第94話:夜明けの一時
朝焼けの燃えるような空の色が、酷く目に染みる。
夜は去り、一日の始まりが間近に迫る頃。
マヒロはただ一人、屋敷のバルコニーでその景色を見ていた。
傷はあらかた《奇跡》で治療したが、身体に残る疲労は簡単には消えない。
アリスやくるいたちは、ほとんど倒れ込むように寝てしまった。
襲撃者であるラケシスも、流石に受けたダメージを癒やすために休眠に入っていた。
自分も休むべきだと、頭では分かっていたが。
「…………足りない、な」
呟く声は、他人には聞かせられない弱音だった。
今夜起こった《百騎八鋼》による襲撃は、どうにか無事に乗り切る事が出来た。
危ういところはあったが、結果だけ見れば大きな問題はない。
……そう、結果だけを見れば。
ならば過程はどうだったか。マヒロは思い返す。
《八鋼衆》の序列二位であり、恐るべき力を持った灰銀の竜ラケシス。
彼女との邂逅と、その後の交戦。いや、あれは戦いとは呼べまい。
多少の手傷こそ与えはしたが、力の差は歴然だった。
ステラの助けと、アリスとレーナが間に合わなければあそこで倒れていたはずだ。
もし、そうなっていたら──。
「…………っ」
嫌な想像が胸の内で渦巻き、叫び出したい衝動をどうにか呑みこむ。
相手は『列強』の頂点、《迷宮王》であるアリスにも引けを取らない怪物だ。
などと、言い訳をしたところで何の意味もない。
弱ければ戦えない、弱ければ守れない。
無慈悲に降り掛かる現実に、そんなものは戯れ言以下だ。
《百騎》の十八位、ルカとの戦いも正直に言えばかなりギリギリだった。
紙一重で勝ちを拾ったが、あれは一度きりしか使えない奇策だ。
地力ではまだ劣っていると、そう認めるしかない。
そもそも、向こうが尋常な決闘に応じなかった場合は?
影に潜むナキの存在に、マヒロは彼女が現れるまで気が付かなかった。
今回はたまたま、運が良かっただけだ。
そう考えるほどに、頭の奥がちりちりと痛む。
耳元で、聞こえるはずのない羽根の音が聞こえた気がした。
「消えろ、俺はお前には祈らない」
《御遣い》。未だその正体は定かならない未知の存在。
《十二の円環》たちが願いと祈りを捧げ、絶大な力を与えた『何か』。
マヒロの持つ《転移》の権能は、《御遣い》が彼の願いに応えたものだ。
もし《御遣い》に祈りを捧げたなら、恐らくは《円環》に等しい力も得られるだろう。
事実、彼の心が弱さに流されそうな時、必ず《御遣い》の気配は感じられた。
迷宮で並ぶ者のない力が欲しいと、そう願うのは否定出来ないが。
「俺は、あんなものになる気はないんだ」
ズリエルとハマリエル。マヒロがこれまで直接出会った二柱の《円環》。
そのどちらもが強大で、どうしようもなく歪んでいた。
願いと祈りを捧げ、己の運命を『剥ぎ取られたから』だと。
理屈ではない直感で、《円環》が如何なるものかを理解していた。
言ってしまえば、アレはもう残骸なのだ。
かつていたはずの誰かの。あるべきものを奪われ、代わりに力だけ与えられた。
それはある意味、死よりも恐ろしい末路だ。
永遠の愛と称して、人を人以外に作り変えた不死の姫君の所業よりも悍ましい。
絶対に、自分はそんなものにはならない。なりたくはない。
遠い朝焼けを見ながら、マヒロは己の内で何度も同じ言葉を繰り返し。
「……マヒロ様?」
「ッ!?」
不意に背後から名を呼ばれ、心臓が派手に跳ね回った。
思考に没頭し過ぎて、近づく人の気配にまるで気付かなかった。
胸元を抑えながら振り向けば。
「す、すみません。驚かせてしまいましたか?」
「……少しだけ」
慌てた様子の少女、ステラが立っていた。
「本当にごめんなさい……驚かせるつもりは、無かったのですが……」
「いえ、気にしないで下さい。考え事でボーっとしてた俺の方が悪いので」
「すみません……」
何度も謝るステラに、マヒロは苦笑いをこぼす。
実際、非があるのは自分の方だと、本心から出た言葉だった。
修羅場が過ぎた後だからと気を抜き過ぎだ、なんてまた自虐が頭に湧いてきそうだ。
そんなマヒロの様子を、星のような瞳が見ていた。
「マヒロ様は、休まれないのですか?」
「休むつもりはあるんですけど、ちょっと寝付けなくて。
そういうステラさんは?」
「私も同じです。ホントはベッドに倒れ込みたいぐらい、疲れてるはずなんですが」
言いながら、ステラの視線は空に向かう。
燃える朝焼けの色は、少しずつ落ち着いた色彩に変わりつつあった。
地の底には存在しない景色に、少女は見入っていた。
「……美しいですね」
心からそう感じる言葉に、マヒロは黙って耳を傾ける。
彼にとって当たり前に見えるものも、地の底しか知らないステラにとっては違う。
目に映る全てが知らない景色だ。
「帝都にも太陽はあります。ただ、自然のものではありません。
巨大な空洞の天井付近を一定の速度で巡る、熱と光を宿す球状の岩塊です。
遥か昔、当時の《人類皇帝》がその力で浮かべたものだと伝えられています」
