第40話 父娘の旅立ち
「いただきまーす」
「おいしいー」
「おれおかわりする!」
「わたしも!」
初めての長時間のバスと温泉で空腹になった子どもたちは、あっという間にカレーを平らげて、お代わりに並ぶ子、胡瓜をかじる子、胡瓜のお代わりに来る子など様々だ。
「カレー美味しい?」
美澄がすぐそばにいた男の子に聞くと、満面の笑みで返事が返ってきた。
「おいしい! きゅうりもおいしいよ。おねえちゃんたべた?」
「あとで食べるよ。出雲行くの楽しみだね」
「うん! おねえちゃん、いずもいったことある?」
「ないなぁ……」
そういえば家族で出雲に行ったという記憶はない。近すぎて行かなかったのか、家族の誰も神社仏閣に興味がなかったのか。少なくとも美澄が家を出るまで行ったことはなかった。もしかして、美澄のいない間に、家族で行ったことはあるかもしれないが。
「いいなぁ、出雲」
そうぽつりとこぼしたのは、そばで子どもたちのコップに麦茶のおかわりをついでやっていたマミだ。
「おねえちゃんもいずもいったことないの?」
「うん。ないよ」
「では、一緒に行くかね? 狢の娘さん」
そう言ったのは、いつの間にかそばに来ていた九千坊だ。
「いいんすか?」
「幸いバスは空いておるぞ」
「でも……お父ちゃんもいるし」
「雷鳴坊殿から聞いておる。出雲に行く途中でホテルに紛れ込んだ狢の親子がいるとな。幸い儂らは九州まで帰るし、連れてかえってやることもできるぞ」
「本当っすか!? アタイ、お父ちゃんに聞いてきます!」
嬉しそうにそう答えると、マミは大広間を出て、父親がいるであろう従業員用控え室へと向かっていった。
マミが大広間から出ていったのと交代で、雷鳴坊が入ってくる。雷鳴坊の手には日本酒の一升瓶があった。
「九千坊殿、マミから今聞いたが、バスに乗せてくれるとな?」
「おうよ。旅は道づれと言うじゃろう。急な話でお主の方が良かったじゃろうか」
「かまわんよ。出雲に行ける方が春之進もマミにも良いことだろう」
「では決まりじゃな」
「ということで一献どうですかな」
「ほっほ、よきかなよきかな」
九千坊も雷鳴坊も日本酒を飲むのを待ちきれないとばかりに、床に座って杯に酒をそそぐ。そのまま乾杯して、ぐいっとあおった。
「九千坊様、お義父さん、座布団をどうぞ」
美澄が座布団を渡すと、2人とも嬉しそうに受け取って座り直す。2人の気が済むまでそこを動くつもりはないのだろう。
周りを見回したら、子どもたちはほとんどカレーを食べ終えており、デザートになのか胡瓜をポリポリ食べる子、あやとりをする子、栄子と一緒にトランプを始める子などさまざまだ。
8時の就寝まで時間はまだあるから、それまでここで自由に過ごすのも毎年恒例らしい。
美澄は余っている胡瓜を数本カレー皿に乗せて、九千坊のところへ持って行く。
「お酒の肴にどうぞ」
「おお、美澄さん、これは気が利くのう」
「お義父さんはどうします? なにか持ってきましょうか?」
「いや、胡瓜でいいよ。毎年この日の酒のアテは胡瓜なんだ」
「そうなんですか」
九千坊も雷鳴坊も胡瓜を片手に酒を美味しそうに呑んでいる。あとで水でも持ってこようか、それとも妖怪にそんなもの必要ないのだろうかと迷っていると、九千坊から聞き慣れた名前がこぼれた。
「しかし胡一郎と絹子が結婚とな」
「驚いたであろう?」
「狐と狸がきな臭いとは思っておったが、これを機に仲良うできるかもな」
「そうであればいい」
ぐいっと酒を煽って、そうこぼす2人はほんの少し前に狐と狸の間を憂えていたときとは違って穏やかだ。
狐と狸の騒動など、人間の美澄には知らないことだらけだ。でもきっと、長い間のいざこざがあって、胡一郎と絹子の結婚を反対されるくらいの溝があるのだろう。
