第4話 ふたつの熱情
走っている間は全てを忘れることができた。だから私はこの時間が好きだった。何という皮肉だろう。かんざしから距離を置くために入った部活を利用して隣にかんざしがいない実感を誤魔化している。私はあべこべだった。心の中で絡まった糸の全てを置き去りにしたくて私は走り続けていた。
ゴールラインを超え、膝に手を突く。そんな私を急かすようにピーっと甲高い笛が鳴った。
「今日はここまでだから、各自片付けとクールダウン入って」
「はーい」
三年生のキャプテンがテキパキと指示を飛ばす。それに呼応するように部員たちは声を上げる。私も必死に喉から声を絞り出す。
「赤熊さんおつかれ。あんた確か初心者やろ?めっちゃ体力あるやん。普通に練習付いていけてるし」
隣のレーンを走っていた倉野さんがそう声をかけてくれる。
「そんなことないよ。もうクタクタ。結局倉野さんには一回も勝てなかったし」
「そりゃ腐っても低学年からずっとやっとるしな」
倉野さんはそう言って笑う。倉野さんの呼吸は整っていて息が上がっている様子はなかった。私とは大違いだ。
「あんま喋ってると先輩らに怒られるかな。はよトンボいこ」
そう言って倉野さんは小走りで倉庫に向かった。私もその後を追いかける。
「つばめ待てー!」
「ほのか、遅い」
そんな私たちを猛スピードでほのかちゃんと狩谷さんが追い抜いていった。
「あの子ら相変わらずやな」
そう言って倉野さんは楽しげに笑った。私も砂埃を立てながら全速力で倉庫に向かう二人をもう一度見て笑う。
新しくできた仲の良い友達。心地の良い疲労感。中学校入学を機に始まった新たな生活は充実していた。
砂埃が喉に絡まって息を吸うと少し痛かった。夕焼けが剥き出しの肌に照りつけるように熱かった。
部室は汗と清涼剤の入り混じった独特の匂いが充満していた。
「週末の合同練習の後は男子たちと遊びかー。私男子と遊ぶのなんていつ以来だろ。しおりちゃんの小学校は男女の仲良かった?」
「良かった方やと思うで。うちも結構遊んどったし」
「そっかー。私小学校の高学年はこいつと走ってた記憶しか無いわ」
そう言ってほのかちゃんは乱暴に狩谷さんの頭をぐしゃぐしゃと撫でる。狩谷さんはそれについて文句も言わないで平然とした顔で清涼剤を半袖の制服からはみ出した腕へと塗っていた。そんな二人を私は気付かぬうちに羨望の眼差しで見ていた。
「ところでさ、とまりはケイゴのことどう思ってるの?」
狩谷さんの頭から手を離したほのかちゃんが藪から棒にそんなことを尋ねてきた。
「なにいきなり。良い人だなとは思うけど」
「そういうこと言ってるんじゃなくて」
はぁとほのかちゃんはため息を吐く。
私もそこまで鈍感ではないからほのかちゃんが言わんとすることは何となくわかる。とはいうものの私が誰かに想いを寄せられるというのはどうにも実感が湧かなかった。私がそういった恋模様の当事者になる光景を想像することは難しかった。
だから私は何にも気づいてないフリでその場をやり過ごしていた。
「まあ悪い奴じゃないからさ。仲良くしたってよ」
彼女は呆れたようにそう呟いた。隣で狩谷さんもうんうんと頷いている。倉野さんは楽しそうにニヤニヤと笑っている。
「みんなして何さ」
言いながら私は制服へと着替えた。みんなはもう既に鞄を持っていて準備の遅い私を待ってくれている状況だ。私も急いで準備を終えて鞄を背負った。
「お待たせ。いつも用意遅くてごめんね」
「そんくらい全然良いよ。私たちが話振ってるのもあるしね」
「毎度のことやしもう慣れたわ」
二人はそう言って部室を出る。狩谷さんも無言で頷いていた。そしてそのまま四人で校門まで歩く。
校門を出ると左手に坂が有って右手には平坦な道が続いている。
「とまりちゃんばいばーい」
「ばいばーい」
