5:夏期講習、あるいは補習
「たっはーー!! こんな元号がふたつくらい前なんじゃねっかってくらい前近代的な雑然さとタバコ臭さが平成にも残って殺がったんだな!! 雑誌さっさと捨てろよ雑誌!! おい『赤眉』、六秒くらい眺めてたらこの部屋の風景にも飽きてきたからそろそろトウキョウに帰らせていただくとするぜ!」
「ああ、さっさと帰るといい。レナという少女の机から脚を下ろして、そのか弱い土足で東海道を踏みしめるといい」
「え? なに? もしかして怒ってますか? ごめーんオレそういうの解らなくてさお前らのせいで!!!」
そう言って机の上から飛び降り、松ヶ崎支所三階のフローリングを鳴らした理生のもとに、青い半券が二枚投げられた。
「おお……おおー、キョウトからトウキョウ行きの特急券と乗車券だな。報酬ありがとう、とオレの中にある「感謝」の感情を呼び起こして口上を述べて殺るぜ」
「感謝さえしておけば、無駄な経費もチャラになるって図式が成り立つほど現代は牧歌じゃないんだがな。おまえ、『幻滅』とやらを使って自由に乗車できるんだろう?」
「ばっかじゃねえの。無賃乗車は人倫に悖るじゃねえか」
ぎゃはは、と半券を天井の蛍光灯に掲げつつ嗤う理生は、白い無地のTシャツに革のジャンパーを羽織っていた。
「キョウトを八時半に発……よし、なんとか終電で家に着けそうだな。今日はよくわかんねえがいいバカンスになったぜ。異世界人もそれなりに殺れたしな。後に望むらくは、あんたんとこの一人娘をこっちに寄越してくれ、って事くらいだぜ」
「それはおまえの享楽的興味であって、本社の総意でないことを流石に信じたいところだが……はあ」デスクに座っている白衣の女性は、眼鏡をかけ、本日まだ遂行すべきいくつかの電話の案件について気を暗くしていた。先に鴨川で起きた出来事──理生が殺した推定数百人の異世界人について。当然、首尾よく処理することができれば京都松ヶ崎支所の手に余る戦果として計上できる好機であるが、そうはいってもやはり面倒なことに変わりはない。
白衣の女性は眉間に指をやりながら、
「じゃ、私はこれから疲労をおしておまえの後処理に励むとするからな。生憎昨晩もここで寝泊まりしてしまったもので、全身が崩れるように痛いんだ。──おまえもそうだろう? もう遅いんだから、別にきょうは泊って行ったって良いんだぞ? 「少女」がひとり過ごせる空間は、奥の休憩室にちょうどあるのだから。ちょうど──」
おまえの高校も今は八月、夏休みだろう?
今日の終わりを急く必要もあるまい。
そう言って白衣の女性はデスクの奥に置いてあったタバコの箱に手を伸ばす。
「──ぎゃはははははっ!! 「組織」さんはこれだから世間知らずで困るなあ!! ──残念ながら、オレは帰らざるを得ねえな、だって」
緑髪の少女はふっと真顔に戻る。
「明日は学校の夏期講習なんだ。親が金出してくれてるし、サボるわけにはいかねえだろ?」
ジュッ、と、ライターが灯る音。
「それに、予定通りに帰らねえと、コイツが怒るしな。そういう訳で、お暇させてもらうぜ『赤眉』さん。老化が早まるからちょっとは禁煙しろよ、あんたは「組織」のホープなんだから」
そう言って、右隣の虚空を親指で指した理生は、雑誌に埋もれた窓を無理やりこじ開けて、威勢よく外へ出て行った。
後には京都の夏の夜にふさわしい蒸した静寂と、青白い慣れた煙だけが残る。
「……まったく」白衣の女性はタバコを灰皿にすり潰し、前髪を搔きあげながら、卓上の受話器を取る。「案外私も、見る目があったかもしれないな。もしもアイツが私の一人娘だったとしたら、喫煙量が今の四倍に増えていたかもしれない──とかく」
明日はレナという少女は、ここに現れるだろうかな。
どうせ今頃、私の形上の警告なんてはなっから無視して、同居人の殺害を試みているだろう。まあどうせ、そう時間もかからぬ内に頓挫するだろうが──
なんなら私に泣きついて、深夜にここの支所に現れる可能性すら考慮しないといけないからな。そんな彼女を見たすぎてしょうがないから、しょうがなく、今夜も此処に寝泊まりするほかない。
