4:無限愛廊

 二〇〇二年八月十九日、一乗寺駅前の六畳1K宿舎。


 廊下の軋んだ木の音を立てつつキッチンを抜ける。ドラセナとオリーブが前で鎮座するカーテンと窓を開けると、まだ落ちていない昼下がりの太陽が緑色の葉に祝福の光を与えた。


 振り返り、ローテーブルを見ると、私が今朝家を出るときには何ダースか余っていたはずのハッピーターンが食い荒らされ、小袋が机に床に布団の上に散らばっていた。私は気がつくと拳を握りしめていて、それらゴミを隠滅するかのような手際でかき集め、台所のゴミ袋へ放り込んだ。そして最早敷きっぱなしである必要がない二枚の敷布団を三つ折りにして、空いたスペースに座りこむ。


 壁に背中をもたげて──オリーブの葉が風になびく音を聞く。


 私は──


「私はラビーを殺しました」


 はっきりと口にしてみる。


 キョウトに赴任して来てから、この古いアパートに住み移ってから三ヶ月。ここ数ヶ月続いていたラビーとの暮らしは、それなりに呑気で平和であった。生活能力皆無な引きこもりの彼女と寝食をともにし、事務所で詩織さんの意地悪い薫陶をうけながら、キョウトに潜む少々の異世界人を殺すことで生計を立てる日々。それをこんな私でも享受できる心地よさとして、なんとなくだらだらと続ける選択肢も当然どこかで選びえたのだろう。


 でも、駄目なのだ。私はトウキョウに行かなければならない。


──どうして、わたしたちだけが、いじめられちゃうんだろう

──こんな世界がまちがってるって、言うのもいまさらなんだよね


 ──だからさレナちゃん、わたし、いつか

 ──みんなに、わたしたちみたいなヒトもいるんだって、知ってもらって

 ──いつか仲良くなれたらいいね、って、伝えたいんだ──



 その為とあらば、ずっと一緒に暮らしてきたラビーすら躊躇なく殺せてしまう自分が、本当のところでは当たり前のように怖いけれど、他方でこんな私にしてくれた「組織」に感謝のことばを贈ってあげてもいい。そんなことを考えたとき、私が真の意味で独りになったのは、隣に青髪の少女が居なくなったのは、ずいぶん久方ぶりのことであるなあと思い当たった。


 窓から差し込む陽の光は先ほどよりも弱くなっていた──



「あれー? そこに居たんだ、おかえりーレナちゃん!」




 *


 同時刻、鴨川三条大橋。


「うお、おお……今回は派手にやってくれたねえ。先月の祇園祭の時に奴を呼んでいれば、軽く一万人は殺せていたんじゃないか?」


 刺すような暑さが蒸すような辛苦しんくに変わる暮れの折、三条大橋から鴨川を眺める白衣の女性の姿があった。


 鴨川のほとりには、既に四散した観光客が捨てていった手荷物や布の破片がぽつぽつと、赤黒い血の海に浮いていた。


「川のほとりに血の海ってのも、可笑しな話だが……相変わらず、異世界人殺しの容赦なさにかけて、いまや奴の右に出るものはいないなあ」


 女性は風に揺れる前髪を鬱陶しそうに抑えながら、川のほとりのほうへ向かって


「おーい、リオ少女。もう出てきてもいいぞ?」


「どっちに向かって話してんだよぎゃはははっ!!」


 横から割れるように高い声がした。


 白いTシャツに青いデニムと簡素な出で立ちの少女が、ショートヘア―の緑色をひるがえしながら、橋の柵に尻をおいていた。すらっとした脚を空へ投げ出しながら、彼女は眼下に広がるツワモノ共が夢の跡を満足そうに見やっている。


「お前らのお望み通り、今回も派手に殺って殺ったぜ? たっくさんの観光客で溢れかえる真夏のキョウトをよお。それでもお前らは関係なく、今回も「掻き消せる」んだろうから安心して信頼して美味しく空しく殺させていただいたぜ──『赤眉しゃくび』」


