第27話 旦那様のお仕事

 昼食を終えて、次の仕事はなにだろうかと思っていた美澄に、太郎坊が声をかける。

「美澄さん」

「なに?」

「このあとの仕事の前に、僕の仕事を見学しない?」

「見学?」

「正確には僕と父さんの仕事だけど」

「?」

 食後の緑茶を飲みながら、美澄が首を傾げる。

 太郎坊の仕事姿はあまり見たことはない。事務所でデスクに向かっている姿か、天堂ホテルの法被を着て、あちこちに動き回る姿は見たことはある。

 でも一緒に仕事をすることがないから、ホテルの中の仕事をしているのだなということくらいしかわかっていない。

「温泉を凍らせるんだ」

「ええ!?」

 天堂ホテルの大浴場は源泉掛け流しの温泉だ。確かに雪女には熱いかもしれないが、冷たい温泉を出すこともできないだろうから、どうするのだろうと思っていた。

「どうやってやるの?」

「天狗の神通力、みたことないでしょ」

「ないわ」

 太郎坊が天狗のハーフだと、雷鳴坊が天狗だと聞かされていても、天狗らしいことを見たことはない。天狗の神通力と聞いて、少しは興味がある。

「美也、美澄さんちょっと借りるね」

「温泉ですか?」

「そうそう」

「いってらっしゃいませ」

 まだ昼食を食べている美也にそう声をかけて、太郎坊が2人分のお盆を下げる。

「ありがとう」

「どういたしまして。さぁ行こう」

 大浴場は一階のロビーの奥にある。露天風呂付きで、海が見渡せる絶景だ。河童の九千坊が風呂だけ入りにくるというのも頷けるものだった。

 この辺りに温泉はないから、風呂だけ入る客も少なくない。

 だが、今日の温泉は朝から貸し切りにされて、日帰り客が使えないようになっている。

「今日は氷付けにするから、朝からお客様が入れないようになってたのね」

「そうだよ。だって氷が浮いた温泉はみんなはいりたくないでしょ」

「そうね」

 太郎坊は大浴場の女湯に迷いなく入ると、清十郎と春之進がいて、掃除の真っ最中だった。清十郎が太郎坊と美澄に気が付いて、笑顔を浮かべる。

「おっ、坊ちゃん、今からですかい?」

「うん、そう。まだ掃除中?」

「いや、もう終わりますぜ。それに露天は終わってます」

「じゃあ露天からやろう。おいで、美澄さん」

 太郎坊が美澄を連れて行ったのは露天風呂だ。

 天堂ホテルの大浴場には、大きな室内風呂と海を眺められる露天風呂がある。その露天風呂に入ると、たっぷりの温泉が湯気を立てて入れられていた。

「今日は女性の団体客で、男湯は使わないんだ。だから女湯だけ氷付けにする」

「ああ、雪女の団体客だものね」

「ということで、この温泉を冷たくして、氷を浮かべるよ」

「どうやって?」

「まぁ、見てて」

 飄々とそう言う太郎坊の顔つきが真剣なものになる。

 深呼吸をして、温泉に手を入れてしばらくすると、そこにあった湯気が消えた。そうして氷の塊が温泉に浮き出す。

 パキッと氷が割れる音がする。

 太郎坊が温泉に手を入れただけで、そこは湯気の立つ暖かな湯から、氷の浮かぶ冷たい水に変わっていた。

「凄い……」

「父さんならもっと一瞬で変えられるんだけど」

「ううん。太郎さんも凄いよ」

「美澄さんにそう言われると嬉しいな。あ、冷たくなってるけど、温泉の成分は変わらないよ」

「そうなんだ」

「坊ちゃん、掃除終わりましたぜ」

 氷の浮いた温泉を眺めていた太郎坊と美澄に、清十郎が声をかける。次は中の風呂の番だ。

「冷たい水の傍にいると身体が冷えるよ。美澄さん、中に入ろう」

「うん」

 言われるままに中に入り、露天風呂と同じように太郎坊が湯気の立つ温泉に手を入れる。 

 しばらくすると氷が浮き出して、中の大きな風呂も露天風呂と同じように氷の浮かぶ冷たい水にしてしまった。

「何度見ても凄いわ」

「あーあ、父さんの仕事奪っちゃった」

「疲れないの?」

「疲れるよ。僕は父さんほど神通力がないから」

「内風呂はお義父さんにやってもらえばよかったのに」

「だって美澄さんにいいところ見せたいじゃない」

「大丈夫。十分見たよ」

「それならよかった」

 真剣な表情の太郎坊は珍しい。いつもその端正な顔に笑みを浮かべているから。それに見入ってしまいそうになったのは美澄だけの秘密だ。

「疲れたなら事務所で休んだら?」

「そうする」

 神通力というものが人間の美澄にはわからないが、疲れるものなのだろう。太郎坊の顔にはめったにない疲労感が出ていた。

 風呂場を出て、脱衣所に行くと、もう清十郎と春之進はいなくなっていた。おそらく2人で昼食を取りに行ったに違いない。

「じゃあ私は美也さんに次の仕事聞いてくるわ」

「美澄さん、待って」

 脱衣所を出て行こうとする美澄を、太郎坊が止める。

 そうして気が付いたら、後ろから抱きしめる形で太郎坊の腕の中にいた。

「太郎さん、仕事中」

「ちょっと充電させて」

「疲れたから?」

「疲れたから」

「少しだけね」

「ありがとう」

 背中に太郎坊の体温が伝わってくる。それと同時に、肩口でため息をつくのが聞こえた。

「大丈夫?」

「うん」

 元気のない答え方に、美澄がそっと身体を離す。

「美澄さん、もう少し」

「うん。だから、こっち」

 美澄が太郎坊の身体を、真っ正面からぎゅっと抱きしめる。疲労のある顔が少しだけ驚くのが見えた。

「美澄さん?」

「こっちの方が充電できるでしょ」

「さすが美澄さん」

 笑う声が聞こえて、抱きしめる腕に力が入る。

 こんなことで疲労回復できるのなら、安いものだ。

「ありがとう。充電できたよ」

「本当に?」

「本当。それにそろそろ百太が見られそうだし」

「え!?」

「大丈夫ですよ」

 すっと壁に目が現れて、声がする。

 百太がどこにでも現れて、このホテル全体を見渡していることを、美澄はすっかり忘れていた。

「坊ちゃんがバックハグしてるのなんて見てませんから」

「バックハグ……」

「それよりそろそろ旦那様がこちらにいらっしゃいますから、充電は終わりにしたらいかがでしょう」

「そうします!」

「仕方ないなぁ」

 慌てて美澄が太郎坊から離れると、残念そうな声が頭上から降ってくる。そっとその顔を見ると、あの疲労はどこへやら笑顔の太郎坊がいた。

 そのことに安堵しつつ、美澄はやっぱりホテルの中で太郎坊を甘やかすのはやめようと思うのだった。

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