第2話 私はなにも変わらなくていい

「なんでとまりちゃんと広田さんは一緒にいるの?」

 小学校の高学年くらいから頻りにクラスメイトからこんな質問をされるようになった。その質問をされる度に私はこんな風に答えた。

「うーん、なんでだろ。わかんないけど、私とかんざしは仲良しだよ」

 実際に理由は良くわからなかった。そもそも人と仲良くするのに理由なんているのだろうか、とも思うけれど。とにかく私とかんざしは仲の良い友達だった。

 けれど一方で幼いながらに周囲の空気を敏感に察知して、こんな疑問を頭の片隅で抱いていた。

 私とかんざしが一緒にいることは側から見たらおかしなことなのだろうか、と。

 たしかにかんざしは私と違って大人しくて人見知りするし運動も好きではない。けれどそれが一緒にいるのがおかしい理由にはならないと思う。私とかんざしは小さい頃から一緒にいて二人で一緒にいるのが当たり前でだからそんな性格の相違なんて些細な問題だ。

 私はその疑問が浮かぶたびこうやって一蹴してきた。けれど周囲の発する疑問の空気は歳を重ねるごとに増していってそれに感化されるように頭の片隅にその疑問は定着してしまった。ただそれはあくまでも疑問で普段の生活の中でその疑問を顧みることはほとんど無かった。

 実際にかんざしの隣にいる時が一番心地が良かった。小学校にはかんざし以外にも仲の良い友達が何人かいたけれどその子たちと話す時は身体のどこかがこわばっていて少し無理をしている自分がいた。相手の求めている言葉を察知してその通りに言葉を投げかけて空気を読んで行動して。彼女たちとの会話は少し作業めいたところがあった。

 かんざしの隣にいる時はそのこわばりがなかった。かんざしの隣にいる時は喋りたいことを躊躇なく話せてしたいことをしたいと素直に言えた。有り体に言うと遠慮がなかった。かんざしの前だと私はありのままの私でいれた。

 かんざしとの関係はどれだけ時が経ってもずっと変わらず続いていくものだと思っていた。それが中学校に入っただけでガラリと変わってしまった。

 かんざしは何も変わっていない。かんざしは怖いくらいに純粋無垢な、昔のかんざしのままだ。

 変わったのは私だ。私の心だ。私は変わっていく私をどうすることもできなくて気がつけば私とかんざしの距離は随分と遠くになってしまった。

 私は川の濁流に呑まれて流されていく。かんざしは岸にいて必死に私を追いかける。けれど濁流のスピードは凄まじく私とかんざしとの距離はどんどん開いていく。やがて息が切れたのかかんざしは膝に手をつき絶望した顔で私の行く末を見つめる。

 そんな悲しい顔しないでよかんざし。この濁流はかんざしが生み出したものなんだから。

 私は遠ざかっていく彼女に向けて届くはずのない言葉を放つ。川の水は冷たくて身体も心も逃れようがないくらいこわばっていた。

 やがて彼女の姿は見えなくなった。それに安堵する自分がいた。こわばりが少しマシになった。

 そのことが悲しかった。

 



 坂道を登る人みんなが抱える新しい環境への高揚や不安。それらを包み込むように桜の花びらが舞っていた。

 私の隣にはかんざしがいる。小学校の頃から何も変わらずに。

 私が何気なくかんざしの方に視線を遣るとかんざしは既にこちらを見つめていた。私は疑問に思って小首を傾げる。

「どうしたの?」

 かんざしは慌てた様な素振りで言葉を絞り出す。

「クラス、またとまりちゃんと一緒になれたらいいなと思って」

「そうだね。私もかんざしと一緒のクラスがいい」

「けど本当に別のクラスになったらどうしよう。私とまりちゃんがいないと何にもできないから」

 その言葉に心臓を羽毛で撫でられるような感覚が全身を包んだ。嬉しいけれどくすぐったくてその感覚から目を逸らした。

「そんなことないでしょ。てか去年も一昨年もそんなこと言ってなかったっけ。なんだかんだで小学校六年間ずっと一緒だったんだから今回もきっと一緒だよ」

「そうだよね。きっとそうだ」

 かんざしは自分に言い聞かせるようにしきりに頷く。拳をぎゅっと握りしめて。その拳を撫でるように桜の花びらが落ちるのが見えた。

「私とまりちゃんがいないと何にもできないから」

 先ほどのかんざしの言葉を脳は頻りに繰り返している。まるでその言葉が私にとって喜ばしいものであるかのように。

 私はエゴで塗れた脳の無意識の行動に抗うように冷静でいるよう努めた。大体かんざしはその言葉を私を喜ばせるために発したのではないだろう。だってその言葉はどことなく自虐的で卑屈な響きを伴っていたから。

