第61話:首狩りウサギは分からない


『■■■■■■■■■■■■■■■────!!』


 ビリビリと、轟く咆哮が迷宮の森を震わせる。

 その声は、地上の如何なる獣のものにも似ていながら、どんな獣とも異なる。

 六本指の手が蛇のように伸びて、鋭い爪が木々を容易く引き裂く。

 捕まらぬよう身を低くして、アリスは風の如く駆ける。


「おおおぉぉぉぉっ!!」


 気合いを吐き出しながら、手にした王剣を一閃。

 毛皮と鱗、それと甲殻で覆われた胴体を横薙ぎに切り裂く。

 硬いが、刃が立たないほどではない。

 どろりとしたドス黒い血が溢れ、獣──ジャバウォックは激しく身悶える。

 苦痛を感じているのだろうか。アリスには分からない。

 塗り潰されたみたいに真っ黒な獣の顔からは、何の感情も読み取れなかった。


「流石の戦いぶりですね、アリス様。見ていて惚れ惚れ致しますよ」

「悪いが、惚れても応えてはやれんぞ! 彼氏持ちなんでな!」


 やる気のない拍手を送るハマリエルに、アリスも軽口で応じる。

 ジャバウォックとかいう怪物を出してから、《円環》の方は動きを見せていない。

 暴れ回る怪物相手に立ち回るアリスを、ただ横から眺めているのみだ。

 単なる慢心か、それとも別の意図があるのか。

 アリスは戦いながら、同時にハマリエルに対し常に警戒をし続けていた。

 ほんの少しでも目を離せば、次の瞬間には何をやらかすか分かったものでは──。


『■■■■■■■■ッ!!』

「む……!?」


 女の悲鳴にも似た叫び。反射的に一歩退けば、鋭い何かが目の前を掠める。

 爪、いや『剣』だ。いつの間にそんなものが生えてきたのか。

 怪物の右の手首辺りから、銀色に鈍く輝く一本の剣が伸びていた。


「おいおい、よもや獣が剣を使うのか?」

『■■■■■■!!』


 揶揄するような言葉に、ジャバウォックは吼える。

 剣の生えた腕を振り回し、アリスを切り刻もうと無茶苦茶に暴れ出す。

 そこには剣にあるべき技術も合理も、何もあったものではない。

 ただただ力任せに叩きつけられる刃から、アリスはするりと抜け出す。

 反撃として打ち込んだ王剣が、ジャバウォックの足を半ばまで切断した。


 黒い血が噴き出す。血は流れて、すぐに地面に吸われるように消える。

 順調だ、何の問題もない。未知の怪物相手に、アリスは一方的な戦いを続ける。

 けれどアリスの中にあるのは、形の定まらない不安だった。

 《円環》の切った手札が、この程度で終わるはずがない。

 そう確信し、だからこそ追い詰めた化け物でも決して油断はしない。


「だが、首を斬れば流石に死ぬだろう……!」


 独り呟き、己の言葉をよどみなく実行に移す。

 足を斬られた影響で、ジャバウォックの体勢はかなり崩れていた。

 遥か高い位置にあった頭部も、今は剣の届く範囲だ。

 故に躊躇いなく、アリスは真正面から怪物の懐へと飛び込む。

 最短距離を稲妻の速度で貫く刃が、そのままジャバウォックの首を。


「ッ……!?」


 ──刎ねる事なく、硬い音と共に弾かれた。

 何が起こったのか。理解に務める前に、アリスは後ろへ跳ぶ。

 懐に入った時と同じ勢いで下がる彼女の眼前を、冷たく鋭い風が掠める。

 ジャバウォックが振るう刃。

 首を狙う一太刀を右手の剣で弾き、間を置かずに反撃の一撃をお見舞いしてきた。

 起こった事そのものは、後から見れば単純極まりない。

 問題は、これまで一方的に刻まれていた怪物が、アリスの剣を防いだ事だ。


「流石は《迷宮王》の剣で御座いますね、『混ざる』のに随分時間が掛かりました」

「手品の種明かしは頼んでも良いのか?」

「ええ、勿論です。とはいえ、見ての通り種も仕掛けも御座いませんが」

「良く言う」


 付かず離れずの距離で一礼をするハマリエルに、苦い声で応じる。

 明らかに、ジャバウォックの様子がついさっきまでとは違う。

 単に暴れるだけの獣だったはずが、今は右手に生えた剣を油断なく構えている。

 その立ち姿は、まるで一流の技を修めた剣士のようで。


「ジャバウォックは正体不明の魔物。

 分からないから何者でもなく、分からないからこそ何者にでもなれるのです」

「もう少し分かりやすく言ってもらえないか?」

「私の獣剣ジャバウォックは、『あらゆるもの』と混ざり合う。

 それが獣でも、魔物でも、人でも。銃や魔法、炎、水、風、石でも何でも。

 混ざり合って溶け合って、故にその怪物は正体不明。

