めてしまったのだろうか? もし、そうだとすれば、これから、沙織とどのように接して行けばいいのだろう? 振り上げた矛の収めどころを見失ってしまった美由紀は、少し戸惑っていた。

 交差点で出会ってから、沙織の部屋に招かれるまでの時間があっという間だったような気がしていたのに、沙織の部屋に入ってからは、なかなか時間が進んでくれなかった。部屋の中で美由紀が見たものと、感じたものが、少し違っているような気がした。普通であれば、視界を通して見たモノが、頭に回って、感じることになるはずなので、そこに何ら変わる要素も疑いも存在しないはずである。それなのに何の変哲もない普通の部屋なのに、どこかが違っているように感じるという話は聞いたことがあるが、考えてみれば、それは人間の心理からすれば、矛盾していることではないのだろうか。

 交差点から、美由紀の部屋までがあっという間だったという感覚も、見たことと感じたことのギャップが大きい、部屋の中の出来事を感じながら思い返すために、あっという間だったように思うのかも知れない。

 美由紀が、以前にも同じように、見たものと感じたもののギャップで、時間の感覚がずれたような気がしたことがあったような気がした。

 あれは、高校受験の日のことではなかった。受験会場に向かうバスの中でのことだった。

 その年は厳冬だった。雪が毎日のように降り、何日も降り積もった雪が解けない日も何度かあった。朝出かけ間際に、生姜湯で身体を温めて出かけたはずなのに、バス停に着く頃には、すでに身体が冷たくなっていた。

 それなのに、その日の天気はとてもよく、雲一つない状態の中で、雪だけが、解けずに残っていた。日に照らされて、雪の先から溶け出した水が流れ落ちている。明るさが、却って冷たさを感じさせるような光景だった。

 手袋を嵌めて、それでも手を合わせてこすっているのは、それだけ体感が寒いということであり、天気がいいのも、さらに追い打ちを掛けているのかも知れない。

 バスの中は、人でいっぱいだった。いつも学校まで行く時に使う同じバスで、駅まで向かうのだが、その日は受験ということもあり、少し家を早めに出たのだ。それでも天気の良さは、雪の白さにさらなる明るさをもたらし、早い時間であることを感じさせないほどだった。

 幸か不幸か、その時は同じバスに、友達はいなかった。友達と言っても、バスの中で話をするわけではなく、挨拶程度だったのだが、それでもいなかったのは、幸運だったと言えるだろう。

 バスは比較的空いていた。後ろの方に行けば、座ることもできる。美由紀は、ちょうど真ん中あたりの、入り口近くの二人掛けの席に腰かけた。窓際に座り、人が来てもいいように、鞄を膝の上に置いて、窓の外を見ていた。

 眩しさに、少し意識が朦朧としていたのを感じながら、

――まずいかな?

 と、あまり表の雪を見ないように気を付けていたが、どうしても、明るい方に目が行ってしまうのは本能のようなものなのか、その日も、視線が光に吸い寄せられるように表を漠然と見ていた。

 漠然と見ていた時、足元に湿った暖かいものが触れるのを感じた。

――男の手?

 それはまさしく男の手に見えた。隣に座った男が美由紀の腿のあたりを撫でているのだ。

――どうして、こんな――

 と、その日が受験であることも、そして、バスの中であることも忘れてしまうほど、パニックになっていた。だが、すぐに冷静になり、

――これは夢なんだわ――

 と感じた。

 すると、撫でていた手の感触がなくなってきた。だが、目の前に見えているのは、やはり男が腿を触っている映像だ。

――まるで映画を見ているようだわ――

 と思った。

 その時、自分が見ているものが、感じている感覚と違っていることに気が付き、それが矛盾の中にあるものだということを感じていたのだ。

――どうして、私って、こんなに冷静になれるのかしら?

 と思ったほどだ。

 最初は、自分が何をしようとしてバスに乗っているのか、またバスの中であるということさえ分からなくなっていたはずなのに、気が付けば、あっという間に冷静になっているのだ。それも時間的な矛盾の一つではないだろうか。

 冷静になってみると、男は隣の席から消えていた。まるで何もなかったかのような時間が美由紀に残った。男に触られた感触も、男がいなくなったと思った瞬間。思い出せないものとなってしまった。

――私って、何て淫らな――

 淫乱などという言葉を感じ始めたのは、その時からだったのかも知れない。

 男に触られたという感触は、頭の中に、「願望」として残ったのかも知れない。願望は、淫乱に対してのもので、自分が求めているものが、淫乱な自分への確証だったのではないかとその時に感じたが、中学生の女の子が本当にそこまで感じていたのかというと、今思い出すと、疑問であった。

――そんな女の子を、男性はどう思うのかしら?

 羞恥の感覚が、身体を襲う。その日が受験の日だということを忘れさせるほどの震えは、バスの中にいる間、消えなかった。

 だが、バスを降りると同時に、羞恥の気持ちは消えていた。そして、受験日だということに気付き、我に返ると、次第に、バスの中での出来事が、かなり昔のこととして記憶に封印されるのに気付いた。

「誰にも見られなかったのが、よかったんだわ」

 人に見られていたら、見られたという消えない事実を、ずっと抱えていかなければいけない。

 その日の試験は、却って集中できた。

――何もなかったんだわ――

 という思いが、試験でも緊張感を解くのに役立った。

――ひょっとして、緊張感を解くために、何か見えない力が働いて、私に妄想を抱かせたのかしら?

 とも感じた。

「こんな日くらいは、許されることだわ」

 と自分を納得させるに十分な日でもあったからだ。

 美由紀は、その時の男のことを、ずっと忘れていた。それは受験から逃げたいという気持ちだったのか、受験の苦しさを忘れたい一心で見た妄想だったのか定かではないが、結果的には、その夢のおかげで緊張感がほぐれ、受験をうまく乗り越えることができたのも事実だった。

 ただ、その男の顔をハッキリと見たわけではなかった。見るのが怖かったというよりも、見ようと思ったその時に、すでに男が消えていたという感覚だったのだ。触られたという感覚だけを残して、隣に本当にいたのかどうかも定かではない。やはり妄想だったのだろうか。

 そのバスに次の日も乗ってみた。その日は。あまり人は多くなく、どこにでも座っていいくらいだったが。美由紀はわざと、昨日と同じ場所に座った。

「あの人はどこから乗って来て、どこで降りたのかしら?」

 半分は妄想だと思いながらも、その人のことを知りたくて仕方がなかった。出会ったとして、その後どうしようかなどということは何も考えていない。ただ、どんな人なのか確かめたかっただけだった。

 バスに乗っていると、睡魔が襲ってきた。前の日には感じなかったことだが、

――これが緊張感の違いというものなのかしら?

 と思った。

 すると、美由紀の腿に昨日と同じ感触が伝わってきた。

「来た」

 美由紀は身体を固くする。それは、恐怖に固くなっているわけではなく、どんな人なのかを確認できるのではないかという緊張感からであった。

 美由紀は今日はすぐに顔を上げたが、そこにいる人を見て、愕然としてしまった。そこにいたのは、何と、自分だったのだ。

――夢を見ていたんだ――

 誰かに触れられることへの願望はあるが、他人だと怖いという思いがあったのか、それとも、もう一人の淫乱な自分の存在を、こんな形で証明してみたかったのか、おかしな感覚ではあるが、美由紀は声にならない声を上げたかと思うと、忽然と目の前からもう一人の自分は消えていた。夢以外の何者でもないに違いない。

 男だと思ったら、女だった。しかもそれが、自分だということは、少なからずショックである。願望が妄想に結びついたということなのだろうが、どう説明していいかは分からない。説明のしようもあるはずがないのだ。

 見たモノと感じたことの違い。それは、自分で身体を弄っても、同じ感覚には絶対にならないことだ。

 しかも、美由紀は、触る側の自分から、触られる自分を見たわけではない。明らかに自分の中の感覚と、目に映ったものが違っていた。これをギャップとして片づけていいものなのか考えていた。

――妄想が自分の中で大きくなるのを防げるとすれば、それは、再度同じものを見るしか方法はない――

 と、美由紀は思うようになった。

 それから何度か、同じバスに乗ってみたが、同じことは二度と起こらなかった。きっと、自分を見てしまったことで、妄想が完結してしまったのかも知れない。

――自分を見なければよかった――

 と感じたが、あの時、自分の姿を見なければ、何も分からないまま、ずっと追い続けていたに違いない。

 何度か同じバスに乗って、二度と現れないことが分かると、もう、美由紀には納得できなくても、納得するに値するものを得たような気がして仕方がなかった。

 沙織の部屋の中にいた美由紀も、もう一人の自分だったのだろうか。見たモノと、感覚が違っているとするなら、見ている自分か、感じている自分のどちらかが違っていると考えるのが自然ではある。しかし、それはもう一人の自分の存在を考えてのことで、あくまでも前提として、もう一人の自分の存在を置いておかなければならない。

 美由紀は、自分が本当にレズビアンなのかどうか、時々疑ってみることがあった。

「私の中には、確かにアブノーマルな一面があるのは事実なんだわ」

 と感じているが、それがレズビアンなのかというのが不明瞭である。

 女性に対して、不思議な感覚を持ち、妄想したのと同じ感覚を、何度も味わった気がしたのは、確かだったが、バスの中の出来事のように、忘れてしまった出来事の中に出てきた人は、きっと、もう一人の自分だったことだろう。

 今記憶しているアブノーマルな妄想は、氷山の一角で、表に出てこない部分のそのほとんどは、相手がもう一人の自分ではなかったか。

 自分の中で妄想が必要な時、もう一人の自分を作り出すことで、乗り越えられると思っていたとすれば、もう一人の自分も、架空の中でのできごとにしか思えなくなるのではないか。

 美由紀は、男好きな自分を想像してみた。

 男性がそばに寄ってくるようなオーラを発している自分、近くに寄るだけで、香水の香りが充満している。

 だが、本当に自分が好きな男性が、どうやったら寄ってくるのかが分からない。なぜなら、どんな男性が好きなのか、自分でもハッキリしないからだ。

 男性から優しくされた経験がない。むしろ父親からの苛めに近い仕打ちしか、男性に対してはイメージが湧いてこない。

 レズビアンよりも、男好きという方が、まだ印象がいいような気がした。今までに男性を好きになったことはないわけでも、男性から好かれたことがないわけでもない。レズビアンの性癖を知らない友達は、

「美由紀は、綺麗なのに、どうしてなかなか彼氏ができないのかしらね」

 と言われたことがあった。

「そんな、綺麗なことなんてないわよ」

 と、相手のセリフに皮肉が含まれているような気がしたので、謙遜に、含みを込めるかのように、少し低音で答えた。その会話はそこで終わったのだが、レズビアンであることに気付かれたのではないかと、心配になった。

 世間では、同性愛を隠すために、「偽装結婚」をするという人もいるという。そこまで大げさなことは考えないが、結婚を意識する時になるにしたがって、レズビアンであることが引っかかってくるのだった。

 好きになった男性に告白すると、相手は驚いたようだった。

「まさか、美由紀さんから告白されるなんて思ってもみなかったよ」

 と言っていた。その言葉の裏には、

――ほとんど会話もしたことがないのに、どうして急に?

 という思いがあったのだろう。

 付き合ってほしいという言葉は、簡単に出てきた。好きだという気持ちはなるべく表に出さないように、ただ付き合ってほしいと言うのは、さほど難しいことではない。普段から、感情を出さないようにすることには慣れている。それは感情を抑えているわけではなく、抑えなければいけない感情が、表に出てこないのだ。

 相手の気持ちが揺らいでいる間、美由紀は、言葉を発する気にはならなかった。相手が拒否しても、それはそれでいいと思っていたからで、そこまで考え方が冷めていたのだ。

「ゆっくりでいいんだよ」

「えっ?」

 彼は美由紀の顔を見ずに、コーヒーカップを口元に持っていきながら、話した。美由紀は一瞬言葉の意味が分からずに驚きの表情をしていたが、すぐに我に返って出てきた表情は笑顔だった。

 彼はその表情を意識していないように、無表情のままだった。少し表情が変わったはずなのに、無表情に思えたのは、最初と最後が無表情だったことと、彼の顔を見ていると、何も考えていないように思えたからだ。

――何も考えていない人の顔に、表情なんて浮かぶはずはないわ――

 と、美由紀は以前から思っていた。それは、自分に対して感じたことで、次第に自分以外の人にも言えることだと思うようになったのだ。

 その人は、その日、答えを保留した。

――やっぱり私じゃダメなんだわ――

 と思ったが、まだ自分の性癖にハッキリとは気付いていない時だったこともあって、さすがにショックだった。

――私の何がいけないの?

 自分が好きになった相手が悪かったという発想はなかった。その時の美由紀は、何かあれば、すべて自分が悪いと思っていたからだ。

 すべて自分で抱え込むという性格は、子供の頃からで、きっと親の影響からだと思っている。

「人のせいにするな」

 何か粗相をしてしまった時、子供であれば、つい自分が悪くないという気持ちから、人のせいにしてしまいがちである。そのことを親は一番嫌った。

 大人になった美由紀なら、それくらいの理屈は分かるが、子供の頃に分かるはずもない。親に対して反発の気持ちが一気に噴出したのだが、

――人のせいにしてはいけない――

 という道理は、自分の中で確立してしまった。

 親の言うとおりになることには、たまらない気持ちであった。それに反して自分の気持ちが親の言うとおりになることでジレンマが生じ、それがさらなる親に対しての恨みに増幅して行ったのである。

「これからしようと思ったのに」

 このセリフも何度吐いたことか。それは父親に対してではなく、母親に対してだった。

 母親は、

「ちゃんとしないと、お父さんから言われるわよ」

 というセリフが多く、しかもその時のほとんどが、自分がこれからしようと思っていたことだった。

 しようとしていることを指摘されることは、恥辱であった。さらに、それを父親に言うという。そこには、母親の意志は働いていない。ただ感情からではなく、自分が見つけた美由紀の悪いところを、ただ父親に報告するというだけのものである。そんな感情が通わない説教に、誰が納得するというのか、男性を立てるなどという昔であればいざ知らず、ただ自分が責任を負いたくないだけだという気持ちが露骨に出ている。父親も嫌いだが、それなりに自分の意志をしっかり持っている。母親のは、優柔不断さしか現れていないのだ。

 そんな両親から育てられた美由紀は、被害妄想が激しくなってきた。

――レズビアンや、異常な性癖は、ひょっとすると、被害妄想な性格が影響しているのかも知れないわ――

 と思うようになった。

 相手がしようとしていることを先に言ってしまうのは、相手の考えを否定していることに気付いていない。しかも、先に気付いたことで、相手に対して優位に立つことを最初から意識しているから言えることなのだろう。あくまでも相手の考えを無視した対応に違いはないからだ。

 そんなことをいう人のいうことなど、誰が聞くというのだろう。人の性格を否定しているのと同じではないか。親であれば、子供の気持ちを尊重すべきなのであろうに、否定するというのは、それだけ、自分の考えが偏っているのかも知れない。

 被害妄想になると、人のいうことを、いちいち疑ってみる性格になってしまう。

「石橋を叩いて渡る」

 ということわざとは少し違い、慎重な性格とは、言い難いところがある。

 美由紀はそんな自分の性格に最近気が付いた。子供の頃に、親と接している時には気付かなかったことである。

 自分の性格というものは、えてしてその時に気づくものではなく、後になって気付くことも結構多いのかも知れない。

 好きになった人から、すぐに答えが返ってこなかったのは、彼がそれだけ真剣に美由紀のことを考えていて、すぐに答えを出してはいけないと思ったからだ。気持ちが最初から決まっていても、すぐにそれを答えとして出してしまう人と、一度持ち帰って、吟味する人と二通りいるのだろう。そのどちらがいいというのは、比較になるものではないが、美由紀には、焦らされるのは、精神的にきつかったのだ。

 彼から、満を持しての答えが返ってきた時、すでに美由紀は気持ちが冷めていた。

「ごめんなさい」

 という言葉しか出てこず、

「どうしてなんだい?」

 と、彼が聞いてきたが、それに答えを出す気にはならなかった。答えようと思えば答えられたのだが、答えてしまうと、最初の「ごめんなさい」という言葉の信憑性が疑わしくなってしまうからだ。

 疑わしくなってしまうくらいなら、答えを出さずに、嫌われてもいいと思った。冷めてしまった感情は、元に戻ることはなく、その時に、美由紀は自分の中に「女」を感じた。

――感情が、やっぱり女なんだわ――

 と、半分安心した。

 あとの半分は、この仕打ちが、女としての悪い部分であることだからだ。女であることを再認識し、異常な性癖のせいで、感情や性格まで異常になってしまっているのではないかという危惧は、一応、解消された気分になっていた。

 美由紀は、その時が初恋だったのかも知れない。いや、そう思うと、それ以前に誰かを意識していたような気がした。その人が自分の底辺にいて、その上に誰かを好きになるという形で、底辺にいる人を隠してしまおうというおかしな感覚を抱いている気がして仕方がなかった。

 その男性が、迫丸だったのではないかと思うようになった。

 迫丸を底辺に置いておきたい気持ちがあるから、レズビアンに走ったのか、それともレズビアンを隠したいから、その布石として、意識の中に、迫丸を底辺に押し込めているのかの、どちらかではないかと思うようになっていた。