 私が思うにかんざしは自分を低く見積りすぎている気がする。かんざしはたしかに本人が常日頃から言うように人見知りだし友達が少ない。けれどそれは私がいるからそうなっている面があるような気がする。私がいない、友達をどうしても作らなければいけない環境に身を置けば案外普通に友達の一人や二人はできるんじゃないだろうか。

 かんざしは他にも私と比べて運動が苦手なことをよく気にしているけれど私からすれば勉強ができて難しい本をいっぱい読めることも十分にすごいと思う。

 それに何より、わたしは横目でチラッとかんざしを盗み見る。小さな体に大きな瞳。透き通るような白い肌。かんざしは私と違って女の子としてのかわいさで溢れている。それなのにかんざしは私よりも背が低いことや雰囲気が子供っぽいことを気にして自分の容姿を私よりも劣っていると思っている。

 かんざしは、かんざしになくて私にあるものを殊更に気にして比較して自己を低く見積もっているのだと思う。かんざしにはこんなにも良いところが一杯あるのに。それが私にはもったいなく思える。

 もしかしてかんざしにとって私は枷なのではないだろうか。私がいるからかんざしの可能性は狭まってしまっているのではないだろうか。

 その考えはどことなく言い訳めいていた。ただ、それが何に対してのどんな言い訳なのかは自分でもわからなかった。

 そんなことを考えながら歩いていると坂の傾斜が急になだらかになった。坂はもうすぐで終わるみたいだ。右手前方を見ると桜並木が途絶え学校の敷地を囲むコンクリートの壁が連なっていた。更にその奥では銀色のアルミでできた校門が太陽の光を反射して光っていた。そこに私たちと同じ制服を着た生徒たちが次々と吸い込まれていった。

 私たちも列の流れに身を委ねて歩くうちに校門へと辿り着きそのまま中学校へと足を踏み入れた。中学生になる瞬間は思いの外あっけなくてその実感は湧いてこなかった。

 校門の前では人だかりができていた。進むべき方向を示す貼り紙が目の前のドアに貼られているのにどうしてみんな立ち止まっているのだろう。私は疑問に思って人だかりをよく観察する。

 人だかりは貼り紙の貼られたドアの隣に集中していてその前には掲示板のようなものがあった。何か文字が書かれている。私は目を凝らす。視力は人より良い方だ。そこには大きな文字で、新入生クラス分け、と書かれていた。

「あそこ。あの掲示板。クラス分けって書いてある」

「見える?」

「ここからじゃ良く」

 流石に私の視力でも書いてある文字までは見えなかった。

 私は人だかりを見つめる。クラスを知りたければあの人だかりに混ざるしかなさそうだ。わたしは意を決してかんざしにその場で待っているように伝えようとする。その瞬間

「クラス分けの紙です。どうぞ」

 白髪で銀縁の眼鏡をかけたお爺ちゃんの先生がクラス分けの書かれた紙を手渡してくれる。

「ありがとうございます!」

 人だかりに加わらなくて良い安心でついつい声が大きくなる。

「あ、ありがとうございます」

 かんざしも遅れてそう言ってペコリと頭を下げた。先生はそんな私たちの様子にニコリと笑って他の生徒に紙を渡しに行った。辺りを見れば何人もの先生が紙を片手に歩き回っていて掲示板にできた人だかりも随分と解消されつつあった。

 私は紙の上に視線を落とす。私の名前はすぐに見つかった。一組だ。そしてそのまま視線を下に滑らしていく。程なくしてかんざしの名前も見つかった。

 私はまだ一生懸命に紙上で自分の名前を探しているかんざしにそっと耳打ちする。

「やったね」

 かんざしは目を大きく見開いてそれから必死に自分の名前を探して、同じ列に私とかんざしの名前が記入されていることを確認すると

「やった」

 噛み締めるようにそう呟いた。それから私の方を向いて花が咲くようににっこりと満面の笑みを浮かべた。その笑顔につられて私の口にも笑みがこぼれた。そうして私たちは笑顔を交換しあった。


