変身
無銘
第1話 あなたがいればそれだけでいい
中学校を目指して桜舞い散る坂道を登っている。前にも後ろにも人がいっぱい居てみんなが同じ方向を目指している。今日は入学式だ。
人の多いところが苦手な私にとって今の状況はかなり辛いものだった。前を歩く人も後ろを歩く人も、ほとんどみんなが私と同じ新一年生。この中の何人かとは同じクラスになったりするのだろうか。自分が周囲の見知らぬ人たちと教室で仲良く過ごしている光景を想像することは難しかった。そうできればいいなとも思わなかった。だって私には彼女がいるから。
私は隣を歩く彼女へと目を向ける。彼女は勝ち気な印象を抱かせる瞳で真っ直ぐ見据えた視線をなぞるようにして歩いていた。私よりも一回り大きな体や、目鼻立ちがハッキリしている顔が、着慣れない制服の違和感を消していて周囲と比較しても彼女の容姿は際立っていた。
彼女、赤熊とまりは私の幼馴染であり唯一の友人だ。彼女とは家が隣で親同士の仲が良く幼稚園に入る前から一緒に遊んでいた。そのせいもあってか物心ついた時には私と彼女は一緒にいるのが当たり前になっていた。
大人しくて引っ込み思案な私と明るく活発な彼女がずっと一緒にいることはしばしば周囲の人間から不思議に思われた。
「なんでとまりちゃんは広田さんと一緒にいるの?」
このようなことを彼女が聞かれているのを何度も耳にしたことがある。離れていても自分に関しての話だと耳が敏感に察知する。その度に私は何気ない仕草で聞き耳を立てる。彼女は決まってこう言った。
「うーん。なんでだろ。わかんないけど、でも私とかんざしは仲めっちゃいいよ」
その言葉に何度も救われた。私は彼女の隣にいてもいいのだと。
事実、大人しくて引っ込み思案な私と明るくて活発な彼女の仲は確かに良かった。二人の凹凸は綺麗に噛み合っていて回転の円滑な歯車のように二人でいると心地が良かった。
私たちはそれが当たり前であるかのように一緒にいた。私にとって彼女は酸素のようなもので、色んな人の感情が入り乱れ、その一つ一つを咀嚼する間もないほど目まぐるしく過ぎる日々の中で彼女の隣に居さえすれば上手く呼吸をすることができた。窒息しそうな息苦しさに怯える必要はなかった。
知らないということは怖いことだ。そして学校は知らない人や知らない感情で溢れていた。けれど彼女の存在が私の知らないことへの恐怖を取り払ってくれた。彼女を介して触れる世界はいつだって綺麗だった。
ならば彼女にとって私はどんな存在なのだろう。私が彼女に対してそうであるように彼女も私を大事な存在だと思ってくれているのだろうか。
私は隣の彼女に再び目を向ける。落ちてくる桜の花びらを通して見る彼女の横顔は美しかった。その美しさに気づくたびに私は嬉しくなる。私の親友はこんなにも美しい、って。私にとって彼女は他人に唯一自慢できるものでもあった。もちろん彼女は私の所有物ではないけれど、まるで自分の身体の一部のように感じてしまうくらい私の側にはいつも彼女がいた。
私の視線に気づいたのか彼女がこちらを向いて小首を傾げる。
「どうしたの?」
彼女の疑問に私は慌てて話題を捻り出す
「クラス、またとまりちゃんと一緒になれたらいいなと思って」
「そうだね。私もかんざしと一緒のクラスがいい」
彼女はそう言って頷く。私はその言葉に安心する。彼女も私と一緒がいいって思ってくれているんだ。
「けど本当に別のクラスになったらどうしよう。私とまりちゃんがいないと何にもできないから」
安心した側から不安が顔を覗かせる。
「そんなことないでしょ。てか去年も一昨年もそんなこと言ってなかったっけ。なんだかんだで小学校六年間ずっと一緒だったんだから今回もきっと一緒だよ」
彼女は呆れたように笑ってそう言う。
「そうだよね。きっとそうだ」
私は念じるように呟いた。
毎年のように繰り返すそんなやり取りを交わすうちに校門へとたどり着いた。校門には大きな人だかりができていた。
「あそこ。あの掲示板。クラス分けって書いてある」
私よりも視点が高くて視力の良い彼女が人だかりの奥を指差してそう言った。
「見える?」
「ここからじゃよく」
私たちが悪戦苦闘していると
「クラス分けの紙です。どうぞ」
大きな紙束を抱えた初老の優しそうな男の先生が私たちにそれぞれ紙を差し出す。欲しかった情報がいきなり手元に舞い込んで視界に飛び込んでくる。
「ありがとうございます!」
「あ、ありがとうございます」
お礼を言う彼女に慌てて追随する。急に上がった心拍が身体の中心でどくどくと脈を打つ。私は意を決して手元の紙に視線を滑らした。
まずは紙の最上部にあるであろう彼女の名前を探す。彼女の名前はすぐに見つかった。一組だ。私は視線を紙上でゆっくりと降ろしていく。
「やったね」
彼女は私の耳元で囁いた。それと同時に私は自分の名前を見つけた。
私も一組だ。
「やった」
叫びたいのを抑えて私は呟いた。それから彼女の方へと顔を向けた。私たちは笑顔を交わし合った。