 どちらにしても、美由紀の心の底辺に沈んでいるのは迫丸で、精神的に何か変調が合った時、浮かんでくるのではないかという発想を頭の中に描いていた。

 他の男性を好きになった時とは別に、男性から告白された時のことも思い出していた。

 告白されるのを待ち侘びるようになったのは、好きになった人に告白し、結局、自分が冷めてしまったことで成就しなかった時からだったように思う。それから数年が経って、男性から告白された。

 美由紀としては、その時からだいぶ時間も経っているので、だいぶ精神的にも大人になっているので、かなり気持ちが落ち着いていると思っていた。告白してきた相手は大学時代の先輩だったのだ。

 美由紀から見て、嫌いなタイプではなかった。だからといって、胸がときめくほどの相手というわけでもなかった。

「廣田さんと、一緒にいると、楽しいんだよ。ずっとそばにいたいと思ってね」

 口説き文句としては中途半端だったが、正直な気持ちに好感が持てた。特に先輩に似あいそうな言葉で、他の人から同じセリフを聞いていたら、きっと、冷めた気分になっていたかも知れない。

 口説き文句というのは、その人それぞれに合うセリフがある。意外と、皆自分に合った口説き文句を言うのかも知れない。口説かれて嫌な気分にならないのは、その人からそのセリフを聞くのが一番自然だということを、無意識にでも分かっているからに違いない。

 先輩の言葉に、最初は少しだけときめいた。それは先輩に対してときめいたわけではなく、セリフと先輩の相性にときめいたのかも知れない。

 いきなり断るのも悪いと思ったので、一度か、二度くらいはデートをしてみた。嫌いな相手ではないので、デートしているうちに好きになるかも知れないという思いがあったのも事実だった。

 先輩のいう通り、一緒にいて、先輩は本当に楽しそうだった。しかし、美由紀は先輩ほど楽しいというわけではなく、一緒にいるほど、自分だけが置いて行かれそうな気分に陥ってしまっていた。

 三回目のデートはなかった。

「ごめんなさい。どうも私だけ置いて行かれているような気がするので、あなたとはお付き合いできません」

 と、正直に答えた。

 先輩は、承諾してくれると思ったのだろう。美由紀の返事を聞いて、かなりショックを受けていた。明らかな動揺が見られ、完全に普段の先輩ではなかった。

「どうして……」

 その様子を見ると、可哀そうだというよりも、中途半端だった気持ちが一気に冷めてしまった。ある意味、断って正解だったと思えるほどの様子に、美由紀は先輩に対して、何も言えなくなってしまった。

 何も言う必要はない。こっちから一方的に振ったので、相手に言葉を掛けるのは、中途半端なことだ。何も言わないに越したことはない。今はショックで打ちひしがれているが、失恋の痛手など、時間が経てば、冷めてくる。気持ちも変わってくるかも知れない。

 先輩に悪いとは思いながら、

「やっぱり、好きにならなくて正解だった」

 と、やはり男性に対しては、自分がときめかないことが分かったのだ。

 だが、そう思ってしまうと、自分の中で露骨に寂しさが顔を出してきた。何が寂しいと言って、身体が寂しさを発していた。

 身体の奥に流れる暖かい血が、男性を欲していることを教えてくれる。冷めた気持ちとは裏腹に、身体は求めている。それが、強姦願望だったりするのだろうか?

 強姦願望の標的となったのが迫丸なのだが、なぜ迫丸だったのだろう? そんなに遡らなくても、強姦願望に値する男性がまわりにいないわけではないはずだ。しかも、迫丸に対しては、子供の頃の記憶、遡って、さらに下ってくる方が先に見つけられるのではないかというほど、考えることを始めてからの方に遥かに近かった。

 迫丸だけが、男性ではない。小学校の時にも他の男の子から悪戯されかかったこともあった。中学、高校時代には、満員電車で男に触られたこともあった。そんな時には、相手の顔を思い浮かべることもできなかったくせに、どうして願望の中でだけ、迫丸を呼び起こすことができるのだろう。今までに男性から受けてきた数々の羞恥な思いを、美由紀は一つ一つ思い出そうとしていた。

 男性の性格が、女性とはかなり違っていることで、今まで受けてきた恥辱にまみれた屈辱を、美由紀は、一人の男性をモデルにして、悪役に仕立て上げてしまったようだ。それが迫丸であり、彼にとっては、実に気の毒なことだが、美由紀には悪いという気持ちはなかった。

 だからと言って、女性がいいというわけでもなかった。女性同士の場合の方が、露骨に争い事など、表に出てくることがある。

 男性同士であれば、すぐに仲直りしそうなことでも、女性同士ともなると、自分のわがままをまかり通そうとするところがあるからか、なかなか亀裂が入ると修復は難しかったりする。

 何が一番大切かということを分かっているか、分かっていないかの違いなのではないかと思う。大切なものが何であるかが分かると、相手を大切にしなければいけないという道理が分かるようになり、露骨な喧嘩はなくなってくるのではないだろうか。そういう意味では、自分の家族は、誰もが自分のことしか考えていない。もし、美由紀が自分の中にある性癖を認めようとするなら、

「親の因果が子に報い」

 ということわざを感じないわけにはいかないだろう。

 自分の家族ほど、他人に対して、口だけなのかが分かる。子供の頃にさせられた強制送還。あれも、せっかくの誘いを断るというのは、失礼に当たらないかということを考えていないからだ。

 実際に考えていないだろう。もし考えているのであれば、こちらに対して敬意を表しているものを、無下に拒否していることになるからだ。優しい顔をしている時に、相手の気持ちを汲んであげるという方が、よほど、その場がスムーズに行くのだ。それを断るということは、自分の考えを相手方に対して、勝手に押し付けているようなものだからはないだろうか。

 しばらくしてから、美由紀は、また電車に乗る機会があった。

 トラウマになっていた満員電車だったが、最近はそれでもだいぶマシになってきた。

 美由紀は比較的最初の方の駅から乗れたので、座ることができた。それでも途中の駅から、たくさんの人が乗って来て、次第に立っている人のバランスが崩れてくるかのように思えた。

 美由紀は、文庫本を取り出して読んでいたが、揺れに伴って、つり革を持って立っている人の膝が、美由紀の膝に当たり、足をどうしていいのか迷っていた。

 顔を上げる気にもならなかったので、本にだけ集中していたが、ふと、感じる視線があったので、頭を少し上げてみた。そこに見覚えのある顔を見つけたのだが、馴染みのあるその顔だったが、見たくない顔でもあった。

 その人は、美由紀の元亭主だった。離婚してから何をしているのか分からなかったが、きっと彼も美由紀のことが何も知らないはずだ。

 距離はかなり離れているので、人をかき分けなければ、美由紀のところには到達しない。わざわざ人をかき分けて進んでくるようなことはないと思っていたので安心だったが、彼の睨みにも似た視線は、美由紀を捉えて離さなかった。

――あの人は私が気が付いていることを分かっているのかしら?

 と思ったが、視線だけを見ると、分かっていないようだ。彼がどこで降りるか分からないが、とりあえず様子を見ることにした。

 美由紀は相変わらず本を読んでいる。電車の中は、先ほどまであれほどざわついていたのに、彼の存在を感じるようになって、耳鳴りがしてきたのか、さほどの騒音ではなくなっていた。

 耳鳴りは、頭痛の前兆を感じさせる。しかも、高い山に登った時のような、鼓膜を揺さぶる振動を感じる。鼓膜は微妙な振動であっても、頭痛を起させるに十分な刺激を感じさせることができる。美由紀は、以前から耳が敏感で、性感帯の一つだと思っていた。

 頭痛の前兆には何種類かあったが、その時は耳鳴りだけだった。頭痛を起させるには、耳鳴りだけでは、それほど強いものではなかったが、今回は鼓膜を揺さぶる振動まで感じられたことで、襲ってくる確率は微妙な感じがしていたのだ。

 元旦那の存在を意識しながら、頭痛に備えなければならないというのは、結構きついものだった。どちらも神経に関わることなので、片方に神経を集中させる方がいいのか、どちらも均等に意識していないといけないものなのか、それとも、あまり余計な意識をしない方がいいのか、悩むところであった。

――でも、どうしてあの人がここに?

 彼は別れた後、遠くに引っ越したと聞いた。舞い戻ってきたのか、それとも、偶然こっちに用があったのか。まさか、美由紀を思い出して、会いたくなってきたわけでもあるまい。

 元夫の視線は、意識しないと感じないほどで、そんなに鋭いものではなかった。鋭さがないので、それほど最初から心配はしていないが、長い間見つめられると、金縛りに遭ってしまうのは、今に始まったことではない。なるべく視線を早く他に逸らしてほしいと思っているが、相手にはその気がないようだ。

 電車に乗っていて、気持ち悪くなって倒れこんだ時のことを思い出した。あの時も、座っていたにも関わらず、頭痛が激しくなり、吐き気がしたのだった。今回と同じで、誰かの視線を一身に受けていたのだが、その時の視線が誰だったのか、今では思い出すことができなかった。

 美由紀は、自分では気付かないところで、男性から意識されていることがある。

――見られている――

 という意識に捉われる時があり、そんな時、

「自意識過剰だわ」

 と感じ、羞恥に感じることがたびたびあった。

 男性から見られていると恥かしく感じるのは、実は最近になってからのことだった。それまでは、少々のことでは、あまり気にすることもなかった。極端に変な服装を着たりするわけではないので、そんなに羞恥を感じることはないはずなのだが、気になるようになってからは、それまでの無頓着とは、まるで違っていた。

 無頓着だということは、人の目が気にならないということだ。中学生の頃までは、人の視線が気になって仕方がなかったはずなのに、高校生になると、急に意識がなくなってしまった。

 他の女の子は、美由紀と逆だった。高校生になると、余計にまわりの目が気になり始める。そして、男性の視線を強く感じると、怖いと思うことがあるようだ。

 美由紀は中学生くらいまでは、男性の視線を怖いと思っていたが、高校に入ってからは、さほど男性の視線を怖いとは思わなくなった。他の女の子とは逆だが、それだけ中学生までの間に、余計な妄想をたくさんしてしまったのかも知れない。

 妄想は、その人の性格まで変えてしまうことがある。現実だと思ったことが妄想でよかったと思っていても、心の奥に残ってしまえば、痛みが一度は収まったと思っても、本当に傷ついている場所からは、痛みはなかなか消えないものだ。それと同じで、一旦強烈な妄想を抱いてしまうと、消えることはない。ショック療法として、再度同じショックを与えれば、消えるかも知れないと今では思うが、中学生までの間に、そんな発想が出てくるはずもなかった。

 美由紀が小学校の頃は、毎日のように人の視線が気になっていた。あまりにも気にしすぎることで、男性の方にも、その気がなくても、美由紀を気にしてしまう。

「俺に気があるんじゃないか?」

 と思ってしまう男の子もいたりするだろう。だが、たいていはそんな男の子ほど、美由紀にとっては、どうでもいいような子だったりする。好きになった人が気にしてくれればよかったのだろうが、その前に他の男の子からの、謂れのない視線を浴びてしまえば、誰を意識しているのか、そのうちに分からなくなる。感覚がマヒしてくるのだ。

 美由紀が元旦那と結婚しようと最初に考えたのはなぜだったのか? そのことを今まで意識したこともなかったが、意識しなかったのは、意識しても無駄だと思ったからだ。

 美由紀は結婚する意志もなかった。結婚しようと思った相手がいなかったわけではなく、ただ、それは元夫ではなかったはずだ。それなのに、なぜ結婚してしまったのか。人に聞かれても答えようがない。理由もなく結婚したとしかいいようがなかった。

 しいて言えば、元夫の視線が他の人とは違ったからだろう。優しいわけでもなく、熱かったわけでもない。むしろ、厭らしさを含んだような、ネットリとした視線であった。そんな視線ほど意識してしまうもので、意識は金縛りを誘発する。

 金縛りは、まるでヘビに睨まれたカエルを思わせる。動けない中で、ガマの油が滲み出る感覚だった。

 それが、そのまま結婚に結びついたとは思いたくないが、結婚するだけの理由はどこかにあったのだろう。ただ、それが自分を納得させられるだけのものだったのかというと、疑問が残る。

 結婚生活は、まるでままごとのようだった。マニュアルがあるわけではないのに、型に嵌った生活だけで、あとは、漠然としていた。漠然としている時間に、独身時代の気持ちを思い出せるのであれば、もう少し活気を感じることもできたのだろうが、それができなかったのは、心の中に余裕がなかったからだ。

 独身時代なら簡単にできたはずのことができなくなった。それは、心のどこかに隙があったからだろう。隙というのは、

「結婚しているのだから、生活が制限されても仕方がない」

 という気持ちの表れで、自分で勝手に手枷足枷を嵌めてしまっているかのようだった。

 本当に結婚生活を納得しているのであれば、それでもよかったのだが、疑問が残っている間では、ギャップが生まれてしまう。感覚のバランスが崩れたと言ってもいいのではないだろうか。

 離婚してから、結婚していた頃のことを思い出そうとすると、ほとんど思い出せない。結婚していたことが、本当に自分のことだったのかどうかということすら、疑問に思うほどだった。

「離婚には、結婚の何倍ものエネルギーがいる」

 と言われたが、そんなことはなかった。

 確かに疲れはドッと残ってしまったが、エネルギーを使ったからではない。むしろ、結婚していた時の疲れが噴出したからだったのだろう。

 かといって、結婚していた頃に、何かを我慢していたとか、ストレスを溜めていたという意識もない。本当に漠然とした記憶しかないのだ。

――結婚というのは事実ではなく、人生最大の大スペクタクルな夢だったのかも知れない――

 と思う。結婚が夢だったとすれば、離婚も夢、いや、美由紀の場合は、妄想なのかも知れない。

 だが、妄想というには少し違う気もする。妄想は、何か心の中にため込んでいるものが、表に出ようとして湧き上がってくるようなものだ。結婚が妄想として思い抱くほどのときめきや希望を掻きたてるものではなかった。

 確かに、子供の頃には、お嫁さんという言葉に憧れた時期もあった。女の子なら誰もが抱くものだろう。美由紀の場合は、大した妄想を抱いたわけでもない。抱くだけの情報がなかったからだ。

 まわりの人に結婚願望の強い人はいなかった。そのため皆結婚に対しての話題は出さないようにしているのが、暗黙の了解のようになっていた。美由紀は誰も結婚の話題を出さないことで、却って興味を覚えるほどだった。そのあたりが、美由紀の天邪鬼なところでもあったのだ。

 美由紀が自分を天邪鬼だと思うようになったのは、中学の頃からだ。

 父親に強制送還をさせられたあの頃から、人のいうことに耳を貸さなくなってきて、まわりには自分を冷静に見せるように努めてきた。自分にオブラートを着せてしまっていることに気付かないままにである。

 まわりに冷静に見せるには、それなりに目立つ必要があると思った。そのためには、人と同じ意見であったり、同じ行動をしていては、ダメであった。違うと思っても、反対意見をでっち上げ、初めて自分が納得するよりも、まわりを納得させなければいけないという気持ちになったのだ。言い換えれば、まわりの人を納得させようという気持ちになる時は、天邪鬼な自分が表に出てきた時なのだった。

「まさか、一番最初に美由紀が結婚することになるなんてね」

 と、結婚を決めた後に友達に言われた。

 結婚を決めるに際して、美由紀は誰にも相談していない。悩まなかったと言えばウソになるが、悩んだ時の解決法は、信じられないものだった。

 サイコロの目が出た方に進む。

 まさしくそんな感覚だった。そこに意志は働いていない。意志があれば、迷うに決まっている。なぜなら、結論が出るわけはないと思っているからである。いつものように堂々巡りを繰り返し、感覚のバランスを崩すばかりだった。

 小学生の頃、最初に感覚のバランスを崩したのが、夢の中でだった。

 山登りをしていて、狭い道を通っていたが、両側は断崖絶壁、気を付ける以前に、

――どうして、こんなところに迷い込んだんだ――

 と、いう疑問を抱きながら、神経は足元に集中してしまう。

 足元にばかり神経を集中させると、今度は、身体のバランスが崩れて、次の瞬間には、谷底だった。

 動くこともできず、留まることもできない。絶体絶命の状態で、美由紀は先に進む道を選ぶ。

「このまま、谷底に落ちた方が、気が楽だ」

 と、何度感じたことか。そのたびに、身体がシャキッとしていた。それでも、気が付けばかなりバランスが崩れていて、身体が斜めに傾いている。いつ落ちても不思議がない状態で、

――開き直ることが、落下を許さないのだ――

 と思わせた。

 開き直りは、天邪鬼には必須ではないだろうか。崩れたバランスを治すには、開き直りが一番の近道だということである。

 美由紀が最初に結婚したことで、美由紀の中に、友達に対しての優越感があった。美由紀にとって結婚の一番の意義は、この優越感だったのかも知れない。

 優越感という感覚が、どれほど小さくて些細なことなのかということを知ったのは、離婚してからであった。離婚の際に知ったわけではない。離婚で訪れた寂しさの中で、何が寂しいのかを考えてみると、離婚したことで感じる孤独感は、伴侶がいないというだけではなく、さらに他にもあることが分かった。それが、優越感を感じるための相手の存在だった。