「以上が入学式の段取りになります。それではいよいよ体育館に向かいます。出席番号の若い人順に二組の列の後ろに二列で並んでください。

 担任の先生が見た目の割にハキハキとした口調で指示を飛ばす。偶然にも私たちの担任の先生はさっき紙を渡してくれたあのお爺ちゃんの先生だった。

 私は指示の通りに席を立って教室を出て二組の列の後ろに並んだ。私たちのクラスは廊下の突き当たりの体育館から一番遠い所に位置していて廊下を見渡す他のクラスはもう既にあらかた整列を終えていた。

「赤熊さん背高いね。何センチくらいあるの?」

 私の隣に並んだ女の子が大袈裟に見上げるような仕草を取りながら話しかけてきた。私の席の後ろに座っていた子だ。

「そんなでもないよ。160センチくらいかな。えっと......君は何センチくらい?私を羨むほど小さくは見えないけど」

 名前が思い出せなかったので適当に誤魔化しながら私は尋ねた。

「155センチだよー。けど見た目はそんなに変わらなくても160あるかないかで全然印象が違うじゃん。だからいいなーって。あとあたしの名前は石橋ほのかね」

 そう言って石橋さんは全て見透かしてます、とでも言いたげな微笑を浮かべた。

「ごめん。まだ人の名前全然覚えれてなくて。私は赤熊とまり。よろしく」

「とまりちゃんね。よろしくー。名前覚えれないのはまだ全然初めだし仕方ないよ。あたしがとまりちゃんの名前覚えてたのも前の席に綺麗な子いるなぁって思ったからだし」

「綺麗とかそんな。石橋さんだってかわいいじゃん」

「ほのかでいいよ。うわー、なんかとまりちゃんにそう言われるとドキドキするんだけど。やっぱかわいいって暴力だわ。てかさ、とまりちゃんって何小?」

「西小だけど。ほのかちゃんは?」

「あたしは東小。西小も東小もこっちの中学に来る子少ないよね。うちのクラスでとまりちゃん以外に西小の子いるの?」

「三人いるけどそのうちの二人はあんまり喋ったことない男子なんだよね。残りの一人とは仲良いけど。そっちは?」

「こっちは私抜いたら四人かな。だけどあたしも三人はほとんど喋ったことない人だし同じようなもんだよ。とまりちゃんの横の席の女子いるじゃん。狩谷って子。その子とは仲良いから後で紹介するね」

 そんな風にほのかちゃんと話していると、教室から先生が出てきて

「一組整列終わりました」

 そう言ってぴーっと笛を吹いた。その笛に合わせて廊下の先端に位置する六組の列が動き始める。私たちは前の列が動くまでその場で待機していた。ほのかちゃんは手持ち無沙汰そうに手を弄りながら話しかけてくる。

「入学式とか卒業式って待ち時間多くてめんどくさいよね。式自体も偉い人の話が大半だしさ」

「わかる。PTAの会長とか誰だよって」

「ほんとそれ。来賓の方々のご紹介って聞いて芸能人でも来てるのかなと思ったらよく知らない政治家のおじさんおばさんばっかりだったりね。期待して損した」

そんな話で二人して笑っていると前の列が動き始めた。

「けど別に大したことしないって分かっててもやむぱりちょっとこういうのドキドキするよね」

 私たちが動く段階に入る直前に彼女はそう言って笑った。私はその言葉で、そうか、今日は入学式なのかと今更ながらに実感した。


 式が終わって教室に戻ってきた。先生が保護者への挨拶へと出向いているせいか、教室は式の前と比べると随分と賑やかだった。ただそれは小学校の時の底抜けの明るさからもたらされる遠慮のない騒音ではなく、周囲の空気を伺いながら行われる会話が幾重にも折り重なってできた緊張感まじりのざわめきに近いものだった。

 「とまりちゃんとまりちゃん」

 背中がトントンと叩かれる。振り向くとその手の主はほのかちゃんだった。そして席に座ったままのほのかちゃんの隣には少し見覚えのある女子が立っていた。私は間接視野で隣の席を確認する。予想通りそこは空だった。