「さて、おまえはどう乗り越える。愛の亡き少女──」
*
家から徒歩五分の、一乗寺駅のベンチに座って向かいの蛍光灯を眺めていた。辺りはすっかり闇に落ち、ホーム内だけが光に浮かびあがる様は洞穴キャンプのようだった。
大変情けないもので、宿舎の三階から威勢よく飛び出し、階段を駆け下りたところまでは良かったのだけれど、駐輪場でチャリにまたがろうとした瞬間に視界がぐにゃりと歪んだ──そりゃあ、そうだなと。昨日からほぼ一睡もせずにあちこちを行脚していた私の身体は、屈強でも何でもない十六歳女性の身体は、一日前のように夜のキョウトを奔走することを許さなかった。なけなしの緊張感すら独りになったことで掻き消えてしまったのか、にわかに間抜けな音が腹から鳴って。たまにラビーを家において訪れていた近所のラーメン屋に行きたくなったけれど──腹以上に間抜けな私は、先立つものを自宅に置き忘れてしまったようで。すっからかんで、これじゃあ母親に怒られて泣いて家出してきた子ども同然ですね。そのような微笑ましい日常が、夜のキョウトのどこかで今も繰り広げられているのだろうかと、私の身では解像度のきわめて粗い妄想を馳せるしかないけれど。
少なくとも一乗寺駅のホームは私をおいて他に誰もいなかった。とはいえ今は日が暮れたばかり。十分もすれば叡山本線の到着とともに、日常が知らん顔して押し寄せて散り散りになってゆくことだろう。──ああ、本当に。ここで孤独を謳歌したつもりの顔をする資格が、今の私にあるはずもない。どのような結果が今を塗りたくろうと、かのような過程を踏んでしまった以上、私に帰れる場所があったとして、そこに帰るべきではない。あるいは現代が用意してくれている、それこそ異世界人の腹に炎光を打ち付けるときのように手応えのない、空虚な世界に留まるべきでもない。
私は行かなければならない。行かなければならない場所は決まっている。なぜラビーを殺すことを命じながら、それを諦めろと人づてに唆したのかなんて最早どうだっていい。どのようにすればあの同居人を殺せるのか、殺したはずなのにビデオを巻き戻したかのように無かったことにしてしまった、あの彼女を、どのようにして。私の監督者という名目で「組織」から実質的に左遷されたあの人ならば、すべてを言わずとも識っているのだろう──『赤眉』に「未知」などない。
あなたの思惑はどこまでも未知なのに。
カンカンと、甲高い踏切の音がどこからか。
改札を抜けて、きょうは帰る予定のない、自宅までの一本道を見据えると。
一瞬、ぼんやりとした光の球が向こう側から近づいてきているように見えた。
目をこする。次ははっきりと視認できた。私のもとにゆっくりと、迫ってくるその人影に、思わず
「なんで……!」
と、呟きながらも語気を強めてしまう。
あの引きこもりは、キョウトに来て一度も、家から外に出ることが叶わなかったはずなのに。ついに私と視線が合い、いつもの屈託のない笑みに似つかぬ息を切らし、さらに近づけば顔一杯に汗をため、ピンク色のガウンすらびしょびしょになっているのが解り。
そして目の前で、膝に手をついて息を整えてから、
「よかった、まだ遠くにはいってなかったね……っ」
そうやってきみらしく無邪気に言う。
背後で叡電が通り抜けたのか、わずかな風が後ろ髪を撫でた。かたんかたんとレールを擦る小気味良い音がなくなる頃には私の鼓動が、一層はやくなっていた。
なんで、とあえて繰り返すまでもない表情を、私がしていたのだろうか。
「だって、レナちゃんこのまま、トウキョウにいっちゃんじゃないかとおもったから……」
そんな訳ないでしょう、疲労でろくにチャリも漕げないような状態なのに。
「あのさ、レナちゃんにも色々事情があると思うんだけど、でも、置いていかないでほしいんだ……ほら、ラビーだって、こうやってちゃんとお外、出られるんだから」
ちゃんと? 数分外に出ただけでそんな汗びっしょりで息も絶え絶えで?
