第3話 グロテスクな微動

 五月に入り席替えが行われた。私と彼女の席は以前と比べると随分と近くなった。私は教室の一番左端の後ろの席で彼女はそこから二つ前の席。

 けれどそれをきっかけに開いた私と彼女の距離が詰まるということはなかった。彼女は依然として私には目もくれずに授業が終われば以前の席で出来たグループの子たちの所に向かう。どうやらそのグループのみんなで陸上部に入ったらしいということが雰囲気で伺えた。放課後も彼女たちは一つの群となって教室から出ていく。彼女の生活に私の入る隙間は一ミリもなかった。

 彼女が隣にいないと、一日がとても長かった。その長い一日の全部で、私は彼女の不在を感じ続けていた。むしろ、本当に彼女がいないのならそちらのほうが良かったかもしれない。

 彼女は確かにクラスの中に居るのだ。私のすぐ近くに。それなのに、私の日々の中に彼女はいない。そのことをまだ受け入れられないでいた。

 これからずっとこの状態が続くのかと思うと絶望にも近い気持ちに襲われた。そんな現実から目を逸らすように、本を読んだり、机に顔を伏せたりしながら、彼女のいない日々を過ごしていた。


「じゃあ今日はこれで終わります。あと広田さんは少しお話がありますので教室に残っていてください。それでは今日も一日お疲れ様でした。日直さんお願いします」

 いつもと同じような台詞の中に急に私の名前が登場した。不意打ちに心臓がドクンと鳴った。何かしただろうか?慌てて今日一日を思い返す。心当たりはなにもない。

「起立、礼」

 動揺する私を他所に、委員長の号令で何事もなかったかのように放課後が訪れた。

 いつもは、足早に教室を去るけれど、残っておくように言われた手前そうもいかない。私は先生の方を伺う。先生は他の生徒の対応に追われていた。私はひとまず自分の席に座って待つことにした。

 手持ち無沙汰になった私は何の気なしに教室を見回した。私の席からは教室の全体を見ることができる。そんな中で私の視線は無意識に彼女の方へと吸い込まれた。私はそれに気づいて、慌てて視線を自分の机に移した。しかし、意識だけは中々移動させることができなくて脳は間接視野で彼女の動きを追い続けていた。

 彼女は教室の中心に位置する友達の机でいつものメンバーで固まっていた。恐らくこれから部活に向かうのだろう。談笑をしながら机の主が用意を終えるのを待っていた。

 私は苦い思いで、伏せた視界の隅に広がるそんな光景を見つめていた。それは何度も味わった苦さだった。私はその苦さから目を逸らした。それもいつものことだった。私には彼女の不在を直視する勇気がなかった。

 不意に、そんな私の現実逃避の手助けをするように、人影が私の視界を遮った。

「机、後ろに下げたいんだけれど」

 聴き慣れた声が目の前で私に向けて発せられた。

 私はその声に釣られるように顔を上にあげた。見ると委員長、紫月さんが箒を持って私の席の前に立っていた。強い口調とは裏腹にその表情は怒っているといった感じでなくどちらかというと私への無関心が貼り付いたかのような無表情だった。眼鏡の奥の瞳からは何の感情も読み取ることはできなかった。

「ごめん」

 私はそう言ってから慌てて席を立った。紫月さんは私の動作を無言で見送ってから箒を壁に立てかけ席を教室の後ろまで移動させた。椅子をひっくり返して机の上に乗せてそれを丸ごと抱えて持って移動させると言う作業。私の席を終えると次はその前の席に取り掛かる。

 この作業を全列分一人でやるつもりだろうか。掃除当番の人たちはどうしたのだろうか。

 私は思わず紫月さんに声をかける。

「あの、手伝おうか」

 声をかけた瞬間に、萎みそうになる勇気をなんとか持続させて紫月さんに尋ねた。

「ありがとう。じゃあ机後ろに下げるの、一緒にしてくれる?」

 紫月さんは彫像のように硬かった表情を少し緩めてそう答えた。

 私は頷いて隣の列から紫月さんと同じように椅子をひっくり返して机に乗せて運ぶという作業を始めた。

 思った以上にこの作業はしんどかった。小さな身体では机と椅子をいっぺんに持ち上げるのは一苦労で更に整理整頓に無頓着な子の机なんかだと教科書が入れっぱなしになってあって運ぶのが大変だった。私はそんな机を運びながら彼女の机にも教科書が入ったままになってそうだなとそんなことを思った。抱えていた机を後ろまで運んで降ろして教室を見渡すと彼女たちはもう既に教室にはいなかった。

