第46話:一夜明けて
朝になった。慣れないベッドの上で、マヒロはゆっくりと目を開く。
結局、あまり眠れなかったせいで若干頭が重たい。
普段使っているのとは、比べ物にならないぐらい高価そうな寝台。
きっと、普通であれば快眠する事も出来ただろうが。
「……無理だよなぁ」
思わず口から出た呟きには、どうしようもなくため息が混じっていた。
場所はアリスの屋敷、そこで用意された比較的小さな寝室の一つ。
完全に寝泊まりするための部屋であるため、ベッド含めて必要最低限の家具しかない。
女子三人は、もっと大きな寝室で一緒に休んでいるはずだ。
マヒロも最初はそちらに引きずり込まれそうになったが、それは流石に全力で抵抗した。
「よ、っと」
とりあえず身を起こす。
ベッド脇の小さなテーブルに置かれた時計を確認する。時間はまだ六時前。
眠気はほとんど無いが、一先ず顔でも洗おうか。
そう考えて、マヒロは足音を忍ばせて寝室から外に出た。
廊下には窓から朝日が差し込んでいる。大分日は高いので、もうかなり明るい。
うっすらと魔力が漂う屋敷の中を、ゆっくりと進んでいく。
「えーっと、確か洗面所は……あっち、だったかな」
一応、行く必要がありそうな部屋の配置に関してはアリスに教えて貰っていた。
微妙に迷宮化した屋敷で迷子になるのだけは避けたかった。
「よし、あったあった」
たどり着いた扉には、浴室と洗面所の表示が並んでいた。
先ずは顔を洗って、それからどうしようか。
恐らく、アリスやくるいたちはまだ眠っているだろう。
もう少し時間を置いて、起きてこないようなら様子を見てこようか。
などとぼんやり思考しながら、マヒロは躊躇いなく扉を開けた。
ノックするとか、残念ながらそういう発想は頭の中から抜け落ちていた。
「? あぁ、おはよう御座います、マヒロ殿。昨日は良く眠れましたか?」
「え」
そこにはアレクトがいた。しかも全裸だった。
いや、正確には身体の前にバスタオルを保持していたため、完全に裸ではない。
車の前に飛び出した猫みたいに硬直する少年に、アレクトは穏やかに笑いかける。
「自分でも思ったより疲れていたようで、私の方はぐっすりでした。
アリス殿にくるい殿も、恐らくそろそろ起きてくるのではないでしょうか」
「あ、え」
「? どうかなさいましたか、マヒロ殿?
……あぁ、すみません。朝には出来るなら沐浴をするのが習慣でして。
お見苦しいところをお見せして、申し訳ありません」
丁寧に頭を下げるアレクトに、恥じらいとかそういう感情は一切無かった。
他人に裸を見られる事に関して、彼女は特に抵抗がないようだった。
勿論、マヒロの頭は未だ状況に追いつけずフリーズしっぱなしだ。
そんな様子には気づかず、アレクトはタオルで前だけは隠したまま着替えを手に取る。
「では、私は部屋に戻ります。マヒロ殿、また後ほど」
「あ、えっと、はい。お、おはよう御座いました、アレクトさん」
「アレクト、と呼び捨てで構いませんよ」
ニコリと微笑んで、アレクトはそのまま廊下の外に出ていった。
マヒロは動けない。頭の中には、ついさっき見てしまったモノがぐるぐる回っている。
美しい、という表現しか浮かばなかった。
一糸まとわぬエルフの肌は、これまでの戦いでついただろう傷跡が多くあった。
重なった無数の傷は、見る者によっては醜く思うかもしれない。
けれどマヒロの目には、傷だらけの白い肌は酷く美しいものに見えていた。
細い腰に、すらりと長い足。胸元は豊満ではないが、きっと良く整った形だろう。
そこまで考えたところで、健全な年頃の少年は頭を抱えて床に跪いた。
「何を考えてるんだ馬鹿……っ」
やっと我に返るが、正直タイミングが遅すぎた。
迂闊だった。自分以外にも人がいる環境なのだから、もっと注意すべきだった。
とはいえ、今更アレコレ考えたところで全て後の祭りだ。
問題は、風呂上がりのアレクトとバッタリ出くわしてしまったという事実だ。
「どうしような……謝るべき……? いや、本人はまるで気にしてなかったし……。
そもそも、こんな事を下手にアリスさん辺りに知られたら……」
