4 私は……
私は、旅の女性からもらった青い花を襟に挿し、両手で水の入れた器を運んだ。
家に帰ると、心が安らぐのを感じた。
「あら、きれいな花だねえ。瓶に挿しときましょうか」
おばあちゃんは嬉しそうに言って、物置から余っている瓶を持ってきた。それは乳白色の細長い陶器だった。白瓶に水を入れ、青い花をそっと入れる。
「旅をしている方から、いただきました」
ここが私の家なんだと思った。山菜を摘み、薪を拾い、水を汲み……おばあちゃんと一緒に住む。フェイシーという名前を持っている。それが私。私の知らない昔の私を、知っている人がいたとしても、私は私。それ以上でも、それ以下でもないはずなのに……。
なのに、気になってしまう。あの女性の言っていた秘密は、何なのだろう。おばあちゃんは知っているのだろうか。私じゃない私を……。
「私のチョーカーには何があるのですか」
私は晩御飯を食べた後、おばあちゃんに「おやすみなさい」を言う前に、聞いた。
「誰から聞いたのかい」
おばあちゃんは突然、血相を変えた。
「いえ……」
私は怖くなって、押し黙った。沈黙は気まずさを生んだ。
「少しだけ気になって……そういえば、一度も外したことがありません」
「それなら外さなくてもいいんだよ。今まで気にしたことないんでしょ。フェイシーにとてもよく似合っている。だから外さないでくれ」
おばあちゃんは私に何か隠している。そのことが嫌で、私は口をとがらせる。
「でも、気になるんです」
今度はおばあちゃんの表情に、恐怖が現れた。私はそれが悲しくて、とうとう、今日会った女性の話をしてしまった。
「通りすがった旅人が、チョーカーと、紙のことを話していたのです」
「どんな人だった?」
「青い花をくれました。それから、『もし耐えられないことがあったら、チョーカーを外しなさい』と言われました。私のポケットに入っていた紙も、その人が書いたみたいです。誰なのでしょう」
おばあちゃんは苦渋に満ちた表情で、悩んでいた。その雰囲気は今までの中で一番、年老いて見えた。
「その人は今、どこにいるんだい?」
弱々しい声が、薄暗闇に響いた。
「そのことを話して、どこかに行ってしまいました」
おばあちゃんはまた黙りこくった。そして、肺にある空気を全て出すようなため息をついてから、ポツリと呟いた。
「……それは、フェイシーのお母さんなのかもしれないねえ」
「お母さん、ですか?」
私は不思議に思えた。母というのが、何か歪な言葉のように聞こえた。
あの人が……?
そういえば、あの人と話した時、どこかで出会ったような気がした。
でもどこで……?
「いつかは話さなくちゃいけないものだったからねえ、ずっと、先延ばしにしていたけど」
おばあちゃんは諦めたらしく、本の隙間からあの紙を取り出した。
読むのだ、と私は思った。それが、死刑宣告をされるような、恐ろしいもののように思えた。いつかは話さなくてはいけないものだった? そんな口ぶりで話される内容を、聞きたくなかった。それを聞いたら、私はフェイシーでいられなくなるかもしれないのに。
私は逃げ出したい、聞きたくないという思いを、二本足で何とか踏ん張り、押さえつけようとした。足は争おうとしていた。でも、勝ったのは、知りたいという意志だった。
おばあちゃんは、紙に書かれていることをかすれ声で読み上げた。
―蝶人形の手入れの仕方―
1、毎日木さじ二杯分のはちみつ入り飲料を作り、コップ一杯分飲ませる。
2、風邪を引いた場合は、バター、胡桃、そして塩をひとつまみ入れた
ビスケットの類を食べさせる。果物も良い。
3、毎日自然に触れさせること。動物よりも、植物の方が望ましい。
4、紫のチョーカーを外すと、蝶にもどる。
「……」
私は何も言えなかった。
「ごめんね」
とおばあちゃんは苦しそうに言った。
おばあちゃんは娘を亡くしていた。だから私を娘の代わりだと思って、育てることにしたのだという。私はおばあちゃんを責める気になれなかった。ただ、その深い悲しみに気づけなかった自分を、責めたくなった。
私は蝶人形——。
夢であって欲しいと思った。人間ではなくて、人間を模倣した存在にすぎないのか?
それが受け入れられなくて、私はチョーカーに手を当てる。
「でも、フェイシーはフェイシーよ。気にしなくてもいいのよ」
おばあちゃんはそう言って、なぐさめるように私の背中をさすった。
でも、本当になぐさめられたかったのは、おばあちゃんの方だったかもしれない。それに気がついたのは、ずっと後のことだった。
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