家の方向が真逆のほのかちゃんたちと別れを告げて私は一人で坂を下る。入学して一ヶ月と少し経って桜は完全な緑色に変わってしまった。花びらの面影をその色から感じることはできなかった。
教室にいる時は良い。ほのかちゃんたちと馬鹿な話をしていればそれだけで時間は過ぎるから。部活をしている時も良い。目の前のメニューを必死にこなして無心でトラックを駆けていればそれだけで時間は瞬く間に過ぎていくから。
けれど学校から家までの帰り道。この時間が一番かんざしの不在を痛感する。私は思い出す。教室でかんざしが私に向ける捨てられた子犬のような視線を。私はそれをずっと見て見ぬフリをしている。少しでもかんざしに希望をチラつかせないように。かんざしがこちらに接近してきた時その接近を拒める自信が私には無かった。
かんざしと距離を置いてから、あの日感じた熱情は狙い通りに鳴りを潜めた。その代わりに寂しさが私の心を巣食った。私はあの時自分を支配した熱情から逃げるのに必死で大事なことを見落としていた。それは私がかんざしのことを大切に思っているというそんな当たり前の気持ちだった。それはずっと私の中心を占めてきた当たり前のことで、当たり前すぎて気づくことができなかった。私の中心にあった当たり前を失った時、その大きさに絶望した。
私は今充実している。新しい人間関係を築いて部活に打ち込んで楽しい学校生活を送っている。ただそれはかんざしが私にもたらしてくれる全てとは性質の違ったもので、私の心の穴は決してそれらでは埋まらなかった。窒素で呼吸することができないようにそもそもの成分からそれは違っていた。
そんなに寂しいのならかんざしとの関係を修復すれば良い。今ならまだ間に合う。かんざしは相変わらず一人でいるし、今ならまだいくらでも言い訳が効く。かんざしに対して何か決定的な言葉を放ったわけではないんだし。
私は想像してみる。部活終わりに疲れた身体を引きずりながら夕焼けの坂道をかんざしと下る光景を。
それはただの絵空事だった。
あの熱情への恐怖が、かんざしを求める心ごと私をがんじがらめにしていた。むしろそのかんざしを求める心も、私が恐れる熱情が元になっているかもしれないのだ。そうなってくるとこれまで私が抱いていた感情まで遡って全てがそれに根ざしているのかもしれなくて、私は自分が醜い怪物になったかのように思えた。怖いくらいに純粋なかんざしの前にその姿を曝け出すことだけは絶対にしたくなかった。
だってかんざしが私と同じ感情を持っているわけがないから。私だけがかんざしに対して怪物だから。私はあの自分が自分じゃなくなるような欲望に私を支配されたくない。私はかんざしと同じ、純粋な私のままでいたい。あんな醜い感情は押し入れに閉じ込めたままでいい。
だから私は今日も一人で桜の花びらの消えた坂道を下っている。
坂の終わりの向こう側に隣り合う私たちそれぞれの家が見える。私の部屋は真っ暗でかんざしの部屋には煌々と明かりが灯っている。こんなにも近くにいるのに私はかんざしに近づくことができない。
「えー、今日は椿宮中学校の選手たちから大いに刺激を受けてとても実りのある合同練習になったと思います。今日感じたこと、教わったこと。それを今日限りで終わらすのではなくて普段の練習にそして次の大会へと活かせるように各自で消化してこれからも取り組んで行ってください。それで明日はいつも通りオフで明後日も職員会議の影響で申し訳ないけどオフになるので各自身体をしっかり休めてまた水曜日からの練習に心身共に万全の状態で臨めるように、どうぞよろしくお願いします。それではキャプテン」
キャプテンがはいと返事をした後を引き継ぐ。
「水曜日からも頑張っていきましょう!」
おおーとみんなでかけ声を揃えて手をパンパンと二度叩いた。陸上部の練習終わりの慣例。これが終わると各自で解散となる。