 結婚したことでまわりに対して優位に立ったつもりだったが、まわりもそのうちに結婚していく。そして、さらに、今度は自分が離婚ともなると、優越感どころではなくなってしまい、バランスを崩すことになってしまう。

 昨日見た夢が、美由紀が最近気になっている女性の夢だった。

 普段は大人しく、余計なことは何も言わない。気が弱そうなタイプで、美由紀は話をしたこともなかった。

 彼女とは、時々電車の中で出会っていた。最初に意識していたのは、彼女の方なのかも知れない、

 決して美由紀に近づこうとはしないが、美由紀を意識しているのは確かなようだ。視線を感じて目を向けると、彼女と目が合ってしまうことがある。そんな時、視線をすぐにそらそうとするのだが、どうしても残像が残ってしまうのか、顔は逸らせても、視線は残ったままだったりすることがある。

 それだけ、元々の視線が美由紀に対してあったということだ。美由紀の目が鋭いので、目を逸らせないからだと最初は考えたが、ビックリして逸らしてはいるが、そこに怯えは存在しない。気にし始めてからは、見るからにオドオドした態度に見えるのに、美由紀の視線に対して臆しているところがないのだ。それは、彼女が最初から美由紀を意識していたという証拠ではないだろうか。

 美由紀の視線に臆することがないのは、美由紀のことを知っていて、意識して見ていたということだ。

 美由紀は彼女に見覚えはない。なぜ鋭い視線を浴びなければいけないか、分からないのだ。

「自分で強い視線だって思わないのかしら?」

 視線が強ければ、相手だってさすがに気付くだろう。じっと強い視線を浴びせているのであれば、それくらい気になるであろう。それなのに、彼女は、美由紀が気付いた時に、少なからずビックリしていた。それだけ、視線に集中していたのか、それとも、何かを考えていて、自分が視線を向けているのが無意識なのかのどちらからだろう。

 今までに何度か気付いたことがある視線である。この日は、最初から気付いていて、視線を合わせようと感じていたからだったが、彼女のビックリした態度に、美由紀自身もドキッとし、自分に対しての視線の気が分からないでいた。

 視線の強さを感じると、その視線が、興味を持っての強い視線なのか、それとも、何か恨みの籠った視線なのか、そのあたりは分からなかった。視線に気付いて見つめ返した時、彼女の顔はすでに明後日の方向を向いていた。

 視線だけはどうしても残していたが、顔を背ける反応は早かった。

「最初から美由紀の視線を分かっていたのかも知れない」

 と感じたが、もしそうであるとすれば、視線だけを残していたのも、ひょっとしてわざとではなかっただろうか? 驚きの表情にすっかり騙されてしまうところだったのではないだろうか。

 疑えば疑うほど、美由紀は彼女に対して深みに入っていくようだ。

「彼女は普通の女の子ではない」

 と思ったのは、男と女の違いこそあれ、視線を子供の頃に感じたものと同じものを感じた気がしたからだ。

 その視線というのは、小学生の頃に感じた迫丸のものだった。彼女の視線を感じた時、迫丸の視線を昨日のことのように思い出されたのだ。

「迫丸の視線を思い出させるために、彼女は現れたんじゃないだろうか?」

 この間、迫丸の夢を見てしまったのも、そう思うと、分かる気がする。何度も彼女の視線を浴びているうちに、視線を同じオーラとして感じたのが、迫丸だったのだ。

 迫丸を思い出したことで、彼女の視線をさらに強く感じるようになった。

「どう? やっと思い出した?」

 と言わんばかりだが、思い出したから、何だというのか。大人になってからのイメージを知らない迫丸には、美由紀は子供の迫丸しか姿はイメージできないが、態度や雰囲気は大人をイメージできた。それは、彼女をイメージすることで、大人になった迫丸をイメージできるという不思議な感覚だったのだ。

 彼女をじっと見ていると、迫丸の夢を見てから、後だったのは分かっているのだが、何度か彼女の夢を見たことがある。

 一番最近に見た夢で、明らかに前の夢の続きだというイメージで見ていたものがある。

「この間の続きね」

 と、彼女も言っていた気がしていた。

 美由紀は、自分が夢を見ているという意識がハッキリとすることがあった。だからこそ、夢の内容を覚えているのか、忘れてしまう夢の方が圧倒的には多いのだと、思っていたのだ。

 夢の中での彼女は饒舌だった。

 電車の中の彼女が口を開くところを想像できないにも関わらず、夢の中では饒舌なのだ。まるでまったくの別人のように思える。夢の中での彼女との「はじまり」も、まずは電車の中からであった。

 夢の中で感じる電車も揺れていた。それは、美由紀が彼女を見ていて、二重にも三重にも見えるからだった。

――どうして、二重にも三重にも感じるのだろう?

 という思いが最初にあって、その次にやっと自分の身体に揺れを感じたのだ。

「ガタンゴトン」

 揺れを感じると、音も感じてきた。

「カンカンカン」

 電車の音を感じたかと思うと、電車の中ではあまり聞こえることのないはずの、踏切の警報機の音が聞こえてきて、目を瞑ると、赤い点滅に遮断機が下りるのを感じた。

 その瞬間、美由紀は鋭い恐怖に襲われた。赤い点滅と遮断機、それに警報機に、恐ろしいものを感じたのだった。それがなぜなのか分からなかったが、恐怖心は一瞬浮かんで、すぐに消えていった。それでも、余韻のようなものが頭に残り、美由紀は恐怖を感じながら、彼女を意識するという、おかしな感覚に襲われていたのだった。

 だが、夢の中では不思議なことに揺れは感じるのだが、電車が前に進んでいるという感じがしない。固定された場所で、ただ上下運動を繰り返しているだけに感じられるのだ。

 固定された場所で、前に進んでいないのに、揺れだけを感じるというシチュエーションに、美由紀は恐怖を感じていた。これは夢ではなく、テレビドラマを見た時に感じたことだったが、テーマが幽霊列車というような感じのものではなかったか。普通に電車に乗っていて、次第に電車の車内が暗くなっていく。駅に着いたわけでもないのに、暗くなっていくにつれて、乗客の数が減ってくるのだ。

 主人公は、ここに至って、電車の中で起きていることが、夢なのではないかと思い始めた。

「何で今頃気付くのよ」

 と、その時は不思議に思ったが、実際にその立場になれば、夢であるという発想を感じるのは、一番最後の「手段」となるのだ。

「ガタンガタン」

 電車は、音を立てて進んでいる。電車が進んでいるのを感じたのは、

「カンカンカン」

 という警報機の音が次第に大きくなっていき、赤い点滅をハッキリと感じ始めたからだった。

「何で俺は、こんな夢を見ないといけないんだ。確かにいつもの帰宅電車とは、少し違っていた。だが、進んでいる方向も違うようだし、どこまで行くのか分からずに乗ったのは、自分のミスだというのだろうか?」

 と、感じていたが、男はその日、会社で大きなミスをしてしまい、

「このまま死んでしまいたい」

 と、迂闊にも思ってしまっていた。

 男の会社では、当時自殺者が増えつつあった。一部の人間しかそのことを知らなかったが、男はその「一部」の一人だった。

「自殺する人の気が知れないな」

 と感じたが、男は自分が自殺などしようなどと考えることは絶対にないと思っていたのだ。

 だが、その日失敗してしまったことで、ふと弱気になって自殺を考えてしまった。そのことが男を不思議な世界に誘うことになってしまったのだ。そして、男が自殺を初めて考えた時、

「自殺というのは、連鎖反応があるというが、これって、伝染病のようなものなのかも知れないな」

 と思ったのだ。

 その瞬間、自分が自殺をしたい気持ちになったことを、激しく後悔した。

「しまった。もし、伝染病なら、俺は今、自殺を考えてしまったぞ」

 と、恐ろしくなったのだ。恐ろしさを招いてしまったことが、自分で考えてしまったことであり、誰が悪いわけでもない。後悔しても遅いことだったのだ。

 そのことが分かるだけに、男は恐怖に震えた。顔が真っ赤になり、恐ろしさで血の気が引いた。身体が震えだし、どうしようもなくなった。

 だが、そんな思いはずっと続くものではない。次第に薄れていくと、今度は気が楽になってきた。

 今感じたことは、これ以上ないというほど恐ろしい思いなのだ。

「考えてみれば、これ以上恐ろしい思いはない。それにそんな自殺菌なんて。ありえないことだ」

 と、感じることで、次第に恐怖が収まってきた。熱しやすく冷めやすい性格なのだろう。そのおかげで、男は夕方まで、失敗を気にしながらであるが、自殺についてを気にしないですんでいた。

 帰る頃には、失敗したことに対しても、ある程度精神的に落ち着いていた。電車に乗るまでは、自殺が多いこと、自殺を考えてしまったこと。そして、激しい後悔に襲われたことも、覚えていたが、電車に乗ってしまえば、不思議なことにすっかり忘れてしまっていた。

 それよりも電車の中での陰湿な雰囲気が気持ち悪かった。それまで考えていたことを忘れさせるには十分な環境で、電車に乗る前とまったく違った感覚にさせられたのだ。

 男は、違う意味での後悔に苛まれていくことになる。

「乗るんじゃなかった」

 乗ってしまって後悔するなら、次の駅で降りればいいと思っていたが、なかなか次の駅に着かない。まわりの景色はまったく分からない。少なくとも会社の最寄駅から乗ったのに、まわりが真っ暗で、ネオンサインも確認できないとは、どういうことだろう?

 乗ってしまってから後悔しても始まらないが、電車が、実は前に進んでいないということに気が付いた時、今度は、昼間自殺を考えてしまったことを思い出した。

 電車の中を見渡してみる。

 乗客は数人だけだが、皆どこかで見たことのある人たちばかりだった。

「ああ、あれは」

 最近、自殺をした人たちばかりではないか。会社の事情に詳しい主人公は、その電車が幽霊列車であることに初めて気が付いた。そして、幽霊列車が、自殺菌に関係があり、この電車に乗った人は、自殺をして、あの世に運ばれていくための「交通手段」なのだ。

 最後は、列車の各部分がアップで映し出され、次第に錆びている各部所が、現れてきた。列車の表からが次に映し出される。まわりは墓場で、その中央に列車が止まっていた。その列車は、もう十何年も動いた気配がない。もちろん人の気配もないのだ。

 真っ暗な光景から、列車の中が映し出される。白いものが点在していたが、そこに写っていたのは、無数に折り重なった白骨死体であった。

 列車の割れた窓から、一筋の青白い光が空に向かって伸びている。それをドラマは、主人公の魂だと言いたいのだろうと、美由紀は感じたのだった。

 美由紀は、そのドラマを思い出したのだが、ドラマそのものに関しては、実はずっと忘れていた。いつこのドラマを見たのか、子供の頃だったのか、大人になってからだったのか覚えていない。それなのに、記憶として残っているのは、子供の目として見たことだった。

 美由紀は、このドラマのことを忘れていた。元々この夢を見た時も、

「同じシチュエーションにならないと、思い出せる夢ではないわ」

 と、感じていた。

 ただ、その中で記憶に残っていたのが、「自殺菌」という発想だった。

 このドラマを見た時、テーマが何なのか分からなかった。今でも分かっていないのだが、自殺菌がテーマなのか、それとも幽霊列車がテーマなのか分からない。登場人物も異常に少なく、

「ドラマとして成立するのかしら?」

 と思ったほどだ。

「製作費にあまりお金がかからないかも知れないわね」

 とも、感じたが、それはまさしくその通りかも知れない。

 ただ、自殺菌というイメージが残っていたのは、それから少しして、美由紀は学校の帰り道、大きな交通事故を見たことがあったからだ。

 交通事故を見た時、美由紀はすぐに、

「自殺だわ」

 と思った。

「どうして、現場も見ていないのに、そう思うの?」

 友達から言われたが、自殺であることに関しては。美由紀には自信があった。それは根拠のない自信なので、どうしてかと聞かれれば、ハッキリと答えるのは不可能だった。

 ただ、美由紀の頭の中にあったのが「自殺菌」だったのだ。

 友達に、

「自殺菌を感じたから」

 と言って、信じてもらえるはずもない。何とかその場はごまかしたが、実際にあとから聞いてみると、自殺だったらしい。

 悲惨な現場を見ると、二、三日食事が喉を通らなかったくらいで、

「見るんじゃなかった」

 と思ったが、見てしまったものは仕方がない。

 想像を絶する惨状は、美由紀の中で、さらに自殺を感じさせた。そして自分の中にある何かムズムズするものを感じさせた。それが自殺菌だと知ったのは、それから、またしばらくしてからのことだった。

 美由紀の前で、また自殺者がいた。

 今度は、本当に美由紀の目の前で電車に飛び込んだ人だったが、それは夢だった。いつも乗る電車をホームで待っていると、隣のホームから、一人の女性が飛び込んだ。

 夢の中では美由紀はその人をずっと意識していた。飛び降りる感じがあったからだが、実際に飛び込んだのを見たのは夢の中だったのである。

 なぜハッキリと夢だと覚えているかというのは、次の日に美由紀は駅で彼女の姿を見たからだ。だから夢だと思ったのだが、それが、彼女を見た人間の最後になろうなどと、想像もしていなかったのだ。

 その人を見た時も、

「これは自殺菌の仕業だ」

 と思った。思ったが、もちろん、誰にも言わなかった。言えば、自殺菌は今度は美由紀自身に取りついてくるように思えたからだ。

 美由紀は、自殺菌の話を誰にもせずにいたが、この時は、誰かに喋ってしまいたいという衝動に駆られていた。誰にもしてはいけないという思いと、話してしまいたいという心の葛藤がジレンマとなって襲い掛かり、美由紀を苦しめた。自殺菌のことを思えているのはそのせいだろう。

 その時の女性の顔を美由紀は、ハッキリと見た。

 だが、その顔を思い出すことはずっとなかったのだ。それなのに、美由紀が昨日見たという電車の中の夢、それが、その時の女性の顔だったのだ。

 美由紀は人の顔を記憶することに関しては、極端だった。すぐに忘れてしまう人と、ずっと忘れない人とがいる。しかし数的にはすぐに忘れてしまう方が圧倒的であり、その意識が、記憶力の悪さを自覚させることになっていたのだ。

 自殺菌と、夢の中に出てきた女性。この二つがいかな結びつきを持っているのかが、美由紀には分からなかった。ただ、どちらも印象深かったのだから、覚えていても当然ではあった。

 しかも、女性の顔は、一瞬しか見ていない。一瞬だっただけに、忘れたくないと思えば、必死で頭に植え付けようとするだろう。表情が一つだということは、それだけ覚えておくには、都合がよかったのかも知れない。

 美由紀の中で、電車、自殺菌、自殺した女性、さらに墓場のイメージは、切っても切り離せないイメージが残った。最近たくさん見る夢であったが、ハッキリ覚えている夢も、そうたくさんはない。いくつもの夢を結び付けて一つの夢として記憶させようという意識が働いているのかも知れない。

 ただ、夢の中に出てきた女性を、美由紀は以前から知っていた人のように思えた。美由紀の知っている顔の女性とは、自殺する瞬間しか知らなかったはずなのにどうしてだろう?

――ひょっとして彼女は美由紀に何かを言いたかったのではないか?

