12 叶えられない願い

気がつけば、また森の中を歩いている。

何度森を見れば、私は気が済むのだろう。そうフェイシーは思った。

鹿が通る。フェイシーを見つけて、逃げていく。木々のかすれる音、虫が耳元を飛ぶ——藪をかき分けて踏む音に、フェイシーはびくりと震えた。森は自分の姿を隠してくれる以上に、相手の姿も隠している。

湖に出た。

近くで虐殺があったなんて、信じられないくらい、静かで美しい湖。

初めて人になって、気づいたら、私はここにいたんだっけ、とフェイシーは思った。

水場の近くに人がいるかもしれない。フェイシーは用心深く見渡すと、体を低くして湖に近づいた。

そして、その水を飲んだ。

甘い味がした。

乾き切った喉を潤すと、視界が徐々に明るくなってくる。そばに生えていた木にもたれかかった。土に体温が奪われていくのを感じながら、ぼんやりと過去のことを思った。傷ついた記憶は、さっきまでは鮮明だったのに、水に溶けるようににじんでいく。

フェイシーはただ、村に暮らしていただけだった。平和に暮らし、家族があり、ご近所さんがいて、友達もいた。それを壊したのは剣を持ち、鎧を着た、赤銅色の人たちだった。フェイシーはそれを鬼だと思った。

鬼は略奪のために剣で脅しながら、村人たちを一箇所にまとめた。

誰も逃げられない。村のみんなを救いたい。でも青い花が出てこない。どんなに願っても、焦っても出てこない。

「そんな……」

人々は青い花を求める。でもフェイシーは何もできなかった。

「花がないなら、そのチョーカーをいただこうか」

どこかから手が伸びる。フェイシーは恐怖に駆られて後ずさる。

「何するの!」

と隣にいた一人の女性が止めてくれる。

「あなただけでも逃げなさい。ほら」

と言って、青い花を返してくれる。フェイシーは信じられなかった。この女性は使わなかったのか。自分の願いを? みるみるとはなが、フェイシーの目の前で枯れていく。フェイシーにはそれが、怖く感じた。怖いという感情に支配されて、気がつくと体が動いて、茂みに隠れ込んでいた。

「これで全員か」

鬼の尋ねた丁度その時、一人がフェイシーを見つけた。

「まだいるぞ!」

目が合った瞬間、フェイシーは咄嗟に逃げ出した。森まで走り、走り、走って、そして今、湖の近くで動く気力を失っている。

「私も、あそこで死ねばよかったのです……」

森の中を、疲れ果てた体で歩きながら、フェイシーは後悔した。

この後悔を抱えたまま生きるなんて、できそうになかった。彼らの意志を継ぐ? 彼らの分まで自分は頑張る? そんな正当化はできない。結局私は蝶人形のままだった。村の住人にはなれなかった。運命を共同した方が良かったのかもしれない。でも今はもう……。

 仲間を助けずに逃げ出してしまった悔しさと、どう考えても、逃げるしかなかった、だって私は弱いから……という思いが渦巻く。

 平和を突然奪われた恐怖。疲れ果てた体を無理に動かそうとする意思。

 私は首元に手を当てる。はちみつ入りの飲み物を、もう数日は取っていない。細くなった首。緩んだチョーカー。引っ張ったら、取れそうな気がした。

「私の代わりに、彼らを救って……」

チョーカーを取ろうとしたら、草を踏む音が聞こえた。私は固まった。

あの時の旅人——魔女が来た。

「……なんで今、来たんですか…………」

「蝶にしては上出来すぎるわ」

魔女はため息を漏らした。

「ええ。上出来すぎる」

魔女ははちみつ入りの瓶を取り出すと、スプーンにすくって、私の口に運んでくれた。すぐに、体に力が戻ってくるのを感じた。フェイシーはそんな自分が、無性に情けなく思えた。

