【後編】第3話

 「あなたが『尻軽』を売ったんでしょう?責任取って慰謝料頂戴!」宝飾品を以て初めて心の重量均衡の取れる婦人が叫ぶように、悪意を販売してから近隣トラブルの相談や商品へのクレームが増えた。あなたが責めるべきは讒言修辞力の弱い相手方ですよね、それに『責任』も『慰謝料』もあたしが与えたものですよ、正論は茹だる表情の前に無力化され、ことば屋も語用の次元には踏み込めないことを痛感した。

 悪言と猥言の経済効果は短期的には絶大だったが市場の失敗が道端のゴミやディベートに象徴化されるのは時を待たなかった。裏社会を牛耳る道も悪くないと思ったが悪念業はあたしの専売から袂を分かち、顔に亀裂のあるような厳めしい男共数組が競合に乗り上げた。か弱い幼女の罵言とは一線を画する本格派セールスに核心的な顧客が集中し、ノンバーバルな次元にも組み入れない己の無芸を呪った。

 盗作された業態はパロディからアレンジへと倒錯し、発明家の苦心を置き去りに文筆家紛いの三文小説へと群衆は流れた。更新日の手前から解約の申込は鳴り止まず、どんなに言葉を尽くそうと孤独な腐心は実らない。減益の割に公害の来由はあたしの唇に遡られ、万が一の事態を恐れて最後の手を打つことにした。

「『法の精神』を売ってやろう」翌日、ことば屋の見世先に『法の不知はこれを許さず』の垂れ幕を追加し法律用語と条文集を売ることにした。「『ルール』は要りませんか?」漠然とした概念に愚かな人々は素通りを重ねたが、「今度は『痴女』と言って馬鹿にしてきたの!」尻軽女の再来に合わせて「夫以外との不純異性交遊は止めた方が良い。アフェイジア法令第五十条『配偶者間における不貞行為の禁止』違反に該当するから。だけど千五百オリア払えば『弁護』してあげる」判例第一号を広告すると大衆がその冷え切った眼に火炎を灯した。尻軽を始めとした村人の熱源は疑問符の覆いに包まれるが、法律とは人々の言動を規定するある種の物理法則であることを伝えると何処と無く腑に落ちた様子を魅せた。

「店頭の商品を勝手に盗ってはならない。これは第二百十三条『小売業に於ける盗難防止』違反に該当する」万引犯が現れた際には法言語の魔力に惹かれた同志と共に容疑者を取り囲み、「お前は『有罪』。三十万オリアの損害賠償金を請求する」数十万オリアあるいはそれに見合う家財と引き換えに罪を断じた。

「事実の適示に関わらずことば屋から買った商品を他者に悪用してはならない。これは第二百五十七条『名誉棄損の禁止』、第二百五十八条『侮辱の禁止』違反に当たる」刃物の陳列棚が殺人を奨励する訳ではないのと同様、悪魔は心の中で飼い慣らすよう忠告する。勿論言語警察として巡回する余裕は無いので規範の手中からは抜けられないけど。「引用が頁の過半を占める出版物を販売してはならない。引用符や引用文献を明示しない『剽窃』行為もしてはならない。第三百十二条『知的財産の保護』を参照」若禿に有利となりそうな条文なので避けていたが、言葉の流通とその価値認識は比例して高まり、文章量や創造性に応じた権利を認める必要が生まれた。読書に精通する本屋も法整備から富を得る機知は無かったらしく、あたしの巧妙な出版法と独占禁止法による規制のシャワーに飲まれた。貧困層からは公共の図書館を造ってくれと懇願されたが、何れ外資が放られるまでは若禿に貸しを作りたくないので自力で収集するよう助言した。

「被告人は無罪。本件異議の申立はこれを棄却する」当初店先で行っていた模擬裁判程度の公判は事件と傍聴人が増えるにつれ隣家を圧迫し、新たな裁判沙汰を起こさないよう村東部に構える講堂に舞台を移した。序でに生活を圧迫していた現金の束は備え付けの木造金庫に仕舞い込み、判決に従わない困ったちゃんは札束で殴ることにした、というのは嘘だけど。『旧民事訴訟判例全集』『中小ギルド臨時保護法』等と書かれた蔵書の数々からして以前の用途も伺える裁判所には、亭主の文体に飽き飽きした主婦や不公正な取引方法に憤る弱小オーナーが噂を聞き付けては論壇に上った。「マヤ君が虐めてくるから『逮捕』して!」村の調停者を演じる中で年少からの訴えも相次ぎ、「『少年法』というルールがあってね」流石に子供が法廷に立つディストピアを描きたくないあたしは次代の倫理観の醸成にも励んだ。成人でも矢鱈に提訴する頭の悪い者には『濫訴罪』を適用し、法務に支障が及ばないよう配慮した。それでも激務が脳天を貫いた暁には、裁判官と弁護士の資格制度を設け比較的信頼の置ける取り巻きに業務を任せることにした。