「その名で私を呼ぶことは、取り返しのつかない「怒り」につながると、お前に限っては理解できないか」


「ぎゃははははは!! 理解できないなあ! けど、今は頼みごとの最中だしなあ!」


「掻き消せる、って、簡単に言うけどなあ、リオ少女」白衣の女性は眉間に寄っていた皺を指でぐりぐりと抑えつつ、横で脚をぶらぶらさせる理生を見上げながら、「この規模になってくると流石に関係各所への電話を数時間は頑張らないといけなさそうだぞ? 私は電話という営みが早起きの次くらいに嫌いなんだ。そんな嗜好に合わない仕事を私がこの後頑張った成果は、明日の朝のワイドショーで確認してくれ」


「何事もなかったかのように、グルメリポートだか新作ガジェットの紹介で溢れかえってるのを楽しみにしてるぜ、ぎゃははははっ──


 ゼッタイに、隠し通してくれよ。でなきゃ、困るぜ」


 少女の顔からふっと色が消える。女子高生らしいナチュラルメイクに似つかわしくない陰が一瞬だけ宿ったように見えた。


 その感情はもちろん、「怒り」ではないはずだが、そうだとすると──



「──だって、オレはごくフツーの学生を殺らせてもらってるからなあ! 親やトモダチにバレちまったら困るから、そりゃそうだろぎゃははははっ!!」


 安心しろ、おまえ達の日常を保つのもわれわれの仕事だから。白衣の女性は目を閉じながらぽつりと告げる。


「──というかなあ、おまえ、今回頼んだ仕事はこれじゃないんだが。京都支所うちのかわいい一人娘に伝言は完遂できたか?あの同居人さんの殺しは諦めろ、って」


「ああ、ばっちりな」


「嘘つき」


 理生は空を見上げてわらった。そして言う。


「だってさあ、お前ら「組織」はいつも理由を説明せずにオレ達に命令してくるじゃねえか。レナにトウキョウ行きを諦めさせる、だったか? なんでそんな事、オレに頼むんだよ。道理のねえ命令にはできるだけ皮肉ってやらねえとな!」


「なぜ命じたのかって──そりゃあむろん、「組織」のニンゲンとしてのお達しとしか言いようがない。『親殺し』をトウキョウに送り込むには、時期尚早が過ぎる」


「嘘つき。お前そんなこと微塵も思ってねえだろ」


「はは、流石になあ!」


 今度はふたりで一斉にわらう。辺りは他に一切のヒトケがしなかった。


「本当のところは、組織云々ではなく、いち研究者崩れとしての思いだよ。レナという少女とあの同居人が、今の生活でどのような関係の成れ果てへと至るのか、気になってしまってな。トウキョウに送り出すのが少々惜しくなってしまった」


「そうか、そうかよ──」


 そんなレナと同居人が惜しくなったお前が、「殺し」を命じたのはどういう訳だ?


 『幻滅』を用いて先ほどまでレナを追尾していて知ったその情報を、理生は当然知っているという口ぶりで問い質す。そのようにカマをかけないと、あえなくのらりくらりとかわされてしまうのが『赤眉』なのだ。


「「組織」の人間だとしても、あるいは研究者? だとしても、説明がつかねえよな。明らかに理に適ってねえよなあ」


「──そうだなあ、いうなれば、保護者として、だろうか」


「……傑作だぜ、コイツは! お前みたいなのが保護者だって!? オレ達少女を玩具みてえに弄って壊して手のひらで転がして遊んでる、お前らみてえのが──面白すぎるっての!!! 我が子に殺害を命じる親があってたまるかよ!」


「年下に正論で殴られるのは相変わらず気分が悪いねえ。私は本気だよ──」


 しかし少しも気分を害した様子はなく、白衣の女性はクククと含み笑う。


「──そろそろ愛の亡きアイツも、あの青髪の事を乗り越えられるんじゃないかと思ってな。信じがたいと思うが、アイツとアイツの同居人の行く末についての純粋な学的興味と、このお節介は両立するのだ。数か月をキョウトで共に過ごして、アイツがほんの少しずつ人間らしくなっていくのを見届けて、この私にも、愛着めいたものが芽生えているらしい」


「愛着、か。この場でその言葉を選ぶのは悪趣味が過ぎるな。それはレナが、可哀想過ぎるだろ」


「ククク、そうかねえ」


「それにな、オレたちが人間らしくなっていくなんて、金輪際あり得ねえってわかってるだろ? 『赤眉』。もしも本当にそれを酔狂で望むなら、数ヶ月の時を費やす必要なんてねえよ──ぎゃはははははっ!!」


