第32話 似たもの夫婦
次の日起きると、見慣れない天井がそこにはあった。本来ならよく知っているはずなのに、たった数ヶ月でどこにいるのか一瞬わからなくなるとは思わなかった。
ここは実家の自分の部屋だ。
大学進学で東京に出るまで暮らしていた部屋で、帰省するたびに使っていて、地元に帰ってきてからは毎日過ごしていた部屋だ。
だけど今、美澄にとって当たり前になっているのは、太郎坊と過ごす部屋だ。
持ってきた歯ブラシで歯を磨き、顔を洗って、化粧をする。そうして着替えると、一階にあるリビングに降りていった。
「おはよう」
「おはよう」
台所には母親がいて、朝ご飯の準備をしている。それにソファーには父親が座っていてぼーっとテレビを見ていた。それはよく見ていた光景だ。
「朝ご飯なに?」
「目玉焼きよ。昨日の海苔巻きまだ残ってるけど食べる?」
「食べる。航平は?」
「走りに行ってるから、そろそろ帰ってくるんじゃない?」
「ただいまー」
「ほらね」
玄関から航平の声がする。どうやらランニングをしていたらしい。それは美澄がいたときにはなかった習慣だ。
「航平走ってるの?」
「そうだよ。そろそろ身体絞ろうかなって」
「偉いやん」
そう言って航平の脇腹の肉を掴んでやると悲鳴が上がった。
「ちょっと姉ちゃん! セクハラ!」
「まだまだぽよぽよちゃんだね」
「これからだよ。これから」
姉弟で笑いながらそんなじゃれあいをしていたら、母親から叱責が飛ぶ。
「ちょっと遊んでないで手伝ってよ」
「はーい。航平も手伝んなよ」
「わーってるよ。太郎さんもやってんだろ」
「お義父さんもやってるよ。お父さーん」
「……わかった」
今朝のメニューは昨夜の海苔巻きと味噌汁、それに目玉焼きにサラダだ。
全員でいただきますをして、味噌汁を一口飲む。それは櫻子が作るものとも、美澄が作るみりんが少し入ったものとも違う、昔からよく慣れ親しんだ味だ。
「久しぶりのお母さんの味、どう?」
「美味しいよ」
「よかった」
少しだけ嬉しそうな母親に、美澄も嬉しくなった。目玉焼きにソースをかけて潰すと、とろりとした黄身が出てきた。それを器用に箸で食べると、塩気のきいた味がする。これも母親の味だ。
朝ご飯を食べて、天堂家に触発されたのか全員で片づけをして、ソファーに座ってお茶を飲む。普段なら日曜の朝はこの後、買い物に行ったりするのだが、今日は美澄がいるということで、買い物は午後からになった。
「美澄がいるの変な感じねぇ」
「そう?」
「そうよ。あ、天堂のお家になにか預ければよかったかしら」
「昨日海苔巻きあげたからもういいでしょ」
「そうだけど」
「お菓子っていっても同じ町の中じゃ買うところも一緒だし。また海苔巻き作ったときにお裾分けすればいいじゃない。親戚になったんだから」
「それもそうね」
納得したように言って、母親はお茶のお代わりをしに台所に行った。
「美澄、今日のお昼何食べたい?」
「ナポリタン」
「じゃあそうしましょ」
土日の昼がナポリタンになるのは、佐伯家ではよくあることだ。昔喫茶店でバイトをしていたという母親自慢のナポリタンは、家族全員の好物の一つになっている。
「太郎さんはいつ迎えにくるんだっけ?」
「2時って約束してる」
「じゃあお昼を一緒にってわけにはいかないわね」
「多分食堂で食べてるから大丈夫よ」
「今度は私のナポリタン食べにおいでって言っておいて」
「そうするわ」
太郎坊がこの家に入るのは、結婚の挨拶をしに来たとき以来だ。そのときは思わなかったけど、今太郎坊が横にいたら不思議な気持ちになるかもしれない。
自分が生まれ育った家に、太郎坊がいる。繁忙期ではないときに、誘ってみよう。この家に泊まりに来ないかと。
