第36話:我らの素晴らしき迷宮世界
草を踏む小さな音と共に、一人の女が草原を歩く。
長く伸びた白い髪を風になびかせて、軽やかな足取りでゆっくりと。
赤い瞳を持つ美しい女だったが、同時に奇妙な格好をした女でもあった。
一言で表すなら、バニーガールだ。
大体の人間は見た事があるだろう、露出度の高い黒の衣装。
惜しげもなく晒された肌は、さながら大理石のように艷やかだ。
しかし一般的なバニーガールと違い、女の耳と尻尾は作り物ではない。
身体から直接生えた耳と尾が、一歩進むごとに可愛らしく揺れる。
そんなウサギ女は、草原のど真ん中で不意に足を止めた。
何もない。見渡す限り、背の高い草が風に吹かれている以外は何も。
女は、首から下げた懐中時計を手に取った。
蓋を開き、カチリカチリと音を立てる時計盤に視線を落とす。
やがて、どこからともなく重苦しい音が聞こえてきた。
ボーンボーンと、時を告げる鐘の音が。
「──《天秤》の座、蛇のズリエルが滅ぼされました。
《円環》たる皆々様に、兎のハマリエルより報告致します」
女──ハマリエルは、その言葉と共に恭しく一礼をしてみせた。
先ほどまで、草原以外には何もなかったはずの空間。
その場所にいきなり複数の気配が湧き出した。
「あぁ、恐ろしい恐ろしい。何と恐ろしい話でしょうか!
完璧であるはずの《円環》が砕けるなど、本来あってはならぬ話のはず!
何ゆえズリエル殿はそのような醜態を晒されたのか! 嗚呼恐ろしい!」
草原に現れたのは、真っ白い神殿のような構造物だった。
天井はなく、長さの異なる純白の柱が円を描く形で等間隔に配置されている。
その柱の一つで、甲高い男の声がキィキィと喚く。
声の主は人間ではなく、一匹のライオンだ。
たてがみまで含めた体毛は美しい赤色で、身体のサイズは異様に小さい。
恐らく、人間の手のひらにそのまま乗せられるぐらいだろう。
「……高い声を出すな、ウェルキエル」
「しかし、アスモデル殿……!」
「ズリエルは確かに強大だったが、同時に愚かで傲慢な蛇でもあった。
自分以外の者全てを、ノロマな牛だと勘違いしていた。
ならば不覚を取ることも、決して有りえぬ話ではなかろう」
小さな獅子を諫めるように言ったのは、一頭の牛だった。
全身を黄金に輝かせた巨牛は、柱の上で静かに横たわっていた。
瞳に宿る知性は、悠久の時を生きる仙人を思わせる。
「ハハハハハ! アスモデルの言う通りだなぁ!
己の強さに驕ったが故に、ズリエルは足元を掬われただけの話であろう!
自業自得だ、あの馬鹿者め!」
「……自重せよ、バルビエル。既に死したとて、ズリエルも我ら《円環》の同胞。
それを貶めるのは、己の価値をも貶める事となるぞ」
「なんだとぉ、喧嘩を売ってんのかバキエル!!」
柱の上で、荒々しく吼え猛る一頭の虎。
禍々しい針を備えた尾を揺らし、声だけで大気を激しく揺らす。
その虎をバルビエルと呼んだのは、一人の男だった。
大柄な身体を黒い外套で包んでいる以外は、衣服の類は一切身につけていない。
筋骨隆々としたその肉体美は、古い名工の手からなる彫刻を思わせる。
それだけならば単なる偉丈夫だが、この場にいる以上は男もまた人間ではなかった。
肌の多くは鱗で覆われており、頭には捻れた形の二本の角が生えている。
バキエルと呼ばれた男は、爬虫類を思わせる眼でバルビエルを睨みつけた。
「《円環》同士で争うのは不毛である、と進言致します」
「ホッホッホ、ハマリエルの言う通りですよ。お二方。
完璧で究極の存在たる我らが、何ゆえ争う必要がありましょうや。
どうぞこのアドナキエルの顔を立て、両人とも矛を収められるが宜しい」
兎のハマリエルに同調したのは一頭の馬だった。
こちらは、言葉を喋っている事以外は普通の馬と変わらないように見える。
ただ一点だけ、頭に一本の矢が刺さっているという奇妙な特徴があるが。
黄金の矢は明らかに頭蓋を貫通しているが、馬は気にした様子もなかった。
アドナキエルと名乗る馬に、虎のバルビエルは射殺すような眼を向ける。
一瞬だけ憤怒が膨れ上がったが、すぐにしぼむ風船の如く萎えていく。
角持ちの男、ハキエルもまた同じだった。
互いに向けた敵意は完全に消え失せ──どころか、どちらもガクリと崩れ落ちる。
突然の事に、馬のアドナキエルは感嘆の吐息を漏らした。
「これはマルキダエル殿、お二方を諌めて下さったのですね?
