第36話 準備を万全に
いつものように4人でホテルへの出入り口をくぐる。
事務所につくと、のっぺらぼうの平花がそわそわと落ち着かない様子でうろうろしていた。
「お、おはようございます」
「どうした? 落ち着かない様子だな」
「旦那様! そりゃそうですよ! あの2人が会うんですよ? もうみんなその話題で持ちきりで……」
「裏方まで被害が出るようなことはさせんからな」
「旦那様ぁ」
今にも泣き出しそうな平花を落ち着かせて、雷鳴坊がいつも座っている事務所の席に座る。それに併せて櫻子も自分の席に座ったので、美澄は受付のろくろ首の美也の元へ行こうと事務所を出た。
「どうして、太郎さんがついてくるの?」
「いや、いつ胡一郎たちが来るか気になっちゃって」
「そりゃそうよね。お義父さんだってあんなこと言ってたけど朝からそわそわしてたし」
「僕たちがそわそわしてたらみんなが浮き足立っちゃうことはわかってるんだけど……」
「だって太郎さんにとっては大事な友達の一大事じゃない」
「美澄さんがいてくれてよかったなぁ」
そう言って握られた手を、ぽんぽんと叩いて離す。
「職場で甘えないの。今日が終わったら甘えてもいいから」
「本当?」
「無事に終わったらね」
「そうだね!」
満面の笑みでいつもの調子を取り戻した太郎坊に、美澄も笑みをこぼす。そうして受付に行くと、美也が待っていた。
「おはようございます、美也さん」
「おはよう、美也」
「おはようございます。坊ちゃん、若奥様」
宿泊者名簿を見ていた美也がこちらを見て朝の挨拶をする。それはいつもの光景だが、なにかが違うような気がして、美澄はじっと美也を見つめた。
「な、なんですか? 若奥様」
「美也さん、いつもとアイシャドーが違いますね」
「ああ、だって今日はあの2人が来るんですよ! 舐められないようにしないとと思って、強めの色を選びました」
いつもブラウンのアイシャドーをしている美也の目元は紫に彩られている。それは美也なりの臨戦態勢らしい。
「私だけじゃありませんよ」
「え?」
「今日のおヨネさんの作る昼食は豪華になりそうです」
「わぁ、それは嬉しいなぁ」
「戦いは午前中ですが、疲れた身体を癒すためには必要なことですから。笛彦も特別にデザートを作ってくれるようですよ」
「戦いって……」
「狐と狸の戦いですよ。だからほら、今日は曇りで今にも雨が降りそうじゃないですか」
ロビーの先のガラス張りを美也が指さす。そこには荒れた日本海と今にも泣き出しそうな曇天がある。
「さっきはもうちょっと明るかったのに」
素振りをしていた頃は、まだこんなに厚い雲ではなかった。いつのまにこんなに荒天になってしまったのだろうか。
「胡左衛門と柴助が近づくとこうなるんだ」
「でも2人はお互いが今日来るって知らないのよね?」
「うん。出会った頃は嵐になるだろうね」
「知らないのは当人だけってことね」
「父さんも出てきて怒ると雷が鳴る」
「そうなの?」
「だから父さんの名前は雷鳴坊」
「へぇ……」
そんな豆知識を聞きながら、美澄は午前中の仕事に取りかかった。ベッドメイキングは狢の娘マミが上手になったらしく、座敷童の栄子とやることになり、美澄の仕事はチェックアウトをする客の相手をする美也の手伝いになった。
チェックアウトの時間は10時だから、それまでに客は全部出て行くはずだ。連泊の予約もないから、胡左衛門と柴助のせいでこのホテルが揺れるようなことになっても心配はない。
10数人の泊まり客全員のチェックアウトを確認した頃、胡一郎と絹子がやってきた。
「いらっしゃい、胡一郎、絹子」
2人の姿を確認した太郎坊がいつもの笑顔で迎える。
「ごめんな、面倒なことに巻き込んで」
「いいって。裏に父さんもいるからなにかあれば呼んで」
「ありがとう」
笑みは作るが、2人ともその表情は堅い。特に絹子は顔色が悪いようにも見えた。
「絹子さん、顔色が悪いようですが、大丈夫ですか?」
「え、ええ……昨日眠れなくて」
ロビーにもラウンジにも今は人がいなくて、玄関に送り雀の青次と受付に美也がいるだけだ。
「絹子さん、そこのソファーにお座りください」
「え?」
「少しだけですが、顔色をよくしてさしあげます。大事な日ですから」
絹子をロビーに置いてあるソファーに座らせて、美澄は事務所に置いてある自分の鞄の中からポーチを取り出して戻ってきた。
「美澄さん、お化粧ですか?」
「はい。ハイライトとチークと口紅で顔色を明るくしましょう」
「美澄さんは東京で美容部員だったんだ」
「そうなんですか!」
太郎坊の言葉に絹子が感嘆の声を上げる。
「よろしくお願いします」
「はい!」
絹子の前髪をピンで留めて、ハイライトを目元と鼻先に入れる。チークは薄目につけてあったのを少し足してやって、薄桃色の唇に赤みのある色を塗り重ねていく。
「どうでしょうか? 顔色が明るくなったと思いますが」
鏡を見せてやると、ぱあっと笑顔になる絹子がそこにはいた。
「凄いですわ、美澄さん。お式のときのお化粧も是非美澄さんにお願いしたいです」
「そう言っていただけると嬉しいです」
絹子の前髪を留めていたピンをはずし、前髪を整えてやる。暗い顔は明るくなり、それを見ていた胡一郎の顔も柔らかなものになっていった。
「よかったね、絹子」
「ええ。美澄さんがいてくれてよかったわ」
喜ぶ友人たちに、太郎坊も得意げになる。
「美澄さんがいてくれてよかった」
「そう言ってくれてよかったわ」
太郎坊と顔を見合わせて安堵していると、時計が11時を告げる音を出した。外を見ればしとしとと雨が降っている。
自動ドアが開き、「いらっしゃいませ」という青次の声が聞こえる。
と、同時に、柴助の怒号が聞こえてきた。
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