 美由紀の知らない彼女の意識が、美由紀に乗り移っているのかも知れないと思うと、美由紀は、また震えが出てきた。それは恐ろしさというよりも、興味を感じている震えであり、武者震いに近いものだったのかも知れない。

 今、会社で自殺が頻繁しているのも、何かの影響かも知れない。自殺がただの偶然ではなく、連鎖反応が引き起こすものだとすれば、自殺菌の存在も簡単に否定することはできない。

 以前から知っている人であれば、それは会社の人だったのかも知れない。偶然、似た人がいて、無意識に美由紀が、以前に見た自殺者を思い出したことで、会社の自殺者と顔がダブってしまい、いやがうえにも思い出さされてしまったのだろう。

 会社からは当然、緘口令が敷かれていた。

 もっとも知っているのは、限られた人ばかりだ。

 美由紀は、そのことをストレスとして抱えていたことは自分でも分かっていた。

「誰かに話してしまいたい」

 という気持ちがあったが、話すことで自分の立場が危うくなるのはバカみたいである。離さないことが一番いいのだろうが、黙っておくことがストレスに繋がることは、百も承知だった。

「こんな会社、辞めてしまいたい」

 自分の立場を呪った。そして自殺する人をも呪った。

「お前たちが自殺なんかするから、俺がこうやって悩まなければいけなくなるんじゃないか」

 ストレスがジレンマに変わる瞬間でもあった。

 菌が自殺に影響していると言う発想は、あくまでも連鎖反応を起すというところから始まっている。それがたまたま美由紀の近くで続いたことで、自殺菌なる発想がもたらされたわけで、本当にどこでも、自殺は連鎖反応を引き起こすものなのであろうか。あくまでも迷信であり、都市伝説の類なのではあるまいか。

 そう思うと、「自殺菌」の発想もある意味、広がってくれば、迷信や都市伝説に、「格上げ」されるかも知れない、自殺菌は、まだまだ一個人の発想でしかなく、人に話せば嘲笑を浴びて、終わりになるだけなのかも知れない。

 昨夜の夢で、電車の中で出会った女性と、何があったか思い出そうとした。

 どうやら、またしても、淫靡な夢を見てしまったようで、目が覚めると、身体に火照りが残っていた。身体を動かそうとしているのだが、金縛りに遭ったかのように手足は痺れ、痺れは快感から来ていて、金縛りに遭ったにもかかわらず、身体とは裏腹に、神経は心地よさと、身体が受けた満足感と、それにともなっての憔悴感が、同時に沸き起こっているのを感じるのだった。

 その女は、美由紀の夢では、美由紀と以前から知り合いだった。美由紀も、そのことにまったく違和感を持っておらず、その証拠に、その時、これが夢であるなどという意識はまったくなかったのである。

 待ち合わせ場所を放課後の教室に指定してきたのは、美由紀の中で、学校の校舎が、この女のイメージだったのか、それとも、学校の校舎に淫靡なものを最初からイメージしていたのかもどちらかであろう。

 最初に待ち合わせを言い出したのは、美由紀の方だったが、場所を指定してきたのは、あの女の方だった。美由紀はなぜ、待ち合わせなどをしようとしたのか、記憶にはなかったが、きっと何か忠告のようなものをしたかったのだろう。その感情を逆手にとってか、それとも、これ幸いにと思ってか、まんまと美由紀は、嵌められたかのような感じになってしまった。

 女のことを、美由紀は、名前で呼んでいなかった。それは、相手を知ってはいるが、名前まで知らなかった証拠でもある、夢に出てくるのだから、知っているのなら、ただ知っているだけという中途半端な関係ではないと最初は思ったが、どうしても、名前を思い出すことはできなかった。

 女は、美由紀よりも若かった。その日の夢の中での美由紀は、実年齢と同じか、それに近いものだった。女は二十歳前後、美由紀のことを、

「お姉さま」

 と呼んでいた。

 美由紀は、ゾクッとしたものを感じたが、自分の中にある淫靡さのせいか、これから起こることを予感して、精神とは裏腹に、身体は何かを予感して、楽しみにしているのを感じた。

 最初は、レズビアンの気がある美由紀のことを知って、あの女は、美由紀の身体を貪ってきた。

「お姉さまの身体、こんなにも、感じやすいのね」

「あなたも、なかなかよ。ほら、ここ」

 美由紀は、女性なら誰でも感じるはずの場所をいきなり刺激した。すでにそこは固くなっていて、下着の上からでも摘まめるほどだった。舌は、乳首を捉えていたので、女は二か所を攻撃され、甘い吐息が漏れた。

「あっ」

 押し殺すような声での甘い声だったが、それは、彼女の恥じらいが強いことを示していた。ただ、恥じらいの強さだけではなく、気の強さも感じさせるものだった。美由紀は、彼女を自分が主導権を握って、精一杯に愛してあげようという気になっていたのだ。

 美由紀のレズビアンとしての考えは、基本、主導権を自分が握り、

「精一杯に愛してあげよう」

 というのが、相手に対しての基本姿勢だった。それが、美由紀の側からの「責め」の姿勢であり、責められることを予期していないものであったのだ。

 だが、あの女は、最初から自分が責めようという気持ちでいたようである。しかも、美由紀の「責め」とは、根本が違っていた。責め方の基本が、美由紀の場合、

「愛してあげる」

 だったのとは違うのだ。最初からそれ以外を頭には描いていなかったので、ビックリしたのだった。

 だが、目が覚めて、美由紀の身体から火照りが収まらなかったのは事実だった。この夢の中だけで、いろいろなことが走馬灯のように思い出され、美由紀の中での発想が、時系列を混乱させただけではなく、自分の中にある性癖に対しての考え方すらも、変えていってしまったようだ。

 女は、美由紀の身体が感じれば感じるほど柔らかくなってくることを知っていた。元々身体は柔らかい方だと思っていたが、身体から湧き出してくる愛液を感じると、美由紀は独特の匂いを発するようで、

「お姉さまの身体、酸っぱい」

「言わないで、恥かしいわ」

 美由紀が恥かしがっているのを見ると、女は淫靡な笑みを浮かべ、美由紀にアクロバットのような格好をさせた。

「あ、そんな格好」

 ここまで柔らかくなる格好をさせられて、美由紀はビックリしたが、恥かしさよりも、どうしてそんなに身体が動くのかの方が、その時は強かったように思う。

「お姉さまの身体が、こんなに柔らかいなんて、私嬉しいわ。私の身体は、本当に硬いから」

 そう言って、彼女は自分でも身体を曲げようとしたが、まったく曲がっていない。それが演技なのか、本当なのかは、美由紀には分からなかった。そんなことを考えられる余裕は、まだその時にはなかったのである。

 さらに女は美由紀の匂いに興味があるようで、恥かしい部分に舌を這わせながら、クンクンと匂いを嗅いでいる。

「いや、恥かしい」

「お姉さまは、こうされることを、本当は望んでいたんでしょう?」

 美由紀はビックリした。美由紀は、今までに夢という妄想の中で、何度かセックスをしていた。それは相手が男であることがほとんどだったが、女の時もあった。実際に待ち望んでいたのがどっちなのか分からないが、相手が男であった時、

「ああ、女がよかった」

 と思うことがあったが、逆に相手が女の時、

「男だったら、よかったのに」

 と思うことはなかったのである。

 それがなぜなのかということを、想像してみたことがあったが、それはきっと、その前に見たセックスの夢が女だったことで、もう一度女を感じたいと思ったからである。男とのセックスは、次に余韻を残すようなことはなかったが、女とのセックスの場合は、残るのだ。美由紀は自分で納得していた。

 男はセックスの中で絶頂を味わうと、そう何度も絶頂が訪れることはない。なぜなら、射精をするからだ、出してしまえば、ある程度冷静になり、冷めた気持ちになる。女が余韻に浸りたいと思っているのに、出してしまえば、さっさと服を着てしまう男もいるのは、男と女で迎える絶頂が違っているからだ。

 その点、女は絶頂を感じても、男のような射精感があるわけではない。何度でも絶頂を味わうことができるし、何よりも、絶頂に達したあとの気だるさの中で、その余韻を楽しもうとするのだった。その違いのないことが、男と女のセックスにおける絶対的な違いであって、納得できる範囲が狭いところでもある。

「セックスは、男と女の考え方、大げさに言えば生き方の縮図のようなものなのかも知れないわ」

 と、美由紀は考えるのだった。

 美由紀は、女とのセックスに溺れるのも仕方がないことだと思っていた。

「私は、知ってしまったんだわ」

 女と男のセックスの違いを知ることは、男女間のことで、今まで疑問に思ってきた違いについて、ある程度分かるようになったのではないかと思っていた。

 男が、

「女の気持ちが分からない」

 と言って悩んでいる姿は、本当なのかも知れないが、女が、

「男の気持ちが分からないわ」

 と言っている姿を見ると、中には、その言葉にウソを感じることがある。本当に分からないと思っているのなら、言葉にしないのではないかと思えるタイプの女性がいるからだ。分からないという言葉を発して、男性を安心させる。そんな女が中にはいるのだ。そしてそんな女こそ、自分で納得していることにしか発言はしない。しかも、納得していることと違うことを口走るのだ。

「相手を安心させる」

 という言葉が、その女の気持ちの中から聞こえてきそうだった。

 夜なのか、昼なのか、まったく分からない。真っ暗な部屋の中にあるベッドの中で、二つの肉体が、湿気を帯びた空気の中で蠢いている。その中で、男の切ない声と女の甘い吐息が漏れている。美由紀は、女と戯れながら、なぜか、そのシーンを頭に描いていた。

――集中できていないわけではないのに――

 女と、戯れている間に、どうして、男と女の部屋を思い浮かべるのか分からなかった。真っ暗な部屋の様子は分からない。目が慣れてくれば、そのうちに見えてくると思うのだが、一向に目が慣れてくるわけではない。

 しかし、想像だけで思いを巡らせていると、

――なんて淫靡なのかしら、こんなに興奮する想像は今までになかったことだわ――

 声が漏れてくるのを想像しながら、美由紀は女の舌に溺れていくのを感じた。

「お姉さま。ダメだよ。勝手に他のことを想像しちゃあ」

「えっ」

 美由紀は、我に返って、女の言った言葉に愕然となりながら、どうして分かったのかと思うと、頭が錯乱しそうになっていた。

 女は何でもお見通しなのだろうかと思うと、少し怖くなってきたが、女を見ていない時が自分に存在するというのが不思議だった。

 セックスをする時は、目の前の快感に集中するというのが自分の姿勢だと思っていた。また、それが相手に対しての礼儀だとも思っていたので、相手に集中することが当然で、何ら不思議に感じることなどなかった。

 だが、この女は、美由紀が自分に集中していないことを、すぐに分かった。それだけ、今美由紀が妄想したことに対して、自分では分からないほどに、表に感情が出ていたのか、それとも、この女の勘が恐ろしいほど鋭いのかのどちらかであろう。いや、そのどちらもなのかも知れない。

 そう思うと、美由紀の混乱は頂点に達した。

 しかし、それが美由紀に新たな快感を与えた。快感を味わっていると、次第に相手の女に集中してくるから、結局は帳尻があってくることになる。何もかもがシナリオ通りではないかと思うと、自分が何か見えない力に誘導されているように思えてきた。

 美由紀は女の身体から離れた。さっきまであれだけ身体が熱かったのに、汗が完全に引いていた。その代わり、残り香だけは、しっかりと感じることができた。

――これが私の匂いなのかしら?

 夢だと意識しているのに、どうして匂いを感じることができるというのだろう。夢は、無味無臭で、色すら感じないものだと思っていたが、それは勘違いなのかも知れない。思い込みという勘違いは、夢に限ってだけではないだろうが、夢が潜在意識の成せる業だとすれば、勘違いも仕方がない。それはあくまで現実社会がすべての表だと思っているからで、何かに疑いを感じたとしても、その思いが歪むことはないだろう。

「お姉さまの考えていることくらい、私には分かるわよ。だってお姉さま、私にとっては、誰よりも分かりやすいんですもの」

 と、笑みを浮かべながら、女が言った。

――分かりやすい?

 ということは、誰が見ても私は分かりやすいタイプということになる。だが、今まで分かりやすいなどと言われたことはない。むしろ、

「あなたって、何を考えているか、よく分からないわ」

 と、言われることの方が多かった。

 自分でも、まわりから見て分かりにくいタイプだと思っていたし、他人に心の奥を覗かれないように意識していたので、よく分からないと言われることに嫌な気はしなかった。それよりも分かりやすいと言われる方が美由紀としては心外だった。実際に、他の人に自分のことを分かられるのは、あまりいい傾向ではないということを、最近気にし始めたのも事実だった。

 そう思い、再度、女の言葉をもう一度反芻してみた。

「私にとっては」

 という言葉を女は発したではないか。他の人には分かりにくいタイプかも知れないが、自分にだけは分かるということを、誇張していたのだ。

 それは女が自分の価値を示したことに違いないが、それよりも、美由紀のその後の言葉も気になった。

「誰よりも」

 ということは、やはり、他の人には分からないことでも、自分には分かるという意味で、自分を誇張しながら、美由紀が気になっていることを、解消してくれたことはありがたかった。

 ただ、なぜ最近、他人に自分の気持ちを探られたくない気持ちになったのかというのは、自分でもハッキリとは分からなかった。

「お姉さん、私のことを警戒しているでしょう?」

「それはそうよ。あなたは一体誰なの?」

 と、美由紀が訊ねると、

「私はあなた自身かも知れないわね。あなたには分かっているかも知れないけど」

 女に言われて、目からウロコが落ちた気がした。

 なぜ、そのことに気付かなかったのだろう? もう一人の自分の存在を感じながら、いつも意識していたつもりだった。それは現実社会でも、夢の世界でも同じことである。それなのに、今夢とも現実ともつかない、この女と共有する世界。ここでだけもう一人の自分を意識しないということは、やはり、夢でも現実でもない世界だということだろうか。

 果たしてそんな世界が存在するのかを考えてみた。

 元々夢の世界に対しての意識は、

「現実世界以外は、すべてが夢の世界での出来事だ」

 と思っていた。

 西遊記の話の中で、夜の世界と昼の世界を支配している妖怪の話があったが、あれは、

「夜でなければ昼。昼でなければ夜」

 という発想でなければいけない。

 しかし、一日には朝もあれば、夕方もある。それをどちらかに含めるというのであれば、分からなくもないが、そうでなければかなり乱暴な考えである。あの話を読んで、誰も不思議に思わなかったのだろうか? それとも、美由紀が素直に物語を読めない性格だからであろうかと思ってしまう。

 ただ、今はその性格が幸いしているのではないかと思っていた。西遊記の話は、物語として、少々のことは物語性に沿っていれば問題ないだろう。美由紀は自分がただの揚げ足取りだと思ってしまい、苦笑してしまったが、自分のことであれば、少々のことも大きな感覚の違いなのかも知れないと思った。人それぞれに性格や考え方が違うのだ。人から見れば少々のことでも、その人にとってみれば一大事なのかも知れない。そう思うと美由紀はもう一度、現実世界と、夢の世界の狭間を考えてみた。

「夢から覚めようとする時間」

 夢は、目が覚める寸前で、瞬時に見るものだという話を聞いたことがあるが、美由紀はそれを信じている。現実世界から見れば、実に薄っぺらいもので、まるで二次元世界のように感じられ、次元の違いが、夢と現実を隔てているのではないかと思っていた。

 では、夢から覚めようとする瞬間も、別の世界だとすれば、そこも、夢や現実とは違う次元ではないかと思うのだった。

「じゃあ、四次元の世界かしら?」

 夢が二次元、現実が三次元、すると、あとは四次元だという発想も、美由紀の中ではあまり突飛だとは思えない。

 では、美由紀は今のこの女との世界をどのように思っているのか? 正直、美由紀は今の世界を、

「夢の共有」

 と思っている。

 女も実は美由紀と同じ夢を見ていて、美由紀がその女の夢に迷い込んでしまったのか、それとも、女が意識して、美由紀の夢に侵入してきたのか分からない。だが、美由紀の考えとしては、相手が美由紀の夢に侵入してきたのだと思っている。

「すると、この夢の主は、私なのかしら?」

 と、思うのだが、主導権は、侵入者に握られている。相手は、きっと何もかも承知の上で侵入してきているのだろう。そうであれば、美由紀の意志がどれほど通用するのか、分かったものではない。

 なるほど、夢だとするなら、美由紀の中にあると思っている潜在意識の範囲を、ここでは逸脱しているように思えるからだ。どのあたりが逸脱なのか分からないが、美由紀にとって一番の驚きは、女が美由紀の考えていることをすべて分かっていることだ。

「すると、羞恥を感じたり、淫乱な部分まで知られているということなの?」

 急に恥かしくなったが、もう一つ気になるのは、

「私はあなた自身。分かるでしょう?」

 と言われたことだった。

 この女が言っている美由紀自身が、この女だとすれば、「夢の共有」というのは違った発想になってくる。

 だが、美由紀にはさらに進んだ発想もあった。

「何も夢の共有が同じ時間のものだとは限らない」

 ということである。

 現実社会であるならば、確かに同じ時間でないと発想が突飛で信憑性は限りなくゼロに近いが、夢の世界となると、同じ発想でも、考え方は違ってくる。

 夢から覚める時に四次元を通るのだから、夢を共有している相手が、違う時に見た自分だとしてもおかしくはない。ただ、美由紀にかつてこのような夢を見た記憶はない。覚えていないだけなのかも知れないが、この女の存在は、自分の将来の夢なのかも知れない。そう思うと、美由紀は、「お姉さま」と呼ぶこの女の意識は、レズビアンの女方ではないかと思えた。

 だが、そのうちにこの女が豹変してくる時があった。それまで小悪魔的な笑顔を浮かべ、「お姉さま」と慕っていたはずなのに、途中から、指の動きが荒々しくなってくるのだった。

 美由紀が何度目かの絶頂に達すると、女は満足したのか、満面の笑みを浮かべたのを感じた。

 ゾッとした気持ちになった。可愛らしさの中に淫靡なイメージしかなかったのに、満足した笑顔には、男が女を支配した時の顔が浮かんでいた。

「私は、そんな顔知らないはずなのに」

 どうして、そのことが分かったのだろう。男とのセックスの中で、感じたことのない顔だった。

「元々の顔が女だからだろうか?」

 それだけ顔と表情がアンバランスで、信じられない表情になっていたということなのかも知れない。

 美由紀は、豹変した女に恐怖を感じなかったのは、女の満面の笑みに、男が女を支配した顔を感じたからであろう。

 今まで、レズビアンでも、どちらかというと男方だった美由紀だが、それは、自分が相手に合わせていたからであった。今回は、女と言っても、男に豹変するような相手だったことで、相手が女だと思っても、積極的に出ることができなかった。相手の迫力に押され、状況に任せることは最優先だと思ったのだ。

 しかも、夢の共有などという発想が出てくるに至っては、迂闊なことはできない。相手は何でも分かって行動していると思えて仕方がないので、ヘビに睨まれたカエル状態であった。

――女は、これが夢の共有だという意識があるのだろうか?

