第一章:過言残暑(前)

1:京都勤勉ヒロイズム

 八月でも文句なしに真っ暗の夜帯だというのに、宿舎の古い門をくぐると奥の建物の三階の窓がオレンジ色に光っているのを見て、思わず舌打ちが出てしまった。いや実際それほど落ち込んでいる訳ではないから言いすぎなのだけれど、意思のはっきりした述語を使わないとあの子は引き下がってくれないから、いわゆる予行演習である。脳内で。

 宿舎までの路と階段はいやにしずかだった──闇に溶けつつある緑のさわさわとした葉音と、右手に提げたビニール袋。ああつまり、本来私が一人でいただく予定だったお菓子とジュース。その音だけがする。

 なんとなく人目を気にしつつも辿りついた玄関のドアを開けると


「──六時にはかえるっていってたのに遅すぎるよ終電だよばーーか!!」


「……ちょ、深夜だから、声」


 きゃんきゃんと騒ぎ続ける同居人をとりあえず玄関奥へ追いやりつつ、鍵をしめながら、早速予行演習は失敗したと思う。ちなみに確かに終電であった、一乗寺駅は。そんなくらいの時間だしここは木造のボロアパートなんだから近隣の住民に配慮してよ間抜けが、なんて言い放てたら世界の何かが変わったのだろうけれど、代わりに私は、


「……ほら、ごめん代わりに買ってきたから、ハッピーターン」


「うわーやったーーー!!! レナちゃん大好きーー!!!」


 あまりに予想通りの反応。世界はそう簡単に変えられない。


 尻尾があったら振っていただろう程、ほどいた長い青髪を揺らして笑う彼女は、ラビーと云った。




 六畳1Kの空間は、ふたりで機能的に住むには狭量が過ぎる。ただでさえそうだというのに、三〇一号室のこの部屋には同居人の趣味嗜好で導入された観葉植物──ドラセナだったりオリーブの木が窓際でひしめいていて、お陰様でテレビやベッドすらも置くスペースを確保できず。


「いただきまーす!!」


 私がキッチンで本日分の洗い物をしている後ろで、洗い物の発生源のくせに一向に片づける気がない同居人は、ローテーブルにお菓子をひろげてパーティー気分のようだった。先の話に戻れば、我が家にはベッドがなく敷布団式なのだけれど、それも専用スペースがないのでカーペットのごとく敷きっぱなしにされている。ラビーは堂々とその布団に尻を置いてテーブルを囲んでいた。食事中に汚いな、とは敢えていまさら言っても意味がない。


 洗い物を終え、改めて壁掛け時計を確認すると、十六歳女性が活動しているには不自然なほうの一時を指していた。そんな最中にハッピーターンを暴食している十六歳女性の正面に腰を下ろす。窓を閉め切っているのですでにこめかみに汗が垂れるくらい蒸し暑い。ラビーが風下を独占していた扇風機をより俯瞰の位置に移動させる。


 ラビーは特に気に留める様子もなく、バリバリと音を鳴らし続けており。


「食べすぎでしょ。深夜に。太るよ」


「そうだとしたら帰宅が大幅に遅れたレナちゃんのせいだね! 今日という一日はかなり長く感じたよ!」


「ごめんなさいね、自宅警備の残業させちゃって」


「それにラビーはいくら食べても太らないようにできてるから余裕なんだよね!」


 はあ、と生返事しつつテーブルの向かい側で座る彼女を見やる。ピンク色でぶかぶかのガウンを着ていたけれど、その上からでもなんとなく判る線の細さ。引きこもりの癖に、恵まれたやつである。


「それでさあ」突然目の前からラビーがいなくなったと思えば、座っていた敷布団に寝転がってしまったようだ。行儀が悪いにも程がある。「なんできょうはこんなに遅くなったの?」