それから、私たちは自分たちの教室へと行って担任の先生に式の段取りを教えられ、廊下に整列して体育館で式をこなしてまた教室へと帰ってきた。今はHRで担任の先生が自己紹介混じりの挨拶をしている。
「担任になりました宮原尚文です。担当教科は国語です。えー、教師をしてきて今年で三十年ほどになりますがやはり始まりの日というのは何度経験してみても嬉しいものですね。それと同時に緊張もしているわけですが。いずれにしてもみなさんをこうして無事にお迎えできたということがまずは何よりも嬉しいです」
担任の先生は朝にクラス分けのプリントを渡してくれた男の先生だった。見た目から受ける印象と違わずに穏やかな口調でゆっくりと話す人だった。声は細くて少し甲高かった。それが絶妙な塩梅で耳触りが良かった。午後の授業だと寝てしまいそうな声だなと思った。
すでにプリントや教科書などの配布物は配られていて恐らくこの話が終われば帰ることができる。
私は朝と比べて重さの増した手提げ鞄を撫でる。それからそっとため息をつく。毎年この時期は苦手だ。周囲にいる人や環境や色々なものが目まぐるしく変化する。その変化の一つ一つに身体や心を適応させるのは酷く苦痛で疲れる行為だった。
私は彼女の方へと視線を向ける。彼女は名前の順番に並べられた席の一番右上にいる。
そこで、早くも親しそうに周りの席の女子たちと話をしていた。彼女の席の周りの女子たちも彼女と同じように、人目を惹く見た目の子が多かった。彼女は随分とキラキラした場所にいた。それを見るだけで胸が不安で騒ついた。
こういったことは今までに何度もあった。けれどその度に、いつだって彼女は私との関係を一番にしてくれた。だから大丈夫だ。自分にそう言い聞かせた。けれど一度顔を覗かせた不安は収まってはくれなかった。
頭ではわかっている。時間をかけて積み重ねてきた彼女との関係がこんなことで揺らいだりはしないって。けれど心は不安を訴える。この瞬間だけは私が彼女の親友だという確信が持てなくなる。
私に対して見せる彼女の顔を見ることに慣れすぎてしまって、私以外に見せる彼女の顔を見ると心が落ち着かない。それこそ後者の方が本当の彼女なのだというふうに変化してしまったらどうしよう。多分変化への恐怖や嫌悪の根源はこれだ。彼女に変わってほしくない。ずっと彼女の親友でいたい。
「ということで一年間よろしくお願いします。すいません長くなっちゃって。みなさん本当に今日はお疲れだと思うのでお家でゆっくり休まれてください。では今日はここまでにします」
私の益体の無い思考を打ち切るように先生は号令をかける。
私は彼女に視線を合わせたままで席を立つ。席を立つ拍子に視線に気づいたのか、彼女は私に向かって微笑み、手をひらひらと振ってくれた。私も手を振り返した。そのやりとりで幾分心が救われた。小学校の時からこんな杞憂を何度も繰り返している。そしてその度に毎回それは杞憂で終わっている。
「礼」
私と彼女だけ一拍遅れて背を曲げた。
帰りの挨拶が終わると私はすぐに彼女の元へと向かった。またあのキラキラとした空気に彼女を取られたくなかった。
幸い彼女は一人で黙々とプリントをリュックに入れていた。私は心置きなく彼女に話しかける。
「とまりちゃん。帰ろ」
「うん。けどちょっとだけ待って」
整理整頓が苦手な彼女は鞄の中の体育館シューズやプリントや教科書を一度机に全て広げてまた鞄に入れ直す。そんな彼女に
「赤熊さんばいばーい」
周囲の女子たちは声をかけて教室を後にする。彼女も楽しげな口調で挨拶を返す。私は何かを我慢するように背負った鞄から飛び出た紐をぎゅっと握った。
一分もしないうちに机に散らかった彼女の私物は全て鞄に収められた。
「よしこれでおっけー。じゃあ私たちも帰ろっか」
鞄を背負いながら彼女はそう言った。
教室を出て下駄箱の前で靴を履き替えて校門を出た。中学校はちょうど朝に登った長い坂道の頂点に位置していて、坂道全てを生徒が埋め尽くしている様子が見えた。人の流れに乗るように私たちも坂を下り始める。坂道は緩やかで傾斜によって歩調が急かされるということはなかった。ただやはり、狭いガードレールの内側を人がいっぱいになって歩く光景はどことなく気分が悪かった。
そんな私の気分を慰めるように桜の花びらが朝と変わらず頭上を舞っていた。朝には気づかなかったけれど桜は盛り土のようなものに植えられていて、私たちが歩いているところよりも高い地点に根を下ろしていた。
私はぼんやりと花びらを振り落とす桜を見上げながら歩いていた。
「桜、綺麗だね。なんか漫画みたい」
彼女の声に反応して隣を見ると彼女もさっきまでの私と同じように桜を見上げながら歩いていた。
「たしかにそうかも。ていうか前見ながら歩かないと転んじゃうよ」
「ついさっきまでかんざしもこうやって歩いてたじゃん」
「私は大丈夫なの。とまりちゃんはそそっかしいんだから気をつけなきゃ」
「かんざしお母さんと同じこと言うじゃん」
そう言って彼女はころころと笑った。それから急にこちらに向き直って