今日は椿宮中学まで自転車で出向いての合同練習だった。椿宮中学校は私たちの桜ヶ丘中学校と違って町の中心部に位置していて、折角だからとこれから陸上部一年の男女で遊びに行くところだった。
「今日って何人来るんだっけ?」
「一年生はほとんど来る」
「何か知らん間に偉い大人数になったなぁ」
隣でいつもの三人がそんな風に言葉を交わしている。私はそれを聞いて心の中でこっそりと胸を撫で下ろした。大人数ならそこまで男子と話す機会も無いだろう。
「そういえばこの前聞いてなかったけどとまりの小学校はどうだった?男女の仲良かった?」
ほのかちゃんがそう尋ねてくる。
「どうだろう。普通だったと思うけど私は男子と遊んだことはほとんど無いかな」
「何かそんな感じするわ。とまりってかわいいのに全然男っ気ないよな。凄い純粋っていうか」
倉野さんの言葉に私は困ったように笑った。けれど内心では自分のことを純粋と形容されて嬉しかった。まだ、私は純粋なままでいれてるんだ。
「って言ってたら早速悪い虫が一匹」
ほのかちゃんはそう言って笑う。ほのかちゃんが指を指す方を見ればケイゴがこちらに小走りで駆け寄ってきていた。
「今なんか俺のこと馬鹿にした?」
「別にー。それで、なにか用?」
「用って言うか、お前らが動く気配ないから」
「気にかけてくれてどうも。ちょうど今動こうと思ってたところだから安心してよ。ねぇ、とまり」
ほのかちゃんが急に私にお鉢を回す。
「う、うん」
「お、おう」
彼はそう言って次の言葉を探すように沈黙してそれから
「まあ、待ってるから」
そう言ってまた小走りに男子の群れへと戻っていった。
「あいつも変なところでピュアなんだから」
ほのかちゃんはそう言って私に向けて苦笑いした。
「けど、小学校の時と比べたら男らしくなった」
「それはそうかも。背も伸びたしね」
「まあ釘刺されたし私たちもぼちぼち出よか」
倉野さんの声を契機に私たちは駐輪場へと向かい自転車を出して校門の前へと向かった。校門の前には既に男子が自転車を停めてたむろしていた。
「あんまりここにいると邪魔だろうから。ぼちぼち移動していきます」
ケイゴが声を上げて男子が先に自転車に乗りジャスコへと向かい始めた。そのうち女子も自転車に乗り私たちも女子の列の最後尾からそれに続いた。
行き先は近所のショッピングモールだった。私たちはそこで何をするでもなくだらだらと店を見て回った。男子はヴィレヴァンで奇妙なおもちゃを取り出して戯れあって、女子は服屋や雑貨屋を物色していた。
私もほのかちゃんたちにくっついて色んな店を見て回った。少し冗長で、けれどそれなりに楽しい時間が流れていた。
それから私たちはふらふらと歩いているうちにゲームセンターにたどり着いた。そこには数多くのUFOキャッチャーがが所狭しと並んでいた。
何人かがふざけ半分でそれに興じるのを私はぼんやりと眺めながら歩いていた。すると、ふとピンク色をした猫のぬいぐるみが私の目についた。その猫は桜の髪飾りをしていた。かんざしに似ているなと思った。私は無意識にそのぬいぐるみをじっと見つめていた。
「とまりちゃんはこれが欲しいのかな?」
おどけた口調でほのかちゃんが尋ねる。
「いや欲しいっていうか......」
かんざしに関する思考から友達との会話へと切り替えが上手くできなくて私は言い淀む。ほのかちゃんは私の返答を聞くや否や
「ねえねえケイゴ。このぬいぐるみ取ったげてよ。とまりが欲しいんだって」
男子の群れに向かって呼びかける。
「良いけど取れるかわからんよ」
ケイゴは少し緊張した面持ちでそう言った。
「いったれケイゴ!」
そんなケイゴに周りの男子は口々にそんな言葉で囃し立てる。
「ここが男の見せ所やで」
「取れなかったらダサい」
倉野さんや狩谷さんまでそんな言葉で場を盛り立てる。