きっと太郎坊なら喜んで来てくれるだろう。
他愛のない話をしていたら日曜の午前中なんてすぐ過ぎていく。
お昼に母親の作ってくれたナポリタンを4人で食べて、片付けてとしていたらあっという間に太郎坊が迎えに来る時間になった。
スマートフォンが鳴って、見てみると太郎坊から家を出たというメールが来ていた。
「太郎さん、あとちょっとで来るって」
「あらそう? そういえば太郎さんの好きな食べ物ってなに?」
「なんで?」
「今度来たときに出してあげようと思って」
「味噌汁はタマネギが好きよ」
「ピンポイントねぇ」
「あとは私が作るもの、だって」
「あら。いいわねぇ。新婚さんって感じで」
あらためて自分で言うと恥ずかしい。
唐揚げとかハンバーグとかわかりやすいものを聞いておけばよかった。でもきっと太郎坊は「美澄が作った」という枕詞をつけて言ってくるのだろう。
「姉ちゃん、太郎さんの車来たかもよ」
「ほんと?」
「嬉しそうな顔しちゃって」
「なによ」
外からは車の音が聞こえてくる。住宅街であるこの辺を走る車は少ないから、きっと太郎坊だろう。
用意していた荷物を持って外に出ると、ちょうど家の前に車を停めた太郎坊がおりてくるところだった。
「美澄さん!」
太郎坊が美澄の顔を見て、ぱあっと笑顔になる。その様子が想像通りで、思わず笑ってしまった。
そんな美澄の後ろから両親と航平も出てくる。
「太郎さん、お迎えご苦労様」
「いえいえ。僕が美澄さんに早く会いたかったものですから」
「あらー今度泊まりにいらっしゃい」
「ありがとうございます。昨日の海苔巻きもありがとうございました。両親も喜んでました。美味しかったです」
「いいのよ、あれくらい」
「じゃあ、そろそろ帰るね」
「そうね。またいつでもいらっしゃい」
「太郎さん。天狗様によろしくお伝えください」
「太郎さん、またねー」
母親、父親、航平に見送られ、太郎坊の車に乗り込む。ウィンドウを開けて手を振ると、3人も手を振り返してくれた。
また近いうちに帰ってこようと思った。
あそこはもう一つの家なのだから。
「休みの日にちょくちょく顔出してあげたらいいのに」
「そうするわ」
「この車使ってもいいよ。美澄さん免許あるでしょ?」
「車の運転なんて教習所以来のペーパードライバーよ」
「じゃあいつでも言ってよ。運転手するから」
「ありがと」
会ってないのは一晩だけだ。それなのに聞きたいことが山ほど出てきた。昨日何食べたか、1人でなにをしていたのか、仕事はどうだったかなどなど。
でもそれは太郎坊も一緒だったらしい。
「美澄さん、昨日の晩はなに食べたの? ごちそうだった?」
「焼肉」
「えーいいなぁ」
「うちではなにかあると庭で焼肉するのが定番なのよ」
「いいね、それ。今度うちでもやろうよ。庭で焼肉」
「やりたい。そういえば、太郎さんの夕飯はなんだったの?」
「美澄さんとこからいただいた海苔巻きと味噌汁作って食べたよ」
「そっか」
「でも一人は寂しかったな」
ぽつりと太郎坊がそうこぼす。昨日会っているはずなのに、そう思うのは美澄だけじゃなかった。
「お義父さんやお義母さんたちがいるじゃない」
「でも美澄さんがいない」
「同じこと考えてたわ」
「え?」
「太郎さんがいればいいなぁって」
「じゃあ、僕たちは似たもの夫婦だ」
そう言って太郎坊が笑う。
またこれから太郎坊との生活が始まる。
いつの間にかその生活が、当たり前で、大切なものになっていたのだと、美澄は思った。
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