第97話:とある依頼
晴れ渡った青空に、ゆったりと流れる白い雲。
吹き抜ける風は爽やか……と言うには、少々湿っぽくはあるが。
気分が悪くなるほどではないので、概ね爽やかと表現しても良いだろう。
足元の白い砂は粒子が細かく、踏みしめると小気味の良い音がする。
幼い頃、高揚する気分に任せてはしゃいで走り回った記憶がふと蘇る。
さて、あれは一体どれだけ昔の話だろうか。
浜辺をゆったり歩きながら、マヒロは広がる水平線に追憶を重ねた。
「おーい、少年」
「ん……」
背後から掛けられた声に足を止める。ゆっくりと振り向けば。
「どうした、こんなところで一人で黄昏れて。
他の皆も準備は出来たし、少年も来ると良い」
穏やかに微笑むアリスが立っていた。
いつもと同じだけれど、いつもとは大きく違う事が一つ。
彼女の格好は見慣れた甲冑姿でも、いつものスタイリッシュな私服でもない。
水着だ。何故、などと疑問を挟む余地はない。
何故なら自分たちがいるこの場所は、海に囲まれた小さな孤島なのだから。
「? 少年?」
「あ──いえ、すいません。ちょっとボーっとしてしまって」
やや前のめりに顔を覗き込まれて、思わず一歩下がりそうになる。
アリスが着ている水着は、それ自体は普通のビキニだ。
真っ赤な色で統一された水着は、色こそ派手だが真っ当な代物だ。
やたら小さいだとかヒモ同然だとか、当たり前だがそんな事はない。
そんな事はないのだが、露出度は普段とは比較にもならないレベルなわけで。
「…………」
「……アリスさん?」
「いや、やはり少年も男の子なのだなと」
「止めて下さいよ……!」
からかい全開の悪い大人の笑い方をされると、ますます顔が熱くなる。
マヒロも水着だが、こちらも普通のハーフパンツタイプにジャケットを羽織っている。
やはり常は見えていない二の腕辺りに、アリスの腕が絡んできた。
鍛えてはいるけれど、細く柔らかい女性的な感触。
ついでと言わんばかりに胸まで押し付けられたら、頭の中がどうにかなりそうだった。
「ちょ、アリスさん……!」
「どうした? 何かおかしな事でもあったかな、少年?」
「し、仕事、ここに来たのは仕事のはずですよねっ」
「仕事だとも。《組合》から請けた正式な依頼で、れっきとした仕事だとも」
自分でも何を口走っているのか、マヒロも良く分かっていなかった。
そんな少年の混乱も楽しんでいるようで、アリスの笑みは深まるばかりだ。
「そのためにも周辺の海を調査しなければならない。
だから私を含めてみんな水着に着替えたんだ。
少年もこっそり逃げてないで、さっさと戻るべきだよ」
「べ、別に逃げたワケでは……」
「言い訳は聞きたくないなぁ。ほら、仕事なんだから早く行こうか」
「分かりました、分かりましたから離して下さいよ……!」
ダーメと甘い声で囁かれては、本当にどうしようもない。
元より力で対抗なんて出来ないのだから、完全にされるがままだ。
柔らかな感触に捕らえられたまま、マヒロはずるずると浜辺を引っ張られていく。
青い空。白い雲。美しく揺らめく海は、陽光を浴びてキラキラと輝いている。
少し視線を移せば、緑色の木々に覆われた島の稜線が見える。
《迷宮街》からは随分離れた、地図上では豆粒ほどの大きさでしかない孤島の一つ。
何故、こんな場所に来る事になってしまったのか。
それは今から三日ほど前の話だ。
◆ ◆ ◆ ◆
「外部ダンジョンの封鎖、ですか?」
「あぁ、《組合》から頼まれてしまってな」
《百騎八鋼》の襲撃を受けてから、丁度一週間。
捕まえたラケシスたちを地下に送り返したりなど、後始末も色々と大変だった。
それらの面倒も一段落し、ようやく普通の(?)生活に戻れた頃。
アリスの邸宅で夕食を済ませ、少し落ち着いたぐらいの時間。
その日は一人で《組合》に顔を出していたアリスが、そんな話を口にした。
ソファーに身を沈めたくるいに、姉妹みたいに仲良く並んで座るステラとレーナ。
アレクトと宰相のアルヴェンは何故か二人揃って夕食の片付けをしていた。
一応、マヒロも手伝おうとはしたのだが。
「いえ、世話になっている身ですからね。このぐらいの事はしなくては」
と、アルヴェンに言われてしまったので、大人しくお茶を啜っていたところだ。
こちらはワインなどちびちび飲みつつ、アリスは話を続ける。
「外部ダンジョンについては、一応は説明した方が良いか?」
「俺は多少なりとも知識はありますけど……」
「主に地上で使われる言葉であろう?
