第31話 いつでもある場所

「美澄、先にお風呂入れて入っちゃいなさい」

「はーい」

 焼肉の日は、炭の後片付けで汚れる父親と航平が最後に風呂に入ると決まっている。

 リビングの窓からはビールを飲みつつ、まだ火を見て語らっている2人の姿があった。

 お風呂の給湯ボタンを押して、2階にある自室に行く。そこはこの家を出たときのままになっている。タンスの引き出しには、もう着ない服が何着か残っていてそこから高校時代のジャージを取り出した。

 東京に住んでいた頃も実家に帰ってくるとそのジャージをパジャマ代わりに着ていたので、もう長い付き合いだ。

 それを持ってリビングに降りると、ソファーでは母親がテレビを見ながら何本目かのチューハイを飲んでいる。

「お父さんと航平は?」

「網は洗ったみたいだけど、まだ火遊びしてるわ。男同士でいいんじゃない」

「そうだね」

「美澄、まだそのジャージ着てたの?」

「パジャマ持って帰るのめんどくさいんだもの。たった一泊だし」

「太郎さんと泊まりに来るときはちゃんと持って帰ってきなさいね」

「わかってるわよ」

 母親の付き合いでテレビを見ていたら、お風呂が沸いた音楽が流れる。

「じゃあ入ってくるね」

「ゆっくり入ってらっしゃい」

 天堂家よりは小さいが、見慣れた風呂場に入ると、上げていた髪を下ろして、服を脱ぐ。昔なら洗濯機に一直線だったが、今は持ってきたビニール袋に入れた。

 それがもうこの家の人間じゃないのだという気持ちにさせる。

 家でも温泉が引かれている天堂家と違って、佐伯家のお湯はごく普通の水道水を温めたものだ。それでも浸かれば、慣れたものお湯が肌に馴染む気がした。

 太郎坊は今頃なにしてるのだろう。

 今日は自炊をして食べたのだろうか。それとも食堂で泊まり込みの従業員と一緒に食べたのだろうか。

 あとでメールしてみようかとも思ったが、明日の昼過ぎには迎えに来るのだ。今日は実家を堪能した方が、太郎坊は安心するだろう。

 太郎坊も雷鳴坊と櫻子と久しぶりの夜を楽しんでいるかもしれない。

 化粧を落として、髪を洗って、身体を洗う間も、ずっと太郎坊のことを考えていた気がする。湯船に浸かっている間も、天堂家のことは頭を離れない。自分はもうすっかり佐伯美澄ではなく、天堂美澄になったのだなと思った。

 しっかり温まって、脱衣所に出ると、美澄専用のバスタオルで身体と髪を拭いた。このバスタオルも実家に置いていったものだ。

 ジャージを着て、ドライヤーで髪を乾かし、母親が使っている化粧水を拝借してケアをする。

 すべて整えると、リビングへ戻った。

「お風呂上がったよ」

「おかえり」

「お父さんと航平はまだ外?」

「今ビール追加したばっかよ」

「ふーん。じゃあ、お母さんのチューハイもらっていい?」

「いいわよ。冷蔵庫に冷えてる」

 冷蔵庫からチューハイを取り出して、ソファーの母親の横に座る。風呂上がりのチューハイなんて久しぶりだ。

 酒が好きな両親と航平がいるからか、佐伯の家では当たり前のように冷蔵庫にビールとチューハイが冷えている。

 美澄自体あれば飲むし、なければ飲まないというスタンスだから、これは久しぶりの味わいだ。

「ねぇ、お母さん」

「なぁに?」

「私がいなくなってどう?」

「なにそれ」

「なにか変わった?」

「10年以上東京にいたから、あんまり変わらないわよ」

「そんなもの?」

「そうよ」

「そっか」

 プルタブを開けて、一口飲む。母の好きなレモンチューハイだ。甘くて、少しだけ苦い。

「まぁ、いつでも帰ってらっしゃい」

「え?」

「離婚って意味じゃなくて。こんなに近いんだもの。遠慮なく顔見せにいらっしゃい」

「うん」

 結婚してから仕事の忙しさもあって、一度も実家には帰っていない。それは東京にいた頃と代わりはないが、なんとなく両親は寂しく思っていたのかもしれない。

 こんなに近くに娘がいるのに、会えないことに。

「お母さんもたまにはホテルにコーヒーもで飲みに来なよ」

「いいわね。あちらのご両親とももっとゆっくりお話したかったのよ」

「お義父さんもお義母さんも仕事してるんだからね」

「わかってるわよぉ。あ、そろそろお父さんたち戻ってこさせて、おはぎ食べようか」

「わかった。二人呼んでくる」

「じゃあお母さんはお茶淹れるわ」

 リビングの窓を開けて、父親と航平を呼ぶ。火はほとんど消えていて、水をかけて二人とも上がってきた。

 四人でおはぎを食べながらお茶を飲むのは、きっと美澄が結婚する数日前以来だ。

 帰省するとかならず萩野屋のおはぎを買ってくるくらいの佐伯家の好物だ。今は小豆とぎの笛彦が作る甘味が美味しくて遠ざかっていたが、舌に慣れ親しんだ味は懐かしい。

 太郎坊も今頃、雷鳴坊や櫻子と一緒に食べているのだろうかと思いながら、佐伯家恒例のおはぎの種類選びじゃんけん大会が開催されていた。

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