第32話:死闘


 それがどれだけ邪悪で、醜悪で、唾棄すべき救いがたい存在であるのか。

 誰もが頭では分かっていた。分かった上で、込み上げてくる畏怖を抑えきれない。

 あまりにも強大な存在を前にした時、人々はただ頭を垂れるしかない。

 生物として抱く根源的な恐怖。あるいは、それこそが『神』の本質なのか。


『──つくづく、お前たちには驚かされる』


 燃える瞳を細めて、竜は感嘆の言葉を思念として発した。

 先ほどとは比較にならない《念動力》により、薙ぎ払われた宝物の山。

 ただ一つ無事な頂点から、竜は見下ろしていた。

 未だ倒れず、踏みとどまっている冒険者たちの姿を。

 アリスにくるい、マヒロと尾の一撃で吹き飛ばしたはずの巌も。

 誰一人欠けていない。少なくとも、今の時点では。


「っ……流石は、《怪力乱神》。おかげで命拾いしたぞ」

「こっちはこっちで、マジで死にかけたけどな……!

 くるいと少年は、大丈夫か?」

「うん、何とか」

「おかげさまで、まだ生きてます」


 生きている。しかし、全員が無事とは言い難い。

 薙ぎ払う《念動力》を防ぐため、アリスとくるいの二人は自らを盾にした。

 ギリギリで復帰した巌が、強力な魔法の守りを重ねてはいた。

 それでも、アリスもくるいも見るからにボロボロの状態だ。

 巌の方も重傷で、比較的にダメージが少ないのはマヒロのみ。


 ──守られた結果だ。

 アリスたちだけなら、ここまで負傷することはなかったはず。

 確実に死ぬ自分がいたからこそ、彼らはあえて敵の攻撃に身を晒した。


『不遜だ。勝ち目がない事は既に分かっただろう。

 己に待つのが死のみであると、とっくの昔に悟っているはずだ。

 なのに何故祈らない? 畏怖と恐怖で膝を付き、神の名に屈服しない?

 そうすれば、せめて苦痛無く終わりを迎えさせてやるのに』

「ハッ、神様気取りらしい物言いだな。テンプレとして記録したいぐらいだ」


 憐憫を込めたズリエルの思念を、アリスは鼻で笑い飛ばした。

 鎧の隙間から血が流れ、骨も何箇所かは砕けている。

 瀕死の何歩手前かの重傷だ。今すぐ力尽きても、何もおかしくはない。

 だというのに、アリスの笑みはいつもと同じ余裕で満ちていた。


「どれほど貴様が神である事を誇示しようが、今の結果が全てだ。

 私たちはまだ、誰一人として死んでいない。誰一人だ。

 随分とまぁ、ショボい神様もいたものだな?」

『……不遜』

「おっと、怒るのは図星ってことかな?