「さっき話してた狩谷さん?」

「そう。さっき話してた狩谷。ほら挨拶して」

「狩谷つばめです。よろしく。呼び方は......何でもいいや」

 狩谷さんは少し気だるそうにそう言った。低めの声にゆっくりとした喋り方。銀縁の度の強そうな眼鏡と相まってどこか無口な印象を感じさせる子だった。

「もう、ごめんね。こいつ愛想なくて。けどこいつこんなんで脚はめっちゃ速いんだよ。うちら小学校の時一緒に陸上部行ってたんだけどあたし一回もこいつに勝てなかったの。マジでムカつく」

「ほのかが遅いだけだよ」

「あーもうマジでこいつ」

 二人は私の前で戯れあっている。そのやり取りから仲の良さが伺えた。私は一瞬チラッと教室の後方を確認する。かんざしは一人で本を読んでいた。

「あー、とまりちゃん置いてけぼりにしてごめん。まあとりあえずこいつも嫌な奴じゃないから仲良くしてあげてね」

「よろしく。赤谷さん」

「赤熊な。いやほんとこんなだけど悪い奴じゃないから」

 尚も戯れ合う二人とそんなやり取りを交わしていると。

「偉い楽しそうやな。うちも混ぜてーや」

 声の主は左後ろの席、ほのかちゃんの隣の席に座る女子だった。その子は整った顔をこちらに突き出して机に身を乗り出すようにしている。

「どうぞどうぞ。いつでもウェルカム。名前、倉野さんだったよね?」

 急な乱入者に少し面食らった表情を浮かべていたほのかちゃんだったが即座にテンションを持ち直してその子に尋ねる。

「そうやで。そんで下の名前はしおりなー。にしてもまだクラス発表されてそんな経ってないのによう覚えてたな」

「いやなんか綺麗な子が横にいるなと思ってそれで......」

「それ私の時も言ってたじゃん」

 聞き覚えのあるフレーズに私は思わず口を挟む。

「なんや誰にでも言ってるんかい。喜んで損したわ」

「そういうの良くないと思う」

 私を皮切りに倉野さんや狩谷さんもほのかちゃんにブーイングを浴びせる。

「いや、二人はともかくつばめにまで攻撃される謂れは無いじゃん。それに二人を綺麗って思ったのは本当だし。ていうか、倉野さんってどこ小?関西弁って珍しいよね」

「ああうちこの春に大阪から越してきてん。やから今は絶賛ぼっち中で友達募集中やから仲良くしてな」

「もちろん!じゃあ仲良くなったついでに改めて自己紹介しとこうか。私は石橋ほのかね。よろしく。で、こっちの綺麗な子が」

「別に綺麗ではないけど、赤熊とまりです。よろしくね」

「で、このむすっとしたのが狩谷つばめね」

「よろしく」

「じゃあうちも改めて、倉野しおりです。呼び方はまあなんでもいいです。よろしく」

 みんなの自己紹介が終わって私たちは互いに拍手しあった。その光景がシュールで私たちはまた互いに顔を見合わせて笑い合った。その状況にすかさず倉野さんがツッコむ。

「なんやねんこの時間」

それにほのかちゃんも茶々を入れる。

「流石本場のツッコミ」

「その雑な大阪イジリええから。てかさっきちょっと盗み聞きしてたんやけどさ。君ら陸上やってんの?うちも大阪でやっててんけど」

「マジで?陸上やってたんはあたしとこいつでとまりちゃんはやってないけど。じゃあしおりちゃんも陸上部入る感じ?」

「なんも考えてないけど多分そうなるんちゃうかな。そっちは?」

「私は入る」

 意外にも狩谷さんが即答した。

「あたしも入るつもり。中学こそこいつに一回でいいから勝ちたいし。そういえばとまりちゃんはなんか入りたい部活とかあるの?」

「私は特にないけど」

 私が答えた瞬間ほのかちゃんはグッとこちらに身を乗り出す。

「じゃあさ、一緒に陸上部入ろうよ!とまりちゃん体大きいし脚長いから向いてると思う!」

 私は無意識にかんざしの方を見る。かんざしはさっきと変わらず本を読み耽っている。

「ちょっと、考えとく」

 私の煮え切らない返事に何かを感じとったのかほのかちゃんは身を引いて

「まあ中学校の三年間を費やすかどうかなんてそんな大事なことを簡単に決められないよね。ちょっと強引だったかも。けどとまりちゃんが来てくれたらあたしは嬉しいな」

 こちらを気遣うようにそう言ってくれた。狩谷さんは隣でうんうんと頻りに頷く。

「ほのかは優しいなー。こんなイカつい顔やけど」

 しみじみとした口調で倉野さんは呟く。

「ちょっと!イカつい顔って何!」

 ほのかちゃんが声高に倉野さんの言葉尻を捕まえて食ってかかる。

