第29話 休日の二人
休日の朝、いつもより遅く美澄が目覚めると、隣に太郎坊の姿はもうなかった。
今日は美澄が実家に一泊で帰る日だ。
太郎坊も美澄と同じく休みのはずだが、もう起きているらしい。耳を澄ませると、階下のリビングからはテレビの音がする。
パジャマのまま階下に降りると、甘いいい匂いがしてきた。
「太郎さん、おはよう」
「おはよう、美澄さん。もうちょっと寝ててよかったのに」
「いい匂いしたから」
「今日の朝ご飯はパンケーキだよ。素振りする? 先にご飯にする?」
「パンケーキがいいわ。今顔洗ってくる」
「じゃあその間に焼いておくね」
甘いいい匂いに刺激されて、お腹が鳴る。今日は素振りより朝食を優先させてもかまわないだろう。
雷鳴坊も櫻子も今日は休みではないから、もうホテルの方に行っている。だから今家にいるのは太郎坊と美澄二人だけだ。
洗面所で顔を洗って戻ってくると、手際よくパンケーキをひっくり返す太郎坊が見えた。
「美澄さん、なにつけて食べる?」
「バターと確かはちみつがあったわよね」
「あったよ。あと貰い物の苺ジャムもある」
「せっかくだから贅沢に全部乗せましょ」
「いいね」
太郎坊がパンケーキを焼いている間、美澄が冷蔵庫からバターと苺ジャムを出す。そうして戸棚からはちみつも取り出すと、テーブルに並べた。フォークとナイフも忘れずに。
「太郎さん、飲み物は?」
「ヨーグルト! 美澄さんは?」
「じゃあ私もそうするわ」
冷蔵庫から飲むヨーグルトを取り出して、流し台に洗って置いてあったグラス2つにそそぐ。それをテーブルに置きに行っていると、パンケーキも焼けたようだ。
「できたよ」
「大きい!」
一番大きいフライパンで焼いたらしく、大きなパンケーキができていた。それをまな板の上で4等分にして、2つずつ皿に盛る。横に半分に切った苺を添えて。
「お店のパンケーキみたい」
「東京だとパンケーキのお店いっぱいあるだろうけど、このへんじゃないもんね。家でちょっとでもそういう気分味わえたらいいなと思って」
「ありがと……」
ほんの半年前まで東京で暮らしていた美澄にとって、ここは不便な場所だ。どこへ行くにも車はないといけないし、買い物だって遠くまでいかないといけない。近所のカフェでちょっとゆっくりということなんて夢のまた夢だ。
そんな美澄を気遣ったのが、今日の朝食なのかもしれない。
こういうさりげない気遣いができるのが、太郎坊の良さなのだろうなとダイニングテーブルの椅子に座りながら美澄は思った。
「「いただきます」」
二人で一緒に言うのも、いつの間にか綺麗に揃うようになってきた。きっとこれからもそうなるのだろう。
できたてのパンケーキにバターを置くと、しゅわりと溶ける。それに蜂蜜をかけると出来上がり。一枚目は蜂蜜で、二枚目は苺ジャムで食べると決める。
それは太郎坊も同じだったらしく、同じように一枚目にバターと蜂蜜をかけていた。
「美味しい」
「よかった。このはちみつ父さんが貰ってきたんだけど美味しいね」
「うん。ちょうどいい甘さだわ」
パンケーキを食べて、ヨーグルトを飲んで、幸せな朝だ。今日は土曜日だから、テレビから聞こえてくるのも、平日とは違って土曜日の番組ばかりだ。
実家に帰るのは平日でもよかったが、雷鳴坊と櫻子が家族が休みの日の方がゆっくりできるだろうと土日で休みをくれたのだ。
バスで帰る予定が、太郎坊も午前休をとって車で送ってくれることになった。
美澄の実家と天堂ホテルは車で行けば15分程度の距離だ。町の海沿いにある天堂ホテルと、山沿いにある美澄の実家は意外と近い。
中学までは別の学校だが、もしかしたら高校が一緒だった可能性もある。実際は違う高校に通っていたからお互い知らなかったのだが。
「これ食べたら、美澄さんは素振りするでしょ?」
「うん。あ、でも片付けが先ね」
「いいよ。片付けは僕がやる」
「素振りしてるの見られないわよ?」
「美澄さんが着替えてる間に片付け終わらせるよ」
「じゃあ任せるわ」
苺ジャムの乗ったパンケーキの最後の一口を食べて、ヨーグルトで飲み込む。苺ジャムは誰かの手作りらしく少し甘酸っぱくて美味しかった。
「「ごちそうさまでした」」
食べ終わった太郎坊と一緒にそう言って、皿とグラスを流し台に持って行く。苺ジャムとバターを冷蔵庫に入れると、あとは太郎坊に任せて2階に上がった。