 完璧な《円環》だの、やはり戯言だったか。

 少なくとも私の目には、お前はただの醜い怪物としか映っていないぞ」

『その不遜な口を閉じるが良い、《迷宮王》!!』


 憤怒の思念と共に、竜と蛇の口が全て咆哮する。

 同時に、アリスは腰から下げた革袋から一本の水薬を取り出した。

 以前訪れた森の魔女の店で仕入れておいた、魔法薬の試作品。

 予め同じ物を渡されていたくるいも、懐から素早く引っ張り出して中身を飲み干す。


 瞬間、起こったのは激的な回復効果だ。

 制作者である魔女も、『逆に効果が強すぎるから要調整』と口にしていた。

 急速過ぎる回復による『苦痛』。それをアリスたちは歯を食いしばって堪えた。


「戻ったら、感謝と文句を伝えねばな……! 巌、援護を!」

「分かってるよ、死ぬんじゃねぇぞ!」

「パパこそ! マヒロのことも、お願い!」


 怒れる半神を前に、冒険者たちは臆することなく戦いに挑む。

 ただ一人、マヒロだけは動けない。

 あまりに圧倒的な存在を前に、立ち上がれる者は稀少だ。

 それこそ、アリスたちのような『英雄』とも呼ばれる人種のみだろう。

 マヒロは『英雄』ではない。彼は膝を折ったまま、その光景を見ていた。


「おおぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」


 走る。切り札である竜殺しの剣を構え、アリスは疾走する。

 既に切り札である《加速の護符》は起動していた。

 数分、身体速度が倍に跳ね上がる代償は、その後十秒ほどの完全な無力化状態。

 そうなったら死ぬ他ないが、それまでに決められなければどの道死ぬ。

 割り切った思考で、アリスはゆっくりと流れる主観時間の中を駆け抜ける。

 一閃。超高速の斬撃を、竜と化したズリエルの巨体に叩き込む──が。


『加速できるのは、自分だけだと思ったか?』

「っ……何……!?」


 竜が身をかわした。加速した世界の中で、巨体もまた驚くべき速度で動く。

 ズリエルも《加速》の呪文を発動させたのだ。

 四本の蛇の首がうねり、アリスを半ば囲む形で牙をむく。

 襲ってくるあぎとの全てを、紙一重のところで回避する。


「くっ……!」

『死期を早めたな、《迷宮王》。

 まぁ《加速》を使わねば、それより先に死んでいただろうが』

「ガアアアァァアアアア!!」


 嘲るズリエルの思念に、獣の如き咆哮が割り込む。

 くるいだ。彼女もまた、巌から《加速》の魔法を施されていた。

 加えて今のくるいは、全身の肌が赤く染まり、白い煙に似たものが噴き出していた。

 《迷宮児》としての本能、魔物に近い攻撃衝動を全開にするくるいの切り札。

 文字通り狂戦士バーサーカーと化した彼女は、加速した世界に突っ込む。


『人の憤怒が、神である我が身に届くとでも?』


 しかし、《円環》の余裕は崩れない。

 速度も力も倍加したくるいの斧を、竜はその爪で容易く受け止めた。

 攻撃に加わろうにも、アリスは四本の蛇に対処するので手一杯となっていた。


「グゥウウウ!!」

『くだらぬ獣だ。死ね』


 爪で防がれても、狂戦士となったくるいは攻撃の手を緩めない。

 大斧を棒切れか何かのように振り回し、竜の血肉を切り裂こうと何度も刃を重ねた。

 その尽くをズリエルは爪で、あるいは身をかわして回避する。

 届かぬ事実を認めず、もがくだけの獣に向けて、《円環》は憐憫を口にした。

 直後、竜の顎から吐き出される炎の奔流。

 《竜の吐息ドラゴンブレス》は、くるいの身体を容赦なく呑み込んだ。


「くるい!!」

『人の心配をしている場合か? 《迷宮王》』


 囁く思念と共に、蛇が蠢く。

 大きく開かれた顎は、四方から黒い霧状の吐息を噴出した。

 こちらは毒の息だ。誤って吸い込んでしまったアリスは、手足が鈍るのを感じた。

 毒を消す魔法薬はある。恐らく、時間が経てば毒の効力を抑える事もできるはずだ。

 しかし、そんな時間の余裕など《円環》は与えてくれない。

 鉛のように重くなった手足に、蛇の牙が容赦なく突き刺さった。


「ぐっ……ぁ……!?」

『ただの人間なら、一呼吸しただけで心臓が止まる毒なのだがな。

 身体が痺れる程度で済むとは、そこは流石と言うべきか』


 四肢を蛇に噛ませた状態で、竜はアリスの身体を高い位置に吊し上げた。

 牙からさらなる毒が身体に入り、肉体の自由を奪う。

 最早完全に無力化された《迷宮王》を、ズリエルは嘲りと共に賞賛した。


『さて、残るは──』

「“塵は塵に、灰は灰に。ならば万象全て塵と灰に還るべし!”