「かんざし。友達できた?ていうかできそう?」
笑顔はそのままにそう言った。
「もう何急に。できてないし多分できないんじゃないかな。今までと変わらず」
私にはとまりちゃんがいるし。心の中でつぶやいた。
「かんざしは相変わらずだなぁ。人見知りなのはわかるけど流石に私以外にも喋れる人いた方が良くない?」
「もう。とまりちゃんもお母さんみたいなこと言ってる。それよりさ、とまりちゃんはどうなの?友達できた?」
本当は聞きたくなかったけれど話の流れから聞かないのもおかしいかなと思って私は尋ねる。
「友達って呼べるかは微妙だけど話せる子なら何人かできたよ。私の席の周り、明るい子が多くてその子たちと仲良くなった」
「そうなんだ。たしかに楽しそうにしてたもんね」
さすがはとまりちゃんだ。そう思ったけれどそれを口に出して言うのはどこか憚られて心のうちに留めた。
「それでさ、かんざし」
彼女は改まったように言う。
「どうしたの?」
「私さ......その......やっぱりいいや」
彼女は何かを言い澱んで結局、口に出しかけた言葉を取りやめた。彼女にしては珍しく歯切れが悪かった。
「いいの?」
「うん。いいの」
そんな問答を繰り返しているうちに坂道が終わって道が平坦になって私たちそれぞれの家にたどり着く。
「今日もとまりちゃんの家遊びに行っていい?」
「もちろん」
ばいばい。どちらからともなく別れの挨拶を交わした。
そうして私たちはそれぞれの家の前で一旦別れた。さっき彼女は一体何を言おうとしてたんだろう。そんな疑問が浮かんだけれど彼女の家に遊びに行くことが楽しみでいつのまにか忘れてしまった。
ピコピコとゲームの電子音が部屋に響く。私はその音をBGMに小説を読み進めていく。ページの捲れる音が電子音と混ざる。
私の肩に、コントローラーを操る彼女の手が当たる。私の背中を包む彼女の体温はいつもと同じようにひんやりとしていてそれがひどく心地が良かった。
彼女はゲームをしていて、私は彼女の膝の間にすっぽりと収まって彼女にもたれかかりながら本を読んでいる。私たちが互いの部屋で遊ぶときは大抵この形に落ち着く。二人で遊んでいるとは到底言い難いけれど、私はこの時間が好きだった。お互いが別々に好きなことをしているけれど一緒に同じ時間や空間を共有している、この感じが好きだった。
彼女の体温に触れながら読む物語はそれだけで普段の何倍も面白く感じた。また普段は読むのを躊躇する怖い場面も彼女がいれば難なく読むことができた。
彼女にとってはゲームの邪魔なのかもしれないけれど。BGMがステージのクリアに失敗した時の陰鬱なものに変わった。私は画面を見る。そこには黒塗りの背景に不気味な書体でgame overと書かれていた。ゲームの上手な彼女にしては珍しい。
「ごめん。私邪魔?」
「いや大丈夫。大丈夫だけどちょっとトイレ行ってくるね」
彼女はそう言って部屋を立ち上がり部屋を出ていった。ゲームによほど集中していたのか頬がかなり紅潮していた。私の背中に残る彼女の体温もいつもより温かかった。
私はその頬の色から運動会の徒競走で一生懸命走る彼女を思い出した。彼女はいつでも、一番に白いゴールテープを切っていた。
彼女の体温が遠ざかって部屋には変わらず陰鬱なBGMが流れ続けていた。寂しい気分が増長させられそうになって思わずリモコンの消音のボタンを押した。そうすると部屋はビックリするくらいの静かさに包まれた。
私は気分転換に本を閉じて部屋を見渡す。白いカーテン。簡素な装飾の少ない机。端に追いやられたプリントや教科書の山。クローゼット。本棚。そこに並べられている物のほとんどが絵本で彼女と一緒にそれらを読んだ記憶が蘇る。彼女の部屋は昔から殆ど変わらない。いつだって簡素で適度に乱雑でその節々から香る彼女の匂いが私は好きだった。その匂いは懐かしさを常に私に届けてくれた。こんな風にこれからも未来で懐かしいなと感じることのできる今を彼女と作っていけたらいいなと思った。
私が感慨に浸っているとバタンとドアが空いて彼女が帰ってきた。
「ただいま」
何故か照れたような口調で彼女が告げる。
「おかえり」
私はそんな彼女の様子がおかしくて微笑み混じりに答える。彼女は床に転がったコントローラーを拾い上げてさっきと同じ場所に座る。私も彼女の懐に収まる。テレビが彼女の操作に合わせて動き始める。音は鳴らない。彼女は首を傾げる。
「ごめん。音消してた」
私は足下のリモコンに手を伸ばして消音を解除する。再び陰鬱なBGMが流れ始める。彼女はそれを吹き飛ばすようにコントローラーのボタンを連打する。すると、元の陽気なBGMに戻った。私たちはそれを機に、またそれぞれに同じ時間を刻み始めた。
◇
小学校の時よりも十分長くなるだけで授業が終わるまでの体感速度が一気に遅くなった。私は時計の針を見つめる。あと三分でお昼休みだ。
入学式から休日を挟んで三回登校して短縮授業が終わった。そして今日から通常授業が始まる。