相変わらずの見事な手腕に、このアドナキエル感服いたしましたぞ!」
「…………」
馬の賞賛を受けているのは、一頭の奇妙な羊だった。
柱の上に置かれた天蓋付きのベッドの中、スヤスヤと眠りに付いている羊。
マルキダエルの名と共に呼びかけられても、一切反応する様子はない。
眠り続ける羊に、アドナキエルは慣れた様子で頷いてみせた。
「……で、どうするんだ?」
「ご意見を伺いましょうか、ムリエル」
「分かって言ってんだろ、ウサギ。
鼻持ちならない糞野郎ではあったが、ズリエルは同じ《円環》だ。
それを殺されたんだったら、報復するのが筋ってもんじゃねェのか?」
淡々としたハマリエルの言葉に、不機嫌そうに唸る巨漢の猿。
体格で言えば、普通のゴリラよりも二周りほども大きい。
加えて、片腕だけが蟹のハサミに似た形状に変化していた。
大猿ムリエルの声に続き、チチチと涼やかな小鳥の鳴き声が響いた。
「不要。我ら同胞に非ず、所詮は同類。情は皆無。故に必要無し」
「ガムビエルか。お前さんはもうちょい普通の喋り方をしたらどうなんだ?」
「不要、不要。必要十分」
呆れ顔の猿が目を向けたのは、水に満たされた一つの大瓶だ。
正確には、その縁に止まった一羽の鳥。
真っ青な羽根を持つその小鳥は、機械音声を彷彿とさせる無機質な声で応じた。
「ガムビエルの言う通りだな、私」
「あぁ、ズリエルの報復なんかのために我らが動く理由が見当たらないな、私」
「奴は人間どもを侮り、そのために無様に死んだ。
それ以上でも以下でもないと私は考えるが、君はどう思う? 私」
「まったく私の言う通りだな、私よ」
独り言で会話をしているのは、二つの頭を持つ犬だ。
小鳥──ガムビエルは、またチチチと愛らしい鳴き声を嘴から紡ぎ出す。
「アムブリエルと意見一致。他は?」
「皆、口に出さないだけで似たような考えだろう? そうだね、私」
「私の言う通りさ。ムリエルも別に、本気で報復したいなんて考えてないだろう?」
「……ま、そうだな」
双頭の犬アムブリエルに、ムリエルは面白くもなさそうな顔で頷いてみせた。
並び立つ柱の上で言葉を交わす、奇妙奇天烈な動物たち。
迷宮世界である《アンダー》を閉ざす、彼らこそが恐るべき《円環》。
座の一つが欠けてしまったその様を、兎のハマリエルだけは柱の下から見ていた。
「……確かに、報復をする必要はないだろう。
だが、ズリエルの死が持つ意味を忘れてはならぬ」
低く、風が吹けばかき消えてしまいそうな老爺の声。
しかしその言葉は、集った《円環》全ての耳にハッキリと届いていた。
ゆるりと身を起こすのは、一頭のイノシシだった。
その身体は驚くほどに大きく、大猿のムリエルよりも更に倍近い。
頭には一対の角を持つ老いたイノシシは、話を続ける前に重い息を吐いた。
「この迷宮世界を閉ざすための、《円環》の一つが失われてしまった。
容易く埋まる穴ではないし、無視できるような欠落でもない。
運命の激流は、その僅かな隙間からでも容赦なく流れ込もうとするであろう」
「如何にすべきだと、貴方は考えますか。ハナエル」
「そう多くはあるまいよ、ハマリエル。
我らは《円環》。
《御使い》に祈りと願いを捧げ、運命を対価に神の力を授かった。
されど、その我らとて大いなる世界の前では小さな輪に過ぎぬ」
