蛇足に次ぐ蛇足 むかしむかし、裏切ってしまった幼馴染との再会

高校卒業とほぼ同時に、逃げる様に、誘われたままに……

堕ろす事なく産んだ娘と、私を孕ませた男の元に転がり込んだのだけど……

二人で――いや、三人で暮らすにようになって、そいつは程なく本性を剝き出しにした。


産んだ子を認知する事もなく、定職にも就かずに、遊び歩いて帰ってくる毎日。

移り住んだアパートを一週間以上、空ける事も珍しくなく、あちこちで派手に女遊びを続けていた。


その事について咎め、正規の職についてくれ、と懇願しても……

偉そうに指図するなと、事あるごとに、罵られ、殴られるようになっただけ。

高校時代は男らしい、魅力的なものだと映っていた粗暴な振る舞いも、流石に毎日のように痛めつけられていれば、色褪せて見える。

この人には、自分がついてあげないと、なんてふわふわとした気持ちは、すぐに吹き飛んだ。


なのに、私がこの男から離れる事が出来なかったのは……何故、だったのだろうか。

馬鹿な小娘だったとは思うが、それは今だから言える話だ。


こんな男についていった、自分の愚かさを直視したくなかったのかもしれないし……

心の何処かで、父としての情と責任に目覚める事にでも、期待していたのかもしれない。


……結局、そんなことは最後の最後まで、なかったのだけど。


ただ、当時の現実として、男は碌に生活費も寄こさず、浪費するばかり。

実家から持ち出した、僅かな蓄えも、一月と経たず限界を迎え――もう、自分で働くしかなかった。

選んだ仕事は、若さを金に換える夜の仕事、キャバクラだ。

普通に働くことも一度は考えたが、高卒の小娘が就くことができる働き口など、碌に見つからなかった。


十代という若さのおかげと、見た目だけはまだそれなりに整っていた為、そこそこに稼ぐことができた。

ただ、金が入る傍から、そのほとんどを、男に巻き上げられてしまう。

それでも何とか、最低限の生活費だけは確保して……

一体、自分は何をやってるんだろうと自問自答しながら、昼は育児、夜は水商売と、生活に追われる毎日。


――こんな生活、何時までも続けられるわけがない。

私の容姿が劣化して、碌に稼げなくなるまで、どれだけあるだろうか。

甘く見積もっても十年はない。五、六年あればいいほうだ。

……いや、その前に、私が壊れるほうが早いかもしれない。


いつもそんな不安につきまとわれながら……

徐々に心身が削り取られていくのを感じていたが、どうにもならなかった。


その日も夕方から深夜まで働いて、仕事を終えてアパートに帰る途中。

近道をするために、公園を通り抜けようとした時、あの人に会ったんだ。


今でも、はっきりと思い出せる。


古風な着物を着た、腰のあたりまで艶やかな黒髪を伸ばした女性が、公園のベンチに座り込んでいた。

同性の私から見ても――月の光に照らされたその姿は、見惚れてしまう程に幻想的で、綺麗なものだった。





訪れたアパートの居間で、私は、久方振りに再開した幼馴染と、昼食を摂っていた。

岡崎貴裕。私が、十年以上前に、裏切ってしまった人。

彼が何を考えて、私にお昼ご飯を振舞ってくれたのか……わからない。


罵倒されることは、覚悟の上でここに来たのだけど……

彼が、タカちゃんが私を責める事は、一切なかった。

それが、却って辛い。


「……味はどうだ?