歯磨きをして、ジーンズとニットシャツに着替えると、一泊分の下着と着替えを鞄に入れて、カーディガンを羽織る。
そうして竹刀を持って1階に降りると、太郎坊は皿を洗い終わって、リビングで新聞を読んでいるところだった。
「片付けありがと」
「どういたしまして」
リビングから庭に降りると、天気の良い日差しが降り注いでいた。今日は洗濯がよく乾くだろう。洗濯狐の引仕は喜んでいるのかもしれない。
「1、2、3……」
素振りを始めると、太郎坊が床に腰掛けてこちらを見ている気配がする。道場で素振りをするときに師範に見られているのに慣れているから、これくらいでは集中力は乱れない。
最初はその柔らかな視線に気恥ずかしさもあったが、今はもう慣れた。
鳥の声が聞こえる。
春は終わり、もうすぐ夏が来る。
じっとりと首に汗をかく気温に、それを感じた。
「97、98、99、100!」
日課になっている100回の素振りを終えて太郎坊を見ると、毎朝見る笑顔が返ってきた。
「お疲れさま。今日も素敵だったよ」
「ありがと」
毎朝聞かされるその言葉も、照れることなく受け入れることができるようになった。
それはいつからだっただろうか。
でもいつの間にか慣れていたし、聞けなかったらきっと寂しく感じるのだろうと思った。
それくらい太郎坊とは一緒にいて、言葉をもらっている。
「もう出る?」
「そうね。そろそろ出ようかしら。ちょっと手を洗ってくるわ」
竹刀を片付けて、洗面所へ行く。手には竹刀の皮の匂いがほんのりとついていた。それをハンドソープで流して、手からは優しい石鹸の香りするようになった。
鞄を持ってリビングに行くと、太郎坊もいつも外出するときに持っているウエストバッグを持っていた。
「行ける?」
「うん」
「送って貰って悪いわね」
「いいよ。お義父さんたちにも会えるし、バスより早いからね」
「途中でおはぎ買っていい?」
「萩野屋?」
「そうそう! あそこのおはぎ大好きなの」
「僕も好き。僕も買って帰ろうかな」
「そうしなよ。お義父さんもお義母さんも喜ぶって」
2人で太郎坊の愛車に乗り込むと、車が走り出す。そういえば太郎坊の運転する車で、近所のスーパー以外に行くのは初めてかもしれない。
大きな町まで行くのがめんどくさくて、化粧品も服も通販ですませていたから、どこかに行くのは近所のスーパーくらいだった。
途中、萩野屋という町でも有名な和菓子屋さんに寄って、おはぎを4つ買った。太郎坊は3つ。今日はそれぞれの家のデザートはおはぎになるのだろう。
山沿いの道を走って、住宅街に入る。美澄が通った小学校も中学も通り過ぎて、もうすぐ剣道場の前だ。
「ここが美澄さんの小学校と中学かぁ」
「そうよ。高校も別だし、こんな狭い町でも会わなかったものね」
「一緒の高校だったら会ってたかもね」
「そしたらどうしてたかしら」
「僕から告白してたよ」
「そうかしら」
「そうだよ」
「太郎さんは何部だったの?」
「帰宅部」
「好きなスポーツとか趣味とかないの?」
一緒に暮らしてきて、太郎坊がなにかに熱中しているという姿は見たことがない。しいていうなら仕事に没頭しているというくらいだ。仕事以外に好きなことはなんなのだろうと美澄はずっと思っていた。
「一応半分天狗だから、人並みより運動神経いいんだよね。それってフェアじゃないでしょ。だから部活はしてない。趣味はそうだなぁ、昔はよく父さんと一緒に屋根に登って天体観測するのが好きだったよ。母さんにはよく怒られたけど」
「屋根に登るの楽しそうね」
「一っ飛びで登れるからね」
「そうなの?」
「だって天狗だもん」
太郎坊の天狗らしいところは、雪女一行が泊まったときに、熱い温泉を冷たくすることで見た。天狗ならではの苦労もあっただろうが、太郎坊からはちっともそんなものは感じられない。
「あ、道場」
窓の外には小さい頃から通っている剣道場が見えた。
「美澄さんが昔から通ってるとこだね。じゃあもうすぐつくよ」
その言葉通り、住宅街を入ってしばらくすると、美澄の実家についた。車庫には父と航平の車があるから、家族全員いるのだろう。
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