 くたばれ!! 《分解ディスインテグレータ》──!!」


 次なる獲物を定めようとした竜の視界が、青白い輝きに染まった。

 加速したアリスたちが戦っている間、後方で練り上げ続けた巌の大魔法。

 万物を塵にする最強の攻撃呪文、《分解》が解き放たれた。

 青い魔法光は真っ直ぐに、竜の巨体に突き刺さる。

 巌は己の力を限界まで引き出し、その全てを《分解》の呪文に注ぎ込んだ。


『……人間風情が、随分と不相応な魔法を使うではないか』

「……クソッタレが」


 《分解》の光が消えた後、そこには変わらぬ竜の姿があった。

 鱗を含めた一部の肉体は削れていたが、塵になるほどではない。

 強大な魔力によって、巌の《分解》の威力をほぼ完全に抑え込んだのだ。


『我が身に傷を残したのは実に見事だが、ここまでのようだな』

「あぁ、そうだな。癪だが認めるよ、今挑むのは尚早だったってな」


 勝機は断たれた。《分解》が通じなければ、他に通じる攻撃魔法もない。

 それでもまだ、巌の心は屈していなかった。

 勝てないとしても、まだやるべき事が残っているからだ。

 巌は《円環》を睨みつけながら、視界の端で動く影を見ていた。


「……くるいさん、くるいさん!」

「……ぁ……」


 先ほどまでは、動けずにいたマヒロ。彼は今、倒れ伏したくるいの元にいた。

 炎で全身をくまなく焼かれてはいるが、まだ息がある。

 そんな彼女を助けるべく、何度も何度も回復の呪文を重ねていた。

 完治にはほど遠いが、それでも生命の危機は脱したらしい。

 くるいの目がうっすらと開き、瞳には意識の光が戻ってくる。


「良かった……! どうですか、動けますか?」

「……ん……ちょっと、厳しいかも……」

「……俺が、支えます。巌さんからは、何とか逃げろって……」

『賢明な判断だが、神である私の前から逃げられると思っているのか?』


 嘲笑する思念に、マヒロの心臓が大きく跳ねた。

 最早巌など脅威ではないとばかりに、竜の視線はマヒロの姿を捉えていた。


「おい、こっちを見ろよ蛇野郎がっ!!」

『お前の力なら、私の領域から脱することも出来ると考えたのだろうがな。

 だが無駄だ。この空間全てが私の支配下。

 生半可な魔力では、境界を越えて転移することなど不可能だ』

「っ……」


 吠える巌を無視して、ズリエルは無慈悲な現実を告げる。

 どうしようもない。本当にどうしようもない。

 抗いに意味はなく、ただ横暴な運命に無力に踏み潰される他ないのか。

 竜に睨まれ、マヒロは立ち尽くす。

 力はない。祈りは届かない。ならば本当に、どうしようもないのか。


「……君だけでも、逃げなさい。少年」

「っ……アリスさん……?」

『驚きだな。そんな状態でも、まだ舌が回るのか』


 掠れた声で告げたのは、蛇の牙に囚われたままのアリスだった。

 今も毒に蝕まれたままで、彼女はマヒロを安心させようと微笑んでいて。


「この程度の逆境なら、《迷宮王》である私にはいつもの事だ。

 だから躊躇わず、全力で逃げろよ少年。

 できれば、くるいの奴も一緒に連れて行って貰えるとありがたいな」

「……なに、言ってるの。ワタシだって、まだやれるから」


 厳しいと、先ほど口にしたばかりなのに。

 事実としてまだ十分瀕死に近い身体で、くるいは無理やり立ち上がった。

 焼け焦げた斧を杖代わりに、それでも両足で自らを支えて。


『理解できんな。何故まだ抗おうとする? 運命は既に定まっている。

 それが分からないほど、お前たちは愚かな生き物なのか?』

「…………」


 そうだ、どうしようもない。マヒロは《円環》の言葉に共感していた。

 絶望があった。抗いようもない絶望がそこにあった。

 燃え盛る炎の中に一人残された人間に、出来ることなどあるはずもない。

 ゆっくりと迫る死を、受け入れる以外にはなかったはずだ。


「ハッ……器の小さい神様モドキには、分からんだろうさ。

 どんな苦境であれ……誰でも、諦めない事だけは、選べるんだ。

 例え、それがどれだけ無意味だとしても……諦めない限りは、可能性は残ってる」

「…………」


 苦しげに吐き出されるアリスの言葉は、単なる強がりだった。

 可能性はもうゼロだ。諦めずとも、《円環》がその気なら一秒後には死ぬ命だ。

 マヒロもまた、同じだった。意識は現実に置いたまま、炎の気配を感じる。


『は──はははははは! その状態で、まだそこまで吼えられるのか!

 面白いな。怒りを通りこして、逆に愉快になってきたぞ。

 お前は大した道化だ、《迷宮王》。このまま殺してしまうのが、少し惜しくなった』

「だったら……見逃してくれて構わんのだぞ、《円環》」

『いいや、お前たちは神の怒りに触れたのだ。報いは受けなければならない』


 笑う竜は、アリスと同様に未だ諦めていない他の冒険者たちを見た。

 ただ一人、何か別のモノを見ているマヒロの様子に、《円環》は気づいていなかった。


『お前以外の全員を、お前の見ている前で殺す。

 その上で四肢を潰してから、死なぬようにお前だけ地上へ送り返してやろう』

「……やめろ。殺すのなら、私だけにしろ」

『駄目だ、これはもう決定した事だからだ。

 諦めずに抗いたければ抗えよ。それでどうにか出来るのならな』


 怒りと焦りを滲ませるアリスに、ズリエルは竜の顔を醜悪な笑みに歪める。

 そして強烈な殺意を、眼下のマヒロたちへと向けた。

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