我らは常識が異なるゆえ、出来れば勘違いのないよう説明願いたいな」
帝国組の方をちらりと見ると、レーナが片手を上げながら応じた。
彼女のすぐ横で、ステラもこくりと頷く。
《人類皇帝》──《アンダー》唯一の文明国家、《汎人類帝国》の頂点。
真実を明かした後だが、それで何かが変わったという事はない。
身分を偽る必要がなくなった近衛騎士長も、皇帝のフリをしていた時と全く同じ態度だ。
「外部ダンジョンというのは、簡単に言ってしまえば《組合》の管理下にない迷宮の事だ。
より正確に表すなら、《アンダー》と繋がった迷宮の《扉》だな」
「《組合》の管理下にない、と言うと……」
「これも文字通りだ。
基本、この国で発生した《アンダー》への《扉》は全て《組合》が管理している。
放っておくと魔物が溢れ、流れ出した魔力により迷宮の構造が地上に出てきてしまう。
これを未然に防ぐため、冒険者は定期的に低階層の魔物駆除などを行ってるわけだな」
低階層における《資源》回収以外に、低位の冒険者が主に行う業務の一つだ。
以前はマヒロもやっていたが、随分と昔のように思えてしまう。
「とはいえ、何事も水も漏らさずというわけにはいかない。
《組合》も努力はしているが、自然発生した《扉》を見逃すケースは存在する。
今回依頼されたのも、そうして取りこぼしてしまった《扉》の対応だ」
「外部ダンジョンの封鎖っていう事は、もしかして迷宮はもう外に出ちゃってるの?」
大きく伸びをしてソファーの一つを占領しつつ、くるいが気怠げに言った。
頷きながら、アリスは手元にスマホを取り出す。
アプリに取り込んだ資料を改めて確認し、少しばかり難しそうな顔を見せた。
「まだ確定ではないから『恐らくは』、という感じだがな。
事前調査で記録された魔力の濃さでは、進んでいてもまだ初期段階のはずだ」
「ふむ。参考までに、その初期段階というのはどのような状態で?」
片付けを終えた宰相が、タオルで手を拭いながら聞いてくる。
純粋な好奇心からか、眼鏡に隠れた目が微妙に輝いている気がした。
「弱い魔物が《扉》の周辺を徘徊し、地形に魔力が浸透し始めたぐらいだな。
迷宮構造への変化もいくらか起こってるだろうが、まだ深刻な状態ではない。
《扉》を完全に封鎖してしまえば、後は自然と収まっていくからな。
だが放置すれば徐々に拡大して行き、最終的には辺り一帯が迷宮に呑まれる。
もしそうなってしまった場合は、根本的に解決するのは極めて難しくなってしまう」
「……実際、これのせいで国土のほとんどが迷宮に呑まれてしまった国がありますから」
思い浮かべるのは、かつては『ロシア』と呼ばれていた国だ。
面積は広大だが、人の住んでいない土地を多く抱えていたかつての超大国。
必然的に《扉》の発見は遅れ、しかも初動の対処に失敗するケースが非常に多かった。
内部の政治的な事情も大きかったようだが、マヒロも流石に詳細は知らない。
過程がどうあれ、結果は『国土の大半がダンジョン化した』という事実のみだ。
今や彼の国があった痕跡は、僅かに国外に脱した難民たちが伝えるに留まっている。
……噂では、迷宮に呑まれた土地には未だ生き残ってる人々もいると聞くが。
更に真偽定かならぬ話だと、逆に迷宮を利用した新たな『国家』が存在するらしい。
流石に『大迷宮共産主義神聖ソビエト連邦』なんてのは、間違いなく与太の類だろうけど。
「? マヒロ様、どうかなさいましたか?」
「んっ。いや、失礼。何でもないです」
首を傾げるステラに、マヒロは誤魔化すために咳払いを一つ。
ついつい、ネット上の馬鹿げた噂を思い出して思考が止まってしまった。
「少年も今言った通り、外に溢れてしまった迷宮を放置しては最悪国が滅ぶ。
なので急ぎ対処せねばならないわけだが……」
「……失礼ですが、アリス殿。私たちは陛下をお守りする任に当たっている真っ最中。
その状態で、更に別の重要任務を請けるというのは……」
「うむ、言いたい事は分かるぞ。アレクト」
遠慮がちではあるが、アレクトははっきりと問題を指摘する。
実際、それはマヒロも気になってはいた。
まだ初期段階の外部ダンジョンであるらしいが、封鎖となれば危険を伴う。
加えてアレクトの言う通り、こちらは既に帝国からの亡命組の護衛を請けている身だ。
そこに《組合》側から別の仕事を頼んでくる、なんてあり得るのか?