 美由紀にはあるような気がしていた。自分が夢の共有だということに気が付いたのも、女の堂々とした態度に教えられたのだろう。

 さらに女は、自分自身だと言った。美由紀とは違う世界にいて、美由紀よりもたくさん知っている部分もあれば、今の美由紀の方がたくさん知っている部分もある。夢を共有することで、お互いにメリットがあるのではないかと思えた。

 だが、逆に恐怖もある。知ってはいけないことまで知ってしまうのではないかということだ。

 たとえば未来のことである。自分が知り得ない未来のことを、あの女は知っていて、それを教えてはいけないという鉄則があり、教えてしまえばどうなるかまで知っているのだとすれば、相手も迂闊なことはできない。

 ただ、女がなぜ現れたのか、それは、今の美由紀にとって、このまま進んでしまってはいけないことがあるのではないかと思うのだ。

 また西遊記の話を思い出した。

 昼と夜の世界の話は、男女の関係とも似ているのではないか。いや、男女の関係を模倣して書いているとも考えられる。

 きっとそうだろう。

 昼と夜、どっちが男なのか分からない、ただ、すべてを昼と夜に分けることができないように、男と女も、一刀両断にすべてをどちらかに分けてしまうのは、あまりにも乱暴なことである。

 美由紀は、自分の性癖を隠さなければいけないものだと、ずっと思っていた。羞恥にまみれた、恥かしいもの。それ以外の何者でもない。

「お姉さま。あなたは、ここで私と溺れていればいいのよ。下手に現実社会に帰ったら、ロクなことがないわ」

 女のいうことは、支離滅裂に思えたが、なぜか説得力を感じる。気が付けば相手に臆してしまっている自分を何とか誤魔化さなければいけない。

「それは、どういうこと? あなたに何が分かるっていうの? 私の人生を邪魔しないでほしいわ」

 言葉は強気だが、腰が完全に引けていた。ただ、女が美由紀の人生を邪魔しようとしているのは間違いない。もし、何か美由紀に都合が悪いことが分かったとしても、それを普通に話してくれればいいものを、どうして、こんな回りくどいやり方をしなければいけないのか、理解に苦しむだけだった。

 嫌がらせにしか思えない。

 だが、美由紀に対して、どういう態度を取るのが、一番説得力のある接し方となるのだろう?

 自分でも分からない。どうされれば、相手に対して安心感と納得が得られるというのだろう。それを思うと、女の態度は強引で、苛立ちしか湧いてこないが、変に説教じみたことであれば、説得力は薄い。それこそ、白々しさしか相手に対して湧き上がってこないのではないだろうか。

 最近の自分のことを思い返してみると、どうにも掴めない雰囲気が漂っている。波乱万丈の毎日を送っていると思っているのは、ただ単に流されている毎日に対しての言い訳のように思える。

 言い訳の人生を歩んでいると、自分の性癖だけが、正直な自分を表しているようで、自分のことを好きな人ばかり想像してしまうのだ。それが自分にとって毛嫌いしている人であっても、自分を好きになってくれたのだという発想の元、まんざら嫌な気分ではなかったりする。

 迫丸もその一人だった。

 自分に悪戯をした過去があるのに、なぜか夢に見てしまう。嫌がっていても、最後には、彼に惹かれている自分に気付くのだ。

「私を好きになってくれた人は、私自身が自分のことを考えるよりも、深く私を知っているのかも知れないわ」

 と、思った。それはたくさん知っているのではなく、深く知っているのである。普通の恋愛であれば、まず深く知ることよりも、たくさん知りたいと思っている人ばかりと付き合ってきた。だが、思い出す人は、皆美由紀を深く知っているであろう人だったのだ。

「自分の知らない奥を知っている人」

 想像すると、最初に感じるのは、

「どんな形で私を愛してくれるのだろう?」

 という思いだった。自分を深く知りたいと思っている人は、美由紀を愛している人なのだ。そして、愛の形の中に、

「支配する」

 という考えが含まれている。支配には責任があり、ただ相手を蹂躙するだけではダメなのだ。自分も相手もお互いに「主従関係」として、確立していなければならない。たとえそれがアブノーマルであったとしても、お互いが納得ずくであれば、そこに存在するものは、愛情で結ばれた関係と言えるであろう。

 いつも深く考えているつもりの美由紀であったが、自分よりも深く考えている人がいると思うと、すぐに萎縮してしまう。気が強いと思っていて、他人と比較されたくないと思っているくせに、いざ比較となると、先に折れてしまうのだった。

 確かに、自分は最近、精神的におかしくなっているのではないかと思っていた。以前は妄想を恥かしいことだと思っていたのに、羞恥の気持ちはありながら、言い訳をしなくても、自分で納得できるような気がしていた。それを自分では、

「大人になったんだ」

 と思っていた。羞恥を恥かしいこととして自分で納得してしまったことは、萎縮する気持ちに拍車を掛けたのかも知れない。

 ただ、こうやって考えていくと、羞恥に繋がる発想は、果てしない。それを抑えるには、いくらか自分を強引にでも納得させなければいけないだろう。

 そんな中で、

「私は、あなた」

 と名乗る女が現れた。女は、美由紀にここに留まるようにいう。それも上から目線ではなく、美由紀をお姉さまと言って、慕っているかのようだ。

 見るからに、この女のわがままにしか見えない。美由紀を蹂躙しておきたいわけではなく、何が目的なのか分からないが、何か、美由紀の中で警鐘を鳴らしているのかも知れない。

 美由紀には、これと言って何も思いつかない。急に何かを感じ、悪い方に進むのだとすれば、自分の性癖が悪いのではないだろうか。

 美由紀は自分の性癖をかつては、どうにかしないといけないと思っていたのに、今では、甘んじて受け入れている。人に話すことはさすがにできないだけで、後は、納得しているのだ。

――一体何が違うのだろう?

 自分で納得するために、何か捨てなければいけないものがあったように思う。それが人との交わりであることに気が付いたのは、自殺菌のことを気にするようになった頃だっただろう。

 自殺菌のことを気にするようになった頃と、どっちが先だったかは定かではないが、自殺菌を気にし始めたことで、何かを捨ててしまったということだろうか。確かにあの頃は、電車の中で感じたような、不気味な感覚を夢で何度も見た気がした。動いていない電車に揺れが存在しているだけの、幽霊列車の夢から、自殺菌の発想も生まれてきたのだった。

――私が求めているのは、一体誰なんだろう?

 と、想像してみるが、ハッキリとは分からない。同じ夢を何度も見ているようなのだが、それは夢の続きのような気もする。誰かとの夢の共有であれば、続きというのも分からなくもない。だが、共有することで、自分に自由はなく、かといって、相手に自由があるわけでもない、

 一見夢の共有は、お互いにとってメリットなど何もない気がする。それは昼と夜を支配する世界のようなもので、どちらかが絶対的に支配できるというものでもないのだ。

 男の子を見ていれば、淫らな発想が過激である気がするのに対し、相手が女性であれば、淫らな発想も、禁断な果実を食べてしまったことで起こる、無理のないことだとして、納得してしまう。

 禁断な果実は、食べたものの身体を熱くして、身体中に細胞に活性化を与え、血液の流れを促進する。まるで媚薬のようなものではないか。媚薬とは違うところは、禁断の果実が、絶対的な淫乱な自分を目覚めさせるわけではないということだ。

 食べた本人には、それが禁断の果実であるという意識はない。身体が熱くなり、細胞が活性化されても、それでも自分が淫乱であるという意識はないのだ。

「禁断の果実は、夢の中でしか、効果を表さない」

 実際の禁断の果実は、現実社会にあるもので、それを口にすると、いつの間にか睡魔が襲ってきて、自分の意識が夢の中に誘われ、夢の中で身体の熱さ、細胞の活性化。血液の流れの促進を感じることになる。

 その時の夢を覚えていることはない。禁断の果実は、誰にも知られてはいけないものなので、夢から覚める時に、感覚からすべて消し去ってしまうのだ。

「消し去る意志があるのだろうか?」

 覚えていないということは、夢の中で、起きる際に消し去らなければいけないという思いが働いて、徐々に消していくものなのだろう。楽しい夢や、気になる夢を見た記憶はあっても、気が付けば忘れてしまっているということも多々あるだろう。なぜなのかといつも考えていたが最近の美由紀は、その原因を「禁断の果実」だと思うのだった。

 禁断の果実の存在に信憑性を与え、またしても、夢の中で何かを納得させようとしているのかも知れない。夢というものを見る定義として、

「言い訳を信憑性のあるものにするため、夢という曖昧な意識が有効なのだ」

 と思うようになっていた。

 美由紀は、夢を見ている時に、夢だと感じる時が、結構ある。それなのに、ただ、それも、夢から覚めて、

「夢だったんだ」

 という意識を持つだろう。

 夢だったという意識が、遡及をもたらし、夢の中でも、自分が夢を見ているという意識があったのだという、錯覚を起させるのかも知れない。遡及というのは、何かを考えていて、我に返った時に、その時に考えていることと、集中する前に考えていたことへの結びつけが困難になった時のための「辻褄合わせ」なのだろう、辻褄合わせが言い訳と結びつき、言い訳の部分が、自分にとっての淫靡な部分になるのだと思うのだった。


 昼が夜でも、夜が昼でもない世界。それが夢の世界であったが、夜の夢を見る時は、少し感覚が違っていた。

 真っ暗な中なので、夜の夢だと思っているが、本当にそうだろうか。まったく光がなく、もし、光りを発するものが目の前にあったとしても、暗黒に明るさという自由を奪われてしまう。視線を少し逸らして、横目で見れば、明るさを感じることができる。真正面で見るから、すべてのものが暗黒に感じられた。

 明るさがまったくなくなったわけではなく、目の前で意識するものだけが、暗黒に包まれていた。視界に入っているだけで、実際には意識していないものだけが、明るさを保ったままなのだ。

 真っ暗な中では、風が狭い隙間を通り抜けるような音がしていた。通り抜ける音がするのに、風を一切感じない。まるで真空状態ではないかと思わせるほどで、風を感じるとすれば、耳だけではないだろうか。

 視界の端を意識していると、格子戸のようになったところから、光が断続的に走り抜けていくのを感じた。格子戸は、京都の祇園を思わせ、高下駄を履いた舞妓さんが歩いてくるような雰囲気であった。

 暗闇で風を感じないというのは、熱気が籠って感じられる。見えないだけで、すぐそばに壁があるという圧迫感を感じさせるからだ。

 汗が滲み出す感覚は、不思議となかった。汗が吹き出せば、今度は風がなくとも、若干涼しさを感じるだろう。確かに最初は真っ赤になるほどの熱さに耐えられないくらいかも知れないが、一旦落ち着けば、あとは、涼しさを感じるだろう、体温を少し下げてくれる気がするからだ。

 熱気はすぐに解消された。さっきまでなかったはずの風を感じたからだ。風を感じると、今度は汗を掻いていた。汗を掻かなかったのは密室の恐怖に、身体が反応しなかったからかも知れない。もう少し長く続いていれば、精神的にもどうなっていたかと想像すると、ゾッとするものがあった。

「カンカンカン」

 明らかに聞き覚えのある音が聞こえてきた。

「警報機だわ」

 と、すぐに分かった。どうしてこんなところで警報機の音がしてくるのか不思議ではあったが、違和感はなかった。不思議に感じることと違和感を感じることは、決して同じではない、違和感を感じることがあっても、不思議に思わないことはたくさんあるし、不思議に思うことでも、違和感を感じないことも、少なくはないだろう。

 ただ、遮断機が下りてくる時の警報機の音は、暗闇で聞いても違和感がない。夜の踏切を想像すればいいのだろうが、暗黒の世界に似合うとは思わなかった。

 遮断機の赤い点滅の向こうには、民家から洩れてくる明かりが見えているのを想像していた。夜のしじまの中で、頭を駆け抜けるような乾いた音を轟かせ、静寂を突き抜けるように電車が通り抜けていく。

 スピードはさほど感じないが、その代わりに、重量感を感じさせる。真っ赤な点滅は血の色を思わせ、身体にゾクゾクしたものを植え付けるのは、赤い色に病院、それも手術室の前を思わせるからだった。

――手術室――

 手術中の赤い文字が点灯され、いつまでその色が消えないでいるか、ずっと見ていたことがあった。あれは、まだ子供の頃、友達が交通事故に遭った時だった。

 どれだけの時間が経ったのだろう? 赤い点灯が目に入ってから、視線を離すことができなくなってしまった。二時間、三時間、いや、そんなものではない。気が遠くなっていくのを感じ、目の前が暗くなっていき、赤い点灯が点滅に変わっていくと、自分が衝動的に何かをしようとしているのを感じた。

 その前に、深い眠りに落ちていく。手術室の前にいたと思った自分は、気が付けば、手術台の上に寝かされていた。いくつもの顔が放射状に覗き込んでくる。逃れることができないと観念した時、美由紀は、深い眠りに落ちていくのだった。

 気が付いて、すぐ目の前に飛び込んできた赤い色、それは明かりではなく、机の上に置かれた一輪のバラだった。病室のベッドの脇に、赤いバラが刺さっているのだ。

 バラに目を奪われていると、首が痛くなってきた。身体を動かすことができない。何かに縛られているような感覚だったのだ。

 それでいて、身体からは痛みを感じない。感覚がマヒしているのだ。

――自分の身体じゃないみたいだわ――

 と感じると、まだ手術の時の麻酔が完全に切れていないのに気が付いた。

 眠っていた期間が数日あったような気がしたが、実際には、半日も経っていかなったはずだ。表から日が差してくるが、それが朝日なのか夕日なのかが分からない。窓の外を見ていると、今度は首に痛みは感じない。それほど無理な姿勢ではないからだろう。

 窓の外から、電車が通る音がしてきた。駅の近くの病院かも知れない。目が覚めた時は一人だった。親も看護婦さんもいなかった。看護婦さんはちょうど席を外しているだけかも知れないが、他に誰もいないというのも、ビックリした。よほど緊急な事故にでも遭って救急病院にでも運ばれたのだろうか。美由紀は、初めて来る病院に思えて仕方がなかった。

 しばらくすると看護婦さんが戻ってきた。

「目を覚まされたようですね」

「はい、でも一体ここは?」

「ここは、中央病院よ。あなたは、交通事故に遭って、ここに運ばれてきたの」

――ああ、やはりそうなんだわ。だから、私は、手術を受けたんだ――

「そんなにひどかったんですか?」

「そんなことはないですよ。奇跡的なくらいです」

「えっ、でも手術を受けたんでしょう?」

「いいえ、そこまでひどいケガではなかったようですよ。かすり傷というほど軽いものではないですが、交通事故でこれだけで済んだのなら、奇跡に近いと思います。直接当たって、吹っ飛ばされていたらと思うと、それこそ、笑っていられなくなりますからね」

 看護婦さんは、そう言いながら笑ってはいたが、表情はこわばっているのを見ると、それが気になった。

 美由紀は、手術台の上に乗せられたまま、身動きが取れないという感覚をさっき、確かに味わった気がした。だが、今ベッドの上で、意識がハッキリしてくるにつれて、今の自分の状況が、信じられないようだった。さっき感じた痛みがまるでウソのように消えていた。悪い夢でも見ているかのような感覚だ。

――こんな夢なら、早く覚めてほしい――

 と思うのだった。

 さっきまで、少し日が差すと思っていたら、もう表は暗くなっていた。さっきの日差しは西日だったのだ。

 西日に照らされた部屋は、まだ意識がハッキリしなかったのか、朦朧として見えていたが、今部屋の中は、明かりだけでもハッキリと見ることができる。

 じっと見ていても、時間の流れを感じることができるものは、もうどこにもない。窓の外は真っ暗で、それ以上暗くも明るくもならないのだ。部屋の中は薄暗く、最初はジメジメしている感覚があったが、それも次第に慣れてきたのか、落ち着ける環境に整ってきたようだ。

 確かに看護婦が言ったように、大したことはなかったのか、痛みもほとんど感じない。手術台の上の記憶が生々しかったのは、最初だけのこと、今は記憶も薄れかけていた。

 美由紀は、子供の頃、盲腸の手術を受けたことがあった。あの時の記憶は時々思い出すことがある、リアルな記憶であり、思い出しただけで気持ち悪くなるほどだった。それでも痛かったという記憶ではなく、手術台というものと、匂いに気持ち悪さを感じたのだ。その時にテレビドラマで見た手術の光景が頭にあったのも、気持ち悪さを誘発させる原因にもなっていた。手術が終わると、安心したのか、意識が朦朧とし、そのまま意識を失ったようだ。目が覚めてからは、ウソのように手術のイメージは頭から消えていた。それでも思い出した時は。よりリアルなものであり、そのギャップがまた、美由紀の中でなかなかインパクトの強い記憶として頭の中に残ってしまったようだ。

 美由紀はそのまま眠ってしまった。

 その時の美由紀は、意識として、

「縛られている」

 という思いを強く持っていたのである。

 普段と違うベッドに寝たのも、おかしな妄想を掻きたてるに十分だったのだろうか。

 その時の夢は以前に見たことがあると思える夢で、出てきた相手は迫丸だった。美由紀に対して悪戯している。動けないのをいいことに、ベッドの蒲団をまくると、そこには縛られて動けない美由紀が横たわっている。

 恐怖に歪む目が生々しい。

「お前のそんな目が俺の興奮を掻きたてるのさ。もっと怯えるんだ」

 と言っている。

 ただ、声に出して喋っているわけではなく、動いている口を見て、何を言っているのか判断している。次の瞬間に思い出せば、声を聞いたような気がするくらいに、聞こえてくる感覚は自然だった。

 迫丸の悪戯が、蹂躙されている美由紀に、過剰反応を与える。羞恥で顔が真っ赤になるが、それがさっき感じた風がない時に真っ赤に火照ってしまう感覚に似ていた。あの時は、何ら感じるものはなかった。肌に触るものは、風すらなかったのだ。

 鳥肌を立てながら、寒さに震えている身体の箇所もあった。それは一つではなく、ある一帯に集中しているのだが、そこが、敏感な場所であることを知っている美由紀は、震えながら、まだマヒしない感覚が、次第に快感に変わってくるのを感じた。

 その部分を迫丸は知っているようだ。最初は、その部分を避けるように指を這わせている。

――あぁ、焦らさないで――

 心で叫びながら、目は訴えている。きっと迫丸の目には、辛そうな表情に対し、さらに苛めたい気分にさせられるものが宿っているに違いない。

 美由紀の目は、間違いなく男を求めている。それが迫丸なのか、男なら誰でもいいのか。元々美由紀は自分がレズビアンだと思っているので、男なら誰でもいいと思うのではないかと感じ、好きな人ができるはずはないという思いから、多分男なら誰でもいいと感じるのではないかと思っていた。

 指が敏感な部分に届き、身体がとろけそうな快感に蝕まれそうになった時、

――このまま、どうなってもいい――

 と感じたのであろう。一気に冷めてくる感覚を覚え、その感覚が眠りから覚まさせることになろうとは、思ってもみなかった。

 目が覚めるまでの間が、いつもより長かった。何度も夢と現実の間を行ったり来たりしていたような気がした。

 一度は、目が覚めたつもりで起き上がろうとするのに、身体を動かすことができなかった。後ろを振り向くと、迫丸が身体を抑えていて、蹂躙を楽しんでいるかのような顔に笑みを浮かべ、口が耳元まで裂けているのではないかと思うほど不気味な表情だった。

 現実にはありえない男が目の前にいる。

――まだ、夢から覚めないの?