老イノシシ──ハナエルは、ゆっくりと呼吸する。
最も古くから生きる《円環》の言葉に、他の者たちは黙って耳を傾けていた。
「我らが、十年前に作り上げた『均衡』は崩された。
そのきっかけが、《天秤》の座を持つズリエルだった事は、大いなる皮肉よな。
いや、そもそも予め定められた事であったのか」
「おぉ、ハナエル様! 我らは、我らは一体どうすれば……!?」
「そう怯えるでない、ウェルキエル。
この先に何が起ころうとも、我らの在り方は変わらぬとも」
ブルブルと震える手乗り獅子のウェルキエル。
幾柱かの《円環》は呆れた声を漏らし、中には不快そうな顔を見せる者もいた。
ハナエルは穏やかに、文字通り怯えた子供を相手にするように諭した。
「完全に閉ざされた、この素晴らしき我らの迷宮世界のために。
まことに残念なことではあるが、ズリエルは失敗してしまった。
我らは同じ轍を踏まぬよう、己の役目を正しく認識するのだ」
「──迷宮の底を目指そうとする者は、等しく排除する」
「左様。つまるところ、我らがやるべき事とはそれのみだ」
鱗を持つバキエルの一言に、ハナエルは満足げに頷いてみせた。
「何人であれ、容赦をしてはならない。差別をしてもならない。
等しく、平等に、迷宮の底へと向かおうとする者を、一人残らず殺すのだ。
それ以外など全て余分よ。そしてその余分こそ我らに許された権利。
《円環》よ、《御使い》に祈り願った同胞たちよ。
ここは人間どもが《アンダー》と呼ぶ素晴らしき迷宮世界。
我らは許されている、我らは認められている。
ただ思うままに享楽を貪り、この迷宮を完全な形で閉ざす事をな」
そう言うハナエルに、多くの《円環》は思い思いに声を上げた。
歓喜の声であり、悦楽の声でもあった。
中には嘆きの響きを伴うモノもあったが、彼らは気にしなかった。
かつてあったはずの祈りと願い。そして自らの運命を失った異形の群れ。
讃える者もいない神殿に座する《円環》たちを、白い兎だけが地面から見上げていた。
「──結論は出たものと判断します。
各々、己の望むままに振る舞われよ。それを我ら《円環》の総意とします」
異議の声は一つもなく、故にハマリエルは恭しく一礼をしてみせた。
「それでは最後に、尊き同胞たるズリエルの死に哀悼を。
どうか皆様、黙祷と祈りを捧げて下さい」
十一の神を騙る獣たちは、兎の言葉に従って目を閉じる。
そこに本当に哀悼を捧げる意思があるか否かは、大して重要ではなかった。
たっぷりと一分。コンマの狂いもなく目を開いて、再び一礼。
ハマリエルは懐中時計を手に取り、蓋をパチリと閉じた。
「以上を持ちまして、本日の会合は終了と致します。
《円環》たる皆々様の、ご健勝とご多幸をお祈り申し上げます」
その言葉を最後に、一陣の風が吹いた。
草原を風が吹き抜けた後には、神殿と集う獣たちの姿は何処にもなかった。
まるで、最初から全てが幻であったかのように。
白兎の女は、最後に深々とお辞儀をする。
何も無くなった草原で、彼女が何に対して頭を下げたのか。
ハマリエルもまた、そのまま幻のようにかき消える。
後にはただ、無人の草原と風だけが残された。
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