妖怪版ロミオとジュリエットみたいだなと思いながら、美澄は九千坊と雷鳴坊のそばを辞した。
大広間には戻ってきたマミと東吾が子どもたちの相手に加わり、大賑わいだ。
片づけの頃にまた戻ってくればいいだろうと思い、美澄は壁に声をかけた。
「百太さん」
「なんでしょう」
壁に目が開いて、声を聞こえる。
「太郎さんは今どこに?」
「事務所でお仕事されてますよ」
いつの間にか太郎坊がいなくなっていることに気がついたのだ。子どもたちがカレーを食べているときには横にいたから、気付かれないようにそっと出て行ったのだろう。
もうみなが仕事モードというより私的な時間を過ごしているときに、仕事をしている太郎坊にお茶くらい淹れても許されるだろう。
そう思って、ロビーから受付を回って事務所に入ると、静かに電卓を打っている太郎坊がいた。邪魔しては悪いだろうかと一瞬思ったが、それよりも太郎坊が美澄を見つけるのが早かった。
「美澄さん!」
「お、お疲れさま、太郎さん」
「上の様子はどう?」
「賑やかに遊んでるわ。九千坊様とお義父さんはお酒が入って楽しそう」
「そっか」
「まだお仕事?」
美澄がそう聞くと、太郎坊はうーんと身体を伸ばした。
「春之進さんとマミちゃんの給与計算。明日渡してあげないと」
「そうよね」
「寂しい?」
「ちょっとね」
「僕がいるよ」
太郎坊が立ち上がって、美澄を抱きしめる。そうして額にキスを落とすと、さらにぎゅっと抱きしめた。
「太郎さん」
「仕事はもう終わったよ」
「2人の給与計算は?」
「できた。あとは渡すだけ」
「ああ、そう」
太郎坊の腕から逃げたそうとしても、いつもよりがっちりと抱きしめられていて、身動きがとれない。声を低くして名前を呼んでも、くつくつという笑い声が上から降ってくるだけだ。
「寂しがり屋の美澄さんのためだよ」
「……そういうことにしておきましょうか」
「そうそう」
それから太郎坊のハグは、百太に片付けの手伝いを依頼されるまで続いた。
次の日、春之進とマミは九千坊の運転するバスで出雲に向かった。
従業員一同昨夜は急遽決まった2人の出雲行きに驚きながら、即席の送別会をして夜遅くまで呑んでいた。
今朝は全員で九千坊一行と春之進とマミを見送ることになった。
雷鳴坊が春之進とマミに太郎坊が計算した給与を渡すと、2人して深々と頭を下げていた。
春之進とマミがいなくなって、2人と一緒に仕事をしていた垢舐めの清十郎と栄子は人目もはばからず泣いている。
「熊本でちゃんとした仕事見つけるんだぞ!」
「マミちゃんまた来てね」
そう言う清十郎と栄子に、春之進もマミも涙を流す。
「ありがとうございます。このご恩は必ず!」
「また必ず来るっす!」
「そろそろ時間じゃわい」
九千坊がそう声をかけると、2人ともバスに乗り込む。
名残惜しそうにこちらを見るマミの背中を春之進が叩いて、2人でバスに乗っていった。
「またね!」
栄子が叫んだのをきっかけに、みな別れの言葉を口にする。同時に子河童たちへの激励も含めて。
初めは泥棒だと思った2人だったが、話してみればよく働くいい人たちだった。短い間だが、一緒に働く仲間になっていた。
出雲に行って霊力をもらって、そうしてまた自分たちの土地で幸せに暮らしていけばいい。
「太郎さん」
「ん、なに? 美澄さん」
「マミちゃんたちが幸せになるといいわね」
「そうだね」
みながバスを見送る中、心の寂しさを隠すように、美澄は太郎坊の袖をぎゅっと握った。
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