 と思いながら、また意識が朦朧とし、夢の中に落ちていく自分を感じた。しかし、堕ちていくのは夢ではなく、やはり同じ場所で目を覚ました。

――今度こそ――

 と思い身体を起こすと、今度は何とか起き上がることができた。

 しかし、病院のベッドの横に座っている看護婦の表情が、またしても口元が耳まで裂けているほどの気持ち悪いものだった。

――いつになったら、目が覚めるの?

 美由紀は夢の中で彷徨っているつもりだったが、そうではない。堂々巡りを繰り返しているわけではなく、現実を錯覚で見てしまっているのかも知れないと思った。やっと目が覚めた光景は、先ほどの病室と同じだったからだ。

 今度は、看護婦の顔に歪みは一切なく、普通の笑顔だった。さっきの恐ろしい表情を思い浮かべてしまうのではないかと思ったが、そんなことはなかった。

――もう二度と恐ろしい顔を思い出すことなどない――

 確証もないのに、どこからそんな自信が生まれてくるのか、自分でも分からなかった。ただ、さっき見たはずの恐ろしい顔を、もうその時点で思い出せなかったからである。恐怖に歪んだ顔を、美由紀はその時に思い浮かべていたに違いない。

 美由紀は、病院のベッドであおむけになり、じっと考えていた。

 いろいろな思い出が走馬灯のように駆け巡っているのが分かる。天井の格子状になった模様を見ていると、次第にその時々が自分にとって何だったのかを考えさせられた。

 思い出に浸りながら、頭では、自殺菌のことが、なぜか頭に浮かんできた。

――自殺したいなんて考えたことなどないのに――

 それは今でも同じことである。

 自殺を考えたこともない人間が、なぜ自殺菌がそんなに気になるというのか? 確かに興味深い話ではあるが、あまり深く考えたくないことでもあった。一時期、美由紀のまわりに自殺者が多いこともあったし、実際に自殺と思しきものを見たこともあった。

 電車の中に乗ると、特にそれを感じる。

「人身事故が発生し、列車が運転を見合わせております」

 などというアナウンスを何度聞いたことか、しかも何日も続くのだ。

 そのことが自殺の連鎖反応を感じさせ、自殺菌という発想を思い浮かばせることになるのだ。

 入院している病院で、ベッドで寝ている時に、時々、強烈な臭いを感じることがある。それが麻酔の臭いだと、美由紀はしばらく知らなかった。

 身体に注射する麻酔ではなく、クロロフォルムのように綿に沁みこませて嗅がせるものが臭ってくるのだ。

 嗅いだ瞬間に、意識が朦朧としてきたが、すぐに気を取り直すと、気を失うほどのものではなかった。直接嗅がされたものであるなら、気を失っても仕方がないが、臭いを感じるという程度では、そこまでには至らない。

 美由紀は、以前にその臭いを強烈に嗅がされた記憶がある。相手は誰か分からないが、気が付けば、身体を縛られて、寝かされていた。

 まるでさっきの夢のようである。

 夢を見るのは、潜在意識が見せるものであるのだから、臭いを通じて思い出した記憶の中で、よみがえったものだったのだ。

 ただ、実際にそんな恐怖の体験をしたにも関わらず、さほど記憶の中で恐ろしいという記憶ではなかった。

 確かに蹂躙されて、何をされたのかを思えば、恐怖の記憶なのだが、その一方で、甘い記憶としての意識があるのだ。

 何をされたのか、思い出すことはできなくもないが、思い出したくはなかった。それは恐怖が先に立つからではなく、自分の性癖をさらに思い知らされることを嫌っての意識だった。

 夢を見ることで現実の記憶を思い出し。頭が錯乱してしまった。

 目が覚めるまでに夢と現実を行ったり来たりしていたという思いは、ここにあったのだ。目が覚めてからも、まだ夢の中にいるような意識は今までにもあったが、夢の続きなのか現実なのかがハッキリしないというのは、今までにあまり感じたことのない意識だったのだ。

 過去の現実の記憶、今の夢で見た意識、この二つが微妙に入り食っている。記憶と意識はそれぞれ交錯し、夢から覚める過程で、何かを感じさせて、消えていく。感じたものが、それぞれの場面で同じであれば、目が覚めても覚えていることがあるのだろうが、ほとんどの場合は違っているのか、その都度感じても次の瞬間には、消えていくのである。

 麻酔の臭いを嗅ぐと、ケガをした瞬間を思い出す。その時は、石の臭いを感じたつもりだった。あるいは、雨が降る前のアスファルトの上を歩いている時に感じる。石のような嫌な臭いである。急に鼻の通りがよくなったかと思うと、嫌な予感が一瞬頭を巡る、次の瞬間には、身体全体に痛みを感じ、ケガをしているのを感じる。その間、息ができないほどの痛みが襲ってくるが、その時に感じた臭いが、麻酔の臭いを想像させるというのも、何かの偶然であろうか。

 美由紀は小学生の頃、よくケガをしたものだ。ほとんどが自分の不注意から起こったことであるが、痛みはいつも同じものであった。ケガの大きさの如何に関わらず、美由紀にとって思い出す記憶は、いつも同じ「臭い」だったのだ。

 病院に行って同じ臭いを嗅ぐことになるが、病院が嫌いになったのは、それからだった。治療の痛みよりも臭いの方が恐ろしい。この意識は今までに誰にも話したことはなかった。

 夢とも現実ともつかない意識の中で、窓の外を意識していると、真っ暗な中に赤い色が見えてきた。鮮明な色ではなく、黒味の帯びた赤であった。しかし、赤い色が支配している範囲は、暗さを感じさせる赤い色であるにも関わらず、自分が感じている色は、思ったよりも広い範囲に感じられた。

――それだけ表が暗いということかしら?

 「カンカンカン」

 またしても響いてくる遮断機が下りる時の警報機の音、すると赤い色は、踏切の明かりであろうか? そのわりには点滅していなかったのが、不思議だった。

 警報機の音が少し小さくなったが、遮断機が下りてきた証拠だろう。しばらくすると列車が通過する音が聞こえ、またすぐに静寂が戻ってくる。

 美由紀は、起きているうちに同じ感覚を何度味わっただろうか。その日はベッドの上で、いつもであれば、いろいろと考えているはずなのに、何も考えることができずに、意識は表の遮断機と警報機に集中していた。電車の通過がいつもよりも頻繁に思えたのは、それだけ普段いろいろ考えている頭が空っぽになると、空白を作らないようにと考えながら、その分、時間が短縮されて感じるのかも知れない。

 美由紀が、夢か現実か分からない感覚に陥ったのは、それだけ意識は眠たいと思っているからで、眠たいのに眠れない状態は気持ち悪いもので、しかも睡魔は断続的に襲ってきて、その波に乗って眠れれば、その後は熟睡できるに違いないと思えるだけに、波に乗り遅れて眠れない状態になっている自分が口惜しかった。

 ベッドで寝ていても、まだ腰が痛くなる年でもないのに、その日は、腰に違和感があった。それも、意識が戻った瞬間から、ずっと気になっていたことだった。

 ひょっとして、交通事故に遭って、急遽搬送され、すぐにベッドに寝かされたことで、昨日今日のことだと思っていたが、実際には意識を失っていた期間が、かなり長かったのかも知れない。

 そういえば、看護婦の様子も少しおかしかった。何かを隠しているように思えたが、それだけではなく、少し安堵な雰囲気があったからだ。何かを隠しているのに安堵な雰囲気が漂っているというのは、少しアンバランスなイメージだが、美由紀はそのアンバランスさを最初から意識していて、不思議に感じていたのだ。

「もし、このまま目が覚めなかったら」

 などと思っていたのかも知れない。

 病院に運ばれた時、錯乱状態で、鎮静剤に睡眠薬を混ぜて、注射か何かをしたのかも知れない。そう思うと、納得のいかない場面もあるが、看護婦さんのアンバランスな雰囲気も分かるというものだった。

 美由紀にとって、入院は初めてではなかったが、子供の頃と違って、病院も綺麗になった。設備も充実しているのだろう。そのわりに孤独感を感じるのが、美由紀の中で寂しさがあった。

――もう少し素直だったら、寂しい思いをせずに済んだのかな?

 とも思ったが、人に対して強情なところがあり、自分に対しても納得のいかないことへのシビアな態度が、自分の気持ちを頑なにしているのだろうと思っていた。

 寂しさは自分の気持ちを反映していて、今の自分の中で一番強い感情なのだと、美由紀は感じていた。寂しさを感じることは、しょうがないことだとして片づけるのは簡単だが、病院のベッドの中で考えることができれば、いい機会だと思っていたのに、なぜか、ベッドの上での思考能力は、無に近かった。

 踏切の音を聞いていると、また麻酔に掛かったように意識が朦朧としてきた。そして、次に目を覚ました時、美由紀は自分の顔に違和感があることを感じていた。

「何か布のようなもので縛られているようだわ」

 それが包帯で、顔全体に巻かれていて、まるでミイラのようにまわりから見えるであろうと思うと恐ろしかった。自分で想像しただけで気持ち悪い。ただ、これも初めて感じる感覚ではなかったように思う。だからこそ、すぐにそれが包帯だと分かり、それと同時に、包帯であることが間違いであってほしいと思ったのだ。

 美由紀が盲腸で入院した時、顔全体とまでは行かないが、頭全体と、半分の目を覆い隠すほどの包帯を巻いている人を見たことがあった。

 気持ち悪さが意識の中に残り、その数年後に見たテレビドラマで、今度は顔全体を、包帯でグルグル巻きにされた人の姿を見た。まるでミイラ男のようだと思ったが、その人は女性だった。

 彼女は、別にケガをしたわけではない。整形手術を顔全体に施していて、大きな手術の後だったのだ。

 美しくなりたいという一心から、一生懸命にお金を溜めて、整形手術を受ける。だが、名医と言われていた医者の医療ミスで、彼女は、包帯を取ることができなくなってしまった。

「包帯を取るまでには、まだまだ時間が掛かります」

 と患者には時間稼ぎをしたが、あまり長いと、いくら何でも疑うものである。信じられなくなった彼女は医者の前で包帯を取ると、その顔はどこも傷ついているわけではなく、彼女の中では十分合格と言えるほどの顔に作り変えていたのだ。

 彼女とすれば、

「手術が成功したのに、どうして、そんなに包帯を取らせたくなかったのだろう?」

 と思うことだろう。

 だが、医者としては、絶対に見たくない顔だった。いや、医者としてというよりも男としてなのかも知れない。

 医者はうろたえた。分かっていたつもりではあったが、目の当たりにすると、恐ろしくて声も出ない。

「先生、ありがとうございます。こんなに綺麗な顔に仕上げてくれて、私嬉しいです」

 と女が医者に近づくと、医者は、手で虚空を掻きまわすようにしながら、

「寄るな」

 とでも言いたげに、手を闇雲に振っている。明らかに行動が常軌を逸していた。

「どうしたんですか? こんなに綺麗なのに、どうして、すぐに教えてくれなかったんですか?」

 女が歩み寄ると、医者は、さらに狂気の沙汰で怯えまくる。声を出そうにも出ないのか、しきりに首を抑えて、苦悶の表情を浮かべる。

 女には、何が何だか分からない。

 すると女が急に苦しみ出す。

 顔を抑えて、

「熱い、顔が熱い。先生、これどういうことなの?」

 業火に焼かれているかのように苦しみだした女を見て、医者は、今度は怯えというよりも、冷静さが少し戻ってきたが、同じ冷静さでも狂気に満ちた冷静さだった。

 女が苦しんでいる顔を見て、医者は微笑んでいる。

「燃えろ。このまま燃えてしまえ」

 とでも、言っているかのような表情は、まるで魂を悪魔にでも売ってしまったかのように狂気に満ちていた。

 真っ赤な炎が次第に青白く変わってくる。それは男の気持ちを表しているかのようで、静かに冷たく燃えていた。

 女が絶命すると、その顔には、やけどの跡ではなく、無残な切り傷に、ところどころが化膿している、実に醜い顔だった。

 本当は、手術の失敗による顔なので、最後の顔が彼女の本当の顔なのだろうが、実は以前にこの医者は、同じ医療ミスを犯している。その時の相手が自分の好きなタイプの女性で、心の中で、

「どうして、その顔を変えてしまうんだ。俺にとっては最愛の顔なのに」

 と、思った。その気持ちが、医者に医療ミスを起こさせたのだ。

 医者の気持ちも分からなくもない。もちろん、被害に遭った女性が一番気の毒だ。ドラマを見ていて、どちらの気持ちも分かった美由紀は、その切なさに、無常を感じた。

 医者は、それでも医療ミスを何とか隠し、そのまま医者として君臨していた。そのことを罰するような意味でのドラマなのだろう。

 だが、美由紀は無常と切なさをドラマの中に感じ、しかもその時に、自分が二人目の被害者になった気分になっていた。結局最後は、皆死んでしまった。最初の医療ミスは自殺だった。それは分かるのだが、不思議なことに、二度目の医療ミス、そして、医者の発狂したかのような乱行はすべて表に出ることはなかった。

 ドラマの最後としては、医者も、最後の患者も、自殺ということだった。しかも、二人は以前から関係があり、無理心中だったという話で終わっていた。

 ただ、事実として、医者と患者が深い関係にあったというのは立証されたという。

「包帯の中の女が私をイメージして見てしまったのは、医者と女が深い仲で、ドラマとしては、女が宙に浮いていたことで、感じたことだったのかも知れないわ」

 美由紀は、ドラマを見ていて、すぐに自分をドラマの中に当てはめる傾向にあった。その時のイメージがなぜ今頃になって思い出すのか、分からなかった。美由紀には、ドラマの最後が、全員自殺だったというのも、気になっていた。ひょっとして、二人が自殺だったというのも、作者に「自殺菌」なる発想があったのではないかと思えてならない。大っぴらに自殺菌を表に出しても、子供じみた考えになるだろうと思い、ドラマでは最後を自殺として結ぶことで、自分の中にある発想を書き出したかったのかも知れない。

「作者は、今元気でいるのだろうか?」

 自殺菌を含ませてはいても表に出してしまったのだから、ひょっとすると、毒気にやられてしまっているのではないかと考えるのだ。

 ドラマを見てからしばらく経って、ドラマを思い出したことがあった。

 あれは、自分が些細なことで喧嘩したことが原因で、自殺を考えた時だ。今から思えば、どうして自殺など考えたのか分からないが、無性に寂しさを覚えたのだろう。その時にドラマを思い出したことで、ハッとして自殺を思いとどまったのだ。

 自殺しようと考えてしまったのも自殺菌のせい、それを思いとどまらせようと何かの力が働いたのだろうが、美由紀にはそれも自殺菌だったのではないかと思えた。自殺菌の中で葛藤があるのか、それとも自殺菌の中に、二つの性質があるのか、そんなことを考えていると、自殺を思いとどまった自分が不思議に思わなかったのだ。

