第59話:獣剣ジャバウォック


 凍りついていた時間が動き出した。

 『転生者』の顔面を殴り飛ばしたくるいは、不意に生まれた気配に顔をしかめる。

 すぐ傍に現れたバニーガールの存在に気づくと、慌ててその場を飛び退いた。


「もしかして、時間止められてた!?」

「あぁ、かなり際どかったが間に合って良かったよ」

「…………」


 犬歯を見せて威嚇するくるいと、その前に立つアリス。

 彼女らを冷めた目で一瞥しながら、ハマリエルは傷口に拾った手の断面を押し当てた。

 あっという間に肉同士が癒着し、五指の全てが滑らかに動き出す。

 魔法の類を使った様子は見られない。

 如何なる力か、切り落とされた手があっさりと繋がってしまった。


「貴様が、《十二の円環》……」

「ええ、ハマリエルと申します。しかしアレクト様、それはあまりオススメしませんよ。

 私は別に不死では御座いませんので、そちらの剣は使うだけ損かと」


 《不死殺し》を構えるアレクトには、視線も向けずに淡々と告げる。

 それが事実なのか、それとも撹乱狙いの戯言に過ぎないのか。

 少なくとも、マヒロには判別がつかなかった。


「さて──これは少々困りましたね。

 私はただ、状況を面白おかしく引っ掻き回したかっただけなのですが」

「飛んで火に入る、とまで言うつもりはないがな。

 自分から火中に飛び込んでおいて、その言い草もどうかと思うがね。

 ところでその格好、頭がおかしいのではないか?」

「人のファッションセンスにケチをつけるなんて、《迷宮王》も底が知れますね」


 くるりと、隙だらけな動きでその場で一回転して見せるバニーガール。

 打ち込む事は出来たが、あえてそれをする者はいなかった。

 兎だと油断して、迂闊に手を出した瞬間に首をねじ切られている。

 見た目に惑わされてはいけない。迷宮では良くある話だ。

 ハマリエルと対峙している間、『転生者』たちはじわじわと集まってくる。

 アレクトが斬った以外にも、アリスたちが再生限界まで砕いた分で多少は減っている。

 それでもまだ、二十近い数が霊血に濡れた武器を手にしていた。


「おやおや、私などの相手をしていて大丈夫ですか?

