2:既知と未知の境界
「この地域が夏になると、ヒトが
京都市
自宅からチャリをニ十分ほど飛ばして着いた白い三階建てを見上げると、ベランダに
「やあやあ、おまえはいつもこんな早くに来ているのだね。同じ人間とは思えない勤勉さだ」
と何が面白かったのかてんで解らないけれど面白かったようでクククと笑う。私が呼応して軽く頭を下げ、建物の中をすすんで三階の部屋で再会したとき、詩織さんから浴びせられたのが先の「忽然とヒトが」の問いだった。
部屋入口の表札──『科学 術研究棟:京都支所』の看板。もはや気にもならなくなったけれど、学と術の間の一文字が剥がれてなくなっている。
「おいおまえ」
さっきまでオフモードで喫煙されていた詩織さんは、無地のTシャツだけだった長身の身体に白衣を羽織っていて、ぼさっとしていた赤茶色の長髪を後ろにまとめていた。私が階段をあがっていたものの十数秒で。さながら魔法のような──というのは彼女の前では禁句だ。
「おまえな、これは確かに他愛もない会話だが、なんの答えもかえしてやらないのは殺生だと思うぞ」
という訳で、無言で彼女のことを眺めていたら怒られてしまった。いつまでも腕組みの仁王立ちを崩さないので、朝から困ったものだと思いながら、
「キョウトの夏ははじめてなので、わかりませんが……なにかどこかでお祭りなのか、催しものがあるのでしょうか」
「答えに愛がないねえ」
「この建物の近くに大学があるだろう? ……ここもそれの一角ということになっているが、まあさて措いて、ふだんこの近辺に群がるのはあのキャンパスで学んでいる学生がほとんどなのだ。で、今は八月」
「そうですね」
「……そうかそうか、レナという少女は学生の身分を喪ってから久しかったね」
それも織り込み済みで彼女はきっと問うている。事前の台本通りに会話が進んでいる時の詩織さんは、いじわるそうな笑みを浮かべながら大層楽しそうで分かりやすい。
「つまり、夏休みだ。実家への帰省や自宅での寝太郎で、こんな早朝から大学に奉仕するような殊勝さを発揮できる訳がない。代わりに昼になると、三条の商店街や鴨川のあたりは無知な観光客で溢れかえって、見ているだけでも笑いが止まらないものだが。おまえは見たことがあるか?」
……昼は目立ちますし、人混みは苦手なので。
「そうか。そうだったねえ。おまえはやっぱり勤勉だ」
またクククと手に口を当てて笑う詩織さん。今日もここまで彼女の台本の上で踊らされているだけの感覚で、それだけならば日常の範疇なので何とも思わないのだけれど。
「……ところで詩織さんは、今日はどうしてそんな勤勉なんですか?」
「ああ? ──ああ、そういう事。実は昨晩の研究が捗って、ここで寝てしまったものでね。おまえから質問とは珍しいな」
「他愛もない会話ですよ」
「はっはぁ、そうヘソを曲げるなよ。勤勉なのはほとんどの場合において美徳だから気に負うな。例外があるとすれば、私が何も言わなくても」
彼女の背後にあるソファーを親指でさして──
さっさと座っていいんだぞと。
お気遣いは結構だけれど、ごめんなさい、こればっかりは数か月の付き合いでも踏み込めそうにありません。私は勤勉で、勤勉でしかないので。
そそくさとソファーに座ってあくびをかみしめる私の背後で、詩織さんはいつものイジワルな笑みを浮かべているだろう。あくまで昨日の「戦果」をとっとと報告したいだけの私にとって、「他愛のない」は理解からもっとも遠い日常である。つもりだけでも背中でそう答えてみる。
テレビニュースをバックミュージックに世界史の参考書を読んでいると、電話の用があったらしい詩織さんは少しの間をおき、彼女に似つかわしくないお淑やかさでソファーの隣に座った。
「今日は世界史か」
「毎週火曜日はそうって決めているので」
「どれどれ」わざわざ私の肩に手を回してページを覗き込む詩織さん、の距離感は未だにバグだと思う。「……中国古代史か、そこは適当に読み飛ばしておけば良いぞ。仮に試験のようなものがあるとするならば、その直前に知識を詰め込んでおけば事足りる範囲だからな。そんなものよりほら、見てみろよ」
詩織さんが指さしたテレビ画面では、朝八時。真実を報道したいのか騒ぎたいのかどっちらけなワイドショーが流れている。
「これがどうかしたんですか?」
詩織さんになら許されるつっけんどんな調子で。同じ反応をうちの同居人に返したら三日はヘソを曲げられると思われる。
「レナという少女はテレビをもう少し観たほうがいいね」詩織さんは画面に目をやったままで言う。「テレビというのは人間の「既知」と「未知」の境界を惜しげもなく晒してくれる装置だ。満足な豚たちの既知の最大公約数を、ほんの少しだけ超えた情報を提供することで成り立っているからな──すなわち、テレビで報道されない事実こそ、私たちが標的とすべき「脅威」。逆に脅威だからこそ報道されえないともいえるが、要するにだね。
おまえ、そんなどうでもいい中国古代史の記述からは目を離してアレを観ろって。京都支所長からのお達しな訳だが」
中国史になんの恨みがあるんですか、言いすぎじゃないですかと思いつつ、彼女に従ってみると、「アイフォン」という海外製?の携帯電話が日本にやって来てその性能に大げさに驚く女性タレントの顔が目に飛び込んできた。
「今おまえは「実にくだらない」という顔をした」
「あの、そろそろ肩の手どけてくれませんか」
「なんだ、この手の過剰なスキンシップには同居人さんで慣れてるんじゃあないのか?」
詩織さんは既に満足してクククと嗤っているので、私からは何も答えない。