「お前らうるさい」
ケイゴはぶつぶつそう言いながら財布から500円玉を取り出す。
「凄いやる気じゃん」
それを見てほのかちゃんがからかう。
「いいよそんなにしてもらわなくても」
私は慌ててケイゴに言う。
「いや俺がしたいだけだし。それにこんだけ言われて取れんかったら俺がダサいじゃん」
ケイゴは件のぬいぐるみを見ながらそう言ってそのままレバーを操作し始めた。
ケイゴはぬいぐるみの上までクレーンを持ってきて横から筐体を見つめて角度を調整していく。
「もうちょい右じゃね」
「それだと行き過ぎ」
気づけば男子も女子も相当の人数が筐体の周りに集まっていて口々にてんでばらばらなことを言う。
ケイゴはそれらに頓着せずに調整を続けそれからクレーンを下降させた。ゆっくりとぬいぐるみに接近したクレーンの爪がぬいぐるみの足の部分に潜り込みその身体を持ち上げた。その過程は完璧に思えた。けれどクレーンが上昇して最高到達点で停止した時その衝撃でぬいぐるみは爪の間からこぼれ落ちた。周囲からため息が漏れた。ケイゴは失敗に動揺した様子も見せずにまたレバーを操作し始めた。
私はケイゴにお金を使わせている申し訳なさと周囲の空気に感化されて高揚する気分が混ざり合って真剣に固唾を飲んでクレーンの動きを見つめていた。
二回目も三回目も掴むところまでは一回目と同じように完璧だった。ただこれも一回目と同じようにクレーンが上空で停止した時の振動でぬいぐるみはこぼれ落ちてしまう。三回同じように直前で取れない光景を見るとハナから取れないように設定されているのではないかとそんな考えが頭をよぎった。
ケイゴはやはり表情を少しも変えないでレバーを操作する。四回目なこともあってクレーンの動きはかなり洗練されていて、ほぼ最短距離でぬいぐるみの真上へと位置付ける。そのまま躊躇なくケイゴはクレーンを下降させる。今までと全く同じように。そしてその時は呆気なく訪れた。
クレーンは今までの失敗は何だったのかと思う強度でぬいぐるみを掴みそのまま穴まで移動しぬいぐるみをそこに落とした。一瞬空気が止まった。それから歓声が巻き起こった。
ケイゴはしゃがんで受け取り口からぬいぐるみを取り出す。それから私の方へとゆっくり歩いて来る。
「一回分余ってキリ悪いしあんまり格好付かないけど一応取れたよ」
そう言ってケイゴは私にぬいぐるみを差し出す。かんざしに似合いそうなぬいぐるみがケイゴから私に手渡される。
「ありがとう」
私はそのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。
ぬいぐるみは筐体の横に置いてあった景品用の袋に入れて鞄にしまっておいた。
結局その後も色々と見て回って随分と遅い時間まで私たちはショッピングモールに居座っていた。
「もうここまできたら晩飯食ってかね?」
「いいね」
「賛成ー」
男子の提案にみんなは異口同音に同意する。様子を見るにほのかちゃんたちも夜ご飯までここに残りそうだ。
「ごめん。私今日は家にご飯あるから帰るね」
私は若干肩身の狭い思いをしながらそう言った。
「ええー。とまり帰っちゃうのー」
ほのかちゃんが残念そうな声を挙げる。
「ごめん。もう作り置きしてもらっちゃってるから」
私が謝っていると
「じゃあ俺が送ってくよ」
少し頬を赤らめながらケイゴがそう言った。
周囲がその様子を待ってましたとばかりに囃し立てる。
「ケイゴやっぱり男を上げたね」
「意外とやるやん」
狩谷さんと倉野さんもそんな風に煽る。
「お前らうるさい。とまり、こいつらうるさいし帰るならさっさと帰ろうぜ」
「う、うん」
私は恥ずかしさに耐えながら後ろを振り返った。ほのかちゃんが励ますようにサムズアップをしていた。私は否定の意味で手を振りながら前を歩くケイゴの背中へと向き直った。
