第56話:運命の車輪
《十二の円環》であるハマリエルにとって、最も重要なのは『今』だ。
この素晴らしき迷宮世界で、如何に遊興を楽しめるか。
神にも等しい《円環》に過去も未来もない。
ただこの瞬間、どれだけ己を快楽で満たす事が出来るのか。
ハマリエルを含め、《円環》の大半にとってそれが全て。
故に、長い二つの耳に届いた『結果』は彼女にとって酷く残念なものだった。
「放った小兎たちは、存外あっさりと抑えられてしまったようで」
耳をピコリと動かしつつ、ハマリエルはつまらなそうに呟いた。
ハマリエルの用意した信奉者たちに、オフィーリアの血をばら撒かせる。
《組合》が警戒していても、その網は『水も漏らさず』とは行かないだろう。
相手が気づかぬ内に、血を呑んで洗脳された者の数を一気に増やす予定だったが……。
「運が悪かったか、あるいは敵が思ったよりずっと優秀だったと褒めるべきでしょうか?」
「……呑気に話しているが、ピンチなんじゃないのか?」
「そうでしょうか? 謎の冒険者Z殿は、何をそんなに怯えておられるので?」
「怯えてなどいるものか!
お前は確かに、オフィーリアに協力は惜しまないと約束したはずだ!
それが大した成果も上げられませんでした、では話にならないだろうが!」
「いやはや、お耳が痛いですね」
苛立たしげに怒鳴る唯人に、ハマリエルは自分の耳を軽く折り畳んでみせた。
ふざけているとしか見えない様子に、更に怒気を強めようとして。
「お待ち下さい、タダヒト様。
ハマリエル殿はあくまで厚意で我々に協力して下さっているのです。
責めるのは筋違いというもの。違いますか?」
「オフィーリア……しかし……」
傍らの不死エルフの姫君は、対照的に穏やかな表情だ。
むしろ、その顔には抑えきれない喜びが満ちているのが分かった。
彼女が見ているのは、自分たちがいる空間に控えている者たち。
人間とドワーフ、それに幾人かの獣人。
合わせれば五十近い人数が、頭を垂れて跪いていた。
「地上は残念でしたが、ハマリエル殿のおかげで『こちら』の首尾は上々です。
ハマリエル殿、改めて感謝を」
「いえいえ、上がしくじってなければこの三倍は確保出来たはずなのですが。
《アンダー》のちっぽけな集落一つでは、やはり数が少ないですね」
深々と頭を下げるオフィーリアに、ハマリエルもまた一礼を返した。
この場にいる『転生者』たちは、全て《アンダー》で暮らす者たちだった。
《汎人類帝国》の辺境、辛うじて《レガリア》の恩恵に預かる小さな村。
たまたま、そこをハマリエルたちの目に止まってしまった。
迷宮暮らしで戦いの備えはしていたが、そんなものは何の役にも立たなかった。
変えられてしまった村人たちは、今や全員が不死の姫君の忠実な下僕だ。
「十分です。私も、あまり一気には血を流せませんからね」
「完全不死とはいえど、その源は流れる霊血。
出血多量で身動きが取れなくなってしまっては、流石に困りますか」
「できる限り、タダヒト様にご迷惑はおかけしたくないですから」
「そんな、貴女のために背負う労苦なら、むしろ俺にとっては喜びです!」
「ふふ、ありがとう御座います」
思わず叫んでしまった男に、オフィーリアは鈴を転がすように笑った。
またイチャつく空気となってしまわぬよう、ハマリエルはこほんと咳払いを一つ。
「とても残念ですが、未だに落とせたのは村一つ程度。
地上は大した混乱も招けず、遠からずに貴女の居所も探り出されるでしょう」
「ええ、それは承知しております」
「……私としましては、身を潜めるならもっと深い場所をオススメしますが」
言いながら、ハマリエルは改めてその場に視線を巡らせた。
そこは床や壁、天井に至るまで奇妙な紋様が刻まれた半球形の広間。
迷宮の深さとしては、深度『二』と『三』の境目辺り。
かつて、オフィーリアが封印され鎖で繋がれていた神殿だ。
『迷宮津波』の影響で半壊したその地に、オフィーリアは再び戻ってきていた。
「ハマリエル殿は、運命を信じておられますか?」
「《円環》は既に運命を剥ぎ取られた身、信じるも信じないも御座いませんね」
「あら、そうでしたか。私は、運命の導きというものを信じております」
果たして、不死エルフの姫が何を言いたいのか。
理解が及ばず首を傾げるハマリエルに、オフィーリアは言葉を重ねる。
「百年前、私の《愛》は敗れてこの地に封ぜられてしまいました。
そして偶然、やって来たタダヒト様の手で救い出された。
もう二度と出会えないと思っていた愛しい娘と、その後間もなく訪れました。
全てが偶然なのか、それとも必然であるのか。
私如きの思慮では推し量れませんが──やはり、これは運命なのだと思うのです。
この地から始まった、我が身に科せられた運命だと」
オフィーリアの微笑みには、聖女の慈愛と殉教者の覚悟、その両方があった。
……腹立たしいが、唯人はハマリエルの言う通り迷宮の深層を拠点としたかった。
だが、運命を定めたオフィーリアのお考えを曲げる事など出来ない。
唯人は彼女の英雄であり、犬よりも忠実な肉袋だった。
否など口に出来るはずもなく、多くの『転生者』と同様に頭を垂れるのみだ。
ただ一人、ハマリエルだけは呆れ混じりの吐息をこぼす。
「貴女がそう思うのでしたら、きっとそれが正しいのでしょう。
差し出口をお許し下さい、オフィーリア様」