 状況的に見て、ピンチなのはこちらではなくそちらでは御座いませんか?」

「ピンチかどうかは知らないけど、ワタシたちは忙しいから。

 さっさと消え失せて欲しいんだけど」

「寂しい事をおっしゃいますねぇ。

 ご存知でしたか? 兎は寂しいと死んでしまうんですよ?」

「出来れば、我々の与り知らぬところで死んで欲しいのは間違いないな」

「《迷宮王》ともあろう御方が、酷いことを申しますねぇ」

「……何が目的だ?」


 言葉の応酬を続ける間も、アリスやくるいは油断なくハマリエルを見ていた。

 『転生者』たちは包囲を作っているが、状況にはやや困惑しているようだった。

 ハマリエルの介入は、彼らにとっても予定外の事だ。

 愛しい主人からの命は実行せねばならないが、《円環》が何をするかも分からない。

 さながらそれは、糸の上で揺らぐ天秤のよう。

 張り詰めた空気の中で、マヒロは静かに問いを発した。


「目的ですか? それは勿論、面白おかしく暇な時間を潰すために」

?」

「…………」


 一言。そう口にした瞬間、滑らかに回っていた兎の言葉が途切れた。

 ハマリエルの両目に刻まれた、円環を表す《印》。

 片目にだけ同じモノが刻まれたマヒロは、真っ直ぐ相手の瞳を覗き込む。


「さっき、少しだけ《御使い》の気配を感じた。

 もし、お前の目的がソレだとしたら……」

「ま、ことさら隠し立てする必要は御座いませんか。

 ええ、ええ。マヒロ様のご慧眼の通り。

 暇潰しも目的の一つでは御座いますが、そちらを狙っていたのも間違いはありません。

 何せ今、《円環》の席は欠けが出来てしまっておりますから」


 ハマリエルは微笑む。ドス黒い何かに蓋をするような、それは仮初めの笑みだった。

 背筋が凍りつきそうなのを堪えて、マヒロは《レガリア》を握る。


「貴方は《御使い》に願いながら、祈る事はしなかった。

 故に完璧である《円環》には至らず、『十三番目』の席を埋める資格を持たない。

 けれど、祈りさえすれば──欠けたるモノは埋められ、貴方は《円環》となり得る。

 この素晴らしき迷宮世界を永久に閉ざすための、完全なる《円環》に」

「……俺は、あんな奴に祈るつもりはない」

「ええ、なので僭越ながら私がその『お手伝い』をしようと考えたのです。

 人は誰もが、大いなる喪失の前に打ちのめされ、祈らずにはいられないのですから」


 だから、ハマリエルはくるいを狙った。

 目の前で大事な人間を奪われれば、人は神でも悪魔にでも祈るだろう。

 改めて相手の意図を確認し、マヒロは奥歯を噛み締めた。

 許せない。許せるはずがない。

 そんな理由のために、コイツはくるいに取り返しの付かない事をしようとしたのだ。

 怒りと敵意を燃やす少年を、冷静な手が制した。

 アリスだ。彼女の表情は、余裕さえ漂わせる笑みだけが刻まれていた。


「ウチの若い子をからかうのは止めて貰おう、《円環》。

 そんなに遊びたいのなら、この私が相手になってやろうか」

「《迷宮王》、どうかご遠慮下さいませ。

 確かに私は娯楽に飢えておりますが、貴女はあまり面白い方ではありません。

 それに今、目的とするところはマヒロ様の覚醒が第一で……」

「私を見ろよ、ハマリエルとやら」


 心臓を射抜いてしまいそうな視線。

 ハマリエルの動きが、ほんの僅かだが停止した。

 先ほど、マヒロに真意とやらを言い当てられた時とは、また異なる。

 思えばそちらの方は、どこかわざとらしく芝居がかった流れのように思えた。

 けれど、今は違う。

 ほんの微かなものだが、ハマリエルは明らかに動揺に近い気配を漏らしていた。

 最強の冒険者は、当然ながら些細な変化も見逃さない。


「まさかとは思うが、私が怖いのか?

 自然とこちらから目をそらす様は、臆病な兎のようだったぞ」

「…………嫌な人」


 ぽつりと呟いた声には、黒い感情が渦を巻いている。

 触れただけで皮膚が火傷しそうな、それでいて氷よりも冷たい声。

 無感情の皮は剥ぎ取られ、燃える眼差しでハマリエルはアリスの方を見た。


「誤解しないで頂きたいのですが。

 貴女を相手にすると、我を忘れてしまいそうで嫌だったのです。

 私からの配慮を無碍にするなんて、本当にマナーのなっていない方ですね」

「そいつは悪かったな。しかし、私とどこかで会った事でもあるのか?

 生憎と、お前のような《円環》と遭遇した覚えはないんだが」


 バニーガール姿の《円環》なんて、出会ったら絶対に忘れないだろう。

 緩く首を傾げるアリスに、ハマリエルは何も言わなかった。

 応える代わりに、指先を自分の唇に当てる。

 口を開いて、赤い舌が指に触れる。一体、何をしようとしているのか?

