第52話:白兎のハマリエル


 バニーガールの言葉に、マヒロの思考は停止しかけた。

 実際に止まっている時間の中で、白髪の少女はうさ耳を揺らしながら顔を上げた。

 表情の色は薄く、そこから感情を読み取るのは難しい。

 格好がおかしい事以外は、ただの女の子にしか見えなかったが。


「《十二の円環》……!?」

「おや──素晴らしいですね、夜賀 マヒロ様。

 私の《兎の小路》に、もう適応なさったのですか?」


 絞り出した声を聞いて、少女──《円環》のハマリエルは感心した様子で頷く。

 声は何とか出せたが、手足は変わらず動かない。

 アレクトも、くるいも、オフィーリアも、唯人も。

 誰も彼もが停滞した時間の中で凍りついて、自由に振る舞うのはハマリエルのみ。


「これは、お前の仕業なのか」

「イエス。つまらない芸では御座いますが、夢を見たと思ってお許しを。

 《兎の小路》という、時間の停止した空間を展開する能力であります」


 時間の停止した空間。

 つまらない芸などと当人は口にしているが、とんでもない話だ。

 極まった魔法使いの中には、時を止める魔法を使える者もいるという。

 だがそれもほんの数秒、かつ効果範囲も酷く限定的のはずだ。

 ハマリエルが時を止めてどれぐらい経ったか、正確には分からない。

 だが少なくとも、数秒ぐらいでは済まないのは確かだ。


「お前の目的は、何だ」

「つい先ほど申し上げたはずですよ?

 面白そうなので、ちょっかいを掛けに参った次第です」

「……本気で言ってるのか」

「ええ。ついでに、貴方様に興味があったので接触してみようかと思いまして」


 囁く声には、微かに笑みが含まれている。

 相変わらず表情に色はなく、何を考えているかも掴めない。

 ゆっくりと近づいてくるバニーガールに、マヒロは抗う術もなかった。

 必死に手足を動かそうと試みるが、身体は鉛の像に置き換わったように不動だ。


「停止した時間を認識し、声を発する事も出来る。

 素晴らしいですね。ただの人間は、私の《兎の小路》では路傍の石と変わらない。

 この私がいる事さえ、知覚する事は出来ないのですよ?」

「っ……」

「あぁ、どうかそんなに怯えないで下さいませ。

 私は別に、貴方様に酷い事をしようなどとは考えておりませんから。

 ええ、微塵も考えてはいませんよ?」


 それが本心からの言葉でない事ぐらいは、流石のマヒロにも理解出来た。

 見た目がバニーガールだからと言って、この女は兎のように大人しくはない。

 今も、身動きの取れない獲物に微かに興奮しているのが伝わってきた。


「……私たちとは異なる、片目にだけ刻まれた《シジル》。

 願いはしたけれど、祈らなかったから? 《御使い》は何をお考えなのでしょう。

 貴方が《兎の小路》に適応出来ているのは、半分は私たちの同胞だからなのか。

 嗚呼、こうしているだけでも疑問と好奇心が尽きませんね」


 マヒロの眼の奥を、赤い瞳が覗き込んでくる。

 好奇心を抑えられないといった様子で、動けない身体の上を細い指先が這う。

 顔、首筋、肩、そこから流れて腕や胸の辺りまで。

 身体は動かせないが、無遠慮に触られている感覚だけはハッキリと分かった。


「っ……やめろよ……!」

「おや、嫌でしたか? 喜んでくれる方もいらっしゃいますのに」

「動けない状態で身体をまさぐられて、喜ぶ奴がいるかよ……!」

「そういう趣味を持つ方もおりますので、簡単に否定するのは良くありませんよ?

 世の中は多様性を肯定する時代です。もっと自分に正直になりましょう」


 囁く声が、一気に近くなった。

 ハマリエルはマヒロの耳元に唇を寄せて、熱っぽく息を吐きかける。

 次の瞬間、鋭い痛みが首の辺りに突き刺さった。


「痛っ……!?」

「──美味しい。味見だけのつもりなのに、理性が揺さぶられる味です」


 噛まれた。いや、皮膚と肉を少しだけ食い千切られた。

 唇の端についた血を、赤い舌で舐め取る。

 顔を上げ、視線を間近で合わせたところで、ハマリエルの表情が初めて変化した。

 笑みだ。満面の笑み。死んだと思っていた表情筋が、全力で稼働している。

 あまりに急激な表情の変化に、マヒロは背筋が寒くなるのを感じた。


「素敵ですね、マヒロ様。私の《兎の小路》に、短時間で適応し始めた事もありますが。

 見た目はまぁまぁ、肉の味はヨシ。血も少々クセはありますが、私好みです」

「っ……」

「ですが──何よりも、その瞳が素晴らしい」


 熱っぽく、半ば独り言に近い言葉を口にしながら。

 ハマリエルは動けないマヒロとの距離を、鼻先が触れ合うぐらいにまで狭めた。


「この状況でも、まだ諦めていないのですね?

