第108話:蠍の毒
森は朽ち果てようとしていた。
湖から染み出してくる地上の海水は、浄化が間に合わず塩害を起こしつつある。
加えて、大気を蝕む形で広がる毒性。
サソリに似た魔物が、その身から吐き出す生命を腐らせる瘴気。
『彼ら』に知能はなく、本能すら備えぬ身は獣にも劣る。
尋常な生命ならざる『彼ら』の内にあるのは二つだけ。
一つは、『主』から与えられた命令。
この地に穿たれた『楔』。地上へと繋がる《扉》を固定するための術式を護る事。
そしてもう一つは──。
『■■■■■■■ッ!!』
名状しがたい叫び声を、サソリの一匹が開いた口から迸らせる。
続いて周りのサソリたちも、次々と同じ声で吠え立てる。
枯れた木々が立ち並ぶ地面に、禍々しい魔力を伴って脈動する刻印。
その赤黒い光を浴びて、十数匹のサソリたちは殺意に荒ぶった。
殺す、殺す、殺す殺す殺す殺す殺す!!
知能を持たぬ魔物に過ぎぬ『彼ら』に、《言語統一》の法則は適用されない。
意思疎通は不可能だが、その意思──殺意だけは、言葉などなくとも伝わってくる。
自分以外の、あらゆる生命を殺し尽くさんという衝動。
本能すら備えぬ醜悪な魔物たちを満たすのは、そんな救い難い憎悪のみ。
正気を削る絶叫が重なる中──。
「先ず、一つ」
マヒロは臆する事なく、《転移》で虚空を渡りながらサソリの一匹に刃を突き立てた。
狙ったのは、頭部があるはずの部分から生えた人型の上半身。
普通に考えれば、そんな見え見えな場所が弱点など疑うところだが。
「オラァっ!!」
《転移》による奇襲に合わせ、物陰から飛び出す斎藤。
身に着けた《遺物》で強化された腕力で、大上段から剣を叩きつける。
虚を突かれたサソリは、分厚い刀身を脳天に受けてしまう。
砕けた頭蓋から脳漿をぶち撒け、赤く染まった首がだらりと力を失った。
「やはり、見た目通りの構造のようだな。
分かりやすくて助かる」
囁くように言いながら、むせ返るほどの毒気の中を朱美が駆けた。
サソリは誰もその動きに気付けない。
集団の知覚に出来た僅かな隙間を、鮮やかに縫っていく見事な歩法。
短刀の狙いも正確に、サソリの喉元を深く斬り裂く。
「でも数は多いから、油断はしないでね!
喰らえ、《
短い杖を振るい、極限まで短縮された呪文を唱える葵海。
マシンガンの如き勢いで放たれる力場の矢が、サソリの甲殻がない上半身を撃ち抜いた。
強力な魔法攻撃を受け、複数のサソリが術師である葵海を見た。
魔法は厄介だが、術師はその分直接戦うには脆い。
知能を持たぬ魔物どもが、そこまで考えたかは分からない。
ただ事実として何匹かのサソリが、新たな術を構える葵海に迫り──。
「我が身に流れる父祖の血よ、我が敵に戒めを!」
高らかに呪文を唱えたのはステラだ。
葵海が術を発動する隙間を埋める形で、地面から光で出来た鎖が伸びる。
それらは蛇のように、魔物の足に絡みついてその動きを止めた。
「ナイス! もう一発喰らえ、《魔力の矢》!!」
拘束されたサソリたちの頭を、葵海の放つ魔法が次々と撃ち抜いていく。
朱美もまた動けない相手の喉笛を裂き、確実に仕留める。
──毒のサンプルを採取するため、アリスたちが予め仕留めたサソリの亡骸。
薬などの準備を終えた錬金術師の由結は、ついでにその構造も調べていた。
アリスたちは力任せに蹴散らしたが、戦う上で相手の特性を知るのは重要だ。
結論として、頭に生えた上半身に生命維持に必要な器官が全て揃っていた。
あからさま過ぎるが、実際に弱点であれば狙わない理由もない。
「甲殻は見た目通り硬いな! 油断するなよ!!」
「分かってる!」
斎藤の放った剛剣は、サソリが構えたハサミの表面を削るに留まる。
倒せないほど強くはないが、決して侮れる相手ではない。
その認識を確かめながら、マヒロは《転移》を繰り返して戦場を駆ける。
辺りに充満する毒気は、視界がうっすらと煙るほどに濃い。