小学校の時は長くても六時間しか授業がなかったのが中学校になると七時間も授業があるのが当たり前になるようだった。しかも授業の時間はこれまでよりも長い。途方もない時間に思われるけれど案外慣れればなんてことなく感じるのだろうか。当分は寝ないようにするので精一杯だろうな。そんなことを思っているうちにチャイムが鳴った。
昨日のHRに行われた委員と係決めで学級委員長に選ばれた子が号令をかける。眼鏡をかけた真面目そうな女の子。名前は確か紫月あやめ。昨日、黒板の中央にデカデカと長い時間その名前が書かれていたから覚えてしまった。
「起立、気をつけ」
不慣れな役回りなのか委員長の号令をかける声は少し震えていた。確かに学級委員長に挙手をした時も立候補者の居ない教室の長い沈黙に耐えかねてといった感じだったし本当はそこまでやりたい仕事ではなかったのかもしれない。
やりたい仕事に就けなかったという意味では私も同じだ。昨日のHRで私は小学校から慣れ親しんだ図書委員のじゃんけんに負けて生物係に配属された。やりたかったとはいってもそこまで執着があったわけでもないのでそれは別に良いのだけれど、一見してクラスに生物はどこにもいないし、うちの学校には兎小屋や鳥小屋があるわけでもない。何をすれば良いのかが不明だ。もしかしたら形だけで何もしなくてもいい役柄なのかもしれない。それならばラッキーだ。ちなみに彼女は体育委員になった。彼女にピッタリの役柄だと思う。
「礼」
そんな事を考えながら私は委員長の声に合わせて礼をする。委員長の声はまたしても震えていたけれどそれに突っ込むような意地の悪い人はいなかった。そうして授業はつつがなく終わった。
休み時間になった。その途端教室は先ほどの静寂が嘘のように雑音で塗れる。私は席に座って少しの諦めを持って彼女の方へと目を向ける。やはり彼女は周囲の人間と一つの机を囲んで楽しそうに談笑していた。
中学生になってから彼女と休み時間に話すことがなくなった。授業が終わるとすぐに彼女は談笑の輪に巻き込まれてしまって私の入る隙はどこにもなかった。もちろん話しかけに行けば彼女は私と話してくれるだろう。もしかしたら彼女が周りの人に私のことを紹介してくれて、その流れで私もあの仲間に入ることができるのかもしれない。彼女と休み時間に話をしたいならそれが一番最適な方法でそれ以外に選択肢はないってわかっている。ではなぜそうしないのか。
私は多分拗ねている。彼女が私を選んでくれなかったことに。私は彼女とだけ喋ることができればそれでいいのに彼女は違うんだって。また、私は多分少しだけ期待している。彼女が今からでも周りの人との会話を切り上げ私を選んでくれることを。絶対にありえないってわかっているのに。
学校には誰も逆らうことのできない流れというものがあって、今彼女にとって自然なのは周りの人と喋ることでそれを切り上げて私のところに来ることではない。だから彼女と話したければ私が彼女の元に行かなければいけないって、それくらいわかっているのに。
私は怖かった。私が彼女に迎合することで私と彼女の間にある感情の非対称性が浮き彫りになることが。私は信じていたかった。私が彼女を一番の友達として大切に思っているその分だけ彼女も私を大切に思ってくれていると。
拗ねと妙なプライドによってがんじがらめになって自分の席から動くことができなくなった私は現実から目を背けるように机の中から文庫本を取り出してそのページを開いた。昨日お父さんの書斎から借りてきた、朝起きると人間から虫に変わってしまった人のお話が書かれた本だった。
この本のように、あらゆるものがたった数日でめまぐるしく変わっていく。授業は長くなって彼女との距離は遠くなった。彼女の家で一緒に遊んだのも遠い昔のことのように思える。こんなふうに友情というのは少しずつ消滅していくものなのだろうか。私は最悪の想像を振り払う。休み時間に話せなくなっただけで少し悲観的に考えすぎだ。彼女も自然の流れでどうしようもなかったんだろうし彼女から望んで私と距離を取ったわけではないだろう。だから大丈夫だ。むしろ今までが近すぎただけでこのくらいの距離が友達として正常なのかもしれない。彼女とだけ一緒に居すぎたせいで何が正常で何が異常かの区別もついていないけれど、そうやって自分に言い聞かせた。
私は目の前のページに意識を集中した。そして彼女の体温の不在に目を瞑って物語を読み進めた。
学校での一日は恐ろしく長かった。それが授業の時間が延びたからなのか、結局彼女と一言も言葉を交わすことができなかったからのか、疲れ切った頭では判断することができなかった。けれど、そんな一日もあと少しで終わりを迎える。あとはHRを残すのみだ。それが終われば、彼女と一緒に下校することができる。彼女と言葉を交わせる。家が近くで本当に良かったと今更ながらに思った。そういった半強制的な繋がりに縋るしかないことが少し悲しかった。けれどやはりそんな少しの悲しみよりも彼女と一緒にいられるということが嬉しかった。