「酔狂、ねえ──「怒情」を奪われた少女は、随分と物事を俯瞰できる」


理生のことばになど取り付く島もない彼女の脳裡にも、今は数か月前の白い空間のことがよぎっていた。目を輝かせる白衣の女性の視界には、一面に広がる血濡れた草原と、闇に溶け始めた水面だけが映っていた。



 *



「やっほ~~~レナちゃん、おかえりー!! てかもう帰ってたの全然気づかなかったよ! ね~おなかすいた~~~~」


 日が暮れつつあり、壁掛け時計の音だけが響くはずの一室で。


 電気の消えた台所のほうから、ラビーが姿を現す。



 先ほど私が殺したはずの少女が、『炎光』で消えて亡くなったはずの彼女が、愛おしそうな笑顔で私を見つめていた。




「うん? なんでそんな顔してるの? 今日のおしごとでいやなことあった? ──とりあえず、ごはんにしようよ!!」





 そうだ。彼女をはじめて見たときもそうだった。


 どの面さげて私に逢いにきたんだと心から思った。


 せめて、そんな顔で私を見つめないでほしいと。


 馬鹿にしているのかってくらい底抜けに、愛するような顔で──



「ちょ、どうしたのレナちゃん! え、えと、とりあえず水飲む!?」


 いつものようにピンク色のまっさらなガウンが、電気の消えた薄暗い部屋でも映えていた。ラビーはわたわたと台所へ駆けてゆき、冷蔵庫にあったペットボトルの水を持って戻ってくる。壁際に座ったまま咳きこみ続ける私に掲げられるソレは、何日前に買い置きしたものだったか、最早忘れてしまったけれど。


「だいじょうぶ? 飲める?」


 ダメだ、それは──


「大丈夫、何ともないから」


 それは受け取ってはいけないものだ。


 彼女から顔をそらし、うつむいたまま呼吸を整えていると、ラビーはううぅ……と困った様に呻いてから、私の隣に同じように座った。


 私の隣に。


「本当にだいじょうぶ……? 多分さ、疲れてたんだとおもうよ。ご、ごめんね、いきなりごはんとか言っちゃって」


 言いながら、私の丸まった背中に手を回し、さらさらと、這うようにさするラビー。私が何も答えないでいると、宿舎の近くの道路でトラックがエンジンをふかす音が微かにひびき、扇風機もクーラーもつけていなかった部屋の蒸した空気が一瞬、きゅっと冷えたような感覚があった。狭い一室が刻々と、仄暗くなってゆく。


「えっと……」隣のラビーがすごすごと沈黙を破る。「あの、電気、つけていいかな? けっこう暗いし」


「いいよ、別に──」


「そ、そうなの?」


「いいからっ!!」


 気がつくと叫んでいた。俯いたままだったので、ショートパンツから伸びた膝に唾が飛んだ。


 ──ああ、なんて私は。


 この場においては明らかに私が悪者じゃないか。いや実際悪者なのだろうけれど。そんな役回りを引き受けたまま、次なるラビーのことばを待つのは趣味ではない。


「──ちょっと、このままにしてほしい。暗いほうが、今は落ち着くから」


「あ、そ、そっか! 落ち着くなら、そのほうがいいね! よかった……」


 そんな語調だけでも、胸を撫でおろしているのがわかるラビーのことを、私は未だに直視することができていない。暗いお陰で視線を放ったらかしにできるのが救いだ。


「このほうが、落ち着くのか、そっかあ……」


 あえて電気をつけないことが今の私にとっての施しになると判断したのか、安心したのか、ラビーはひとつふうと息をつく。そんな遣いさえもはっきりと聴きとれるほどに残酷な静寂のなか、

私はようやく、自分自身について俯瞰する余裕を持ててきた。



 今の私は──ラビーの施しを、受けられない。彼女の底抜けな元気を、こう言って良ければ愛情表現を、受け止められない。だって当たり前だ、ラビーはさっき死んだのだから。私がこの手で殺したのだから。施しを受けるのは死の否定に等しい。