「そりゃ、仕事だよ。詩織しおりさんが大して実績のない私にどんどん任務を押しつけてくるんだ」


 なんて被害者面してみたが、実際は私から望んだ有様だったりする。


「そっかあ」おなかが満たされたラビーはとうに何も気にしていないらしい。「夜遅くまで、頑張ってわるものをやっつけてたんだよね。レナちゃんは勤勉だよ!」


「勤勉、なのかなあ」


 少なくともそういう論理で働いている自覚はないのだけれど、まあ。


 でもおかげさまで、と私は切り返す。


「ようやく見えてきたよ、このボロ宿舎から抜け出す未来が」


「ええ!?!? トウキョウいけるの!!」


 ラビーの上半身が、長い青髪を振りまわしてぬっと再び現れる。


「あくまで第一歩ね。ただおかげで、しばらく仕事が忙しくなりそう」


「そっか……ちょっと残念だけど、でも仕方ないよね。決まったらラビーも一緒に連れてってね!! 約束だからね!!!」


「私一人で赴任したら、あんた生活できなくて野垂れ死ぬでしょ。それは趣味じゃないな」


「やったーー!!! レナちゃん好きーー!!」


 よくもまあ、そんな臆面なく好きという言葉を使えるものだ──とも、今更指摘しようとは思わないけれど。その後も買ってきた1リットルのコーラを紙コップで飲みまわしながら、今日の仕事についてラビーに話せる範囲でだらだらと話しているうち、次第に扇風機の音が目立つようになっていった。


 秋の夜長というのは十六年の人生でいまだ実感がないけれど、この頃の夏の夜はたいへん短く思える。


「トウキョウかあ」今度はちゃんと布団に移動して寝転がっていたラビーは、ローテーブルで頬杖をついていた私にもギリギリ聞こえるくらいの声で言う。「キョウトとか、トウキョウとか、よくわからないけど……ずっと同じへやにいるの、もう飽きたなあ。新しい場所にレナちゃんと行ってみたいってずっと思ってた。たのしみだなあ」


 楽しみだなあ。

 それはまた随分と、重い言葉である。


 私としては、当座の一乗寺での二人暮らしをなんとか成り立たせることでまずは必死なのだ。そのうえで最近はようやく、次のステップに気を向けられるようになってきたぐらいで。


 、東京に行きたいと、ようやく。


 何か返事をしてやろうと視線をラビーに向けると、すでに仰向けになってすうすうと寝息を立てていた。時たま当たる扇風機の微風が、青くてきめ細かい彼女の前髪をめくり、蛍光灯の白を浴びてかがやいている。そりゃあもう深夜だしね、と立ち上がって──ああ、


 こういう時にブランケットとかを掛けてあげるのが、所謂思いやり、愛というやつなだっけと思い当たって。


 そもそも帰宅が遅れたんだから、自分用以外に色々買ってくるべきだったと。


 いつもそういう適切な動きを後になって、独りになって思いつく自分が、相当な程度でいやであるけれど、仕方ない。


 彼女の上下するお腹に布をばさっと回したその時の私は、確かに勤勉の論理で動いていたのだろう。


 さて。

 そんな勤勉な私は、気持ち良さそうに眠りこける同居人を尻目に、再び玄関へと向かう。今日もまだやり残した事がある。


 *


 宿舎から自転車を二十分ほど漕ぎ、下鴨神社のほとりを過ぎて、鴨川デルタへとたどり着く。どこか怨念おんねんめいたものを感じる蒸し暑さは午前二時に近づいても変わらない。携帯電話を開いても電波が頼りないその世界には、すでに火花を散らす先客がいた──というのはどう考えても誤解を招く表現で、言い直せば花火で素っ頓狂に騒いでいる学生集団がいくつかあった。そしてその中に、


 彼ら彼女らは気づいていないだろう、異世界人ビジターがひとり紛れていた。


 ラビーには「わるもの」としか教えていない奴らを、現代人われわれにとって異質の未知である脅威を、ひとつでも多く殺すのが私の仕事である。


 額に右手を当てて、手の甲に炎光を発現させる。


 上っ面では夏の夜を愉快に謳歌している彼らに真正面から切り込み、混乱を招いてはいけない。現代人に紛れ込む異世界人を自然におびき出す手筈に、私の大半の苦労がふだん費やされているといっても過言ではないし、本日ラビーも咎めたところの残業をする羽目になったのも、標的がいつまで経ってもひとりになってくれないから──という事情はむろん彼女には明かしていないけれど。