 訝しむマヒロが見ている前で、『ソレ』は起こった。


「っ……何を……?」

「これ、地味に痛いのであまりやりたくなかったのですが」


 自分の歯を、素手で一本強引に引き抜いた。

 ため息混じりのハマリエルがやった事は、端的に言えばそれだけだ。

 赤い血を唇の端からこぼれさせ、《円環》は抜いた歯を軽く手の中で握り締める。

 するとそこから、染み出すように一本の『短剣』が現れた。

 刃が不規則に波打った大振りのナイフ。鍔や柄には複雑な装飾が施されている。

 それは武器というよりは、儀式などで使う物のように思えた。


「そこまで私と遊びたいのでしたら、特別にお相手して差し上げますよ。

 まさか断ったりはしませんよね、アリス様?」

「ハッハッハ、お前こそ私を一体誰だと思っているんだ?」


 アリスは笑う。獰猛な戦意を滾らせる笑顔だ。

 王剣ヴォーパルを手に、無造作に一歩前に踏み出した。


「この兎女は私に任せて、他はオフィーリアを探せ」

「! ですけど……」

「時間を止められるコイツに、頭数を揃えても意味がない。

 足止めを食らって、その間にオフィーリアを見失うのが一番最悪だ」


 《円環》の恐ろしさは、先のズリエルとの戦いで骨身に染みている。

 迷宮でも最強に近い怪物を相手に、たった一人で戦いを挑む。

 あまりにも無謀過ぎると、マヒロは叫びそうになったが。


「……死んだら怒るよ。っていうかぶっ殺すからね」

「ハッハッハ、二度殺されるのは勘弁だな」

「申し訳ありません、アリス殿」

「構わん。それよりも早く行くんだ、あの兎が変な気を起こす前にな」

「変な気とは失礼ですね。

 あと、『転生者』の方々を無視するのも良くないと思いますよ?」


 警戒すべきはハマリエルだけで、他は大した問題ではない。

 そう言わんばかりの流れに、『転生者』たちも一気に殺意を漲らせる。

 《円環》は《迷宮王》が相手をするなら、そちらは無視すれば問題ない。

 状況がはっきりした事で、まごついていた『転生者』たちもようやく武器を構える。


「冒険者どもめ、オフィーリア様の元へは行かせんぞ!」

「お前たちも永遠を受け入れろ! 定命である事など捨ててしまえ!」

「そうすれば我々は同じになれる! 永久に生きる同胞としてな!」

「……と、皆様やる気十分のようで」

「やる気ならばこっちも負けてはいないぞ」


 他人事のように嘯くハマリエルを、アリスは軽く笑い飛ばした。

 最早一刻の猶予もない。故にマヒロも決断する他なかった。


「アリスさん!」

「おう、なんだ少年」

「絶対に、生きて勝って下さい!」

「任せたまえ」


 笑う。案じられるのはこそばゆいが、期待されるのには慣れている。

 応えると同時に、アリスは手にした王剣を横薙ぎに払う。

 踏み込もうとしていた『転生者』たちの先頭を切り裂き、その血肉をぶち撒ける。

 ただの一太刀だけで、十数人の『転生者』は足を止められてしまった。


「行け! 走れ!!」

「分かりました!」

「帰ってくるまでが冒険だからね!」

「アリス殿、ご武運を!」


 駆け出す三人を、『転生者』たちは当然阻もうとした。

 しかし彼らの武器や手が届くより早く、その後ろ姿がかき消える。

 マヒロの力による《転移》だ。視界が届けば、物理的な距離に意味などない。


「追え! 絶対に逃すな!」

「なぁ、あっちはどうするんだ……?」

「放っておけ! 《円環》に触ればどう祟られるか……!」

「急げ、アイツらにも尊き御方の血を施すんだ!」


 既に見えなくなった獲物を求め、『転生者』たちは森の迷宮をバタバタと駆けていく。

 アリスはもう、彼らには一切の注意を向けていなかった。

 向こうは問題ない。あの程度の連中では、大した障害にはなり得まい。

 信頼と確信を胸に抱いて、《迷宮王》は眼前の相手に全神経を集中させた。

 《十二の円環》。ハマリエルは手の上で奇妙な短剣を弄んでいる。

 その立ち姿からは、戦意の類はまるで感じ取れなかった。


「どうした、随分とやる気がなさそうではないか」

「……いいえ、そんな事は御座いませんよ」


 剣を構え、最大限の警戒を向けてくるアリスに対して。

 ハマリエルは囁く声で応じながら、手にした短剣をくるりと一回転させる。

 ピタリと止まった刃を、自らの首筋に当てて。


「上りすぎた血で今にも頭が沸騰してしまいそうなぐらいですので。

 少しばかり、冷やそうかと思います」

「ッ……!?」


 真っ赤な鮮血が、冗談みたいに勢いよく噴き出した。

 何故、ハマリエルがいきなり己の首を掻き切ったのか。

 分からない。理解不能な事態に、アリスは迂闊に動く事が出来なかった。

 びしゃびしゃと音を立てて床に溜まる血が──奇妙な音を立てて、蠢いた。

 ずしり、ずしりと。地面を揺らす重低音。

 何がその音を発しているのか、正体はすぐに『現れた』。


「……オイオイ、なんだそれは?」

「私の『剣』で御座いますよ、《迷宮王》様」


 ハマリエルの血溜まりから先ず這い出てきたのは、巨大な『手』。

 鋭い爪を備えた赤黒い手が地面を掴み、それ以外の『身体』を持ち上げる。

 頭を持ち、胴体には四肢を備えた人型に近い『何か』。

 ハマリエルの三倍近い体躯を持つそれは、森の中では酷く窮屈そうだ。

 巨人と思ったが、違う。巨人に鱗は無いし、頭に生えた角や尾も存在しない。

 一瞬、人型の竜かとも思ったが、それなら身体の要所を覆う毛皮は一体なんだ?

 足もよく見れば、足首から下は馬の蹄のような形状をしている。

 三十年以上も冒険者を続けるアリスから見ても、それはまったく未知の存在だった。


「我が獣剣ジャバウォック、貴女様を楽しませる事が出来れば良いのですが」

『■■■■■■■■■■■■■■■────!!』


 嘲るように微笑むハマリエルの傍らで。

 異形の『剣』──獣剣ジャバウォックは、歓喜とも憤怒ともつかぬ咆哮を轟かせた。

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