 教室にいたのは紫月さんと私と先生と、先生と何か談笑をしている生徒だけだった。その生徒もキリよく話が終わったのか程なくして

「先生さよならー」

そう言って教室を出て行った。

「さよなら。気をつけて」

先生はそう言ってその生徒を見送ってそれからこちらへと歩いてきた。

「紫月さんはバスケットボール部の子たちの代役ですかね?遅くまでありがとうございます。広田さんも残ってもらった上に掃除のお手伝いまでご苦労様です。広田さんには一つお伺いしたいことがあって残っていただいたのですが、とりあえず先に掃除を終わらせちゃいましょうか」

 そう言って先生自身も机を運ぶのを手伝い始めた。

 三人で、それも大人の手が入ると作業の効率は目に見えて上がって程なくして机を全て後ろに下げ終わった。そうすると教室はやけに広々としたものに感じられた。換気のために開け放たれた窓から吹き込む風が開放感を更に増していた。窓という拠り所を失ったカーテンが風に煽られ激しく揺れていた。

 机と椅子を下げて格段に面積の増えた床を紫月さんは箒で掃いていた。私もそれに倣って用具箱から箒を取り出し紫月さんのいるところとは反対側から埃を前方に追い詰めるように掃いていった。先生は掃き終わった床に位置する席を戻していった。

 埃があらかた集まったところで用具箱からちりとりを取り出しそこに埃を掃き入れた。埃をゴミ箱に捨ててちりとりと箒を片付けてまた三人で席を元の位置に戻していく。

 これといった会話は特に無いけれどどことなく居心地の良い空間だった。教室にいながらそう感じたのは初めてだった。私にとって教室とは狭くて色々な人の感情で溢れていて怖くて同じ場所にいながら私だけが隔絶されているような疎外感を感じる場所だけれど、今はそんな疎外感に捉われることはなかった。掃除という共通の作業が一種の連帯感で私たちを包んでいるからかも知れなかった。机の重みで腕はしんどいけれど心はいつもよりも軽かった。

 そんなことを考えてるうちに席が全て元の場所に戻った。そうなっても尚教室はいつもよりも広く見えた。風に揺れるカーテンの隙間から差す一束の光が空中に舞う粒子のような埃の姿を浮かび上がらせていた。

「それではお疲れ様でした。さよなら」

 紫月さんは先生に挨拶をして後ろの棚から自分の鞄を取って教室を出て行こうとした。それが急に立ち止まって

「あと、広田さん、ありがとう」

 途切れ途切れにそう言い残した。

「紫月さんお疲れ様です。さようなら」

 先生の言葉を聞き終わらないうちに紫月さんは教室を出て行った。頬が仄かに朱に染まっていたのが見えた。

 先生はそんな紫月さんを微笑み混じりに見送っていた。それから私の方を向き直って

「それでは本題に移りましょうか」

 どこか厳かな感じでそう言った。私は息を呑んだ。さっきまでの先生の雰囲気からして何か注意されるといったことは無さそうだったけれど、先生と向かい合わせで話し合うのはこれが初めてなので緊張した。私はこれから何を言われるのだろうか。

 先生はコホンと咳払いを一つして

「広田さんは虫って大丈夫ですか?」

 そう尋ねた。

「え?」

 私は困惑して思わず声をあげた。虫という言葉で咄嗟にこの前読んだ本を思い出した。先生はそんな私の思考を訂正するように付け加えた。

「藪から棒にすいません。虫というか、アゲハチョウの幼虫ですね。というのも、うちの学校では生物係が幼虫の観察日記を付けることになっているのですが、幼虫は見た目が少しグロテスクなので、確認のために聞いた次第です。本当は係決めを行う段階で伝えとかなければいかなかったのですが、うっかり忘れてしまっていて」

 先生は少し申し訳なさそうにそう言った。

「大丈夫だと思います」

 アゲハチョウの幼虫の姿を具体的にイメージすることはできなかった。かろうじて、緑色をしていたような印象があるだけだった。けれど、先生を困らせたくなくて、私は首を縦に振った。