 誰も彼もが停止した時間に囚われ、自分自身も声を出す以外には何も出来ない。

 私がその気になったら、容易く首を獲られてしまう。

 そこまで理解しているというのに、何も諦めてはいないのですね?」

「離れろ、《円環》……っ!」

「あぁどうか、私の事はハマリエルとお呼び下さいませ。

 それと、真に勝手ながらあまりそそるお顔はされない事を推奨致します。

 私が興奮してしまいますので」


 恐ろしい笑顔のまま、声だけは淡々としている。

 ただ、その奥に本人が語る通りの激情が秘められているのは間違いなかった。

 ズリエルも大概だったが、このハマリエルは更に輪をかけて異常だ。

 外見の言葉も人間と同じはずなのに、決定的に『何か』がズレている。

 元々人外だったズリエルとは大きく違う。


「さて、どうしてしまいましょうか。

 《兎の小路》にはまだまだ余裕がありますし、いっそこのまま──」


 と、不意にハマリエルの言葉が途切れた。

 一瞬で表情から笑みがかき消え、何かを探るように視線を巡らせる。

 困惑するマヒロの前で、兎の女は大きくため息をついた。


「申し訳御座いません、邪魔者がやって来てしまいました」

「っ……邪魔者……?」

「私といたしましては、もっとマヒロ様と遊興に耽りたかったのですが。

 苦手な相手と顔を合わせたくはないので、ここは本来の目的を済ませてしまいましょう」


 本当に残念そうな声で呟きながら、ハマリエルはマヒロから身を離す。

 名残惜しそうに、あるいは未練がましい仕草で。

 何度も動けぬマヒロをチラ見しながら、兎はオフィーリアの方へと近づく。

 止まった時の中で凍りつく不死エルフへ、ハマリエルは唇を寄せた。


「貴女様も、動けぬフリをしているだけで御座いましょう?

 どうか警戒なさらずに。私は貴女様の味方ですよ。少なくとも、今は」

「……見知らぬ方。一体、貴女の目的は?」

「今この場は、貴女を逃がす事で御座いますよ。オフィーリア様。

 ついでに、そちらの彼もサービスで助けて差し上げましょう」


 声を返したオフィーリアに、ハマリエルは指先で唯人を示す。

 逡巡したのは、ほんの一瞬だけだった。


「……分かりました。貴女に従いましょう、ハマリエル殿」

「良い判断です。それではマヒロ様、この場は一旦失礼致します」


 マヒロに対して恭しく一礼をすると、空間に黒い『何か』が現れた。

 それは暗幕のようで、オフィーリアと唯人の姿をあっという間に包み込む。

 続いて、ハマリエル自身も同じモノに姿を隠す。


「っ、待て……! その二人をどうするつもりだ……!?」

「それはこれから考えます。ではでは」


 軽い言葉の後には、もう何も残っていない。

 暗幕が消え去ったところに、オフィーリアたちの姿はどこにもなかった。


「な……っ!?」


 無駄だと知りながらも、消えた相手の姿を探ろうとするマヒロ。

 彼の耳に、乾いた音と悲鳴に近い声が響いた。

 慌ててそちらに目を向ければ、床に転がったアレクトが辺りを見回していた。

 彼女の主観では、停止した時間の流れは認識されていない。

 アレクトからすれば、いきなりオフィーリアが消えたようにしか見えないだろう。


「アレクトさん、大丈夫ですか……!」

「オフィーリア……オフィーリア! どこだ、どこに隠れた!?