由結が用意してくれたガスマスクが無ければ、まともに呼吸も出来なかったろう。
『■■■■■■■■────!!』
数を半分近く減らしたところで、一匹のサソリが甲高い声を上げた。
マヒロたちに向けた憎悪の叫びとは明らかに異なる。
声が響いた直後、ガサリと枯れた木が揺れた。
その向こう側から、新たなサソリが何匹か姿を現した。
うげっと斎藤が呻く。
「こいつら、仲間まで呼ぶのかよ!」
「いやー数多くてきっついね! 他の場所は大丈夫かな!?」
「何か異常があれば、念話を飛ばしてくれる。
それに頭数こそ多いとはいえ、私たちがあの人たちを心配するなどおこがましい話だ」
不安げな葵海に対して、姉の朱美は信頼と共に断言する。
他の場所、すなわちマヒロたちがいる以外の《扉》の『基点』となる地点。
全部で四箇所ある中、ステラとマヒロを含む《グレイハウンズ》が一つ。
それ以外の三つには、アリスとくるい、レーナがそれぞれ一つずつ担当する形だ。
アレクトは由結と宰相、湖の浄化を続ける《森番》たちの護衛を務めていた。
このように分けた理由は、アリスが判断した事だった。
四つの『基点』をなるべく同時に破壊しなければ、術式を解除出来ない可能性が高いと。
由結もまた、『基点』が一つでも残れば他が復元する危険があると見ていた。
「ま、確かに今は人の心配より目の前の事だな!」
力任せに叩きつけた剣が、構えたハサミごとサソリの頭を粉砕する。
斎藤の戦いぶりは荒く、それだけ魔物たちの注意を引き付ける。
その隙を突いて、朱美とマヒロが刃を閃かせる。
枯れた木々を越えて現れる増援も、次々と打ち倒していく。
──本当に強い。
間近でその戦いぶりを見ながら、マヒロは心の底からそう感じていた。
アリスたちのような圧倒的強者ではない。
斎藤にしろ、朱美や葵海の姉妹にしろ、強さの段階としては大きな差はないだろう。
近いレベルだからこそ、彼らの工夫や修練、経験の厚みが良く分かる。
特に朱美は戦い方が似ているのもあり、足運びや体捌きと学ぶべき事が豊富だ。
「夜賀、よそ見はするなよ!」
「分かってる……!」
とはいえ、今はまさに死地の真っ只中だ。
味方の戦いにばかり気を取られているわけにはいかない。
当の朱美からの言葉に、マヒロは改めて群がる魔物に意識を集中させた。
最初からいたサソリは既に全滅し、残るは増援として現れた分のみ。
それも見える範囲ではもう十体ほど。
これ以上が控えている気配も今のところ感じられない。
「これならどうにかなりそうですね……!」
「うん、案外楽勝だったかな!?」
「女子二人、そういうフラグ発言は控えろよ!」
魔法で敵の数を削りながら、ステラと葵海は笑う。
そんな彼女らの言動に文句を付けつつも、斎藤も剣の一撃でサソリの頭蓋を断ち割る。
順調だった。魔物の屍は積み上がれど、味方側の損害はほぼゼロだ。
前で戦っている者たちは、当然ながら無傷ではない。
ハサミや針が掠め、マヒロ自身もいくらか負傷している。
そんな些細な傷から入り込む毒が獲物を弱らせる──本来ならば。
しかし由結の調合した中和剤により、毒の影響は無視して戦う事が出来る。
勝敗はもう明らかだった。
『■■■■■■■■■!!』
「これで……!」
憎悪と敵意を叫ぶサソリに、マヒロの剣が閃く。
死角に《転移》してからの意識外の一刀を防ぐ術などありはしない。
あっさりと首を断たれたのが、最後の一匹だった。
戦いの音が消え去り、枯れた森は死んだ静寂に満たされる。
「……ふー」
それを破ったのは、誰がこぼしたかも分からない吐息の音だった。
やや乱れた呼吸を整えて、マヒロは周囲を確認する。
サソリの魔物はもうどこにも見当たらない。
どこかに潜んでいる可能性も、朱美の優れた知覚が丁寧に潰していく。
「どうやら、今のが本当に最後のようだ」
「やー、終わったー! 流石に数が多くて疲れたねぇ、ステラちゃん」
「そ、そうですね」
「片付きはしたが、まだ終わったわけじゃないからな?