 その時前のドアがガラガラと空いて息を切らした先生が入ってきた。

「長いこと待たせてすいません。ではこれから皆さんにとって中学校生活初めてのHRを始めたいと思います」

 その声に狩谷さんは席について私たちも前に向き直った。教室のざわめきも段々と収まった。

 そうしてHRが始まった。先生の穏やかな声を聞きながら私は部活のこと、それからかんざしのことを考えていた。

 

 隣を見るとかんざしは桜を見上げながら歩いていた。私もかんざしに倣って頭上を見上げた。確かに、舞い散る桜と一面に広がる青空のコントラストは思わず足を止めてしまいそうになるほど美しかった。

 その光景からは昔読んだ少女漫画の映像が想起された。坂道を男の子と下る主人公。桜の花びらが二人を覆い隠した次の瞬間、男の子は主人公にキスをした。

 まだ幼かった私はそのシーンを観た瞬間思わず漫画を閉じてしまった。感情移入をしながら読んでいた物語の主人公と男の子がキスをしたという事実にびっくりしてしまったからだった。その時の私にとってキスとはディズニーのお姫様と王子様がするものでファンタジーの世界のお話だと思っていた。だから、現実同然のものとして読んでいた漫画に当然のようにキスが描かれていたことが予想外だった。主人公と男の子の唇が重なった一コマは幼い私の脳裏に強烈に焼き付いた。

 それ以来その漫画は続きも読まずに押入れにしまって少女漫画を読むことも避けるようになってしまった。今の私なら続きを読むことはできるのだろうか。何となく触れてはいけないものな気がして、今もその漫画は押し入れに眠らせている。

「桜、綺麗だね。なんか漫画みたい」

 押入れにしまい込んだはずの光景が目の前に映し出されたことに奇妙な感慨深さを覚えて、私は思わずつぶやいた。

「たしかにそうかも。ていうか前見ながら歩かないと転んじゃうよ」

「ついさっきまでかんざしもこうやって歩いてたじゃん」

「私は大丈夫なの。とまりちゃんはそそっかしいんだから気をつけなきゃ」

「かんざしお母さんと同じこと言うじゃん」

 そう言って私は笑った。それを見てかんざしも笑う。私は和やかな空気にそっと挿し込むように話題を変える。

「かんざし。友達できた?ていうかできそう?」

 笑顔はそのままにそう言った。そんな質問をしながら私は思った。私はかんざしの返答に何を期待しているのだろうと。

「もう何急に。できてないし多分できないんじゃないかな。今までと変わらず」

 かんざしは当たり前の事実を告げるようにそう言った。その返事を聞いて私の胸には安堵の気持ちと残念に思う気持ちの両方が去来した。相反する二つの感情のどちらの正体も私には掴み難いものだった。

「かんざしは相変わらずだなぁ。人見知りなのはわかるけど流石に私以外にも喋れる人いた方が良くない?」

 そう言いながら、かんざしが私以外の誰かと仲良くしているところを想像するとモヤっとする自分がいた。それと同時にかんざしは私以外の人ともっと仲良くすればいいのにと思う自分もいた。このチグハグさの原因がわからなくて私はそこから無意識に目を逸らした。最近、私の知らない私がどんどんと質量を増していく。

「もう。とまりちゃんもお母さんみたいなこと言ってる。それよりさ、とまりちゃんはどうなの?友達できた?」

 かんざしは微笑みを崩さずにそう言った。

 かんざしの言葉に、ほのかちゃんや狩谷さん、倉野さんの顔を思い浮かべた。それから彼女らに同じ部活に入ろうと誘われたことを思い出した。

「友達って呼べるかは微妙だけど話せる子なら何人かできたよ。私の席の周り、明るい子が多くてその子たちと仲良くなった」

 私の言葉に彼女は微笑みを浮かべたままで頷いた。けれどその微笑みの隙間からは仄暗いものが感じ取れた。その仄暗さが私の胸をじんわりと朱に染めた。

「そうなんだ。たしかに楽しそうにしてたもんね」

 笑顔のままで答えるかんざし。それを見てると胸中の朱色が罪悪感に塗りつぶされていって、私は正気を取り戻した。

 今の私は少しおかしい。もっとかんざしと普通に今まで通りに向き合わないと。

「それでさ、かんざし」

 私は改まって切り出す。部活に入ろうか迷っていること、かんざしには言ったほうがいいだろう。だって多分部活が始まれば一緒に帰れる日も限られてくるだろうし。それに。私はほのかちゃんの言葉を思い出す。

