11 忘れるということ
おばあちゃんと一緒に暮らす。人の話を聞く。いろんな人と友達になる。お使いに行く。たまに失敗する。でも、私は前よりも、幸せになった気がする。
フェイシーはそう感じることが多くなった。
自分が蝶人形だなんてことも、忘れそうになる。時々思い出して、気になってしまうこともあるけど、その回数は少なくなってきた。蝶人形であることに悩むより、どうしたらもっとみんなの笑顔が引き出せるだろうと考えるようになってきたからかもしれない。
不器用でもいい。人と比べたら、ずっと劣っているかもしれないけれど、前の自分に比べたら、とても成長している。
そうフェイシーが思っていたある日、いつものように朝の支度をしていると、おばあちゃんが起きてきた。寝起きのおばあちゃんは見たことないくらい取り乱した様子で、
「あら、あなた、どなた?」
と聞いた。
「フェイシーです」
と訴えても、
「はあ」
おばあちゃんはぼんやりしている。フェイシーは計り知れないショックを受けた。
「ここ、私のお家なのよ」
と主張される。どうして知らないあなたがいるの?と、その目は語っていた。フェイシーは忘れられてしまった事実を知った。逃げるように家を出ると、当て所もなく村をさまよった。
ジリジリと焼ける、夏の暑い日だった。外に出かける人は少ない。でも一軒、洗濯物を干す人影を見つけて、フェイシーは吸い寄せられるように歩いた。その家も人も、見覚えがあった。夫が病気になったエマさんだった。フェイシーの話を聞くと、
「あらら、物忘れが進んだのかもしれないわね」
とエマさんは考えた。
「私のおばあちゃんも、そうだったの。気持ちはわかるわ」
「忘れられてしまったのでしょうか」
「本当に忘れちゃったわけじゃないの。覚えられなくて、ちょっと思い出せなくなっているだけよ」
エマさんは取り乱しているフェイシーを落ち着かせようと話しているようだった。その気持ちが伝わってくるのを、フェイシーは感じた。だんだんと落ち着いてくると、次にするくとに思いが向き始めた。
「それなら、おばあちゃんが思い出すように青い花で……」
とフェイシーが言いかけると、エマさんはあまり乗り気ではない様子だった。
「そのお花、確かに便利だけど……ちょっと嫌な予感がする。私みたいにパパさんが倒れるなんてことが……表面的な願いじゃなくて、本当の願いを叶えてくるんでしょ。純粋な子供だったらまだしも、私じゃ自信がないわ」
エマさんは言おうかどうか迷っている様子だったけれども、最終的に決意した表情でこう付け足した。
「それにね、これは私の意見なんだけど、忘れたほうが幸せなことも、すごく多いと思うの。あまり、誰かの心を強引に変えるのは、よほどのことがない限り賛成できないかも」
「そうですか……」
フェイシーは良いのか悪いのか、判別がつかなかった。けれども青い花に頼ってばかりだったからか、それ以外にどうやって解決したらいいのか、わからなかった。
忘れたほうが幸せ? フェイシーにはその心もわからなかった。人生に辛いことしかなかったなら、忘れるほうが幸せなのかもしれない。でも、それならどうして生まれてきてしまったのだろう。自分という存在は、いつか忘れられる。忘れたくないから、歴史や物語という形で、人は自分がいた痕跡を残そうとする。
でも、その「ストーリー」も、最後まで残り続けることはない。
何もかも、移り変わっていく。そこに何かがいたという、余韻を残して。
「もう一回行ってみようか。もし無理だったら、戻ってきてもいいよ」
深刻な顔をしていたのかもしれない。エマさんはわざと明るく提案した。その言葉に励まされて家に帰ると、恐る恐るおばあちゃんの顔を覗き込んだ。今度のおばあちゃんは、
「おや、フェイシー、おかえり」
とにこやかに言った。ほっとする反面、フェイシーは不安がまだ消えていないのを感じた。
「おばあちゃん、さっき……」
「どうしたんだい?」
「私のこと、誰って……」
「そんなこと、言うわけないじゃないの」
とコロコロと笑った。フェイシーは何も答えられなかった。エマさんの話によると、昔のことは覚えているけど、最近のことは覚えられなくなってくるみたいだ。このまま自分は忘れ去られてしまうのかな、とフェイシーは恐ろしくなった。
そのまま逃げるように台所に行く。おばあちゃんから料理をいくつか教わって、自分でご飯が作れるようになった。いつもならおばあちゃんは「好きだから料理するんよ」と言って自分で台所に立っていたけれど、最近は、フェイシーが作ることも多くなってきた。
そういえば、時々言われていたことを思い出す。フェイシーが手伝っていると、「あなた、とても親切ねえ、ありがとう」と言われたことがあった。その時はちょっとだけ違和感を感じたけれど、そんなに大したことないと思って流してしまっていた。もしかして……。
心の空虚さを、フェイシーは感じた。それでも、体は習慣のままに動いていた。近所から火をもらってきて、野菜と干し肉を細かく切り込んで煮立てていく。作業に集中しようとしても、フェイシーは恐れを拭えなかった。
おばあちゃんが私のことを忘れてしまったら……?
私だけが覚えていたって、辛いだけだ。とフェイシーは思った。でも、覚えてくれていたとしても、おばあちゃんがいなくなってしまうこともあるかもしれない。そうなれば、どうやって生きていけばいいのだろう? それとも蝶である私の方が、先にいなくなってしまうのだろうか、とフェイシーは想像した。
私が急にこの世界からいなくなったとしたら、みんな、私のことを覚えてくれるだろうか。蝶になったら、みんな、私のことを忘れるかもしれない。私もみんなのことを忘れてしまうかもしれない。
気がつくと、沸騰してしばらく時間が経っていた。フェイシーは木の器にスープを入れると、おばあちゃんの待っている食卓に運んだ。おばあちゃんは「いつもありがとう」と言いながら口に運ぶと、
「おいしいわあ。上手くなったね」
と言ってくれた。フェイシーは戸惑いと気恥ずかしさに襲われた。
「おばあちゃんが教えてくれたからです」
「もう、お上手ね」
おばあちゃんはカラカラと屈託なく笑う。
「フェイシーが来てくれて、毎日ほんと楽しいねえ」
この笑顔に何度救われただろう。フェイシーは胸が熱くなるのを感じた。忘れられるかどうかなんて、どうでもいいように思えてきた。
私が生きる時間と、みんなが生きる時間は違うかもしれない。こぼれていく記憶——。
だからこそ、今という時間を、大切に使っていきたい。時間は砂金のように、指の間からこぼれ落ちていくのだから。
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