肝心の術式の『基点』って奴を潰さないとな」
斎藤が剣の切っ先で指し示すのは、朽ちかけた森の中心。
周りに魔物の屍が散乱する中、地面に刻まれた『基点』は赤く脈動している。
これを破壊すれば仕事は完了だ。
「そういえば、《扉》を封鎖しちゃったら地上に戻るの大変だね。
装備も流石に足りないし」
「そこはアリスさんが帰還用の《遺物》を持ってるから、大丈夫ですよ」
「流石は《迷宮王》、ホントに装備が充実してんな」
「もし他に何か必要なものがあれば、森林王国の方にお願いしましょう」
「おいお前たち、雑談はいいからさっさと『基点』を壊すぞ」
気を抜いているわけではないが、戦いの最中と比べたらどうしても緩んでしまう。
そんな仲間の様子を咎めながら、最初に朱美が『基点』へと近づく。
罠を仕掛けた形跡はなく、魔物が隠れている気配もない。
『基点』は完全に無防備な状態だ。
「とりあえずは問題ないな。壊す役はそちらがやるんだったな」
「はい、ここは任せて下さい」
確認の言葉にマヒロが頷く。
彼の後ろで、剣を肩に担いだ斎藤が軽く笑った。
「朱美が確かめたんだから大丈夫だとは思うが、注意しろよ。
もし何かあったら助けてやるけどな」
「頼もしい言葉をありがとう。出来れば頼る事がないよう努力するよ」
「あの、本当に気を付けて下さいね。本当に何かあれば、私もお助けしますから」
「ん、ありがとう。ステラさん。
万一危ない時はフォローお願いします」
「このあからさまな対応の温度差よ」
馬鹿な話に少し笑ってから、『基点』の方へと足を向ける。
《遺物》である《耳飾り》を指で確かめ、他の『基点』に向かった者たちと繋げる。
『アリスさん、こちらは制圧終わりました。
今から「基点」を壊します』
『お疲れ様だな、少年。私の方も準備出来ているが、くるいとレーナはどうだ?』
『とっくの昔に片付いてまーす』
『遅いぞ、昼寝でもしようかと思っていたところだ』
予想通り、アリスたちはとっくに魔物の殲滅は終えていたようだ。
流石だなと声には出さず頷き、《レガリア》である剣を『基点』に向ける。
異常な気配はどこにも感じられない。
『じゃあ、今から壊します』
『よし、他の者たちも良いな?』
『いつでもオッケー』
『こちらも同じくだ』
念話を通じて四人のタイミングを合わせる。
一つ、二つと数え──そして三つ目。
刀身に魔力を宿す《聖なる一撃》を、マヒロは真っ直ぐ『基点』に振り下ろす。
地面を抉る手応えと、ガラスが割れるのに似た感触。
四つの『基点』が同時に壊された事で、《扉》を固定化していた術式が破綻する。
一瞬吹き上がる強い魔力に、マヒロは顔をしかめ──。
「……許せねぇなぁ、勝手に人のものに手を出すなんて」
「……!?」
つい数秒前までは何の気配もなかった。
しかし壊された『基点』から魔力が噴き出した後、『そいつ』はそこに立っていた。
蠍を象った冠を戴き、虎の毛皮を肩から羽織った以外は全裸の男。
燃える金髪を逆立たせて、《円環》の印が刻まれた眼でマヒロを見下ろす。
「人のものに手を出すような奴は、殺されても仕方ねぇよなぁ?」
物語の英雄にも似た面貌から吐き出された言葉は、下卑た欲望に塗れていた。
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