私は眠い目を擦って机の中から教科書を取り出し鞄の中に入れる。教科書全部が鞄に収まったところで先生が教室に入ってくる。
教室のざわざわとした雑音に注意をしたりはせず、そのままで先生はHRを始めた。色んな人の話し声にかき消されて、先生のか細い声はよく聞き取れなかった。私は先生の話を聞くことを諦めてぼんやりと窓の外を見た。ガラスを一枚隔てて見る青空は嘘のように綺麗だった。薄い雲が空の色を透かして漂っていた。遥か遠くを滑空する鳥が点のように見えた。あの鳥から見た教室もやはり点のように見えるのだろうかとそんなことを思った。そう思うと少しだけ気が楽になった。
遮断した意識の隙間から
「じゃあ今日はこれで終わります。みなさん初めての通常授業で疲れているでしょうから今日はゆっくり休んでください。それでは紫月さん号令お願いします」
という声が聞こえた。するとすぐに委員長の号令が教室に響いた。みんなはその声に合わせてすぐに立ち上がる。私だけ少し遅れてよろよろと立ち上がった。脚に上手く力が入らなかった。
「気をつけ。礼」
帰りの挨拶が終わると、教室の空気はまた一段と弛緩した。人が縦横無尽に教室内を移動する。何人かの生徒は一人でそそくさと教室を出ていく。私は彼女の元へと向かう。
彼女はまた周りの女子たちと固まっていた。私は若干の気後れを感じた。それでも今は一緒に帰るという大義名分があった。それをぎゅっと握りしめて変わらない歩調で彼女の元へと向かう。
「とまりちゃん。帰ろ」
彼女は私の声にこちらを振り向く。それから少し逡巡したような表情を浮かべる。
「誰?」
「知り合い?」
周りの女子たちが尋ねる。
「まあそんな感じ」
彼女はぞんざいに答えて、それから私の方に向き直る。
「ごめん。今日はちょっと用事があるから。先帰ってて」
いつもと同じように明るい口調で手を顔の前に合わせて。
「わかった」
力が抜けて握った拳がだらんと垂れた。縋る言葉も名分も私は持ち合わせていなかった。
私にそう告げた彼女は再び周りの女子たちのグループに溶け込んでいった。流し目で一瞬こちらを見たあとは二度とこちらに視線をやらなかった。彼女の代わりに彼女の隣にいた活発そうな女子が不思議そうな顔で私をジッと見つめていた。
私は彼女たちを避けるように後ろのドアから教室を後にした。
「ただいま」
自然と声が低くなる。
「おかえりー」
いつものように母親が居間から玄関へと出てくる。母親は私を一目見て
「かんざしどうしたの?なんか元気ない?」
そう尋ねる。
「なんでもないよ」
思ったよりも勘の鋭い母親に内心でたじろぎながら私は平坦な口調で突っぱねる。そしてそのまま自分の部屋へと向かうべく階段に足を掛ける。
「ちょっとかんざし。手洗いなさい」
「わかってるよ」
私は母親に目も合わさずに反発的な態度でそう答えた。そんな私の様子に母親は呆れたようなため息をついてそれから居間へと戻っていった。
濡れた手のひらでハンドソープを泡立てながら鏡に映る自分を見つめる。いつからだろう。母親に弱みを見せることができなくなったのは。学校で有ったことを感情を剥き出しにして矢継ぎ早に話すことを恥ずかしいと思うようになったのは。今回のことももちろん母親に話すことはしない。
だって惨めじゃないか。彼女が自分の相手をしてくれなくなって悲しいと母親に訴えるなんて。それに訴えたからといって状況は何も変わらない。それどころか悪化する可能性まである。ただ話を聞いてくれればそれでいいのに要らないことをしようとするのが母親であり大人だ。子供の世界のことは子供同士にしか解決できないのに。
私は蛇口を捻って手に広がった泡を洗い流す。それから手を拭いてコップに一杯水を注いで泡のついた蛇口も洗い流す。水滴が跳ねて鏡の中の自分の顔を濡らした。
母親に八つ当たりをしても手を洗っても心の中のモヤモヤとした気持ちは晴れなかった。私は逃げるように階段を登り自分の部屋へと転がり込んだ。鞄をベッドへと放り投げそのまま倒れるように自分もベッドに寝転んだ。
灯りの着いていない部屋はカーテンの隙間から差し込む夕陽によって仄かなオレンジに染まっていた。私は制服のままでひんやりとしたシーツの感触を味わいながら鞄を漁って、昼間読み始めた本を取り出した。鞄を放り投げたからか、本を包んでいたブックカバーは少しめくれていてタイトルの一部が見えていた。私はそれを元の形に直してから栞をめくってページへと意識を落とした。何かから逃げるようにページを捲り物語を読み進めた。
「かんざしー。ご飯できたよー」
階下から母親の声が聞こえる。私は結末に差し掛かろうとしていた本に栞を挟んでベッドから飛び起きた。ベッドの上に転がった鞄を拾い上げて本と一緒に勉強机の上に置いて、制服を脱いで部屋着に着替えてから部屋を飛び出した。頭がぼんやりとしている。物語に長時間身を置いていたせいか現実への適応が間に合っていなかった。覚束ない足取りで階段を下って行った。