果たして、どんな辱めを受ける事になるのか。
想像するだけで恐ろしい。マヒロは思わず身震いしてしまった。
「……よし、自然体で行こう。
アレクトさんも、そんなわざわざ詳しく言う事はないだろうし」
本人が気にしていない以上、アレは自分にとっての不幸な事故に過ぎない。
ならば色々と呑み込んで、ちょっとした夢だと思って忘れてしまうのが一番だ。
半ば現実逃避気味に結論づけて、マヒロは何度も頷いた。
そうと決まれば、先ずは顔を洗って文字通り水に流して──。
「やぁ、おはよう少年。昨日は良く眠れたかな?」
「…………」
ドアが開くと、そこにはアリスが立っていた。
その顔に浮かんだ笑みを見た時、マヒロは飢えたライオンを幻視していた。
「お、おはよう御座います。アリスさん」
「うむ、おはよう。見たところ、あまりちゃんと寝れてはいない感じかな?」
「そ、そうですね。慣れないベッドだと、眠りが浅くなるみたいで」
「ふーむ、そういう事であれば快眠できる《遺物》でも用意すれば良かったか」
微妙に生地の薄い寝間着姿だが、アリスは構わずマヒロの傍に寄って来た。
あからさまに動揺する少年の肩に、気安い動作で腕を回す。
悪い笑顔を浮かべたまま、耳元に唇を寄せて。
「ところで、先ほど裸のアレクトと廊下で行き合ったのだが」
「…………」
「相変わらず『運が良い』ようだな、少年?」
「やめてくださいよ……」
最早抵抗の余地はなく、状況は限りなく絶望的だった。
思わず顔を覆うマヒロに、アリスは実に愉快そうに笑っていた。
「ハッハッハ、まぁ少年も男だからな。つい興奮してしまうのも無理からぬ事だろう」
「興奮はしてませんって……!」
「ほほう。してないと言うなら、確かめても問題はないかな?」
「警察……! 警察を呼んで下さい……!」
「冗談だとも。流石に同意無しでそんな事はしないさ」
同意があればするのだろうか。同意があれば問題ないのか?
突っ込むと確実にやぶ蛇なので、マヒロは黙る以外になかった。
ちらりと、横目でアリスの様子を伺う。
微笑みながら、彼女は自分の胸元を指でチラリと見せてきた。
「なんだ、私のも見たい感じかな?」
「言ってません……!!」
「言ってはないが、視線がそんな風だったなぁ」
「本当に勘弁して下さいよ……!」
完全にからかいモードのアリスに、マヒロは対抗する術がなかった。
このままだと、本当に上着ぐらいは脱いできそうな勢いだ。
「ハハハ、そら遠慮する事はないぞ? 私と君の仲なのだから、別にこのぐらいは」
「……あの、アリスさん」
「うん?」
マヒロが後ろを指差すので、アリスは素直にそちらを振り向いた。
開けたままの扉の向こう、くるいがそこに立っていた。
彼女は無言でスマホを構えて、洗面所にいる二人の様子を撮っているようだった。
丁度、アリスがマヒロに迫るような構図の絵だ。
指で画面を操作し、軽く一息。
「証拠画像も撮れたので、パパに通報します」
「ハッハッハ、落ち着いて話し合おうじゃないか。くるい。
流石に巌だと本気で怒りそうだから止めるんだ」
「いっぺん本気で怒られれば良いと思う」
表情から分かりづらいが、くるいはくるいで微妙に激怒しているようだった。
朝から状況がどんどんカオスになっていく。
押し問答を始めた女子二人の傍で、マヒロは思わず頭を抱えた。
「マヒロもマヒロだよ、もうちょっと抵抗しないと。
ほっといたら、アリスはどんどん調子に乗ってくんだから」
「いや、本当にすみません……」
「落ち着けくるい、これには深い事情があってだな」
「深い事情って?」
「あぁ、お前は見なかったかもしれないが、実は少年とアレクトが……」
「アリスさーん!!」
普通にそのまま言おうとするアリスに、ついつい大きな声が出てしまった。
良く分かってないくるいは、訝しげに首をひねる。
「? マヒロとアレクトがどうしたの?」
「いやぁ、これはもう説明すべきじゃないか、少年?」
「そ、それは何というか、非常に困ると言いますか……」
「もう、二人ともさっきから何の話してるの」