 ところで、学生集団のバカ騒ぎに少し耳を傾けてみると、


 ──おい、お前

 ──はやくバケツ持って来いよ

 ──あと酒無くなったから、駅前のコンビニ

 ──眠そうじゃん。知らんけど、さっさと行って来いよ



 どうやらこのたびばかりは、異世界人を探し出す手間をかける必要はないようだった。


 底抜けであったかのように見えた彼らの素っ頓狂風情は、わかりやすい美しさの裏に残酷さを隠していた。でもまあ、それも含めて現代人は「青春」と言ってありがたがるのだろう。私も本来、それを享受してよい年頃であることは知っているし、学生といった身分に一概に未練がないとは──いや、どうなんだろうな。



 そんな余計なことを考えるのはもうやめにして。



 学生集団の中でもひときわ、目立って騒いで場を先導していたひとりが、ふと人だかりを離れた瞬間。ソイツの背後から首元に腕を回し、引っ張って土手を降りる。しばらく呆気にとられていた彼がようやく口を開こうとしたので、ちょうど集団から死角に位置するテトラポットの中で、強引に押し倒しつつ口に左手を押しあてた。


「──ッ!!」


「あなた──異世界人ビジターでしょ?」


 それ以外の無駄話をするつもりはなかった。


 塞いでいた彼の口をようやく解放してやる。ほぼ同時に「がっ──!」と声にもならない叫びでおそらく助けを呼ぼうとしたのだろうけれど、そんなものの扱いは慣れている。にわかに右手に大きめの炎を灯し、この目でガンつけてやるだけで、ソイツはすっかり身体ごと強張こわばらせてしまった。


「大丈夫、燃えるのはアナタだけだから。火事にもならないし、誰にも気づかれない」


 おそらく彼にとって年下と見る女性に馬乗りにされて、体勢がいっこうに崩せないことに彼はいらだちと困惑を混ぜた顔をしていた。


 やがて後頭部をそっと岩場に置いて、視線だけをこちらに寄越してくる。


「どうして、こんなこと──」


 ははっ、と初めて表情を崩し、おどけてみせる。


「それが、わからないんですよ──私にも」


 だからこそ殺すんです。


 そう最後に言って、燃える右手を彼の腹部に打ち付け、場を離れた。


 土手の上の学生集団は、すっかり酒に飲まれてしまったのか、花火の燃えかすを散らばらせながら満足気に仰向けになって眠りこけていた。




 *




 空が青みがかり、ほのかにミンミンゼミが聞こえる宿舎の道を抜けて、本日八月十九日、二度目の帰宅。玄関をくぐると今度は、数時間前のようなセレブレーションはなくて、六畳の奥に鎮座するドラセナとオリーブが寂しそうに私を見つめるようだった。「あの葉っぱちゃん達と話せるんだよ!」と未だに正気であったか判らない言葉をかつて吐いていた同居人は、私がさっき家を出る前と何ら変わらない仰向けで、大人しく寝息を立てていた。せっかく掛けてやったブランケットは寝苦しかったのか布団の陸地からぶっ飛ばされていて。まったく難しいものだなあと鼻白みながら、万が一ラビーが起きていた時の為に用意していたコンビニのビニール袋をテーブルに置いた。


「うう、う──」


 ふと、背後から細い音。ラビーは体勢を変えずに薄目をあけ、猫の喉から出たような声を漏らしている。ゆったりした早起きをしてみるのも悪くないなあと思いつつ同居人から目線を外し、小袋から開けたままのハッピーターンをひとつ、テーブルから取って口にした。悲しくなるくらいにシケていた──これも言いすぎなんだけどね。



(続)

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