ご飯に生姜焼きに味噌汁に豆腐のサラダ。食卓には三人分の食事がもうすでに並べてあった。お父さんはもうすでに席についていてお母さんはコップにお茶を注いでいる。私は自分のいつもの席に座る。私が席に座ったのを見てお母さんもコップを配って席へと着いた。
「それじゃ、いただきます」
お母さんの号令で手を合わせてから食べ始める。程なくして沈黙が降りる。みんなが食事に向かうからなんだろうけれど夕食の初めはいつも無言だ。私は黙々と箸を進める。私の席の正面には真っ暗な画面のテレビが置いてある。私の家では食事中はテレビを点けてはいけないことになっている。別に観たい番組があるわけではないけれど沈黙が苦手な私からすると食事中は点けて欲しいなと思う。
そんな事を考えていると母親がおもむろに父親に語りかけた。
「そういえばさ、高校の時クラス一緒だった岡林君っているじゃん。あの子先月事故で亡くなったんだって」
「え。マジで。誰から聞いたのそれ」
「この前久しぶりに智絵里ちゃんとランチ行ってさ、その時に」
高校の同級生だった両親が二人で会話を弾ませている。私はそんな会話を聞きながら、ぼんやりと物思いに耽っていた。
彼女のこと。さっきまで読んでいた本のこと。思考の海はその二つでごちゃ混ぜになっていた。私はそこに自らの身を投げる。すると、ぬるま湯のような水温が身体に纏わりついて、私の気分を暗澹とさせた。
私はその気分のまま読み進めている本の内容についての考えを巡らせた。主人公を取り巻く状況はどんどん悪いものになっていった。
私は無意識に主人公に自分の姿を重ねてその物語を読み進めた。そのせいでただでさえ沈んでいた気分が更に沈んだ。
今度読む本はもっと気楽なものにしよう。
思考の海の中でそんなことを考えていると
「そういえばかんざし中学校はどうなの?」
母親が私に尋ねる。
「別に普通だよ」
私は投げやりにそう答える。母親は別段それに気分を害された様子もなく
「そう。なら良いけど」
と呟いてそれから更に言葉を重ねた。
「今日赤熊さんとこのお母さんとお話ししてたんだけどとまりちゃん部活入るんだってね。陸上部。かんざしも入るの?」
母親の言葉を聞きながら平然とした顔で私は箸を進めている。生姜焼きを口に放り込む。味がわからなかった。
「いや、入るつもりないけど」
伏せたままの視線の端で母親が怪訝な顔をするのがわかった。
「あんたたちならてっきり部活も一緒に入るんだろうなと思ってたんだけど」
「ごめん。今日はもういいや。ごちそうさま」
私は母親の言葉を遮るようにそう言って食卓を後にした。
本を読み終わった。主人公は結局、虫へと変身した身体をどうすることもできずに悲惨な最後を遂げた。
私は机に本を置いてベッドへと倒れ込む。
「部活って何。聞いてない」
私の呟きは部屋にゆっくりと反響していく。中学生になると部活ができると、それは知っていた。けれどそれは何となく他人事だと思っていた。私と彼女にその言葉は適用されないと思っていた。授業を受けて放課後はどちらかの家に行って遊ぶ。小学生の頃と同じ生活が当たり前に続くものだと思っていた。
だから突然降って湧いた部活という言葉を未だに受け止めきれていない。
今日言っていた用事というのは、もしかすると部活が関係しているのかもしれない。周りの子たちと部活の見学にでも行ったのか。確かに周りの子たちはみんな私より背が高くてスタイルが良くて運動のできそうな子たちだった。あの子たちが陸上部に入ると聞いても違和感は無い。
ならば彼女はどうだろう。私はトラックを駆ける彼女を想像してみる。悲しいことに、これ以上ないくらいにしっくりときた。それは頭の中で鮮明な画になった。その光景は容易に想像できた。彼女は運動もできるし人当たりも良いからきっとすぐに部活にも馴染むことができるだろう。
けれどその画の中に私はいない。運動なんて全然出来なくて、でも仮に運動が得意だったとしてもどうして彼女を追いかけることができるだろうか。だってそれはあまりにも惨めだ。私はたしかに彼女の隣に居たいけれどそれはお互いの気持ちが釣り合っているという前提があってのことだ。私は彼女に疎まれてまで彼女の隣にはいたくない。そして彼女が部活に入ることを母親に伝える段階にまで来ているのにも関わらず、私に伝えていないということは、つまりはそういうことだ。彼女は私が彼女を追いかけて同じ部活に入ることを嫌がっている。
そんなこと、しないのに。
私は小学校の体育のマラソンを思い出す。彼女は体育が好きだった。周りには仲が良い子同士で一緒に走る約束をしている子たちもいたけど、私はめいいっぱい走りたいであろう彼女に遠慮してそういった約束を投げかけることはなかった。
スタートの笛が鳴ると同時に彼女の背中は遠ざかっていって時期に見えなくなる。次に彼女と会えるのは彼女に抜かされる時だけ。それも一瞬でまたすぐに彼女の姿は見えなくなる。そんなことを繰り返すうちに彼女はゴールし終えて、トラックを走っているのは私だけ。荒い息に引き攣る横腹、痛みを訴える足の筋肉。トラックを走っているのは私だけ。
