第58話:血の洗礼
足元を踏みしめると、柔らかい土の感触が返ってくる。
木の根につまずいてしまわぬよう、細心の注意を払いながら周囲を見渡す。
森だ。どれほどの深さがあるかも分からない、人を惑わす類の森。
アリスの記憶には、かつての冒険が蘇っていた。
恐るべき魔女が潜んでいた森の形をしたダンジョン。
この場所は、あの時に優るとも劣らぬ死地だと直感が告げている。
「どこから何が来るかも分からん。些細な変化も見逃さぬようにな」
「分かりました」
アリスの言葉に、マヒロは声に出して応える。
くるいとアレクトの二人は、無言のまま小さく頷いた。
隊列は森にたどり着くまでと比べて、少しだけ変化している。
アレクトに並ぶ形で、マヒロが先頭に立っていた。
全方位に隙間なく警戒を向けるアレクトに対し、マヒロは主に前方に意識を集中させる。
森の木々は複雑に絡み合い、偶然か必然かダンジョンの壁として機能していた。
そのままでは、前に進む事すら容易くはないが。
「……よし」
枝と幹で形作られた壁に、手にした《レガリア》を軽く突き立てる。
宿る魔力に意思を通し、ゆっくりと迷宮の木々に流し込む。
すると、枝がまるで蛇のように動き出し、人が通れるぐらいの隙間を作り出した。
その光景を間近で目にしたアレクトは、感嘆の吐息をこぼす。
「素晴らしい力ですね、マヒロ殿。迷宮の一部を操るなんて」
「《レガリア》の力であって、俺の力とは言い難いですが」
「何を言う、武器の力とは即ち担い手の力だ。
正しく扱えているのだから、素直に胸を張ると良い」
偽りのないアレクトの賛辞に、続く何故か自慢げなアリスの賞賛。
どちらも照れ臭く、マヒロは少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
素直に嬉しいけれど、それで浮かれるわけにはいかない。
《レガリア》の力を注意深く扱いながら、不意の襲撃にも備える。
森は今のところ静かで、罠らしきものはどこにもなかった。
魔物の気配もまだ感じられないが……。
「……臭う」
「? どうした、くるい」
「気をつけて。血の臭いがする」
不意にくるいが漏らした呟きに、全員がその場に足を止める。
視線を忙しなく動かし、彼女は愛用の大鎚を握り締めた。
「血の臭いか。森の気配が濃くて、私にはよく分からんな。
アレクトの方はどうだ?」
「……くるい殿の言う通り、微かにですが血を感じます。これは、まさか……」
アリスの確認に、アレクトは硬い声で応じた。
彼女が何に気づいたのか、それをマヒロが疑問として声に出す──よりも早く。
唐突に、周囲の木々がぐにゃりと歪んだ。
マヒロの持つ《レガリア》の力ではない。森自身がいきなり動き出したのだ。
槍の穂先の如く鋭利に変化した枝が、愚かな侵入者たち目掛けて殺到する。
凡百の冒険者であるなら、これだけで容易く息絶えただろう。
「ハッ! あまり侮ってくれるなよ!!」
だが、ここに立つのは《アンダー》でも最上位に近い実力者たち。
四方から迫る枝の槍を、アリスは王剣の一振りで軽々と薙ぎ払ってみせた。
剣から感じる手応えは普通の木と大きくは変わらない。
細かく砕けた破片が、バラバラと足元に落ちて散らばる。
その時、マヒロは確かに見た。
砕けた枝の表面に、微かに付着している赤い血の色を。
「皆、枝に血がついてる! 多分これは……!」
「オフィーリアの血です! 皆さん、警戒を!」
「まぁ、そういう事してくるのは予想の範疇だよねっ!」
マヒロとアレクトの言葉が重なると同時に、くるいは大鎚を振り抜く。
死角からこっそり近づく形で動いていた木が、一撃で粉々にへし折られる。
腕のように動かしていた枝は、やはり僅かに血で濡れていた。
不死エルフたるオフィーリアの血。
侵入した生物の血肉を変化させ、精神の構造をも捻じ曲げる霊血だ。