ケイゴは何かに焦るみたいに早足だった。
自転車で中学校の前の坂を下っていく。置き去りにされた景色が線のように薄ぼやけて見える。等間隔で置かれた街灯の明かりが流れ星みたいに光っている。頬に触れる夜の風はひんやりと冷たくて心地いい。
「この坂を下り終わって真っ直ぐ行ったら私の家だから」
私は私の後ろに位置するケイゴに届くように大きな声で言う。
「お前の家意外と学校から近いのな」
ケイゴも私に届くように大声で言葉を返す。
歩いて十分ほどかかる通学路も自転車だと一瞬だ。下り坂なこともあって普段からは考えられないスピードで坂を下り終わろうとしていた。
傾斜が緩やかになるにつれて自然と強く握っていたブレーキは緩まっていった。そうして徐々に速度を落として流れていく景色が実体を取り戻して私の家の前にたどり着いた。私は自転車を家の前に止めて鍵を閉めてそれから自転車に跨ったままのケイゴに告げる。
「送ってくれてありがとう。今日は楽しかった。あとはぬいぐるみも、本当にありがとう」
そう言って私はぬいぐるみが入った部活用のエナメルの鞄をぽんぽんと叩く。
けれどケイゴはいつものように快活に返事を返してはくれなかった。曖昧な微笑みを浮かべて何かを逡巡するように唇を噛んでそれからゆっくりと自転車を降りた。
彼の動作の一つ一つがスローモーションのように私の意識に飛び込んできた。場の静寂がなにか張り詰めたものを私に感じさせた。
ケイゴは一言も言葉を発することなく私の前へと歩いてくる。ふらふらとその足取りもどこかおぼつかない。
そして私の前までたどり着いた彼は噛んでいた唇をフッと緩めた。呼吸のようにか細い声が私の鼓膜を揺らした。
「俺はとまりのことが好きだ」
その声は酷く震えていた。ただ声とは裏腹にその瞳は真っ直ぐに私を捉えていた。その瞳は鏡のように綺麗に澄んでいた。
彼が顔の角度を少し変えると街灯の光が彼の頬を照らし出した。その頬は真っ赤に染まっていた。
彼も熱情に支配されているとそう思った。ただ、熱情に支配されてもなお彼の姿は純粋で美しかった。
もしかして「好き」と言葉にしてぶつけると熱情は美しい何かへと消化されるのだろうか。例えば漫画やドラマでしか聞いたことのない愛というものに昇華させれば熱情は美しく光るのだろうか。
私は彼の瞳に映る自分をじっと見つめながらそんなことを思った。それから遅れてその愛を今自分はぶつけられているのだとそんなことに気がついた。愛が、今では漫画の世界の言葉じゃなくて現実の言葉で私はその当事者だった。
今更のように理由の分からない恥ずかしさが込み上げてくる。思考回路が正常に作動しなくなる。私は彼と一直線に繋がったままだった視線を外す。
「ごめん。ちょっとテンパってて」
「俺こそごめん急に。本当は今日言うつもりじゃ無かったんだけどあまりに今日が楽しすぎて、だからその、返事とか別に良いから。いやけど、できればやっぱりしてもらえると嬉しいけど」
彼は一息にそう言った。彼の声はずっと熱情に震えていた。彼の鏡のような瞳を私は見ることができないでいた。
すると彼は沈黙に耐えかねたかのように後ずさって自転車に跨って
「いきなり変なこと言ってごめんな。また部活で」
彼はそう言って振り向くことなく一直線に坂を登っていった。私は一人ぽつんとその場に残された。
彼の姿が完全に見えなくなったところで凍ったままだった私の身体は唐突に動き出した。無意識に縋るように私はかんざしの部屋を見つめた。その部屋は電気が点いていなくて真っ暗だった。
私は浮ついた足取りで家の前まで歩いてドアの鍵を開けて家に入った。いつもの玄関の光景が何だか少し違って見えた。頭が紅潮して思考は相変わらず滞ったままだった。
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