「まあ中学校の三年間を費やすかどうかなんてそんな大事なことを簡単に決められないよね」

 私とかんざしの仲でそんな大事な選択を共有しないというのはやはりどこか不自然に思われた。

「どうしたの?」

 中々口を開かない私にかんざしは訝しげに尋ねる。

「私さ......その......やっぱりいいや」

 今までの私ならすんなりと彼女に伝えることができただろう。

 その仲良くなった子たちに陸上部に入らないって誘われて迷ってるんだよね、と。

 けれど私は何故か咄嗟に誤魔化してしまった。

「いいの?」

 かんざしは念を押すように言う。

「うん。いいの」

 何も良くないのに気付けば私は力強く頷いていた。私は何をやっているのだろう。脳は混乱したままだった。

 必死に頭の中を整理しながら歩いていると足の裏に触れる坂道の傾斜が緩くなって私たちの家の近くの平坦な道へと出た。

「今日もとまりちゃんの家遊びに行っていい?」

 かんざしはいつもの調子で尋ねる。

「もちろん」

 私もいつもの調子で答えた。そんないつも通りのやり取りが私を酷く安心させた。

「じゃあまた後で」

 そう言ってかんざしはかんざしの家のドアを開けた。

「また後で」

 私もかんざしの背中に返事をして鞄から鍵を取り出し家のドアに差し込んだ。鍵はいつも通りに反時計回りに回転してドアがガチャリと開いた。

 また後で言えばいいか。心の中でそう呟いた。


「お邪魔します」

 そう言ってかんざしは玄関で脱いだ靴を揃えた。昔の癖が抜けないのか、かんざしは昼間は私以外には誰もいないって分かっているはずなのに毎回律儀に挨拶をする。そんなかんざしを見るたびにそういえば昔はお母さんがこの時間も家にいたのかと思う。

 詳しい時期は覚えていないけれど私が小学校の低学年くらいの時両親が離婚した。そして当たり前のように父は家を出て行った。ただその事に拠る変化は特に無かった。父は元々家にあまり居るタイプじゃなくて休みのたびにバイクに乗ってどこかへ出かけに行くような人だったから父が家から居なくなったという実感は湧かなかった。

 一方で母親が病院に看護師として勤務し始めて日中家に居なくなったのは私にとって大きな変化だった。家に帰って

「ただいま」

と言っても誰も返事をしてくれないと言うのは幼心に寂しさがあった。

 そんな私の側に居てくれたのがかんざしだった。私はゲームをしてかんざしは私の膝の間で本を読む。何をするでもなくただ二人で一緒に居るだけ。その時間のおかげで私は寂しさを感じずに済んだ。

 そして寂しさを恐らくは許容できるくらいに成長した今でもその時間は続いている。

 私たちは馴染み切った動作で階段を登って二階の私の部屋に入りいつもの場所に座った。私はテレビの前に。かんざしは私の膝の間に。

 かんざしの小さい頃から変わらない甘い匂いが一気に接近した。その匂いはいつも私の側にあって、けれど今日はなぜかその甘さが鼻を伝って直接脳へと流れ込むように感じられた。いつもより鋭敏に身体がその甘さを享受していた。

 私には偶にこういうことがあった。かんざしの匂いや体温がいつもより近くに感じられることが。けれどその感覚は大抵ゲームを始めるといつの間にかどこかに行ってしまった。時間が経過してあれはなんだったのだろうと首を傾げることもしばしばだった。