 もし、自分の中に自殺菌がいるとすれば、これからも何度か自殺しようと思うかも知れない。しかし、そのたびに止めてくれる菌もいる。

「ひょっとすると、自殺菌は誰の中にもいて、自殺しようと思う気持ち、そして、それを止めようとする気持ちの均衡が取れていることで、自殺などという発想が生まれてこないのではないか。誰にでも自殺という危険が背中合わせにあり。それをしないのは、理性としての菌がいるからなのかも知れない」

 突飛な発想であることは分かっているが、ドラマを見て自分で感じたこと、そして、定期的にドラマを思い出すことがあったり、時々自殺したいという気持ちになったりすることがある。だが、自殺したいと思った気持ちは、すぐに、何事もなかったかのように消え去る。考えたことすら、夢であったかのように、現実的な思いとして残っていないのだった。

 美由紀は、自分がレズビアンであることを思い出した。その時に、一緒に感じたのが、ドラマで見た、医者と最初の患者の関係だった。

 患者は、医者にとってどんな関係だったのか曖昧だったが。医者にとっては、彼女のことをいとおしいと思い、顔を変えなければいけない自分にジレンマを感じていた。そこで起こした医療ミス。他の人が見れば、どう感じるだろう。

 美由紀は、この医者の気持ちも分かるのだ。自分が同じ目に合えば許せないのだろうがどうしても、この医者を憎むことはできなかった。実に身勝手な考えである。

 レズビアンというのは、この医者のようなものではないかと思うようになった。自分の中でどうしようもない性格を抱えていることを普段から自覚していて、それを表に出さないようにしようとしている。それが「羞恥」の気持ちなのだ。だが、どうしようもなくなって、本性を表すと、そこにはすでに「羞恥」は消えている。それが美由紀の中での葛藤となって自らを苦しめているのだ。

 どちらの気持ちも分かるということは、却って、どちらかに気持ちを集中させないと、意識が分散してしまって、どちらも理解できなくなりそうに思う。自分の両の手の平で、片方が熱く、片方が冷たかった場合に手を握り合わせた時、冷たい方を感じるか、熱い方を感じるかというと、たぶん、意識が分散してしまって、どちらも感じることができないだろう。よほどどちらかに集中しないといけないと思っても、なかなか難しい。何しろ、どちらも自分の手だからである。

 美由紀がレズビアンに溺れている時、普段は感じるはずのお互いの気持ちを急に感じることができなくなる時がある。そんな時は自分が我に返っている時だということを今までは分からなかった。それが分かるようになったのは、この医者のイメージが、いまだに自分の中に残っていることを悟ってからのことだっただろう。

 この医者は、自分の願望と、仕事との葛藤から、自分の願望を捨てきれず、自分に負けてしまった。誰もがそう思うかも知れない。

 だが、美由紀は同情的な目を拭うことはできない。その気持ちがある限り、自分にも同じことが起こり得る。しかも、レズビアンというのが、欲望の固まりだと思っていることで、自分の性癖に対して、自分自身の嫌悪感を拭い去ることはできないでいた。その反面、本能には逆らえない、そして、本能に身を任せることを自分で納得している。そんな矛盾にも似た考えが、自分の中で葛藤していたのだ。

 美由紀に対して、以前レズビアンを感じていた女性がいて、美由紀もレズビアンでしか分からない感覚を感じ取ることで、相手とアイコンタクトを取っていたことがあったが、初めて話をした時、話が盛り上がったのを覚えている。

 お互いに、求めているものが似ていたのだ。

 それまでに相手をしたレズビアンの相手に、求めているものを感じさせることはなかった。ただ、欲望に溺れるだけでよかった。その時さえよければそれでよかったのだ。

 だが、その女性には、レズビアンに対して、それなりの考えがあったようだ。ただ溺れるだけではなく、自分たちの行動が、いかにまわりに影響があるかということも考えながら、まわりを見ていた。

「それが羞恥に繋がるのよ。そして、私たちだけの世界を確立しているって、実感できたりもするでしょう?」

 人が見て、悪い方に感じるようなことでも、なるべくいい方に結びつけようと考える。それが彼女のいいところであった。そして、その考えが、美由紀の目からウロコを落とさせたのだ。

 手術を受けたわけでもないのに、手術を受けた感覚がある。しかも、顔に包帯がグルグル巻きになっている感覚があるということは、まるで整形手術を受けた後のようではないか。

 美由紀は自分の顔を思い出してみた。鏡を見ない限り、自分の顔を確認することなどできないが、普段からあまり鏡を見ない美由紀は、思い出そうとすると、自分の顔を思い出すことができないことが往々にしてあった。

 その時も思い出せなかった。

 まわりがどんなに明るくても、自分の顔だけが黒くぼやけている。まるでのっぺらぼうが現れるのではないかと思うほどのシチュエーションに、口元が歪んでいるのを感じる。美由紀には相手の顔が分からない時、相手は必ず不気味に笑っている姿を思い起こしてしまうことを自覚しているのだった。

 白い包帯の中の顔が、本当に自分の知っている自分の顔なのかどうか、疑う気持ちになっていた。自分の顔であることに間違いはないのだろうが、自分の顔ではないとするならば、自分の知っている顔なのか、知らない顔なのか、どちらなのだろうかと考えていたのだ。

 知らない顔である方が、いくらか気が楽である。もしそれが知っている人の顔であるならば、きっと背筋が凍るほど、不気味な気持ちになることだろう。

「この人は、一体どれほど私と関係があるというのか」

 と考えてしまうからだ。

 美由紀は、もし、その顔が知っている人なら、誰なのかという想像が、まったくつかなかったからである。

 美由紀独自の考え方である「夢の共有」を思い出した。もし、誰かが自分と同じ夢を見ているのだとすれば、相手も美由紀の顔を見ているはずだ。そして、本当に美由紀の普段の顔を見ているのかというと疑問である。美由紀も相手の顔を最初から自信を持って見ているわけではないからだ。

 相手の顔を確認できないことで、相手が何を考えているか、分かる気がした。もし、相手の顔を確認できるとすると、どうしても相手の顔を見てしまい、表情で相手が何を考えているか、想像してしまうのだ。

 相手は、なるべく、考えていることを悟られないようにするだろう。それが人間の本能であり、本当に知ってほしいことであれば、言葉にして説明するはずだからである。それをしないということは、美由紀に対して心を開いていないということであり、顔を見た瞬間に、何を考えているか、分からない道を選ぶことになるのだ。

 一度言葉に出して、会話をすれば、お互いに気持ちが通じ合ったと感じ、次からは、表情でも相手に説得力を与えることになるだろう。その思いがコミュニケーションというもので、気心が知れれば、暗黙の了解という考えが、二人の間に発生するのである。

 ただ、美由紀が入院しているのは、夢でも何でもなく、事実のようだ。皆、詳しいことは話してくれないが、気になるのは、やはり親がそこにいないことだ。

 親との確執は、親も気づいてはいるかも知れないが、それほど表に出しているわけではない。美由紀の中で密かに恨みのように燃えているだけだ。だから、交通事故に遭ったというのであれば、心配してきてくれるものだと思っていたが、あまりにも冷たいではないか。

 ただ、それも、看護婦さんの言葉を鵜呑みにした場合のことであって、美由紀にはまだまだ信じられないところがいくつもある。看護婦さんに対して何を聞いていいのか、いっぱいありすぎて分からなくなってはいるが、それにしても、看護婦さんの方から話してくれる情報があまりにも少ないのだ。

――何も言うなと、言われているのだろうか?

 という疑問が湧いて出ても不思議はない。自分でさえも、まるで夢を見ているようだと思ったからである。部屋を出ることもままならない状態で、次第に自分のいる場所がどこなのか、漠然としていたさっきよりも、今の方が知りたくてたまらなくなっているようだ。今頃になって、部屋の狭さを痛感している美由紀だった。

 美由紀が入院して、三日が経った。部屋から出ることはできるが、遠くには行けないようになっている。ナースセンターの前を通りすぎようとすると、看護婦さんに止められた。

「どこに行くんですか?」

「体調がいいので、少し散歩をと思って」

「あまり遠くに行ってもらっては困ります」

 と言って、三日目になってやっと通してくれた。それまでは、ナースセンターの前から先に行くことは許されなかった。大した病気でもないのにおかしなことだった。

 その日、美由紀は表に出てみた。表に出て愕然としたのだが、病院の表に出るには、警備員が見張っている門を抜けないと出ることはできない。警棒を腰に提げ、さらに、獰猛な犬を連れている。

「これじゃあ、まるで監獄じゃないの」

 壁はかなり高く頑丈に作られていて、表に出るのは、ほぼ不可能だった。

「どうして、こんな?」

 美由紀は他の入院患者と会ったこともない。看護婦数人と、主治医と名乗る男性の先生一人以外とは、誰とも会っていない。

「やはり私は、何かの病気でここに連れてこられ、知らない間に、実験材料にでもされるのではないか」

 と思うほどだった。

「ここはどこなんですか? 私は一体」

 と、看護婦に詰め寄ったが、誰も何も答えてくれない。どうやら聞いても同じようだった。

 一人ベッドに横になり、いろいろ考えてみた。入院する理由など何もない。なぜ、こんなところにいるのだろう? 大体、ここは一体どこだというのだ。美由紀の頭の混乱は収まるわけはなかった。

「どうだね。具合は」

 そこへ医者が入ってきた。もう何も話す気にはなれなかった。何を聞いても答えてくれるはずもないし、興奮するだけ、相手の思うツボだと思ったからだ。

 医者は、まだニコニコ笑っている。その笑顔に美由紀がゾッとしたものを感じたのである。

 美由紀は、完全に開き直っていた。誰に対しても、何も言わないようにしようと思った。だが、美由紀の性格は、熱しやすく冷めやすい方だったので、開き直りもそう長くは続かない。

 今度は、鬱状態が襲ってきた。それまでと同じようにまったく無口で何も言わなかったが、明らかに態度は違っていたはずだ。さっきまでは、相手を寄せ付けないような敵対した表情だったが、今度は無表情になっていることだろう。だが、相手を寄せ付けないという意味では、無表情の方が、効果はあるのかも知れない。

 ただ、ここではどうなのだろう? すべてが美由紀の想像を絶するような状況に、臆しているわけではないのだが、ついていくことができない。

「どうやら、まだ、落ち着いていないようだね」

 何を言っているのだろう。これ以上落ち着いたような表情はないはずだ。

 無感情ほど、相手に気持ちを悟られないようにできるはずだ。無表情になることには慣れていたので、きっと効果があるだろう。そう思うと、少し自分にも優位性があるような気がして、少し余裕が出てきた気がした。

 だが、しょせんはベッドの上、逃れることのできない「まな板の鯉」だった。無表情で対応しようとしても、相手は笑顔しか見せない。その奥には、

「そんなに気張っても無駄だよ。私たちは君のことは何だって知っているんだ」

 と、言っているのと同じにしか聞こえなかった。

 お釈迦様の手の平で弄ばれる孫悟空を思い出した。

「そんなにお前がすごいというのなら、私の手の平から抜けてごらんなさい」

 と、言われ、簡単にできると答えた孫悟空。雲に乗って一気に何千里もすっ飛んで行ったつもりで、遠くに見える五本の大きなタワーを目にした。

 これが世界の果てだと錯覚した孫悟空は、記念にサインをして帰ってくる。

「私は、世界の果てまで行ってきました」

「ほう、それはすごい。どんなところであった?」

「五本の塔が経っているところでした。行った証拠にサインも残してきましたよ」

 と、自信満々で答えるが、お釈迦様が差し出した指には、孫悟空のサインが書いてあった。

 どんなに粋がってみても、自分よりも力量の優れた相手に対抗するには、相手よりもさらに自分が精進しなければいけないということ、さらに最低でも素直でなければ、最後は自分の無力を思い知ることになるだけだということを、思い知るだけだった。

 そんな孫悟空の話を、美由紀は思い出したが、ここにいる限り、自分の意志で動くことができないようだ。

 牢獄のような建物に、知らない人ばかりがいる環境。そして、何よりも気持ち悪く思うのが、

「皆、何かを隠している」

 ということだった。夢の中では相変わらず、最初は包帯がグルグル巻きになった顔を思い浮かべてしまうが、次に感じることは、包帯を取るのが怖いと思うことだった。なぜ怖いと思うのか。どんな傷が顔にあるのか、それが怖いのか。美由紀はその次の過程を叶えることを止めた。それは、想像するだけで文字通り、自分を否定することになるからである。

「私、自殺を試みたのではないかしら?」

 と思うようになったのは、三日目からのことだった。最初にそう思うと、自殺を裏付けるような事実を、頭の中で思い浮かべようとしている。

 ただ、どうして自分が自殺しようと思ったのか分からない。不思議なことに、自分が自殺を考えたのではないかと思った瞬間から、あれだけ気にしていた自殺菌の存在が頭の中から消えていたのだ。

 再度自殺菌のことを思い出したのは、それから二、三日経ってからのことだった。いくら考えても、自殺する理由など浮かんでこない。そこで、考え方を少し変えてみたのだった。

 一つのことを考え始めると、性格と同じで、猪突猛進。他に疑うことを知らなかった。それだけ自殺ということに対して、自分にはあり得ないことだという意識が離れず、信じられないという思い以外、思い浮かぶことはなかったのだ。それが急に自殺菌を思い浮かべたということは、それだけ、もう考えるだけの力もなく、逆に考えつくしたとも言えるのだろう、

 今度は頭の中を自殺菌が漂っていて、自分が自殺菌に支配されているのではないかと思うのだった。

 支配されることに違和感は、なぜかなかった。人間から支配されることには抵抗があるが、なぜか自殺菌には抵抗感がないのだ。本当に自殺を考えたとしても、それは無理のないことであり、一思いに楽になれるのであれば、それもまた運命だとさえ思えてくる。

「この世に未練がない?」

 未練とは何だろう?

 気持ちの中に少しでも躊躇や違和感があれば、なかなか自殺などできないものだ。未練とは、自殺するにしても、乗り越えなければならない壁の一つである。

「生きていくことは自殺するより難しい。死んだ気になれば、何だってできる。自殺はいつだってできる」

 ということをよく聞くが、本当だろうか? 自殺するにも勇気がいる。実際に手首を切る人には。躊躇い傷があるというではないか。

 それこそが、この世に対しての未練ではないだろうか?

 自殺しようと思って、遺書を書いたり、身の回りのものを整理したりして、身体を綺麗にして覚悟を決めているのに、それでも、最終的に自殺を遂げられる人は、一体どれほどいるというのだろう。

 美由紀のまわりにもいるのかも知れないが、自殺ということをまわりには隠して、ハッキリしたことを言わない人もいる。全体像は見えてこないに違いない。

 手術するのに、麻酔を使うように、自殺にも麻酔のような効果のものがあれば、もっと自殺者は増えるかも知れない。自殺未遂に終わる人もいるが、死に切れずに、そのまま生きている人はどんな心境なのだろう。美由紀は、自殺に対しての「麻酔薬」が、自殺菌の正体なのではないかと思う。自殺したくない人まで、死に追いやる死神のような菌ではない。死にたいと思っている人の「願い」を叶える、いわゆる「大願成就」の菌なのではないだろうか。

 麻酔薬の類だと思うと自殺菌というものの存在も分からなくはない。入院している病院では、かなり麻酔薬の臭いがしていた。それはかつて嗅いだことのある臭いで、それがいつのことだったのか、記憶としては定かではないが、その頃から、自殺菌を意識するようになった。

 自殺菌が麻酔薬の代わりだとすれば、それは躊躇いを取り除くためのもので、存在を理解できても、どこか釈然としないものがある。

 たとえば、麻薬などのような覚醒的なものであったり、薬の中でも、タミフルのように、意識が朦朧とした中で、飛び降り自殺が増えたりするものもある。広い意味での自殺菌には、それらも含まれていると思っていいだろう。自殺を促すのは、菌だけではなく、薬にもあるのだ。

 自殺の恐怖を取り除くための薬を使うことは、それだけでも勇気のいることだ。美由紀は今までに自殺をするための理由が存在したことはなかった。辛いことがあっても、それが自殺にまで結びつくことはないと思っていた。

 今、入院している病院で、身体は次第に治ってきているのだろうが、心境の変化が訪れてきていて、感覚がマヒしていっているにも関わらず、次第に、「死」というものが近づいてきているように思えてならなかった。

 医者が一人に看護婦が数人、そして、患者は美由紀一人という不思議な病院で、病院というよりも、何かの実験室に思えた。さらに、美由紀の意識がハッキリしてくるにしたがって、病院内で、人の気配が次第に薄れてくるのを感じるのは、不思議なことだった。先生も看護婦も、本当に人間なのだろうか?