「いろいろ迷惑かけちゃうと思うけど……その代わり、ラビーにできることは、なんでもするから。だから、置いてかないで……ラビーには、レナちゃんしか、いないから」
きみには私しかいない。それはそうかもしれないね。
少なくとも三年前、私の目の前に現れた時から──きみは、ずっと隣にいたから。
でも、きみの世界であるはずの人間は、ついさっき、君を殺そうとしたのだ。殺したのだ。
ラビーはひとしきりまくし立てると、ふたたび息を切らしながら私を上目遣いで見つめ、返し言葉を待っていた。私のこめかみからも汗の筋が垂れる。先ほどまで気にならなくなっていた蒸し暑い空気が、頭の中に吸い込まれていくようだった。
熱くなった私の身体は、普段なら奥底に閉じ込めていたはずのことばを漏らす。
明らかに、それで世界が変わると解っていながら。
言いすぎであると解っていながら──
「私のために、何でもしてくれるならさ……」
「う、うん!」
「私が今、きみにとてつもなく死んでほしいと思っているとしたら、」
きみは死んでくれるの?
一乗寺駅から降りてきたはずの人間は、とうに辺りから姿を消していた。
「……だめだよ! だって、死んだら、レナちゃんといっしょにトウキョウにいけなくなっちゃう!……」
言い訳をする子供のように、大きな目をさらに見開いて私に懇願する様子のラビーは、しかしすぐにトーンを落とし、
「──あれ、でも、そのレナちゃんが、ラビーに死んでほしい、って思ってる? ってこと? だったら……死ぬしかない、のかな」
死ぬしかない、のかな。
大好きなレナちゃんが、言うなら。
その言葉を最後の覚悟とすることに決めた。
額に手をかざし、『炎光』を発現させて、一挙に目の前のニンゲンに叩きこむ。
ラビーが困惑しきりなのも仕方ない。
彼女は知らないのだ、信頼している人間から敵意を向けられる愚かな現代の理を。
それでも私を愛し続けられるだろうことは、その目を見れば解る──けれど。
私には解らない。
きみの過剰すぎる愛が、私には理解できない。
だから私にとってラビーはまさしく、トウキョウへ行く前に殺すべき異世界人だ。
「あれ、えっと、あはは……」
彼女の腹に押し当てたはずの炎が、消えていた。
「なんか、何が起きたのか、よくわからないけど……」
異常なまでに手応えのなかった右手のひらを確かめながら、思わず、その場にへたりこんでしまった私に、
ラビーはそれでも笑いかけていた。
「その、レナちゃんは私に、死んでほしかったんだよね。じゃあ、今はここにいるべきじゃ、ないね、えっと、とりあえず……」
かえって、考えるね。
そう言ってラビーは、濡れっぱなしの背中を私に見せ、歩みを始めた。
疲労困憊の私ですら、ゆっくり立ち上がって、それでもすぐに追いつけるような遅さで。
あの宿舎へ帰るつもりなのだろう彼女を、徐々に遠ざかっていく彼女を、けれども捕まえることができず。
私はしばらく一乗寺駅前で無様に座りこんでいた。
*
「間もなく、シナガワ、シナガワです」
物悲しいチャイムとともに、次の到着を告げる自動アナウンスが新幹線に響いた。辺りの座席では荷物をまとめるスーツ姿の男性や、眠りこけた子供たちを優しくゆする父母、盆の暮れにさまざまな旅情が交差する午後十時半。
「ねえ、シナガワってトウキョウ?」
「うーん、違えんじゃねえかな、たぶん」
三人席を二人で占領している女性組の会話は、周りの耳には入っているはずだが、誰も気に留める様子がなかった。
「シナガワとトウキョウって違うんだ。同じトウキョウトなのに、うーん、難しい。てかリオちゃん、その服暑くないの?」
窓際に座っていた方の女性が、リオと呼んだ隣の少女の上着をつまんで言った。革のジャンパーが、車内のオレンジ色の光を受けて鋭く照っている。
「ぎゃはは、今更だろそれは。今は周りに見えてんだから、軽装って訳にもいかねえだろ。おまえにはわかんねえかもだけどな、ぎゃははっ!」
「それは……その、その、かみのけが目立つからってこと?」
「それもあるし、ここの指定席が空いてるみたいに見えたらヘンだろ? それに隠さなきゃいけないのは髪だけじゃねえな! んなこと少し考えたら解るだろよ……って、痛ってえよ、悪かったって」
