5 夜風
夜半を過ぎても、眠れなかった。
私は音を立てないように、そっと家を出た。
外は肌寒い。でも、眠気を誘う春が近づいていた。暗い空に、ほとんど満ち切った月が、村を不自然な強さで照らしている。
青い花を心の中に思い描いていると、薄いベールを一枚一枚取っていくように記憶が戻っていくのを、私は感じていた。そうだ、私は紫の蝶だったのだ。青い花に惹かれて、そうしたらあの女性に声をかけられて。
「人間になりたいなんて、私、言いませんでした……」
涙がポタポタと地面に落ちる。
そしてあの女は、私を人にはせず、蝶人形にしたのだ。全ては気まぐれなのだ。あの女の気まぐれで、私はいつの間にか人の形になって、人間の生活を知ってしまった……。
——あんたなんか、化け物よ!
そう叫ばれた言葉が、フラッシュバックする。コップ一杯の、ハチミツ入りの飲み物。それだけで私は生きていける。でも、おばあちゃんは「できるだけ人間の食べ物を」と思って、甘粥を作ってくれた。それはおばあちゃんの優しさだったのだ。
「人間になりたいなんて、願いたくありませんでした……」
私は月を見上げて、静かな悲鳴をあげる。
そう、人間ではないなら、化け物だと言われても、仕方のないことだった。おばあちゃんはどうして私のことを……。
隠していたのか。
愛してくれたのか。
おばあちゃんはどうして話してしまったのか。知らないほうが、私は幸福だったのに。
良心は残酷だ。それは弱さなのか。優しさなのだろうか。自分だけのものにしておくことができなくて、話してしまったのか。
おばあちゃんを責める自分を、私は嫌悪したくなった。こんなに私のことを心配してくれた人を悪く言うなんて、最低だ。
こんな私が、おばあちゃんと一緒にいて、いいのだろうか。
私はチョーカーに手を当てる。
これを引きちぎれば、私は人の姿ではなくなる?
私という存在がなくなってしまう?
このままチョーカーを外して、蝶に戻れば……全ては儚い夢の中に、消えることができる。忘れ去られることができる?
私が私じゃなくなれば……けれども私の本心は、激しく揺れ動いていた。
「人間になりたい……」
祈るように両手を組んでいた。すると突然、手の中に、植物の茎が触れた気がした。いいえ、気のせいではなかった。青い花のつぼみを、いつの間にか持っている。それがクリスタルのように淡く光り、音も立てずに開いて、花が咲いた。
手に、あの青い花があった。何処、何処……求めた先に、見つけた花。自分だけの、理想の花。美しい花びらも、香りも、記憶と同じだった。
「……!」
ふと、魔女の一言を思い出した。
青い花は願望を表す。
そうすると、願望のあるところに青い花は咲くのだろうか。
「私も、みんなみたいに」
夜の蝶が花にとまる。微風に吹かれて、飛び去っていく。
青い花を見ていると、勇気づけられるのを感じた。花がここにあるなら、私という存在も確かにここにあると、思うことができた。
私は蝶かもしれない。でも、それ以上に、
「人間に……なります」
私は涙を拭った。拭っても涙は溢れそうになったけれど、気持ちは落ち着いてきた。
魔女が与えたのは、重荷かもしれない。でも、私はその重荷を背負って、生きていくんだ。
青い花は願望を表す。それなら……と、私は思った。
家に戻ると、最初に咲いてあった青い花を器から抜く。茎から雫が滴り落ちた。おばあちゃんも、まだ寝ていなかった。蝋燭の火をたよりに編み物をしているおばあちゃんのところに行くと、真剣な気持ちで尋ねた。
「おばあちゃん、叶えたい夢、ありますか」
「あれ、急にどうしたんだい」
「これを持ってください。それで、何か言って……」
真面目な表情で青い花を渡す。
「何かのおまじない? 懐かしいねえ。私も若い頃は友達と一緒に、よく遊んだものよ。そうねえ。夢か……。フェイシーがこれからも元気で、幸せに生きてくれさえしたら、私はもう十分すぎるくらい嬉しいよ」
穏やかな表情で、心からそう言ってくれたおばあちゃんに、私は涙を抑えることができなかった。体の水分を出し尽くしたと思うくらいに、私は涙が止まらなかった。
「あらあら、泣いちゃって」
「私……絶対に生きます」
ショックを受けて、迷っていた。チョーカーを外してしまおうか……でも、私をこんなにも、気にかけてくれている人がいる。苦しくても、失敗だらけでも、うまくいかなくても、無条件に愛してくれて、応援してくれる人がいる。
チョーカーを外したら、おばあちゃんは悲しんでしまうだろう。ささやかでもいい。私はおばあちゃんのために、生きよう。
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