「そうですか。それはありがとうございます」

先生は安堵の表情を浮かべながらそう言った。それから改まって言った。

「では、実際にアゲハチョウの幼虫を見てみましょうか」


 理科準備室に入った瞬間、春の陽気は遮断されひんやりとした空気が肌に触れた。照明がなく薄暗い部屋に所狭しと並んだ薬品や実験器具の数々。不気味な表情を浮かべる人体模型。まるで時間から切り離されたような場所だと思った。

「こちらです」

先生は黒いカーテンに覆われた窓際に置かれたケースを指差して言う。

「ちょっと覗いてみてください」

 私は先生に言われた通りに透明なガラス越しに中を伺った。ひと目見ただけでは幼虫がどこにいるのかわからなかった。あるのは無造作に入れられた枝葉だけ。キョロキョロと視線の定まらない私に先生が助け舟を出す。

「見つかりましたか?」

「すいません。見つかりません」

「この手前の葉っぱを見てみてください。黒い鳥のフンのようなものがくっついてるでしょう?」

 私は言われた通りに手前の葉っぱに意識を向ける。目を凝らしてよく見てみると確かに縁が黒くて中心が白ずんだ鳥のフンのようなものがあるのが見えた。

 ふと、それが微動した。私は思わず後ずさった。

「これがアゲハの四齢幼虫です。私も少々調べたのですが、私たちが幼虫という言葉で思い浮かべる青々とした姿はどうやら五齢にまで育たないと見られないそうです。あ、ちなみに四齢とか五齢というのは簡単に言うと幼虫の年齢のことですね」

 私は先生の話を聞きながらマジマジと幼虫を眺めた。幼虫は葉の上で微動を続けていた。その光景はグロテスクであり、少しの嫌悪感を抱いた。ただ、怖いもの見たさに似た感覚で私はその幼虫を見つめ続けていた。

「広田さん、どうですか?正直少しグロテスクですよね」

 先生はいつもの微笑を口に浮かべてそう言った。先生は常にそうやって笑っている人だった。

「少しだけ」

 私は首を縦に振った。先生はそんな私の答えにも微笑みを絶やさずに言葉を続けた。

「そうですよね。でもこの醜い幼虫が綺麗なアゲハチョウへと変化を遂げるんです。それもほんの一ヶ月足らずで。本当に生物は不思議ですね」

「はい」

 私はマジマジと幼虫を見つめながら再び首を縦に振った。幼虫は相変わらず微動を続けていた。この微動がいつかは美しい羽の羽ばたきへと変わるのだろうか。

 私が相槌のほかに何も話さないのを確認してから、再び先生が話始めた。

「最後にもう一度確認なのですが、アゲハの幼虫を観察するというお話受けてくださいますか?やっぱり実物を見て気乗りがしないと言うのでしたらこちらも無理強いはしません。そもそもがこちらの不手際ですし」

 先生は穏やかな調子で噛んで含めるようにそう言った。

 正直、幼虫の第一印象はあまりいいものではなかった。けれど、本当にこのグロテスクで醜い幼虫が美しいアゲハチョウへと変身するのならば、私はそれをみてみたいと思った。

「大丈夫です。私、観察やります」

 私は首を縦に振ってからそう言った。

 私の答えに先生は安心したような表情を浮かべた。

「ありがとうございます。それでは詳しい説明の前に、観察ノートを取ってくるので少しここで待っていてください」

 そう言って先生は理科準備室の更に奥へと通じる扉を開けてそこへと入って行った。そこは今いる場所よりももう一段暗度が濃かった。先生の姿が吸い込まれた様に見えなくなった。

 私はもう一度ケースの中へと視線を移す。幼虫は先ほどまで継続していた微動をやめてじっと身を休めていた。そうするともう一目見ただけでは鳥のフンと見分けが付かなかった。私はそんな幼虫をじっと見つめていた。

「お待たせしました」

 程なくして先生が帰ってきた。腕の中にはノートを携えていた。それを先生は私に向けて差し出した。

「まずはこちらをどうぞ」

 私はおずおずとそれを受け取る。表紙には小学生の時に使ったノートのように名前の知らない花の写真が載っていて、右下に「観察用ノート」と印字されていた。

 私は一つページをめくって中身を確認した。

 そのノートは普通のノートとは違って特殊な羅線の引き方がされていて、日付や天気を記入する欄やスケッチを書く欄、感想を書く欄などが作られてあった。

「広田さんにはこのノートを用いて、幼虫の観察日記をつけていただきたいです。日付や天気などの欄は埋めていただいて、スケッチや感想は軽いもので結構ですのでお願いします。何か質問はございますか?」