言われて、ぎゅっと強くつまんでいた革ジャンから手を離した少女は、前の座席のボトルラックに入れていた麦茶を手に取りながら、ふん、とわざとらしげに鼻を鳴らす。それだけでは気持ちが収まらなかったのか、麦茶のペットボトルをガン、と車窓に打ちつけて──明らかに異様で目立つ仕草だが、当然、他の乗客は知らん顔で、迫る下車に向けた構えを進めるだけだ。
明らかに起こった様子の彼女を、理生は慣れた様子で見守りながら、ジャンパーのポケットに手を突っ込む。
窓の向こうの黒い景色ににわかに点々とした灯りがよみがえり、やがて建物の看板ひとつひとつの文字も視認できるようになる。
何人かの乗客が立ち上がるのを見届けつつ、二人の閑寂を破ったのは、
「──ねえ、トウキョウ、次?」
「そうだぜ」
「あのさ、ホントウに帰るの? キョウト、一日しかいなかった」
「何言ってんだ。明日だって夏期講習があるし、日付回るまでに帰るって母親にも言ってあるんだ」
「──それが、だからさあ!!」
次に車窓にペットボトルが打ち付けられる音は、発車のチャイムによって掻き消された。
……かえらないと、
「いけないじゃん、家に。会わないと、」
いけないじゃん、親に。
「……ぎゃはは、お前、さてはキョウトが相当楽しかったな?」
「だから、そうじゃ、なくて、」
「仕方ねえよな、そりゃそうだ。あれだけたくさんの異世界人を殺せてよお。少なくとも、オレは楽しかったぜ? 勿論明日の講習が憂鬱じゃないと言えば噓になるが、それはオレみたいなのでも真っ当に生きる砦だからな。だから」
今が、真っ当から外れる最後のチャンスっちゃあチャンスだな。
横のボックス席を見ると、寝ていた子供たちが目を擦りながら、どこか満足気な表情で両親へ言葉を遣っていた。
シナガワからトウキョウまでの道程は、どのみち幾分の間もない。まばらに空席が目立つ車両で、緑髪の少女は隣人の頭に優しく手をやり、
そして──革ジャンを脱いだ。
露になったその髪は、素肌は、いまや『幻滅』してしまっている。
「今日も暑かったな。なあ──お前の火照りは、ここの
隣人は、ずっと理生にしか見えていない顔で、解りやすい答えを返す。
理生は、いまや隣人にしか見えていない『幻滅』のもと、座席に不遜に立ち上がって笑った。
紙袋を見せ合いながら笑う家族連れ。
パンフレットを片手にテンションの低い会話を繰り返す若い男性の集団。
イヤホンをつけながら目を閉じる軽装の女性の髪を、当然の権利のように撫でる男。
「ぎゃはははははははっ!!」
怒情を喪った彼女が嗤うのは、決まってその埋め合わせのためだ。
「なあ、レナ! トウキョウはこのように、塵芥のごとく異世界人どもがのさばって殺がる! それを殺そうとするオレらの存在もろとも、まるで気にせず、今日と同じ明日が来ると呑気に信奉する豚共が席巻してるんだ! 面白いぜ、まったく! 今日みたいな明日を創るのが、どんなに果てしなくて難しいかを知らねえでよお──」
だから、早く来いよこの
こっちの「組織」はきっと、お前が望む世界だろう。オレがそうだったように。
ただ──同居人を殺すのは、絶対に無理だって気づいてからが本番だぜ。
自分だけに視える、沸点の低すぎる彼女を、我が子のように見下ろしながら理生は思う。
「間もなく、トウキョウ、トウキョウです──」
────
──
*
「やあやあ、こんな夜分に支所を訪れるとは、レナという少女はやはりとんだ勤勉者だね。それとも、同居人さんと痴話喧嘩でもしたか? ……いずれにせよ、おまえの来訪はまるで予期していなかったよ」
そう言って、いつもの席に頬杖をついて座る詩織さんのもう一方の手には、水色の小さい紙と、白い書類が何枚か、にぎられていた。
あれはきっと、トウキョウ行きの──
「さあ、答え合わせだ。私の命令通り──同居人を殺せたか?」
私が次に絞り出した言葉を聞くや、あなたは天井を見上げて嗤った。
時計はもう午後九時を指していた。
(続く)
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