 またお前は、私の前から逃げるのか! オフィーリア……!」

「落ち着いて下さい……! オフィーリアは、もうここには……!」

「……あの冒険者Zっていうのもいなくなったけど、何が起きたの?」


 床を這ったまま動揺するアレクトに、くるいは戸惑いながら近づいてくる。

 こちらは冷静だが、やはり目の前の相手が突然消失した事には驚いているようだ。


「──すまない、少々手間取って遅れてしまった! 全員無事かね!?」


 続いて、やや焦りの滲んだ声が通路の奥から響く。

 返り血で鎧を真っ赤に染めた姿で、アリスが剣を片手に急ぎ走ってくるのが見えた。

 その姿を目にすると、くるいは暢気に手を振ってみせる。


「はーい、こっちこっち。良く分からないけど、とりあえず無事だよ」

「おぉ、そうか! いや、この通路に入った途端、妙な空間が広がっていてな。

 嫌な予感がしたので、兎に角全力で走ってきたんだが……」

「……アリスさんは、あの中で動けたんですか?」


 マヒロの言葉に、「何の話だ?」とアリスは首を傾げた。


「一体、何が起こった? オフィーリアたちはどうしたんだ?」

「さっきまでは、ここにいたんですが……」


 そしてマヒロは、つい先ほど起こった事実を他の三人に説明した。

 先ず何も知らないアリスに、オフィーリアたちと遭遇した際の話をした上で。

 突如として現れた、《十二の円環》のハマリエル。

 彼女の使う《兎の小路》という力と、オフィーリアたちを連れて行った事。

 手短に全てを語り終えると、僅かな沈黙がその場に流れた。


「……まさか、《円環》が介入してくるとはな。まったく迷惑な連中だ」

「自由人過ぎるよね。それとも、仲間を殺された報復に来たのかな?」

「いえ、そういう感じはなかったですね……本当に、遊びとか悪ふざけ的な……」

「……その、ハマリエルと名乗る者が、オフィーリアたちを逃してしまった。

 それは、間違いないのですか?」


 確認するアレクトに、マヒロは頷く。

 既に鞘に納めた剣の柄を握り締め、エルフの剣士は天を仰いだ。


「やっと……やっと、届くはずだったのに……!」

「アレクトさん……」

「何故、何故邪魔をするのですか……! 私は、あの女を殺せれば良い!

 それだけで、私は……!」


 指が折れそうなぐらいに、強く強く握り込んだ手。

 血を吐くのと同じ言葉を吐き出すアレクトに、マヒロは近づく。

 そっと、柄を握る手に指を触れさせて。


「どうか、落ち着いて下さい。アレクトさん」

「……マヒロ殿」

「無理を言ってるのは分かってます。貴女の悔しさを、分かるなんて言いません。

 ただ、少しだけ深く息をして、周りの事も見て欲しい」


 死人に等しかった顔に、ほんの僅かに生きた熱が戻る。

 マヒロとアリス、それにくるい。

 ここまで付き合ってくれた三人の顔を見てから、アレクトは少しだけ息を吐いた。

 柄を握っていた指も、徐々に力を緩めていく。


「……取り乱してしまい、申し訳ありません。私は、戦士として失格です」

「いえ、そんな事は……」

「確かに、冷静さを欠いて一人突っ走ったのでは、資質を疑うのもやむ無しではある」

「わぁ、アリスが珍しくまともなこと言ってる?」

「やかましいぞ幼女め。……とはいえ、常に冷静でいられる者などそうはいまい。

 しくじったと思うなら、次は改めれば良い。

 目的を見つけて逸る気持ちは分かるが、今度はもう少し周りを見てからにするんだな」

「はい。肝に銘じて、次の機会に望みましょう。感謝します、《迷宮王》」

「ん、別に礼を言われる事でもあるまい」


 深々と頭を下げるアレクトに、アリスは軽く手を振った。

 照れているんだなと、マヒロは微笑ましくて笑ってしまった。


「少年も悪い顔をしているな。アレクトも、礼を言うならマヒロ少年にするといい。

 君の身を一番案じていたのは、間違いなくこちらなんだからな」

「はい。マヒロ殿、本当にありがとう御座いました」

「い、いや、俺は結局大した事は出来てないですから……」

「それより、これからどうするの? 目標には逃げられちゃったけど」


 微妙に蚊帳の外を感じたくるいが、不満そうに声を上げた。

 彼女の言葉に、アリスは難しい顔で頷く。


「探すしかないが、どこへ行ったかも分からんからな。

 一度地上に戻って、《組合》を通じて手配をかけるしかあるまいな」

「……それで、見つけ出せるでしょうか」

「見つけるしかない。奴らは例えるなら、無差別に毒を振りまく猛獣と変わらん。

 一刻も早く処さなければ、被害者が増える一方だ」


 不安げなアレクトに、アリスは力強い声で応じる。

 マヒロも、その言葉に続いて頷いた。


「一度は追いついたんですから、次もすぐに追いつけますよ。

 頑張りましょう。俺も頑張りますから」

「……はい。頼りにさせて貰いますね、マヒロ殿」

「むむん。ねー、ワタシにも何かないワケー?」

「わっ。くるいちゃんの事も、凄く頼りにしてるから」

「んー、じゃあワタシも頑張るから。アレクトも困ってるもんね」


 後ろから抱きついてきたくるいに、マヒロは少しだけ頬を赤くする。

 何故かアリスも、「私も混ぜろ」とばかりにタックルしたので三人とも床に転がった。

 もみくちゃになるマヒロたちを見て、アレクトは思わず笑ってしまった。

 この一時だけは、復讐を忘れて彼女は穏やかに笑っていた。

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