「特にないです」

「では早速今日からお願いしても良いですか?」

「はい」

 先生は私の返事に満足げに頷いてそのままゆっくりとした足取りで理科準備室を出て行った。私は去って行く背中を見送りケースの中の幼虫へと視線を移した。再び微動を始めた幼虫は、やはりグロテスクだった。

 部活が開始したのかグラウンドの方から微かに甲高い生徒のかけ声が聞こえてきた。私は無造作に放り出されていた椅子を持ってきて、幼虫の前へと座った。プラスチックのケースには私の姿がくっきりと反射していた。


 下校の準備を終えた私は本を読みながら学校での一日が終わるのを待っていた。放課後を目前に控えた教室の喧騒はまとまりがなくて、その詳細を脳が捉えることはなかった。しかし、一つの名前が様々なフィルターを破って頭の中に飛び込んできた。

「とまり」

 声の主は同じクラスの男子だった。その男子が彼女の名前を呼ぶ声が私の意識を本から引き剥がした。私はそっと顔をあげて、前方の彼女の席へと視線を移した。

「ケイゴ。どうしたの?」

 ケイゴ。彼女は彼を下の名前で当然のように呼んだ。彼女の後ろでいつもの女子たちが顔を見合わせて笑っているのが見えた。その内の一人はニヤけながら彼女の肘を突いていた。

「陸部の男子で日曜の部活終わりに遊ぶんだけどお前らも来る?」

 男子は照れを隠すようにぶっきらぼうにそう言った。とまりちゃんはその誘いに少し困ったような様子で後ろを振り向く。

「行く行くー。とまりも行くよね?」

 その視線を受けていつもの女子たちの内の一人が元気にそう言う。

「ほのかちゃんたちが行くなら」

「じゃあ決まりね。またなんかあったら言いにきてよ」

「りょーかい」

 男子はそう告げて自分の席へと戻っていった。

 「ケイゴ絶対とまりに気があるって」

「えー。そんなことないでしょ」

「あるよ。だってケイゴ普段はもっと歯切れ良いしうるさいもん。とまりの前だけだよ。あんだけぎこちないの」

 彼女の周りの女子たちがそう言ってはしゃぐ。

 私は彼女が今どんな顔をしているのか見たくなくて本に視線を落とした。

 目がページの上を滑って、まともに本を読むことができなかった。程なくして、ホームルームが始まった。私は本を閉じた。けれど、前を見ることができなくて、机の上をただじっと眺めていた。


 薄暗い部屋に鉛筆が紙に擦れる音だけが響いていた。私は目の前の幼虫を紙の上に描き写していく。鉛筆の軌道は必ずしも思った通りにはならなくて現れた象と本物を比較してその都度微修正を加えていく。この作業も三日目になるとかなり慣れてきた。そして件の幼虫はたったの三日でかなりの大きさへと成長していた。前日のページの下側には赤い文字で

「もうすぐ脱皮して五齢幼虫になるかもしれませんね」

と書かれていた。

 私はグロテスクな身体をくねらせて物凄い勢いで葉っぱを頬張る幼虫へと目を向ける。たしかに白と黒の鳥のフンのようだった身体に仄かな緑色が透けて見えた。先生の言うようにもうすぐ脱皮するのかもしれない。この姿を観れるのも最後だと思うと不思議と名残惜しい気持ちが湧いてきた。もちろん私の名残惜しさなんて置き去りにこの幼虫は古い自分を捨ててしまうのだろうけれど。

 私はケイゴと呼ばれた男の子と向き合う彼女の後ろ姿を思い出した。

 彼女から意中の相手の名前を聞いたことは一度もなかった。私と彼女の間に恋愛という言葉が話題に登ることは一度もなかった。だから私は勝手にずっと彼女は恋愛とかそういったこととは無縁なのだと根拠もなくそう思っていた。私には私と彼女のいつまでも続く友情しか見えていなかった。私は人生を一本道のようなものだと錯覚していた。自分が世界から隔てられているから自分の隣にいる彼女も同様に私と同じ道を行くのだと思っていた。