 最初から──ある意味では解っていた。。出逢いの段階から非人道的だったのだから。だけれど、殺されたら死ぬべきだろう、流石に。人間か人間じゃないかといった次元の話じゃない。こんなものは全く、理に適っていない。


 そうだ、と思い直る。


 横に居る引きこもりのか弱い少女が生きていることなど、楽しかったかつての夏の思い出のように、何かの間違いなのだ。


 であればもう一度、この『炎光』で──無理やりにでも決心し、暗がりの横を向いてみれば。


「────」


 私の心臓に便乗するかのように、細い音を刻む掛け時計。

 蒸した空気にのみ起因するのではない、こめかみに垂れる汗。


 背中に感じる暖かな手のひらの感触。


 私の両目が捉えたのは、捉えてしまったのは、薄暮のなかでもはっきりとわかる青髪と、吸い込まれるような大きな瞳。




「……レナちゃん?」



 ──そんなに包み込むような声で、名前を呼ばれてしまったら。


 たとえ愛なき私とて、一瞬の逡巡を生んでしまうには充分であって。


 そしてそれが致命的だった。今度こそ勢いで殺めてしまうほかなかった。だというのに、一瞬で理解できてしまう──次に『炎光』でラビーを焼き、またしても何事も「無かったかのように」私の前に現れた瞬間、今度こそ、彼女にとって死が絶対的な終わりとは程遠い何かであることを認めざるを得なくなる。それはやがて、今の私にラビーは殺せない──という、屈辱にも似た認識へと昇華するだろう。


 トウキョウ行きの切符は掴めず、一度諦めた二人暮らしをだらだらと続行。


 そんな生殺し状態で過ごせというのか。


 だからせめて、私にあなたを殺す動機を与えてほしかった。憎くて糞な私の敵であれば、あるいは居ようが居まいが何とも思わないただの異世界人であれば、私の『炎光』がたったいま、不完全燃焼に終わることもきっとなかったはずだ。



 でも──



「……せきは、収まったみたいだね。よかった……あのさ、ラビー、きょうは家にあるお菓子で、がまんするから。だからレナちゃんはなにもしなくてだいじょうぶだよ? 疲れてるんだろうし、布団でゆっくり休んだほうがいいよ。ね?」


 何かがプツンと切れる音がした。




 ──そうやって。


 どこまでも優しくして、相手に申し訳ないという思いを抱かせるまでに自分を殺すのも、人間らしい愛だと誰かが言うのだろう。


 一度殺しかけた相手にどこまでも体調の心配をされるのを、嬉しがるのではなく、気味悪いと思ってしまうのも、愛亡き私だけに特異な病理だというのか。


 暴力にも似た慈しみを押しつけるのが、疑う事すらトリビアルな正義なのか。


「そしてさ、レナちゃんがげんきになったら、いっしょにトウキョウ行こうよ! ラビーもさ……」



 弱っている私を鼓舞するラビーが言うことなら、なんだって慈しめというのか。


 それが愛という、現代人の誰もに備わっている九十八種の感情のうちのひとつなのかだとしたら──


「ラビーも、、がんばるから」


「やめてよ……──」


「え?」


 やめてよ、と思い切り叫ぶ代わりに、私は握った拳を背中の壁へ向けて打ちつけた。


 背中をさすったままでいてくれたラビーは、口を開けながらすごすごと手を収める。


 ──ごめんね、驚かせちゃって。折角私のことを無邪気に心配してくれていたのに。


 私にだって「心配」や「罪悪」の感情は残っているのだ。


 そして「恐怖」も。


 こんなに壊れてどうしようもない私を心配して、愛してくれるきみが──殺したくなるくらいに、怖い。殺せそうにないほどに、怖い。きみを受け止められるほど、私はやはり、強くない。




 なんだ、人を一人殺すくらいのことで。


 これまで何人も殺せてきた私は、かくも無力なのか。




「ちょ、ちょっとレナちゃん! どこ行くの!?」


 立ち上がって、廊下を振り返らず進み、玄関をバタンと勢いよく閉めていた。



 朝から着っぱなしの服が、汗でべたついて気持ちが悪い。


 食事だってろくにとっていなくて軽くめまいがする。


 レナちゃん、と寂しげに呼び止める鈴の音のような声が耳朶をかすめ、すぐに離れていった。




(続く)

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