 ジャバウォック。その子は今、貴女の振るう剣とも混ざりあったのですよ」

『■■■■■■■■■■────!!』


 種明かしをするハマリエルの声に、ジャバウォックの咆哮が重なる。


「ちっ……!!」


 剣を構えて踏み込んでくる形は、確かにアリスも覚えがあるものだった。

 他ならぬ、自分自身の動きだ。

 体格が違い過ぎるせいで、まったく同一とは言い難いが。

 鋭く剣を振り下ろし、避けた相手に合わせて軌道を変える追撃。

 これもまた己の剣だと認め、アリスはジャバウォックの刃を弾き返す。


「どうですか? 自分自身の剣と戦う感想は」

「昔、鏡像の魔神ドッペルゲンガーを相手にした時以来だな。

 いや、アレは酷く手を焼かされた。何せ私自身だからな」


 実戦で鍛え上げた自らの剣技を、容易く相手に盗み取られてしまった。

 普通の達人であれば、あるいは絶望したかもしれない。

 けれどアリスは、むしろ余裕さえ感じさせる笑みを浮かべていた。


「正体不明の怪物か。確かに、コイツは長く冒険者をやっている私も初めて見た。

 訳の分からん姿をしているし、何をしてくるかも分からない。

 未知とはどれだけ備えても恐れがつき纏うものだ」

「……何をおっしゃりたいのですか? アリス様」

「分からないか、ハマリエル」


 笑う。《迷宮王》は笑っていた。

 ジャバウォックが雄叫びを上げ、アリス自身の剣で彼女を切り刻もうと仕掛ける。

 対するアリスは、首を傾げるハマリエルを見ていた。

 剣を振り上げて迫る怪物など、最早眼中にないとばかりに。

 怪物の巨体と膂力、速度から繰り出される剣はこれ以上ないほどの脅威だ。

 だというのに、アリスはそれを容易く弾いてみせた。


「これは私の剣だ、私が一番良く知っている。

 コイツの力と速度については、ここまで戦った中で学習済みだ。

 そこに動きまで既知のものに変われば、コイツは正体不明の怪物でも何でもない」

『■■■■■■■■■ッ!!』


 渾身であったはずの一刀を、枝でも払うかのように防がれて。

 怒り狂って叫ぶジャバウォックに、アリスは軽く視線を向けた。

 彼女の瞳に映るのは、果たして何者であるのか。


「ただの、見た目が不細工なだけの魔物だな」


 鈍い音を立てて、ジャバウォックの右手が断ち切られた。

 懲りずに剣を振るう魔物の動きに合わせ、アリスが鋭く刃を重ねたのだ。

 右手とそこに生えた剣、その両方を失ったジャバウォック。

 動揺したように呻く化け物に、当然かける情けなどありはしない。


『■■■■■■!?』


 再び足を切り裂かれた。怪物は思わず、その場にガクリと膝を付く。

 続いて、胴体を刃で刺し貫かれる。内臓を一瞬でかき回され、ドス黒い血が溢れた。

 左腕が肩の根本から切断され、右腕はおまけに肘から切り落とされる。

 四肢の大半を失っても、ジャバウォックはまだ生きている。

 だから、最後は首だ。


「終わりだ」


 断末魔はなく、ただアリスが処刑を告げる声だけが森に響いた。

 一刀で断たれたジャバウォックの頭部が、岩のようにゴロリと転がる。

 刻まれた身体は、膝をついた姿勢のまま動かなくなった。

 生命の気配は、もう欠片ほども感じられない。

 ジャバウォックは死んだ。王剣に首を落とされ、完全に事切れていた。

 それでもアリスは警戒を解かず、ハマリエルに視線を向ける。


「十分に楽しめたか、《円環》?」

「それはむしろ、アリス様の方にお聞きしたいですね。楽しめましたか?」

「退屈な出し物ではなかったな」


 挑発めいた言葉を口にしながら、アリスは笑ってみせる。


「とはいえ、仮にも《円環》ともあろう者がこの程度ではあるまい。

 これならばズリエルの眷属の方がいくらか手強かった」

「あの方は割と武闘派でしたから。ズリエル様と比べられては私も困ってしまいますね」

「見た目通り、か弱い兎を気取ってみせるか?」

「兎はか弱いですよ。ただ、油断をすると首を獲ってしまうだけで」


 首狩り兎ヴォーパルバニー

 『いる』と言われているが、まだ誰も見たことがない迷宮の怪異。

 その名を口にしながら、ハマリエルは穏やかに微笑んだ。


「まったく素晴らしいですね、アリス様。

 まさか私の獣剣ジャバウォックを、こうも容易く屠ってしまうとは。

 流石は《迷宮王》、貴女より優れた冒険者などこの世にはいないでしょう」

「何だ、今度は褒め殺し作戦か?