「それはそれで、凄い代物ですよね」
「真偽は定かではないですけどね」
仮に個人が行ったとすれば、間違いなく神話の所業だ。
素直に驚くマヒロに、ステラはくすりと笑った。
そこで言葉は途切れて、二人は空を見る。
太陽はゆっくりとその輝く身を晒し、朝の訪れを告げる。
地上と《アンダー》、生まれた世界がまるで異なる二人が、同じ空を見ている。
考えてみれば、それは地の底にある太陽と同じぐらいに不思議な話だ。
「……何故」
「え?」
「何故、マヒロ様は冒険者になられたのですか?」
ふと思い浮かんだから、口をついて出てしまった。
陽の光に眼を細めていたステラは、傍らのマヒロに何気なく問いかける。
「……きっかけは十年前、《迷宮戦争》の巻き添えで家族を失ったから、ですね」
「……すみません」
「いえ、大丈夫です。最近まで、自分がどうして冒険者になったか酷く曖昧でした。
はっきりと言葉に出来ず、けれど他の生き方も選べずに。
そんな時にアリスさんと出会って……」
思い出す。まだほんの少し前の事なのに、随分昔の話のようにも感じる。
迷宮の深層に迷い込み、死にかけたところをアリスに──《迷宮王》に救われた。
いつの間にか《十二の円環》と戦う事となり、そして思い出した。
冒険者になった理由。マヒロという人間の原点。
それをステラに短く語り聞かせた。
「《アンダー》の底に、必ずたどり着く。
十年前の時みたいな迷宮の不条理で、誰かが犠牲にならないために。
それが、冒険者になった理由……ですね」
話を終えると、微妙に気恥しさが強まる。
偉そうに言っても、それはまだ果てしなく遠い場所にあるゴールだ。
足りない。自分はまだ力不足だと、最初の思考に返ってくる。
良くない事だとは、理屈の上では分かるのだが。
「……凄い、ですね。マヒロ様は」
「そんな。凄い事なんて、何も……」
「凄いですよ。貴方は自分で選んだ道で、貴方なりに全力で挑んでいる。
それは本当に、凄い事です」
そんな彼の内心を知ってか知らずか、ステラは穏やかな声で笑う。
視線は遠い空から、マヒロの方に向けて。
「地上に来て良かった。
こんなこと、本来なら言うべき事ではないでしょうけど」
今は離れた帝国が、生まれた故郷である帝都がどうなっているか。
皇帝も宰相も不在で、奸臣たちは己の利益のために陰謀を蠢かせている。
星詠みの間で、必要な事だと宰相に諭された。
納得はしたつもりでも、逃げ出したような後ろめたさは拭えなかった。
それでもステラは、この瞬間に思うのだ。
「地上に来て、本当に良かったです。
美しい景色を見られて、知らないモノに触れられて。
ほんの少しだけ、弱い自分を変える事も出来た……本当に少しだけ、ですけど」
「ステラさん……」
「何より……私のことを、仲間と呼んでくれる人に出会えた。
私は、それが一番嬉しいです」
恥じらうように、照れたように。
頬をほんのりと朱に染めて、ステラは微笑んだ。
囁く程度の言葉は、しっかりとマヒロの耳には届いていた。
その微笑みも、喜びに満ちた声も。
まるで煌めく宝石に思えて、マヒロは言葉に詰まってしまった。
……もし、一つでも間違えていたら。
自分がもう少しでも弱ければ、失われていたかもしれない。
それは酷く恐ろしい考えだった。けれど。
「……ありがとう、ステラさん」
「……お礼を言うのは私の方だと思いますよ」
「そんな事は無いですよ。俺も、本当に感謝しています」
この朝焼けも、陽射しの中で穏やかに笑う少女も。
失われず、守る事が出来た。
自分はまだ足りないかもしれないが、ステラはその不足を埋めてくれた。
アリスたちも必死で間に合わせてくれたから、今の結果がある。
反省するのは良い。けれど悔いて、弱さそのものを過ちと考えてはダメだ。
悪い夢から覚めた気持ちで、マヒロも笑う。
今更だけど、朝日が酷く目に染みる。
「朝ですけど、休まれますか?」
「ステラさんも、休んだ方が良いんじゃないかな」
「はい……話していたら、何だか少しフラフラしてきました」
「実は俺も」
くすくすと、少年と少女は笑みを交わす。
朝日に照らされた空気は実に爽やかだが、身体は疲労を思い出して泥のように重い。
いい加減に休まないと、そのまま床に倒れ込んでしまいそうだ。
「それじゃあ、おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい。どうか良き夢を、マヒロ様」
一日の始まりとなる時間。
そこで一時、別れの挨拶を互いに口にして。
マヒロもステラも、朝日に照らされたバルコニーを後にする。
──地上に来て、本当に良かったです。
胸の奥にじんわりと染みる言葉は、今も宝石のように煌めいている。
きっと良く眠れそうだと思いながら、マヒロは大きく欠伸をした。
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