彼女が走るということは私が一人になるということだ。そして昔も今もそれを引き止めることはできない。一緒に走ろうと約束することはできない。
彼女はぐんぐんと私との距離を引き離していく。
◇
目覚ましが鳴っている。ぬかるむ意識を掻き分けてそれを止める。何か胸にべったりと貼り付くわだかまりのような物がある。これの原因はなんだっけ。自問自答する。程なくして答えは出る。そうだ。彼女が部活に入るんだ。そしてそのことを私に秘密にしているんだ。まるで後ろめたいことのように。私が彼女に関わるのを避けるように。意識が鮮明になると同時に、その事実が胸にのしかかった。
いつもより重く感じる体をベッドから引き離す。彼女とこれから会うのが億劫だった。そんなことを感じたのは初めてだった。何かで喧嘩した時でさえ一晩経ったら怒りは冷めていて早く会って仲直りしたいと思っていた。今は感情の置き所をどうすればいいかわからない。だって、今回は喧嘩じゃない。彼女は私から静かに離れようとしている。
階段を降りて洗面所へと向かう。毎日のルーティン。体が勝手に覚えている所作の数々。それを無心でこなしていく。何かを考えたらその動作の全てが止まってしまいそうだった。
朝の時間は目まぐるしく過ぎていく。顔を洗って歯を磨いて朝食を取ってまた歯を磨いて。鞄に教科書やハンカチやティッシュや筆箱を詰めてパジャマから制服に着替えればあとは外に出るだけ。外で彼女が待っている。考えないようにしていたことと否が応でも対峙しなければいけない。
「いってらっしゃーい」
無言でドアを開いた私を母親はいつもと変わらぬ言葉で送り出す。全部いつもと一緒。違うのは私の感情だけ。
ドアを開くと五月の朝に特有の涼しい風が頬を叩いた。その先で彼女はやはりいつもと同じように家のドアにもたれて待っていた。
「おはよう」
彼女は笑顔で言葉を投げかける。その笑顔を見て素直に嬉しいと思えなかった。
「おはよう」
それでもいつも通りの言葉を返して私たちは並んで学校へ向かって歩き出す。
「今日涼しいね」
「うん」
「てか昨日のドラマ観た?」
「ごめん観てない」
心臓が重い。体がこわばって上手く動かない。彼女の隣の歩き方がわからない。
普段彼女とどうやって話していたっけ。記憶の中の彼女と話しをしている私はいつでも笑顔だ。どうすればその笑顔に辿り着けるのだろうか。
まるで彼女ではない人と話すみたいに言葉が全く浮かばなかった。今の私が持ち合わせている言葉は一つだけだった。
とまりちゃん部活入るの?
けれどその言葉は胸の奥深いところにへばりついていてとても取り出せそうになかった。その言葉を口にして、もし彼女がすんなりと頷いてしまったらどうしよう。そしたらもう何も変えようがないじゃないか。曖昧なままにしておけばいつのまにか彼女の気持ちが変わって私を選んでくれるかもしれない。
それに何より、私は怖かった。彼女が私との関係以上に優先すべきものを見つけたという事実が浮き彫りになることが。彼女が私を避けようとしたという事実を突きつけられるのが。彼女が私のことを嫌いになってしまったのかもしれないという危惧が、現実のものになってしまうことが。
静寂を保ったままで気づけば坂道に差し掛かっていた。頭上の桜は満開の時期を通り過ぎてぽつぽつと緑色が混ざり始めていた。私はぼんやりとその色を見つめていた。前まで綺麗なピンク色だったのにいつの間に変わってしまったのだろう。
「かんざしなんか元気ない?」
彼女は尋ねる。その声は何かを窺うようだった。
「昨日夜遅くまで本読んじゃって寝不足で」
単に彼女のことを考えていたら眠れなくなっただけなのだけれど。胸の中でそうつぶやいた。
「そっか、かんざし本当に本好きだよね。休み時間も読んでるし」
それはとまりちゃんがグループで話してるから。こっちに全然来てくれないし。
これも胸の中でつぶやいた。
「とまりちゃんは楽しそうだよね。いつも周りの人たちと喋ってる」
嫌味なニュアンスが混ざらないようにいつも通りの口調を心がける。それは上手くできたと思う。なのに、彼女は何か後ろめたいことがあるような顔をした。
「まあね」
ポツリと尻切れ蜻蛉に彼女は答える。会話が途絶える。
ギクシャクと噛み合わない歯車を必死で回しているようだった。私が部活のことに触れないように話すとどこか強ばった恣意的な話し方になるし感情を漏らさないように殊更気にしていないポーズで平然と喋っても今度は彼女が何故か自然さを失ってしまう。
結局、いつもの空気は取り戻せないまま学校にたどり着いた。下駄箱で上履きに履き替えて階段を登って教室へと向かう。その過程で彼女はどんどん私から離れていく。そして教室に入れば彼女はもう私の隣にいるのが当たり前の彼女ではなく中学生の彼女なのである。そして前者の彼女でいる時間はどんどんと減っている。まるで古い皮をゆっくりと脱ぎ捨てるように。私だけが美しい思い出のさなぎの中に閉じこもっている。