少しでも体内に入ったが最後、その者はオフィーリアの忠実な下僕となってしまう。
それを『攻撃』に用いてくるのは、事前に予想した通りだ。
「予想しているのだから、当然対策はしているとも!」
血濡れの枝を払いながら、アリスは軽く笑ってみせる。
彼女の言葉通り、マヒロたちはここに潜る前に『攻撃』への備えはしていた。
とはいえ、そう複雑な事はしていない。
鎧をがっちり着込んでいるアリス以外は、どちらかと言えば防具は軽装の部類だ。
それを動きを阻害しない程度に、普段より厚めのモノに変えた。
プラス、肌の露出は極力ゼロにし、服も防刃性能が高いものに変更していた。
傷を受ける可能性を減らす事を第一にした装備だ。
体内に入れば終わりだが、逆に言えばそうならない限りオフィーリアの血は無害だ。
「気配が近づいてきます、複数!」
「ふん、動く木々を盾にして包囲しようという腹か。浅知恵だが厄介ではあるな」
「ん、どうする? ちょっとコレ、切りがないけど」
森の木々は粉砕しても、後から後から別の木が近づいてくる。
アレクトの五感は、それらを陰に忍び寄ってくる者たちの存在を捉えていた。
くるいの振り回す大鎚が、狭まろうとする森の空間を無理やり広げる。
その中でアリスは少し難しい顔をしてから、傍らに立つ少年の肩をポンと叩いた。
「このまま囲まれるのも面倒だ、逆に背後を取れるか?」
「やってみます」
「良い返事だ。くるい、少々大きめに隙間を開けられるか?」
「誰にものを言ってるのかなぁ」
短いやり取りでも、これから何をすべきかの意図を共有して。
くるいは全力を込めた大鎚を木々に叩きつけ、森に大穴を穿った。
派手な音を立てて広がる隙間から、マヒロは確かに見た。
森の陰に潜み蠢く、武装した人間たちの姿を。
「飛びます!!」
一言、それだけ伝えれば十二分。
《レガリア》ではなく、我が身に刻まれた力と共にマヒロは叫んだ。
空間が捻れ、視界が一秒にも満たない時間だけ空白に染まる。
僅かな浮遊感の後、足元に再び森の柔らかな地面が戻ってきた。
「!? 何だ、消え──」
焦った男の言葉は、言い終えるより早くアレクトの刃が断ち切った。
くるいが開いた森の隙間で視線を通し、近づく敵集団の背後に《転移》する。
飛んだのはマヒロと、彼の傍にいたアレクトの二人。
あっさりと後ろを取られた相手に、容赦なく呪いの剣が振るわれる。
「怯むな! オフィーリア様のために!」
「おぉ、我らは不死! もう死を恐れるこどなど……!」
「いいえ、あなた方は死ぬ」
気炎を上げる『転生者』に、エルフの剣士は冷然と事実を告げた。
首を断たれようが死なず、手足をもがれようがすぐに繋がる。
オフィーリアの霊血をその身に受け、限りなく不死に近い生命となった者たち。
彼らの命を、アレクトの《不死殺し》が草のように刈り取っていく。
容赦はなかった。彼らはもう助からない、戻れない。
人で無くされた者たちに、せめてアレクトは人としての死を刻んでいく。
「大丈夫ですか、アレクトさん!」
「この程度ならば、問題ありません……!」
「まったく、オフィーリア相手以外には出来る限り抜くなと言っておいたというに……!」
口元から流れる血を拭う様は、木々を挟んでもアリスは見逃さなかった。
とはいえ、相手は『転生者』。
幾ら強さで勝っても、アリスやくるいでは一人を完全に殺し切るまで手間が掛かる。
加えて、『転生者』たちの武器にはやはり血に濡れた赤色がこびり付いていた。
恐らくは敵の全員が、オフィーリアの血を塗った武装を帯びている。
アレクトが一太刀で片付ければ、それが手っ取り早いのは確かだった。
「っ……けほ」
「癒やします! どうか援護を!」
「任せて!」
咳き込むアレクトを引っ張り、マヒロは一度戦線から距離を取る。
開いた敵との隙間に、突っ込んできたくるいが滑り込んだ。
剣を構えて向かってくる『転生者』の身体を、大鎚の一撃でひしゃげさせる。