口に合わなかったら、悪いな。

一人暮らしの男の料理なんて、そんなもんだ。

あんまり手の込んだもの何ぞ、作る暇も腕もなくてね」


「いや……本当に美味しいよ、お世辞とかじゃなくてさ」


碌に朝食も摂れずに出て来たせいで、空腹だった、ということもあるのだろうけど……

タカちゃんが出してくれた、昨晩の残りを温めたというカレーは、本当に美味しかった。

ちらり、と部屋の中をみると、古くはあっても、綺麗に片付けられて整理されているのが分かる。


十年以上離れているうちに……こういう事も、ちゃんとできるようになったんだな、って気付いて……改めて自分が、情けなくなってくる。

この人は、私と違って、あの時からずっと、まっとうに生きて来たんだって事が分かってしまうから。

胸の内から湧き上がってくるのは、もう幾度味わったのかわからない、後悔の感情だ。

なんで……私は、あの時、この人の手を振り払ってしまったんだろう。


思い出の中にいるタカちゃんの姿で強く印象に残っていたのは、中学時代の事だ。

偶に、タカちゃんの両親がいないときに、仕方ないな、何てぼやきながら……

お昼ごはんを作りに行ったりして、あーだこーだと、下らないことを喋りながら、一緒にご飯を食べたっけ。


……私の人生で、多分、一番無邪気に幸福を謳歌できていた時代の記憶。

昔みたいに、タカちゃんと同じテーブルで昼食が食べられるだなんて……思っても見なかった。

あの時間は、当たり前なんかじゃなかったんだって、この十年で嫌と言う程、思い知らされたから。


上っ面だけの、女を食い物にするしか能がない、どうしようもない男。

あいつは間違いなく、クズだったけれど……そんな男を選んでしまったのは、他の誰でもなく……自分だ。

ゴミみたいな男に靡いて、何もかもを全部、台無しにしてしまった。

他の誰が悪い、と言うわけでもない。

全ては、私自身の愚かしさが招いた事でしかない。


しばらく、黙々とカレーを口に運んでいたけど……沈黙に耐えきれずに、こちらから話を切り出した。


「あの、さ、タカちゃん……聞かないの?」


「……何を?」


タカちゃんは……もぐ、と私が刻むのを手伝った、野菜のサラダをほお張りながら……

疚しさから零してしまった言葉を短く聞き返す。

別に言いたくないならば、言わなくてもいい、という事なのだろうけど……

それは優しさとか、気遣いから来るものではないんだろう。


「え、と……ごめん、何でもない」


「そうか。なら、別にいい」


言葉に、視線に、熱が無い。

単純に興味がないんだ。

……当たり前か。私がこの人の好意を踏みにじり、裏切って……もう、十年以上過ぎているんだ。

今こうしてくれているのだって、ただの憐れみを含んだ気紛れでしかないんだろう。


「お前……今、働きに出てるんだって?

娘さんの学費とか、やっぱり大変なのか」


「あ、うん。蓄えは十分あるとは思うんだけど……何があるかわからないし。

手に職は持っておいた方が、いいかなって」


……私は、一体何でここにいるんだろう。

折角骨を折ってくれた結衣や、咲蓮ちゃんには申し訳ないけれど……

タカちゃんと、恥知らずにも、やり直したいなんて、口にする資格なんて、もうとっくにないのに。

なのに……諦めきれずに、ここに足を運んで、先程は胸に秘めておくつもりだった筈のそれを、口に出しかけた。


「まあ、今のご時世なら、確かにな」


「それにあの子、特待生で入れたから……入学金とか、授業料とか全額免除だって。

成績だって、いつも学年でもトップなんだよ」


全部……今更なんだ。

もう、あの時から十年以上過ぎて、私はとっくに子供もいる、おばさんだ。

タカちゃんは、どこか自分を卑下するような態度をとっていたけれど……

私なんかより、ずっと、ずっと世間に胸を張れる生き方をして来たんだ。


「へえ、大したもんだな」


「どうしても受けたいって言うから、記念受験のつもりで受けさせてみたんだけど……

正直受かるとか、思ってなかったんだ」


言葉を交わすたびに、壁を感じる。

こんな気持ちになる位なら、やはり、来るんじゃなかった。

判っていた筈なのに、どうしようもなく、自分が惨めだ。

でも……それでも、どうしても、もう一度だけ、機会があるのならばと、縋ってしまう自分が、情けない。


「親バカって思われるかもしれないけどさ。

結衣は……あの子は、本当に、よく出来た娘なんだ」


「……まあ、そうなんだろうな。

ちょっと話をしただけだが、確かにしっかりした娘だったよ」


そう、自分が両親に、どれだけ苦労をかけていたのか……はっきりと、思い知らされる程に。

少なくとも私の十代の頃は、あんな風には振舞えなかった。

いや、私が不甲斐ないから、そうさせてしまっているのかもしれない。


タカちゃんは、頑張ったんだなって言ってくれたけど……

私は、本当にあの子に恥じることのない、母親に、なれているのだろうか……?