「話を戻せば、おまえが「くだらない」と評しているであろうあの番組を私が観ると、とにかく安心するのだよ。だから毎朝のテレビが癖になってしまった。どういうことか、おまえにはもう解るね?」
瞬間、ぞくっとする。詩織さんは背後に腕を回したまま、私の肩口の髪をくるくると指で弄っていた。
そして、次の瞬間──昨日は何人だ? と。
私はここに来る前からずっと喉元で滞留していた返答を告げた。
「流石だなあ、私が面白半分で毎日五人なと言ってからというもの、律儀に勤勉に達成してくれるじゃないか。京都支所はおまえのお陰で、こんな辺境にもかかわらず評価が鰻登りだよ。忽然とヒトが減る夏のこの地域で、
「べつに、ちょっと観察すればすぐ判りますので。
それにやる気もありますし。キョウト支所の評価が云々──みたいなどうでもいいモチベーションとは別のところで」
「やっと喋るようになってきたな、眠気がとれてきたか?」
「ごまかさないでください」
正面のテレビでは、トウキョウのある大きな街で人が行方不明になったというニュースをやっていた。
「毎日五人を殺し続ければ、トウキョウ本部に推薦してやれる、って他でもない詩織さんが言ったんですよ。そうでもなきゃ、夜を徹してまで
「そうだよなあ、最近のおまえは目のクマが随分と濃く見える。そろそろメイクを教えてやろうか?」そう言って私の髪を触っていた手を今度は顔に伸ばそうとしてきたので、思わず蚊のように振り払う。
まったく愛のない奴だなあ、とあなたはいつもの如く面白そうにソファーから立ち上がって、背後のデスクへと移動したようだ。「いやあ、勘違いしないでほしいんだが、私だっておまえの望みをかなえてやりたい殊勝さはあるのだよ。あの糞狭いアパートで、同居人と決して余裕のない暮らしをしていることも知っているしな。
東京本部への推薦状だって何度も書いて送っている──それが門前払いを喰らって同然の望み薄なのは九十九パーセントおまえのせいだが、しかしこの私とて、奴らから二つ返事を易々と引き出せるような立派な人間だったら、最初からこんな辺鄙な研究所に追いやられていないのだ」
それが一パーセント、と。
「だからとにかく、火を見るよりも明らかな実績をおまえにあげさせる──つまり、一日五人のペースで異世界人を片付けてもらう、という、地に足着いているんだか根性論だか
がしかし、そうやって実際に何人も何人も殺してくれているおまえをよそに、世界は今日も満足な豚たちの「既知」で溢れている。おまえが「未知」と日々戦っていることが、奴らには全然響かない」
まただ、と思う。朝の出勤際、前日の成果を手土産に東京本部へと行かせてほしいと詩織さんに頼み込んで、そのたびに小難しい弁舌を振るわれていなされてしまう。それでも支所長さんは私のために一応、働きかけてくれていることは解っているから、それなりに引き下がってこの狭く雑然とした一室での日常を開始する。開始してしまう──けれど。
「……それでもやっぱり、私はトウキョウに行かなくちゃいけないんです。そのために生きているような、ものですから」
今日に限って私がそう言って粘ってしまったのは、きっと徹夜明けで色々なモノが鈍っていたからなのだろう。
一室に不慣れな沈黙が走る。振り返ると、詩織さんは演技の抜けた顔で私のことを凝視していた。いつものシニカルな笑みは消えて──そりゃあ、いつもの台本通りじゃなくなったし仕方ない。
テレビから馬鹿みたいにポップな音楽が流れてくる。
「おまえさあ、そういえばマトモに訊いたことがなかった訳だが。どうしてそんなにトウキョウ本所に行きたがっているんだ?」
「それは」私はできるだけ間髪入れずに答える。「詩織さんもさっき言った通り、生活が苦しいからですよ。いやあ、今日もあの狭くて先客がいる部屋に帰らなきゃと思うとぞっとしません」
「そんな俗な理由だけだったら、その目はできないだろう」
「──」
ククク、と詩織さんは嗤って目を逸らした。
「ひとつ、前々から温めていた提案があってな」次に詩織さんは白衣のポケットからタバコの箱を取り出した。「今日は世界史の日であらせられるところ悪いが、ちょっとばかり理系な述語を使うと──定量と定性という凝り固まった考えがある。ああつまり、現代人は膨大な量と劇的な質に弱いのだ。そういったものに圧倒されて、麻痺して、何も解らなくなってしまうのが世界の九十九パーセントを占める、満足な豚共だ。
おまえも、レナという少女もな。今後も私たちと一緒に生きようと思うなら、百万人の豚を殺すか、たったひとりの神聖を殺すか、どちらかを最終的に選んでいかなければならない」
「……何をおっしゃっているのか、よくわかりません」
「そのうち解る時がくるさ、おまえのような少女にもな。ともかく、私がおまえに当座のミッションとして課していたのはまさに「定量」──とにかく多くの
ところで、おまえが余裕のない暮らしをともにしているところの、同居人さん。
青い髪で、
いつも私の部屋で引きこもり、私の帰りを待つあの子と、私は三年前に出逢った。
あの子とは。
「──あいつ、どう見ても
上京の為に同居人を殺しましたとくれば、私は推薦状をしたためるために三日は禁煙できる自信があるぜ──かわいい部下の為に。
太く描いた眉をひとつも動かさずに詩織さんは言った。その手にはタバコの箱が握られていて。私はあの人に触られていた肩口の髪を触っていた。
ラビーを殺せだって?
そんなことを私に聞きますか?
そんなもの、答えはひとつに決まってるじゃないですか。
返答までに五秒と掛からなかった。
(続く)
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