先端に潰れた人体を引っ掛けたまま、更に別の『転生者』を地面ごとプレスした。
真っ赤な血肉が花開き、惨い破壊音が森に響き渡る。
如何に不死に近いとはいえど、生命である以上は痛みがある。
潰されて苦痛に呻く『転生者』の悲鳴は、他の者たちを怯ませるのに十分だった。
「ほら、こっちは大丈夫だから。手早く済ませて」
「ありがとう、くるいちゃん!」
アリスもまた、包囲しようとしていた他の『転生者』たちを蹴散らしている。
その様子を視界の端に捉えながら、マヒロはアレクトの背に手を当てた。
治癒の《奇跡》を施せば、アレクトの呼吸もすぐに落ち着いた。
「申し訳、ありません」
「謝らないで下さい。ただ、出来ればあまり無理は……」
「……無理では、御座いません。私は、私のやるべき事を成すのみ」
気遣うマヒロの言葉に、アレクトは微笑みながらも強い意思を告げた。
呪いの剣、その柄を強く握り締めて。
見える範囲でもまだ十以上はいる『転生者』たちを、その眼で鋭く睨みつけた。
「オフィーリアの不死が、これほどまでに蔓延っています。
私の手足は、私の剣は、この全てを斬るためにあるのです。
だからどうか、マヒロ殿」
「……ええ、止めません。止めませんけど、一人ではやらせませんよ」
頷く。マヒロもまた《レガリア》を握り、血肉を蠢かせる『転生者』の姿を見た。
ここでオフィーリアを止めなければ、更に犠牲者が増えていく。
アレクトの身は心配だが、これを見過ごすわけにもいかなかった。
ならば、やるべき事をやる。結局は、それが全てだった。
「ちょっと良い空気醸してないで、手伝って欲しいんだけど!」
「ごめん、すぐ行く!」
くるいから飛んできた文句に、マヒロはすぐさま《転移》しようとした。
傍らのアレクトと共に、敵集団の相手をしているくるいの近くに飛ぶ。
けれど、そうする前に全てが凍りついた。
「ッ────!?」
「……まったく、多少作戦は練ったようですけれど、結局微妙でしたね。
使えない駒を見ていると、ちょっとばかりイライラしたりはしませんか?」
凍てついた世界に、淡々とした女の声だけが響く。
マヒロは知っている。《兎の小路》と呼ばれた現象と、それを起こした主の事を。
いつの間に現れたのか。くるいの近くに、一人のバニーガールが立っていた。
彼女は恭しく一礼してみせた後、足元に落ちていたナイフを手に取る。
刃を濡らしている赤い血は、オフィーリアの霊血だ。
バニーガール──ハマリエルが、今から何をするつもりなのか。
「や、めろ……!!」
「おや、何をやめろと仰るのですか? 残念ながら分かりかねますね、マヒロ様」
絞り出した声に、白兎は満面の笑みで応える。
ハマリエルのすぐ傍には、停止した時間で凍りついたくるいがいる。
彼女へと、逆手に持ったナイフの切っ先が向けられた。
「このまま一方的では退屈ですし、バランス調整は必要でしょう?」
「やめろ、ハマリエル……!!」
「お止め下さい、マヒロ様。そんなそそる顔をされると、私は辛坊堪らなくなるのです」
駄目だ、時間を稼ぐ手段もない。
残酷に笑って、ハマリエルはナイフを握る手を振り下ろす。
そして、真っ赤な血が爆ぜた。
マヒロの思考を一瞬絶望が染め上げ、視界の端に白い羽根を幻視した気がする。
『救われたければ祈れ』と、誰かが囁いたような──。
「──そうそう好き勝手出来ると思うなよ、このケダモノめが」
声。誰の声?
考えるまでもない、マヒロがこの世で最も信じる相手の声だ。
「アリスさん……!」
「……まったく、
ここは流石と賞賛すべきですか、《迷宮王》アリス様」
ナイフを握っていたはずの手。
手首から切断されたそれを、落とし物のような気軽さで拾い上げながら。
ハマリエルは忌々しそうな眼で、剣を構えるアリスを見た。
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