いくら何でもそこまで人手が足りないとは思いたくないが……。
「……正直に白状すると、《組合》から頼まれたというのは若干語弊がある」
「どういうこと?」
「頼まれたのは事実であるが、それはあくまで私個人に対してだ。
拡大する前の外部ダンジョンであれば、別に一人でも十分に封鎖可能だからな。
数日ばかり留守にする程度で片付けられる」
「言われてみればそうですね……」
何せアリスは《迷宮王》、現役最強の冒険者だ。
彼女自身、似た仕事はこれまで何度もこなしてきたはずだ。
一人でもさして問題はないだろうし、心配なら《組合》の人員を少し借りれば良い。
にも関わらず、彼女が何故その話を持ち込んできたのか。
「場所がな、海なんだ」
「え? 海?」
「あぁ。正確には沖合に浮かぶ小さな無人島だ。
移動のための船は《組合》の方が出してくれるという話だ」
海。そういえば、ステラに『海を見せる』という約束をしたのはついこの間だ。
きっとアリスがこの話を聞いた時、文字通り渡りに船と思った事だろう。
微妙に悪い笑顔を浮かべて、《迷宮王》は帝国組に視線を向ける。
「さて、どうだろうか? ちょっとばかり遠出になってしまうが。
このまま屋敷で腐っているより、フィールドワークに出た方が健康的ではないか?」
「……陛下、如何がなさいますかな?」
何やら意味深な笑みで、宰相アルヴェンは《人類皇帝》に囁く。
答えは聞くまでもなく分かり切っていると、その態度が物語っていた。
ステラはほんのりと頬を染め、一瞬だけだが逡巡するような仕草を見せた。
性悪の眼鏡に、内心を見透かされてしまった事に不満を感じたか。
どうあれ、答えが変わらない事に違いはない。
皇帝たる少女は重々しい態度ながら、はっきりと頷いてみせた。
「行ってみたいです、海。二人とも、構いませんか?」
「ええ、陛下がそう仰るなら是非はありませんね」
「その通りだなぁ父上。陛下の望みとあらば我らも否とは言えまいよ。
あ、行くのならばしっかり準備せねばな! 陛下も承知の事とは思うが!」
むしろステラ以上にテンションの高いレーナに、父である宰相は苦笑いするしかない。
海。約束はしていても、それを果たせるタイミングは来るのか。
マヒロもあまり自信は無かったのだが。
「感謝してくれて良いのだぞ、少年?」
「アリスさん……その、本当にありがとう御座います」
「ま、こういう機会でもなければ私もなかなか行こうとも思わんしな。
たまには悪くないだろうさ」
大人ぶった態度を見せつつ、アリスはマヒロの肩をポンと叩く。
これまた絶妙に悪い笑顔に思えるのは、果たして気のせいだろうか。
「君も楽しみだろうが、私も実に楽しみだよ。少年。
……青少年にはちょっとばかり刺激の強いひと夏のイベントになるかもしれないが。
ま、そこはきちんと覚悟しておいてくれ」
耳元に息を吹きかけるように、意味深に囁く《迷宮王》。
その言葉の意味を正しく理解したのは、後日全員の水着選びに付き合わされた時だった。
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