不機嫌そうに唸るくるいに、果たしてどう言えば良いのか。
そのまま伝えるべきか。いやいやそれはそれでマズい気もする。
が、上手い言い訳も思いつかず、思考はネズミの滑車みたいにカラカラ回るだけ。
アリスの方も「どうしようか?」なんて顔をしているし。
二の句がつげず、マヒロがまごまごしていると。
「──おや。皆様、おはよう御座います」
タイミングが良いと言うべきか、悪いと言うべきか。
今度はちゃんと服を着たアレクトが、挨拶と共に顔を出した。
「ん、おはようアレクト」
「おはよう御座います、くるい殿。貴女も顔を洗いに?」
「そうだね。ところで、ここで何があったかアレクトは知らない?」
「? 先ほど、ここで私が沐浴をしていた時に、マヒロ殿と会ったぐらいでしょうか」
「何か問題がありましたか?」と、不思議そうに首を傾げるアレクト。
真実を暴露されて、もうマヒロにはどうする事も出来なかった。
果たして、今の話を聞いたくるいがどんな反応をするのか。
諦めの境地に入った彼を余所に、少女の方も緩く首を傾げて。
「……それだけ?」
「そうですね。他に何かありましたか?」
「……アリス」
「いや、何も。私もそれをダシにマヒロ少年をちょっとからかってただけだぞ?」
「それはそれで、やっぱりパパに通報すべきな気がするんだけど」
「お昼は良いモノを奢ってやるから、それはちょっと勘弁して欲しい」
「うーん、仕方ないなぁ」
「…………」
くるいのリアクションは、予想よりも遥かに軽いものだった。
何故かと考えて、すぐに想像がついた。
見た目のせいで忘れがちだが、年齢的にくるいはまだまだ子供の範疇だ。
加えて、彼女が普段生活しているのは《百騎八鋼》の共同体。
あそこにはくるい並みに若い子も多く、それより下の子供も数多い。
別に風呂場で裸を見られるぐらい、彼女的にはまだ気にする程の事でもないのだ。
「ふふ、お互い命拾いしたようだな。少年」
「命拾いって言って良いんですかね、これは……」
囁くアリスに、マヒロはまた頭を抱えながら応えた。
そちらの様子は気にせず、くるいは状況が呑み込めていないアレクトの方を見て。
「アレクトは、マヒロとお風呂に入ったの?」
「いえいえ、まさか! 上がった時にたまたま出くわしただけですよ」
「そっか」
昨日は、初めて会った相手に警戒心が勝っている様子だったが。
今はもうすっかり打ち解けた様子で、くるいはアレクトと和やかに言葉を交わす。
それを見て、マヒロは安堵の息をこぼした。
「じゃあ、今度はみんなで一緒に入ろうよ」
「よ、宜しいのですか? 私なんかと一緒にだなんて……」
「お風呂、一緒に入るの楽しいから。マヒロもね?」
「…………はい?」
再度、思考が完全にフリーズした。
皆で一緒にお風呂に入りたいだなんて、実に子供らしい発想だった。
若干人見知り気味なだけで、くるいは人懐っこい娘なのだ。
どう返事をするべきか分からない少年の横で、アリスは声を出して笑った。
「ハッハッハ、今はまだ朝だし、また後でな。
さぁ立ち話はこのぐらいにして、後は各々支度を済ませようか。
マヒロ少年も、学校の方は私から連絡しておいた。
なので気にせずに付き合うと良いぞ」
「え。あ、はい。そうですね。ありがとう御座います」
「うむ、必要な事をしただけだから気にしなくて良いぞ」
今日はアレクトが求める人物を探して、『移住者』に聞き込みを行う予定になっていた。
協力を決めた以上、マヒロもそれには最後まで付き合うつもりだった。
「朝食は騒霊に用意させている。ほら、冷めない内に行こうじゃないか」
「はーい」
「何から何まで、本当にありがとう御座います。アリス殿」
洗面所は十分に広いが、流石に四人もいると少し手狭に感じる。
女子三人が明るく話している横で、マヒロはそっと天井を見上げた。
きっと今日も良い一日だが、物凄く大変になる気がする。
そんな予感を覚えながら、先ずは顔を洗ってしまおうと蛇口の栓を捻った。
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