 だから私は別段それを意識することもなくコントローラーに手を伸ばした。かんざしも鞄をごそごそと探って分厚い本を取り出した。そしてそれを開いて読み始めた。

 私はコントローラーのボタンを押してゲームの電源を入れた。画面にゲームの画面が映し出された。これから取り掛かるのは集中力を要する難易度の高いステージだった。

 私は意を決してゲームをスタートした。

 いつもの時間が始まった。

 ゲームをしていると時間があっという間に過ぎていく。コントローラーを介してキャラを安全地帯のような場所にまで移動させた時、私はあることに気がついた。あの感覚がどこかに行っていないと。

 身体は彼女の匂いを鋭敏に感じ取り続けていた。匂いだけじゃない。その体温もいつもより近いところで。

 私はゲームに逃げ込むようにコントローラーをぎゅっと握る。手が汗ばむ。ボタンの上で指が滑る。隙だらけの脳にある一つの映像がパッと浮かぶ。押入れの漫画のキスシーン。その映像の主人公と男の子の顔がじんわりと滲んで私とかんざしの顔にすり替わる。より近くで触れるかんざしの匂いと体温。私は慌ててその映像を脳から追い出す。けれど接近した匂いと体温の幻想は消えずに私の中に残る。

 空想は加速していく。例えば今、私はコントローラーを置いて少し指や腕を動かすだけでかんざしのどこにでも触れることができる。スカートから覗く細い脚にも真っ白な首筋にもそして最近膨らみ始めた胸にも。

 私は服を脱いで裸になる。かんざしも当然裸になって二人で裸のままで抱き合う。お互いの匂いや体温は混ざり合って境界は曖昧になっていく。そのまま私たちはキスをする。かんざしが甘い声を漏らす。

 脳がその声を再生しようと試みる直前に不協和音が部屋に響いた。無意識に動かしていたゲームのキャラクターは横たわっていてgame overとおどろおどろしい字が浮かび上がっていた。私はハッと我に帰った。手が汗でびっしょりと濡れていた。鼓動がやけに早かった。その音が私の胸に面しているかんざしの背中越しに伝わっていないかが心配だった。その音をかんざしに聴かれることは脳内を覗かれるのと同義に感じられた。

 私が固まっていると突然にかんざしが振り返って

「ごめん。私邪魔?」

 そう尋ねた。私の視線は自然とかんざしの唇を捉えていた。艶やかに光る唇は何かに触れられるのを待ってるように思えた。また脳裏を漫画の映像がよぎった。その映像を脳は現実に投射しようとした。

 私は脳の隅に追いやられた理性を総動員してその映像を打ち消した。

「いや大丈夫。大丈夫だけどちょっとトイレ行ってくるね」

 私は立ち上がり平然を装っていつもの歩調で部屋を出た。本当は駆け出したかった。今、私の中で起こったこと全てを置き去りにしてしまいたかった。

 しかし、駆け出すことも胸の鼓動を置き去りにすることもできなかった。私は廊下を歩いてトイレへと入った。

「どうして」

 一人っきりの安全地帯に逃げ込んで真っ先にそんな言葉が口を突いて出た。心臓はさっきと全く同じスピードで跳ね続けていた。

 脳に浮かんだ映像。かんざしに触れたいという欲求。そのことしか考えられなくなる熱情。

 それらがもう一度訪れると考えるだけで怖かった。私ですら預かり知らない何かが私の内から湧き上がって私を呑み込もうとしていた。一度発生したが最後その流れは速くて強くて私の意思なんて全く考慮せずに私をどこか遠いところへと連れて行こうとしていた。

 私は思った。その流れごとまとめて押し入れに閉じ込めてしまおう、と。目につかないところに追いやって二度と触れないようにしよう、と。

 その考えは自らの内に滞留する熱をゆっくりと冷ましてくれた。

 私はトイレに備え付けられた手洗い場の蛇口をゆっくりと捻った。微量の水がちょろちょろと垂れ落ちた。私はその流れに手をかざした。水は手の温度を外側から冷ましてくれた。しばらくそうした後、私はまた蛇口をさっきとは逆方向に捻った。水の流れはその動きに呼応するように止まった。壁に掛けられたタオルで濡れた手を拭いた。それから大きく深呼吸を一つして、手洗い場の上に付けられた丸い小さな鏡を覗き込んだ。

 そこにはいつもと寸分変わらない私が映り込んでいた。

「これでいいんだ」

 私はそう呟いた。

 私はなにも変わらなくていい。あんな醜い熱情がもう二度と姿を現さないように。

 そのためにはかんざしから離れるしかなかった。

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