 悪い夢なら覚めてほしいと思うのだろうが、その時の美由紀は少し違った感覚を持っていた。

「悪い夢であっても、覚めてほしくないこともあるんだ。まるで、知らぬが仏とは、このことかも知れないわ」

 と思った。

 知らないことがたくさんあっても、それが幸せに思えることもある。人間、最後は誰でも死ぬのだから、どうせなら、苦しまずに死にたいと思うのが、心情というものなのかも知れない。

 死にたいと思うほど、悩むことは今までになかったが、それは、死にたいと思ってしまったら、抑えが利かなくなり、本当に自殺するのではないかと思ったからだ。幸いにもまだそこまで切羽詰った状況に陥ったことがないだけで、一歩間違えば、自殺菌の餌食になっているかも知れない。

 まわりの人は誰も自殺菌について、話をしている人はいないが、本当に誰も気づいていないのか、気付いていても、それを口にすることは、自分が自殺菌の餌食になってしまうであろう大義名分を、自殺菌に与えてしまうことになる。

 その日、美由紀は夢の中で、またしても、誰かに襲われていた。相手が男だったのか、女だったのか定かではないが、森の中に連れ込まれ、おそわれたどこかに連れ去られた。

 その時、相手は美由紀に、ふいに襲い掛かり、車の中に押し込めて、そのままどこかに連れ去った。

 目隠しをしているわけではないので、どこに着いたのかは分かったが、そこは、自分の家のすぐそばだった。

「こんなところが家の近くにあったの?」

 踏切を渡って、すぐのところの敷地内に入っていく。不思議なことに、遮断機が下りているのに、警報機の音と、真っ赤な光を感じることがなかったのだ。しかもいつの間に電車が通り過ぎたのか、急に遮断機があがり、車はそのまま通り抜けた。

 表はレンガ造りになっていて、そこには蔦が絡みついている。そんな道をしばらく走ったかと思うと、その奥にある大きな鉄の門があった。

 鉄の門が開くと、さらにその奥には警備員がいて、ゲートを通ることになった。

 そこは、昼間見た病院の入り口に酷似していた。

「まるで、男たちは、ここがどこであるか分かるように、わざと目隠しせずにつれてきたみたいだわ」

 美由紀の知りたいことを、男たちは示してくれたのだ。そう思うと、これが本当に夢なのか、それとも、記憶の中の一部なのか、いろいろ頭の中を詮索してみたくなった。

 美由紀の知りたいことは、もっと他にもあるのだろうが、まずは、ここの場所が知りたいのが先決だった。

 夢とも、記憶の断片とも知れないことが、恐怖に満ちていたのは、ここの場所がそれだけ、妖気に満ちた場所であるということだった。

 親も人も誰も来ないと言うのは、どうしても解せなかった。病院だというのに、他の入院患者も見当たらない。一体、どうしたというのだ。

 美由紀は、次第に自分が、

「本当に、私は自分なんだろうか?」

 と思うようになっていた。

 記憶の中の意識を紐解いてみて、いろいろな記憶が錯綜している。その中には、自分ではない記憶もあり、特に「夢の共有」などという意識は、自分の中の記憶から少し逸脱したものがあった。

 そうやって考えてみれば、レズビアンだという意識も、本当に自分の性癖なのかと思うほどで、男性を求めているのか、女性を求めているのか、分からなかったりした。病院に入っているのも、その意識が影響しているのではないかと思う。美由紀は、記憶を走馬灯に映してみたが、堂々巡りを繰り返してしまって、なかなか今の自分を理解することができない。

 ただ、少し感じたのは、最近、自殺を考えてしまったということだ。

 理由が何だったかを思い出せないことで、今の記憶の錯綜に繋がっているのではないかと思う。自殺するにはそれなりに理由があるはずだ。だが、頭に中には、理由などなくとも、「自殺菌」のせいで、まるで薬の影響のように、フラフラと自殺のような感じになってしまったのではないかと感じたのだ。

 ただ、今ここにいるのが、本当に自分なのかと感じたのは、誰か他に夢を共有している相手の意識と入れ替わっているのではないかと思っている。入れ替わっているということは、その人が、美由紀自身の身体に乗り移っているということになるのだが、ここの病院で、美由紀は別に身体に何ら変調はなかったのだ。

 確かにかすり傷の一つや二つはしていたが、入院するほどではない。それなのに、どうして自分が病院にいるのか分からない。

 いや、そもそも、ここは病院なのだろうか? まるで独房のようなところに押し込められて出ることもままならない。今のままなら、ここから出ることは不可能ではないかと思っている。医者や看護婦を見ていると、日に日に信じられない感情に陥ってくるが、何を信じていいのか、今は自分すら信じられなくなっている美由紀だった。

 自分が信用できないと思うのは、過去にもあった。

 あれは、結婚してすぐくらいのことだっただろうか。

 美由紀は結婚してからすぐ、一度浮気をしたことがあった。軽い気持ちで、一度だけ……。

 相手も、遊びだったようで、お互いに後腐れがなかったことはよかった。美由紀もそのことを意識するわけでもなく、結婚生活の中で、すぐに忘れていったのだ。

「相手に感情移入があったわけではないので、一度くらいなら、浮気も悪いことではないわ」

 と、勝手に自分を納得させた。強引に納得させるわけでもなく、言い訳をする必要すらないほどの出来事に、すっかり感覚がマヒしていたのだ。

 軽い浮気ほど、中途半端なものはなかった。言い訳もなく、軽い後ろめたさだけが残ったような感覚は、今までの貞操感覚を、鈍らせるには十分だったのかも知れない。

 元々、貞操感覚など、美由紀にあったのだろうか? レズビアンだと思っていた美由紀は、男性との関係は、むしろ、軽いもののように思っていた。相手が女性であれば、他の人の貞操観念に値するものがあったかも知れないが、相手が男性なら、その限りではない。それが美由紀の性癖からくる一つの弊害なのかも知れない。

――どうやら、私はどこかの瞬間で、夢を共有している誰かと入れ替わったのかも知れない――

 今まで、自分の中にあった記憶に出てきた人たちの存在も、中には夢を共有していた人のものも入っているのかも知れない。逆に本来なら自分が体験したり感じたはずの記憶を他の誰かが共有しているのかも知れないと思うと不思議な気がした。

 もし、そうであれば、ここに両親が現れないのも分かる気がする。そして、何かのきっかけで、美由紀が誰かと夢を共有していることを知った人が、美由紀を研究材料として選んだのかも知れない。この病院は、その施設ではないかと思うと、納得できなくもない。

 ただ、それにしても、ここはどこなのだろう? いくら研究のためだとは言え、美由紀一人にこれだけの施設。少し信じられない感じだった。

 さらに、最新設備が整っているわけではない。医者や看護婦の姿も、ファッション的には古いものに感じられた。

 美由紀が何を聞いても、誰も何も答えてくれないだろう。答えようと思っても、説明がつかないのかも知れない。

 だが、それでも意を決して聞いてみた。

「ここは一体どこなんですか?」

「ここは中央病院ですよ。この間も説明したじゃないですか」

「でも、他に患者もいなくて私だけですよね。これってどういうことなんですか?」

「この病院は、確かに患者さんはあなただけです。あなたのための病院と言ってもいいくらいですね」

「えっ、そんなことがあっていいんですか?」

「ええ、あなた以外に、今は誰も患者さんと呼べる人が、このあたりにはいませんからね」

「ここは、何科になるんですか?」

「いわゆる精神科に近いものです。それは、あなたも薄々お分かりでしょう?」

「ええ、でも、私は精神科に入院するような病気なんですか?」

「病気ではないですよ。ただ、あなたが急に何をするか分からない状態になることで、ここにいてもらっているんです。あなたは何も心配することはないんですよ」

「でも……」

 ここまで何も聞かずにいて、その間にいろいろ考えていた。最悪のことも考えていたが、どうやら、看護婦の話していたことは、美由紀の中で考えていた。「最悪の事態」に近いことのようだ。

「それは、何か私の性癖に関係のあることですか?」

 思い切って、恥かしいことも聞いてみた。ここに至っては、恥かしいことなど何もないと思ったからだ。いろいろ聞いてみて、分かっていることを少しずつ引き出すしかないと思ったからだ。

「性癖? そうですね。それも含めたところになりますね」

「私は、誰かと夢を共有しているんじゃないかって思っているんですけど、記憶の錯綜に何か関係があるんですか?」

「ハッキリとしたことは、私にも分かりませんが、あなたがある程度のことを分かっているような気はしていましたよ。それに、今、ある程度の開き直りがあることもですね」

「どうして分かるんですか?」

「開き直りがあるから、いろいろ考えていると思ったんですよ。考えていれば、何となく気付くこともあるでしょうし、探るような目をしているけれど、決して何も聞いてこないのは、それだけ、私たちを信用していない証拠でしょうね。でも、今度は聞いてきたということは、信用よりも、事実を知りたいと真剣に思うようになったということなんでしょう」

「そんなにいろいろ私に話してくれて、いいんですか?」

「ええ、私が分かることは、隠す必要はないということになっていますからね。ただ、私が答えたことを信じる信じないは、別の問題ですけどね」

「そういえば、先生が来ませんが?」

「先生は、もうここにはいません」

 どこかに転勤になったということか? それなら代わりの医者が来そうなものだが?

「あなたのことは、私に任されていますからね」

 美由紀の気持ちを察したのか、看護婦はそう言った。

「ここの表の世界は、どうなっているんですか?」

 これも気になるところだった。

「表は好景気に沸いてますからね。でも、ここは別世界ですね」

――好景気? 時代が変わったということか? あれだけの不況が一気に好景気に好転したということだろうか?

 一体、今は未来なのか過去なのか。美由紀の頭は混乱していた。確かに病院の雰囲気、看護婦の制服、この間の医者のいでたち、どれをとっても、過去にしか思えない。

「今は、一体、何年なんですか?」

「昭和六十年になります」

「えっ?」

 昭和六十年というと、美由紀の生まれた年ではないか。では、いったい今の自分はどこにいるというのだろう?

「先生の話では、あなたの記憶は未来のものらしいですね。先生はビックリしていたようですが、私はさほどビックリしませんでした」

「どうしてなんですか?」

「私も、あなたのような人を知っているからですよ。記憶だけが未来のものなんですが、それ以外は、まったくそれまでと変わりがないんです」

「ということは、その人は、途中から、記憶だけが未来のものになったということですか?」

「そういうことになりますね」

「その人はどうなりました?」

「そこのベッドに寝ていましたよ。今は、すっかりよくなって、お仕事をしていますけどね」

「今もご存じなんですか?」

「もちろんです。それが、この私なんですからね」

 と言って、看護婦の口元が歪んだ。淫靡に満ちた笑顔だが、嫌な気がしなかったのは、自分の性癖が出たからだろうか。

「ということは、この病院は、そういう私たちのような人間のための病院なんですか?」

「そうですね。病院というよりも、研究施設としての要素も強いですけどね」

「それは、感じていました。まるで監獄に閉じ込められているような気がしましたからね」

「あなたにとっては、居心地が悪いかも知れませんが、少しの我慢です。あなたのためでもありますからね」

「あなたも、ここで研究材料にされたんですか?」

「ええ、私も居心地悪かったんですが、すぐに慣れました。理由が分かれば、今の状況に従うしかないですからね。そう思うと、そんなにここも嫌でもなかったですよ」

「あなたは、そうやって研究員の方になれたからそうなんでしょうけど、私はどうなるか分かりません」

「私も最初はそうでした。でも、受け入れることさえ感じれば、そんなに悪い方に落ち着くことはありませんよ。余計なことを考えたり、ネガティブになると、どうしても事態は悪くなるだけです」

「自分を取り戻すこと、できました?」

「私の場合は、自分を取り戻すという感覚ではなかったですね。生まれ変わるという気持ちです」

 その言葉を聞いて、美由紀はビックリした。

――昭和六十年。私の生まれた年――

 そう頭の中で反芻した。彼女のいう「生まれ変わる」というのは、まさしく美由紀のことも含んで話しているかのようだった。

――今、どこかで、自分が生まれているのだろうか?

 日にちが分からないので何とも言えないが、どう考えても不思議だった。

「自分が死んだちょうどその時に、どこかで産声が聞こえると、それは自分の生まれ変わりなのかも知れないわね」

 と、いう話を聞いたことがあったが、この場合は逆である。自分が生まれた時に遡って、その時代に目を覚ましたのだ。

――今の私は、一体いくつなんだろう?

 記憶は三十歳の頃まである。平成二十年代、そこから一気に三十年遡り、今まさに自分が生まれたであろう「刻」に自分がいる。

「私はね。本当は、自殺したの」

「えっ?」

 看護婦の話の突飛さに、ビックリした。

「どうして自殺なんかしたのか分からないんだけど、自殺して、意識がなくなっていくところで、気が付いたら、このベッドの上にいたのよ」

「自殺の原因が分からない?」

「ええ」

 まさに、美由紀がさっきまで考えていた「自殺菌の仕業」ではないだろうか。

「カンカンカン」

 美由紀はまたしても警報機の音が聞こえたのを感じた。思わず目を瞑ると、さほど明るくない世界に真っ赤な遮断機の光が左右で点滅を繰り返している。

 美由紀の最後の記憶は、確か電車の中だった。どこに向かっているか分からない幽霊列車に乗ったような夢を見ていた。それも、電車の中だったように思う。

「私は、電車に乗っていて、それが幽霊列車で、そして、踏切が頭から離れない……」

 呻くように美由紀は叫ぶと、頭を抱えて、苦しみ出した。

 看護婦はそれを見ながら、背中をさすってくれるが、何も声を掛けてはくれない。

「大丈夫ですか?」

 という言葉もない。

 もし声を掛けられたとしても、

「大丈夫です」

 としか答えられない。もちろんウソである。そんな会話をする余裕はないのだから、それなら何も言われない方がマシだった。

 痛みは少し続いて、次第に楽になってくる。痛みが治まってきたのか、それとも、慣れてきたことで痛みに関しての感覚がマヒしてきたのか、どちらにしても、痛みはなくなっていた。

「私も自殺したの?」

「あなたに自殺をした意識があるの?」

「いいえ、ないのよ。しかも理由なんてあるはずもない。ただ……」

「ただ?」

「自殺菌というのを私は考えているんだけど、それが影響しているんじゃないかって思うの」

「じゃあ、そうかも知れないわね。でも、そのショックで、あなたは幽体離脱したのかも知れないわね。あなたは、未来から来たんでしょう? 私も似たようなものだから、分かるのよ」

「ええ、昭和六十年というと、私が生まれた年……」

「あなたも、生まれ変わりたいという気持ちを持っていたんでしょうね。その気持ちに自殺菌が付け込んだとしたら?」

「本当に夢のようなお話。どこまでが本当なのか分からないわ」

「何が本当なのかというよりも、あなたが、何を信じるかということでしょうね」

「それだけ、事実は少ないということかしら?」

「あなたは、結構今の事情を理解しようとしているようね。思ったより冷静なので、安心したわ」

「私は、普段から淫靡なことを考えることが多かったの。自殺したのだとすれば、そんな自分が嫌だったからなのかしら?」

 美由紀は、ついさっきまでのことのように、自分のことを思い出していた。自分の考えていることを曝け出して、少しでも多くの事実を知りたいと思ったのだ。

「それは違うと思うわ。あなたが淫乱だったのは、あなただけではなく、あなたと同じような性癖を持った人との夢の共有で、過大に意識させられたのかも知れないわ。きっと、あなたと一緒に夢を共有した人と、お互いに夢を共有することで、お互いの気持ちを正当化させようとしたはずよ。それが却ってよくなかった。だって、正当化させるためには、お互いに知りたくないことまで掘り返す必要があるでしょう?」

「過ぎたるは及ばざるがごとしということか……」

「そういうことね。そして、あなたと共有した人は、あなたの身体で自殺したのよ。だから、あなたは、帰る場所を失った……」

「えっ、じゃあ、幽体離脱した後に、私は帰るところがなくなったことと、生まれ変わりたいという思いが交錯して、ここにいるということかしら?」

「そうね。そう考えるのが、一番辻褄が合うわね。そういう意味では、あなたは幸運なのかも知れないわ」

 宙に浮いて、魂が彷徨うことがないとはいえ、知らない世界で、知らない身体の中に宿ってしまって。それで幸運と言えるのだろうか? ただ、それも、まだ分からない。今はこれを現実として受け入れるしかないからである。

 看護婦は続けた。

「あなたには、前の世界で、未練を残してしまった人がいたりするの?」

 いろいろ思い浮かべてみたが、そんな人がいるはずもない。

「いないわ」

「じゃあ、幸運だったと言ってもいいかも知れないわね。未練があれば、これからのあなたが歩むもう一つの人生に、きっと障害が出るでしょうからね」

 看護婦の言う通りだった、そういう意味では、幸運だったと言ってもいいだろう。

「でも、私が夢を共有していた人って、どうしたのかしら? どうして自殺なんかしたのかしら?」

 そこまで聞くと、美由紀はハッとした。

「どうして、私が、あなたと夢を共有している人がいて、さらに自殺したのだって分かったと思うの?」

 看護婦を見ると、ニッコリと笑っていた。

「おかえりなさい。ここはあなたが再度歩むべき道の出発点。私も同じようにここに来たのよ。そして、あなたを待っていたのよ。晴子さん……」

 美由紀は愕然とし、そのまま気が遠くなってくるのを感じたのだった……。


                  (  完  )

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「生まれ変わり」の真実 森本 晃次 @kakku

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