 本棚奥に眠る旧版の法令集を片手に、時流と合わない文言は修正して法用語を付け合わせに販売する。村で最も言葉に詳しいあたしが法体系をデザインすることに異論を唱える者は無く、三権分立は敢えて教えないことにした。商標権や命名権を売りに出すと名前だけは一丁前に飾りたい空名共が投げる山のような申請書に判子を塗り潰した。実績が溜まってきた頃には判例集も手作りし、道徳の不可視光線に眩んだ犯罪行為も言語化によって日の目を浴びた。法治体制が完成に近付くにつれ、暫くは論争の絶えない平和な日々が訪れた。

「金を返せ!この『薄汚い』『守銭奴』!」しかし民度の高い一部の者は法に先立つシステムの欠陥に気付いた。それはアフェイジアが不文憲法さえ持たない独裁統治状態にあり、あたしだけが法律の生産者という構造である。「お前のせいで村の尊厳が台無しだ。お前が愚脳な餓鬼だから」貧乏人や敗訴者を中心にあたしの売った言葉が飛び交い、ことば屋の看板は引き裂かれ無意味な記号が風に舞う。コントロールしていたつもりの民意は独りでに『民主主義』と『革命』を知ってしまった。「第百十四条『業務妨害及び信用毀損の禁止』違反だから止めろ」非常事態において条文は効力を持たず、幾ら教養のある賢人も私欲の先に未来は無いという勧善懲悪が待っていた。そして誰も取引に応じなくなった。

 ある日、ことば屋の営業を終えて裁判所に向かうと正面が焼けていることに気付いた。荷物を放り事件か事故か、法廷で裁いてやると憤って踏み出した一歩は後頭部からの衝撃でモスキートを鳴らした。白ける視界には辛うじて若禿の歪んだ口角が映り「…………あ、あンどぅぃt……」あたしは言葉を失った。

 目が醒めると誰に運ばれたのか実家の布団の上で寝ていた。轟音の響く脳味噌を揺らしながら「それよりお金は」言おうとして発話が部屋に反響しないことを知る。蝉の喧しい声から鼓膜の無事を確かめるが、これまで飄々と稼働した口周りの筋肉は拠り所を失っていた。まさか誰もが有する商売道具が機能しなくなるとは、一時的な不調だと信じたいが暫く仕事は出来ない。世界の言語をあたしが統一する、虚空に描いていた小さなバベルの塔は崩れた。

 現在の所持金、零オリア。有り余るはずの貯金は金庫ごと全焼し、法教育や訴訟費用で稼いだ金額は計上する前に灰燼に帰した。金と知識だけが取り柄だった商売人に慈悲の手を伸ばす者はおらず、積み上げるべきは札束ではなく他者との信頼であることに今更気付いた。外の商人に相乗りし逃げる手もあるが彼らが来るのはまだ先、だけど食糧備蓄に余裕は無いのでどうにかやり繰りしないといけない。

「『どうした』『の』?『ほら』『お金』『頂戴』。『言葉』『を』『あげる』『から』。『あたし』『に』『そう』『習わ』『なかった』?」安過ぎる文字と紙切れの誘惑を前に、何度も相手してきた少年は気不味そうな顔で立ち去った。これ以上追いかける体力は残っていなかった。あたしは言葉を売り倫理を売り、法律を売った。一体何回この人生を繰り返してきたのだろう。人類の忘却と無知を祈る玄関先で、パパとママが真っ白な顔であたしを見詰めていた。

「お前には特別な人間になって欲しかった」パパがあたしの頭に手を掛ける。

「今度は言葉の使い方を間違えないで」ママの声が幽かに聞こえた。あぁそうだ、これから自分は記憶を消されて胎動由来の知を思い出す。暗雲が渦巻き風景の反転する中、この村だけがあたしと心中する。ごめんなさい、パパとママ。次はもっと賢い子になるから。

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言葉売りの少女 沈黙静寂 @cookingmama

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