 けれど彼女は私という古い皮を脱ぎ捨てて隔たりの向こう側へと行ってしまった。そこは私が勝手に私たちとは無縁だと切り捨てたあらゆるものがある世界だ。恋愛も結婚も。そこには永遠の友情というものは存在していない。一人の友人を永遠に一番に考え続けるという私の思い描いてきた理想の友情は存在していない。その世界では友人は複数いるのが当たり前で仮にその中で一番を勝ち取っても恋人という存在が友人なんて軽く凌駕するくらいの存在感で彼女の人生を色づけて染めていって、やがてそれは家庭という存在に変化を遂げていく。

 彼女が隣にいなくなってから見たくもない色々なものが私の目の前に飛び込んでくる。以前の私がどれだけ、ただ彼女だけを見ておけばいい、という状態に守られてきたかを痛感する。

 今見ているこの醜くてグロテスクな幼虫よりも見たくないものが外の世界には沢山あった。私は現実逃避のように、醜い幼虫を見つめ、その姿を書き写していた。

 やっと紙の上の幼虫が満足のいく出来に仕上がった。私は感想の欄へと筆を移す。

「緑色が少し見られるようになった。たしかに脱皮が近いのかもしれない。この姿も見納めかと思うと少しだけ寂しく感じた」

 

「アゲハの幼虫は脱皮した後の殻を自分で食べてしまうそうです」

 昨日のスケッチの下に先生の赤い文字でこう書かれていた。私はマジマジと身体を一晩で目の覚めるような緑色に変えた幼虫を見つめる。腹には二本黒のラインが入っていてそれが昨日までの姿の面影をかろうじて残していた。確かに脱皮した後の殻はケースのどこにも残されていなかった。

 私は昨日まで自分を包んでいたものを躊躇なく食い潰した幼虫の変化に対しての思い切りの良さを羨ましく思った。私もそうやって過去を消化してまるでそれがハナから存在していなかった物のように過ごせたらどんなに楽だろうか。

 私の羨望の眼差しなんか気兼ねせず幼虫は葉っぱに喰らい付いている。よく見ると大きな目のような部分はただの模様で口はその模様からかなり離れた部分に存在していた。口がついている部分は身体から独立していて恐らくここが顔なのだろう。

 鳥のフンに擬態したりその擬態が解ければ今度は大きな目のような模様を急造したりこの幼虫は生き長らえるために様々な形に変化していく。裏を返せば変化しないと生きていくことはできないのだろう。

 この幼虫は変化を恐れる私への当てつけのように感じられた。彼女が隣にいない日常を変えようともせずに受け入れつつある私をその生き様をもって幼虫は糾弾する。昨日まではその醜さで、私の現実逃避の依代となっていた幼虫が、一晩でそういった現実そのものとなって私に牙を剥いている。逃げ場を失った私は心の中で言い訳のように言葉を並べる。

 この幼虫のように変化を重ねれば必ず美しい姿になることができるという保証があればどれだけ楽だろうか。実際のところ苦労して変化を果たした先で待っているのが今よりも更にひどい鳥のフンのような日常ということも十分にありえるのだ。

 私はカバンから鉛筆を取り出してノートの空白のページを開く。それから無心で幼虫の姿を描き写した。

 スケッチを終えた時、ノートの上には、脱皮を終えた幼虫の変化がはっきりと描き出されていた。葉の上で微動するだけの醜い幼虫の姿は、昨日のページ以外のどこにも存在していなかった。私は幼虫にさえも、置いてけぼりにされたように感じた。

 この幼虫と違って、私は古くなっていく自分の殻を突き破る勇気を持ち合わせないままその殻に押し潰されて窒息していく。いつか、この幼虫が美しい羽を広げて広い世界に飛び立つその瞬間も私はずっとこのままだ。

 だって、私は未だに心のどこかでいつか何かのきっかけで彼女との関係が元に戻るのではないかとそんな甘い考えを抱いている。そんな妄想と言ってしまってもいいものを口実にこの状況を変えるために自発的に行動を起こすことを拒んでいる。

 私は彼女にはっきりとした言葉をもって私を否定されることを恐れていた。明文化さえされなければまだ甘い夢を見ていられる。変わってしまった日常が実は全く変わっていなかったのだという夢を。だから私は自分を変えることができない。

 幼虫は、青々とした身体を動かしながら、青々とした葉を頬張っていた。光を遮るカーテンの向こうから、今日も、部活に邁進する生徒のかけ声が聞こえてきた。

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