教室にたどり着く。私はなぜか普段家の前でするみたいに彼女にバイバイと言いそうになった。同じ教室に入るのに。
けれどそんなハッキリとした別離の挨拶があるほうがまだマシかもしれない。私たちは何も言わずにお互いの席へと向かう。こういった暗黙の了解で二人の距離は離れてしまう。そして一度離れれば二人の間には大きな川が流れている。織姫と彦星を隔てる天の川のように大きな流れが。
私たちに七夕はないしカササギの橋も架からない。だって私は川の向こう側に行って彼女に会いたいと願っているけれど彼女は恐らくそうではないから。むしろ彼女も今では川の流れを生み出している人たちのうちの一人なのかもしれないから。
私は小学校時代を懐古した。つい最近なのに遥か遠くのように感じる。あの頃はどれだけ大きな川が流れていても何も関係がなかった。だって私たちは同じ岸で身を寄せ合っていたから。
◇
「今日も一日お疲れ様でした。では紫月さんよろしくお願いします」
起立、礼。一本芯の通ったはっきりとした声が教室を震わした。教室中のみんながその声に合わせて決まり切った動作をする。委員長はすっかりその役回りに慣れたようだ。変化をいつまでも飼い慣らすことのできない私とは大違いだと思った。
私は鞄を背負って彼女の方を伺う。彼女は今日も周りの女子たちとやり取りを交わしていた。グループという言葉が頭に浮かんだ。そのグループの中に私はいない。
私は、いつものように一緒に帰ることを拒絶されにあちらへ飛び込む勇気が湧かなくてその場に立ち尽くしていた。
彼女とは一週間ほど一緒に帰っていない。彼女はいつも、一緒に帰らなくなった初めの日と同じように用事があると言って周りの子たちと一緒に教室を出てどこかに行ってしまう。恐らく陸上部の仮入部に行っているのだろう。朝一緒に通学する時、体育がない日でも彼女は学校指定の体操服袋を持っていた。それを鞄に入れずに直接素手で持っていたのは小学校の時と同じように整理整頓の行き届いていない鞄のどこにもそれを入れるスペースがなかったのか、はたまた私に暗に仮入部に行っていることを伝えたかったのか。
彼女は私が部活の話題を避けるのと同じように部活のことについて明言することを避けている節があった。それが隠しごとをしている後ろめたさからなのか、はたまたやっぱり私が彼女を追いかけて同じ部活に入ろうとすることを避けるためなのかはわからなかった。
そうして私たちの間には空気ができた。部活の話を避ける空気。その空気は全然関係ない話題の時にもお互いの頭につきまとって、いつの間にか私たちの会話は酷くギクシャクとしたものになってしまった。それが二人ともわかっているから日に日に会話は少なくなった。今では話と話の隙間に大きな静寂が横たわるようになってしまった。それは私の嫌いな種類の静寂だった。お互いの信頼の上で生み出される静寂ではなく、静寂を回避しようとしてその結果生まれてしまう静寂、解こうと足掻けば足掻くほどキツく締まる固結びのような静寂だった。少し前までの私たちを包んでいたのは前者の静寂だったのに。
それを私はどうすることもできない。彼女が明言しない以上部活に入らないでとは言えないし、逆にそれについて平気なフリで虚勢を張ることもできない。じわじわと真綿で首を絞められるようだった。こんなことになるならいっそひと思いに殺して欲しかった。
そんなことを考えながら自分の席の前で立ち尽くしていると彼女たちのグループは立ち上がりそのまま教室を出て行った。その中で彼女だけ何事か告げてグループから離脱してこちらへと向かってきた。教室を小走りで横切る彼女の身体は前よりも大きくなったように見えた。彼女はこちらにたどり着くなり開口一番にこう言った。
「かんざしごめん。今日も一緒に帰れない」
「そっか。ううん大丈夫。わざわざありがとう」
私は虚勢を張って殊更に明るい声色で答えた。
彼女はなぜか私の返事を聞いた後もその場を離れようとしなかった。その表情は何かを逡巡しているように見えた。
私がどうしたのか、尋ねようとした瞬間。
「それで、明日から朝練も始まるから一緒に登校も無理になった」
ごめん。その声が私の耳に届く頃にはもう既に彼女は踵を返して教室を出て行こうとしていた。
「そっか。がんばれ」
私は彼女の背中に向けて虚勢を継続してそう言った。その瞬間に、私を包んでいたのは悲しみでもなく苦しみでもなく安堵だった。やっとハッキリ白黒がついたという安堵。それから遅れて、私は彼女の日々から追い出されたのだと気づいた。彼女はやはり私を嫌いになったのだと、そんな事実がはっきりとした。胸いっぱいに悲しみが広がった。変わってほしくないと願い続けていた物があっさりとその姿を変えた。あまりにも呆気なく彼女は私を脱ぎ捨てた。
あなたがいればそれだけでいい日々から、あなたがいなくなった。
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