 そういうのは良いから、さっさと立ち去って貰いたいのだが」

「本心からの賞賛で御座いますよ。

 結局、貴女は剣一本でジャバウォックを仕留めてしまった。

 まだまだアリス様も本気ではない、違いますか?」

「本命はあのブサイクな魔物ではなく、首を狙ってきそうな兎の方だからな。

 当然、余力ぐらいは残しているさ」


 言葉を交わす間も、アリスは観察を怠らない。

 格好こそふざけているが、ハマリエルは紛れもなく《円環》の一柱。

 先ほどのジャバウォックも、アレが眷属なら殺して終わりではないだろう。

 再び同じ怪物を、それこそ複数出してきても何ら不思議ではないのだ。


「……本当に、素晴らしい御方だ。

 先に行く者はおらず、後に続ける者もいない。

 貴女は孤高の王だ、アリス様。未来永劫、その偉業に並ぶ者は現れないでしょう」


 油断せず、その様子を見ていたが……何かおかしい。

 淡々としていたハマリエルの言葉に、妙な熱が籠もり始めたような。

 訝しむアリスの前で、《円環》は独り言を重ねていく。


「素晴らしい。嗚呼、素晴らしい御方を『素晴らしい』としか言えない自分が呪わしい。

 《迷宮王》。貴女は、この迷宮世界の王たるに相応しい御方。

 分かっていました。私はずっと分かっていたのです。

 なのに愚かな私は、それを認めたくはないと目を逸し続けていたのです」

「…………おい、何を言っている?」

「何を? 貴女様の事で御座いますよ、アリス様。素晴らしき《迷宮王》」


 兎の目が、赤く不気味に輝いた。

 深淵を迂闊に覗き込んでしまったと、気づいた時にはもう手遅れだ。

 ハマリエルはアリスを見ていた。深淵を覗き込んだがため、深淵が覗き込んできた。

 嗚呼、と感嘆の吐息がこぼれる。

 無感情の仮面は完全に剥げ落ちて、ハマリエルは熱い瞳でアリスを見た。

 まるで恋する乙女か、あるいは飢えた肉食の獣か。

 発情した兎そのものかと、口に出したら皆に叱られそうだな。

 益体もない考えを巡らせている間に、ハマリエルは深々と一礼をした。


「このままでは我を忘れてしまいそうですので、お言葉通り退散させて頂きます。

 私の遊興にお付き合い頂き、真にありがとう御座います。アリス様」

「……そうか」

「警戒なさっておいでですね? けど、私は基本的には嘘はつかない兎ですので。

 帰ると言ったら帰りますから、どうぞご安心下さい」

「その説明で安心できる奴の方が少なかろうよ」


 やや呆れた声で応えつつ、アリスはハマリエルから視線を外さない。

 ジャバウォックを出した時の短剣も、いつの間にか手元から消えていた。


「では名残惜しくはありますが、私はそろそろ……」

「別に惜しむ間柄でも無し、いいからさっさと消えて貰いたい」

「つれない方」


 くすりと笑って、ハマリエルはもう一度頭を下げる。

 兎の目が、愛情と憤怒に燃えている理由を、アリスは知らなかった。

 少なくとも、この瞬間までは。


「それでは、また次の運命の時にお会い致しましょう。

 時に至るまで、どうぞ壮健であられて下さい──アリス先輩」

「……何?」


 最後。本当に最後の最後で、白兎は『未知』を残した。

 記憶を刺激する一欠片。その言葉を聞いた瞬間、アリスの心は酷く乱れた。


「待て、今のは──!?」


 反射的に手を伸ばすが、兎はもう穴の中へと消えた後だ。

 《転移》か、あるいは別の手段か。ハマリエルの姿はどこにもない。

 半端に手を伸ばした姿勢のまま、アリスは動けなかった。

 すぐにでもマヒロたちの方に駆けつけねばと、頭では分かっているのに。


「……何故……」


 聞く者のいない言葉だけがこぼれ落ち、木々の隙間に溶けて消える。

 届かなかった手を、アリスはただ力なく握り締めた。

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