「貴女のお心遣いには感謝の言葉しかありません。
どうかお顔を上げて下さい、ハマリエル殿」
心の底から本音のみを語るオフィーリアに、ハマリエルは寒々しく応える。
オフィーリアの理想や愛など、彼女にはどうでも良い事だった。
「ともあれ、オフィーリア様がたはこの地からは動かぬと」
「はい。ハマリエル殿は如何なさいますか?」
「…………」
問われた《円環》は、先ずは沈黙を返した。
この気紛れで快楽主義の白兎が、次にどんなろくでもない事を考えるのか。
警戒を強める唯人の事など、ハマリエルは眼中になかった。
わざとらしく胸の前で腕を組み、首を捻ってから数秒。
「もうしばらくは、お付き合い致しましょうか」
「宜しいのですか?」
「別に後は放って帰ってしまっても、何の問題もないですけどね」
ほんの少しだけ、ハマリエルの表情が動いた。
それは笑っているようでもあり、苦虫を噛み潰したようでもあり。
言い表せない感情が、薄皮一枚下で嵐の如く渦巻いている。
とても人間とは思えず、同時に何よりも人間らしい表情だった。
「運命など、とうに剥がされた身では御座いますが。
この場にオフィーリア様が語るような運命とやらが、本当にあるとしたら。
それが行き着く先を、神たる《円環》が見届けましょうや」
「ありがとう御座います、ハマリエル殿」
「……小難しい事をゴチャゴチャ言ってるが、結局お前の真意はどこなんだ?」
「おや、男子たる者が細かい事を気にされますね」
「全てはオフィーリアのためだ!」
吠える唯人に、ハマリエルは微かに笑い声をこぼした。
犬がキャンキャン喚いていると、兎の瞳がこれ以上無い蔑みを物語る。
腹立たしさを噛み殺し、唯人はハマリエルを睨みつけた。
「素晴らしい忠誠心、このハマリエルも感服致します」
「質問に答える気はないのか」
「真意も何も、全て予めお話した通りで御座いますよ?」
肩をすくめるハマリエル。
《円環》は、それ以上は何も語る気はなかったが。
「……ただ、そうですね。あえて言うならば、ちょっとした思い付きです」
「思い付きだと?」
「はい、深い意味など御座いません。
これまで面倒だと避けていた事に、少しだけ目を合わせてみようかと」
だからこれもまた気紛れの一つで、何も特別な事はないのだと。
白兎の言葉に秘められた意味は、やはり唯人には理解できなかった。
「少々喋り過ぎましたね」と、誤魔化すようにハマリエルは唇に指を押し当てる。
「さて、雑談も楽しくはありますが、そろそろ備えを致しませんと」
「備え、と申しますと?」
「大した事では御座いません。ほんの一時、どうかそのままお待ち下さいませ」
恭しく礼をしてから、ハマリエルはオフィーリアたちから距離を取る。
呟く声は唯人にも聞こえていたが、何を言っているのかまでは聞き取れない。
それは歌のようにも、鳥や獣の鳴き声にも思えた。
不明の言葉を幾つか口に出すと、変化は劇的に起こった。
広間全体が鳴動する。激しい揺れに突き上げられ、唯人は咄嗟にオフィーリアを庇う。
「おい、何をしている!?」
「タダヒト様、どうか落ち着いて下さい。大丈夫です、私たちに害はありません」
怒鳴る男を抑え宥めるオフィーリア。
ハマリエルの方は完全に無視し、作業に没頭している。
振動が収まるまで数分ほど。再び空気が落ち着くと、白兎はほっと息を吐いた。
「とりあえず、こんなものでしょうか」
「……一体なんだったんだ、今のは」
「周辺の構造を少々イジらせて貰いました」
「は?」
「今更場所に文句は御座いませんが、守りの一つぐらいは必要でしょう?
急ごしらえではありますが、周りに新たなダンジョンを構築させて頂きました。
とはいえ、出来ても精々が時間稼ぎ程度の代物でしょうが」
「…………」
時間は、恐らく十分も経過していない。
見た目はただ、ハマリエルが何か祈るような仕草を見せたのみだ。
後は数言の呪文らしき声だけで、迷宮の構造を改変する。
それはまさに、迷宮の神と呼ぶべきだった。
戦慄を隠しきれない唯人の横で、オフィーリアは深く頭を下げる。
「重ね重ね、お力添えに感謝致します。ハマリエル殿」
「お気になさらず。私も好きで付き合っておりますので」
空々しい言葉を口にしながら、ハマリエルは微笑んでみせた。
まるで真意の読めない、恐ろしく不気味な笑みだ。
けれどオフィーリアは構わず、《円環》相手でも尽きぬ愛を込めて微笑み返した。
「最低限の準備は整いましたし、ここで一息入れると致しましょうか。
お茶の支度を致しますゆえ、どうぞご歓談下さいませ」
「まぁ、お手伝いしましょうか?」
「いえいえ、オフィーリア様は血の流しすぎでお疲れでしょう。
お体に障らぬよう、静かにお寛ぎ下さい」
「…………」
まるでピクニックの最中でもあるような緊張感の無さだ。
やはりハマリエルは信用できないと、唯人はそう判断せざるを得なかった。
視線を向ける先は、跪いたままの五十人ほどの『転生者』たち。
信じられるのは自分と、同じ血を授かった彼らだけだ。
「……次こそは、必ず」
必ず、愛するオフィーリアを守ってみせる。
彼女の命を狙う忌まわしい冒険者たちの姿を、鮮明に脳裏に思い浮かべながら。
獣の如き獰猛さで、唯人は唸り声を漏らした。
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