「何で私だけが助かったのでしょう」

「あなたが蝶だからよ。人間じゃない、アウトサイダー。最初からね」

「……」

違う、と言いたかった。でも魔女の言うことはその通りだと思った。

「青い花に不可能はない。それは真実よ」

魔女は一本を差し出した。魔女の持っている本物の青い花は、妬んでしまいたくなるほど美しかった。

「人になる自由が欲しい? それともみんなを救いたい? あなたが蝶に戻れば、全ては夢の中に消える。人間になりたかったのも、苦しい思いをしたのも、全ては夢。人間を選べば、その重荷は全てあなたが背負うことになる……選んで。二つに一つだから」

魔女に突きつけられた選択肢に対して、私は目を瞑った。そして願った——。

 急に意識が遠くなったかと思うと、突然、見覚えのある天井が視界に映った。

「——っ」

ガバッとフェイシーは羽おきた。冷や汗が流れている。

「おばあちゃんは、みんなは……」

朝日が隙間から流れ込む。小鳥の囀り、ホコリっぽい匂い、何もかもそのまま……。

 フェイシーはパニックになって、まだ寝ているおばあちゃんを揺すり起こした。

「おばあちゃん、大変です、村が——」

私の慌てぶりに釣られておばあちゃんも慌てたが、一部始終を聴き終えると、事態を飲み込んでカラカラと笑い声を立てた。

「フェイシー、それは夢だよ。きっと悪い夢を見ちゃったんだねえ」

「ゆめ」

不思議な響きでもって、フェイシーは繰り返した。

「寝ている間に見るものだよ。寝ていなくても見ることもあるけどねえ。同じ言葉なのも面白いわよねえ」

エマさんが時々、こんな夢を見た、と話していたのを思い出した。そう、これが夢なのか。

 フェイシーは初めて夢を見たことを知った。それが現実と変わらないほどリアリティを持って迫ってきたことを、フェイシーは戸惑いを隠せなかった。

 初めて見た夢が、悪い夢だったとは。

「あの女の人は、私に何がしたかったのでしょう」

まだフェイシーは、夢と現実の区別がついていなかった。

「女の人って?」

おばあちゃんは聞き返す。

「私を蝶人形にした、女の人」

「恨んでいるのかい?」

フェイシーの言い方があまりにも厳しすぎたせいだろうか、おばあちゃんはそう聞いてきた。聞かれたことに驚いて、フェイシーは咄嗟に首を振った。

「いいえ、違うと思います。でも、知りたいんです。どうして私を蝶人形にしたんでしょう。人間じゃなくて、人形なんでしょう」

はたから見たら、少し気にしすぎているのかもしれない。でも、自分の存在する理由を知りたいという欲求は、誰にだってあるものではないのか? 自分のルーツを知りたい、という気持ちは。

 ミツバチがブンブンと羽音をうならせて花の周りを回転するように、フェイシーの頭の中も目まぐるしく回転していた。この時だけは、蝶というよりも、蜂のようだった。蜂蜜を取りすぎたから、そうなったのかもしれない。

 恨んでいるんじゃない。そう、知りたいだけなんだとフェイシーは自分に言い聞かせる。知らずに生きていく自信はなかった。

「アウトサイダーなのよ」と言われたその声が、まだ耳にこびりついている。

 違う、私は……フェイシーは必死に否定した。村のみんなと一緒なのだ。いつだって一書になるんだ。

 青い花があれば、わかるはず。フェイシーはそう思った。

 青い花が出せるとわかってから、どうして最初にこのことを思いつかなかったのだろう。ずっと気になっていたのに、魔女が来る以外に会えないと思っていたなんて、今から考えればとても不思議だ。

「魔女に会いたいです」

とフェイシーは言った。気分が高揚していくのを感じる。夢を見たということは、フェイシーが人間に近づいてきたということかもしれない。魔女はそのことをどう説明するだろうか?

 それとも全ては気まぐれなのだろうか? あの魔女は……。

 そういうことを考えているうちに、ふと花を見ると、何も変わっていないことに気がついた。

「……?」

青い花が、そのままの美しさを放っている。

「魔女に会いたいです。私の秘密を知りたいです」

青い花は変わらない。フェイシーは焦りを感じた。

「どうして私を蝶人形にしたんですか、どうして人間にはなれないんですか」

早口でまくしたてる。それでも青い花は応えない。

「どうして——」

フェイシーの頬に涙がつたった。フェイシーは泣き崩れてしまった。

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