脳裏に蘇るのは、あの時に私の目を覚まさせてくれた……助けをくれた人から、ぶつけられた言葉だ。


『正直に言うなら、お主の方はどうでもよい。

救われるべき云々をいうならば、お主などよりよほど手を差し伸べられるべきものがおるしな。

それが誰かは、言わねばわからんか』


それは、ただ冷淡に事実だけを並べて、突き付けて来るものだったけれど。


『強いて言うなら、お主の子供が不憫に思えてな。

……まあ要は事のついで、ただの気紛れよ』


多分きっと、そのままでは自分で産んだ子の未来さえ、投げ出していただろう私には、必要なものだった。


『もしいつかまた顔を合わせる機会があるのなら、その時までに、もう少しましな面構えになっておけ』


ただ――そのいつかが来ることは、この十年の間……なかったのだけれど。


あの人と……もし、また会う事が出来たのなら、今の私を見て、どう、思うのだろうか。

今更、踏みにじってしまった……大切だった人に縋る私に、呆れるだろうか。


娘に御膳立てされなければ、こうして、タカちゃんと顔を合わせる事だってできなかった、臆病者に。


「なあ、お前」


「えっと……何?」


不意にかけられた声に、意識を現実に引き戻された。

慌ててタカちゃんに向き直ると、どこか呆れたように彼は言葉を続けて来る。


「いや……食い終わったみたいだし、皿、下げてもいいか?」


気が付けば、私はご馳走になったカレーを綺麗に平らげていた。

よくよく見れば、タカちゃんの皿も、空になっている。


「あっ……その、片付け……私も手伝うよ」


ああ、と返す彼に付き従って、やや手狭な台所で、並んでの洗い物。

……食事の支度の時もそうだったけど、酷く懐かしい気分だ。

固まったカレーがしつこくこびりついた鍋を幾度もスポンジで擦りながら、こちらに目を向けずに、彼はこちらに声をかけて来る。


「自分でも、はっきりとは思い出せないんだがな。

漠然と、わかるんだ……多分、最近まで俺は、やってはいけない何かをやらかしてた」


え、と唐突に告げられたそれに、思わず聞き返してしまう。


「何かって……何?」


「何なんだろうな……でも、きっとろくでもない事だ。

何処かの誰かが、帳尻を合わせてくれただけで、それがなかったら、きっと……

誰にとっても酷い形で終わってた、と思う」


沈黙する間に、かちゃかちゃと、食器を洗う音だけが響く。

……これは、タカちゃんの、懺悔、なのだろうか。


「俺は……お前を、由香の事をどうこう言えたようなものじゃ、ないんだと思う。

あの時の事を、割り切る事も、乗り越える事も出来ずに、引きずったまま……この齢まで来ちまった。

そうして棚ぼたで転がり込んできた、何かを身を委ねたせいで、致命的な所で、選択肢を間違えた」


「そんな事は……私が、私が、あの時、タカちゃんを、裏切らなければ……」


きっと貴方は、間違えなかった、と口にしようとして、その言葉に意味がない事に気付いた。


彼自身でさえ、自分が何について悔いるべきなのかを、忘れている。

……忘れさせられている。

彼の語る何かは、当に決着が着いてしまった、なかったことになった、蒸し返すべきではない、ものなんだ。

直感的に何となくそう感じたそれは――きっと、間違っては、いないと思う。


蛇口から捻った水で、こびりついた汚れをこそげ取った鍋を洗い流しながら……彼の言葉は続く。


「今更、たらればなんかを語る資格も、意味も、きっとないんだ。

……俺も、お前もな。開き直りって言われれば、そうなんだろうが。

ただ、出来る事があるとするなら、せめて次を間違えないようする事くらいじゃないか」


けれど。彼がそれをあえて、今持ち出してきたのは……

自惚れでなければ、私の為、なんだろうか。


かちゃん、と、洗い終えた鍋をひっくり返したまま、水切りかごに置いた後、タカちゃんは、はあ、と息を吐いた。


「これで、洗い物も最後だな。

何か、自分でも、言ってて意味の分からないことを聞かせちまって、悪かった」


「ううん――聞かせてくれて、ありがとう」


私は、自分の中の綺麗な思い出だけに縋って、今のタカちゃんの事を、きちんと見る事が、できていなかったのかもしれない。

あの時から、十年以上の年月を離れて過ごしていたのだから、知らないことが多くあって当たり前だ。


少しだけ休憩すると……帰り支度を整えながら、彼に視線を合わせて、切り出す。


「あの、さ――また、こうやって話したりとか、できないかな。

今度は、ウチに来てもらって、私がご馳走したりとか……

駄目だったら、いいんだけど」


「……まあ、仕事が入ってない日とかなら、別に構わんよ」


それでも、もし、許されるのなら……また、彼ともう一度、やり直したい。


「うん……じゃあ、今日は本当にありがとう」


他人はそれを妥協と言って蔑むのかもしれないし……

ただの、傷のなめ合いにしかならないのかもしれないけど、それだけでもいいから、繋がりが欲しい。


「ああ、それじゃ……またな、由香」


玄関のドアに手をかけて、別れの挨拶だけは、あの頃の様に。

……またな、と言ってくれた事が嬉しくて、涙が滲みそうになるのを、堪える。


「――うん、またね、タカちゃん」


最後に交わした笑顔は……昔とは、どうしようもなく変わってしまったけれど。

それでも、またその手を握る事が出来たなら、今度はそれを二度と離さない様にしようと、心に決めた。

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