第28話:とある竜の結末


 ……その『竜』は、随分と長い時間を暗闇の中で微睡み続けていた。

 遠い、本当に気が遠くなるほどに遥か昔から。

 あまりにも昔過ぎて、何故自分がこの闇に身を浸してるかも『竜』は覚えていなかった。

 覚えてはいなかったが、特に問題も感じなかった。

 心地良い暗闇と穏やかな静寂、それから腹の下に敷いた金銀財宝の冷たさ。

 十分だった。『竜』は強欲のはずだが、『竜』の閉じた世界はそれが全てだったから。

 満ち足りた眠りは、しかし永遠には続かなかった。


『──繋がった』


 感じ取った『ソレ』が何であるのかまでは、『竜』にも分からない。

 第六感とでも呼ぶべき感覚で、『竜』は目を覚ました。

 《アンダー》と呼ばれる迷宮世界が、地球の地表と接続したのだ。

 不運があったとすれば、『竜』の寝所が迷宮でも比較的に浅い場所だった事。

 《迷宮王》が切り開いたばかりの道を、多くの冒険者たちが勢い込んで駆け下りた時代。

 『竜』のねぐらに光が差すのに、大した時間は必要なかった。


『なんだ、この小さな生き物どもは?

 何故、私の世界に入り込もうとするんだ?』


 人間のことは、長く眠っていた『竜』でも流石に記憶にあった。

 『竜』の所有する金銀財宝も、多くは人間から奪い、あるいは捧げられたものだ。

 宝物を欲したか、英雄としての名誉を欲したか。

 そのどちらにしろ、冒険者たちは出会った『竜』へと果敢に挑んだ。

 完全だったはずの自らの世界を侵され、不快に思いながら『竜』は冒険者たちを焼いた。


 不快だ。本当に不愉快だ。世界は完璧な形で閉じていたはずなのに。

 煩わしさに苛立ちながら、『竜』は何度も炎を吐いた。

 恐ろしい『竜』の噂を聞きつけた冒険者は、何度でもその脅威に挑み続けた。

 何度も焼いた。焼けば焼くほど、向かってくる人間は強くなっていった。


『あぁ、なんと面倒な連中だ。死ぬと分かっていて、何故また来るのだ?』


 分からない。死とは縁遠い『竜』に、人間は理解できない生き物だった。

 理解はできないが、炎で焼いてしまえばみんな同じ事。

 焼いて、焼いて、焼いて──ふと気づく。

 強い人間は、大抵は高価で珍しい物を身に着けていた。

 キラキラした宝石や特殊な金属で鍛えた武具、迷宮のどこかで見つけたらしき《遺物》。


 一つ一つは、『竜』の抱える財宝に比べれば大したものではない。

 けれど、何度も焼いている内に、それらの宝は小さな山程度には積もっていた。

 自分の財宝が増えた事に、『竜』は密やかな喜びを感じた。


『そうか。世界はもう閉じていない。私の世界の外には、私の持っていない宝があるのか』


 『竜』は気づいてしまった。『竜』は『竜』であるが故に強欲だった。

 これまで満たされていたのは、『竜』の世界が狭く閉じていたからに過ぎない。

 気がついてしまったから、もう昔のままではいられなかった。

 煩わしいと思っていた冒険者たちが、今は宝を運ぶ獲物にしか見えない。

 手間だと思っていた炎も、『竜』は喜々として吐くようになった。

 焼け焦げた死体にどんな宝があるのか、爪で慎重に調べるのも『竜』の楽しみだった。


 けれど、そんな喜びの時間は長くは続かない。

 あまりにも『竜』が強く恐ろしいため、挑む者がめっきりいなくなってしまったのだ。

 再び、暗闇と静寂の中にいるのは『竜』と、少しだけ増えた財宝の山だけになった。


『何故だ、何故来ない? 宝が欲しくないのか? 私は欲しい、もっと欲しい。

 宝が欲しいのなら、どうして私に挑んで来ないのだ?』


 財宝の嵩が僅かに増しただけでは、『竜』は満足できなかった。

 強欲な『竜』は、新たな冒険者がさらなる宝を運んでくる事を期待していた。

 けれど、既に冒険者の間で『竜』の恐ろしさは知れ渡っていた。

 塒から出てこないなら、わざわざ突いて危険を冒す理由はないとも考えていた。

 そうなると、逆に『竜』の方が我慢できなくなった。『竜』は強欲だった。


『そうだ。宝が欲しいのなら、こちらから奪いに行けば良い。

 奴らは私を殺し、私の宝を奪おうとした。

 だったら、私が奴らを殺してその宝を奪ってはいけない道理がどこにある?』


 単純明快な真理を悟れば、後はもう簡単だ。

 『竜』はとても大きい身体を持つが、迷宮に縛られるほど弱くはない。

 時には魔法を、時には膂力を使って壁や天井を打ち壊す。

 暗く、狭く、完璧だった『竜』の世界は、もうどこにも存在しなかった。

 迷宮を彷徨う『竜』は、出会う冒険者を無差別に焼いてはその宝を奪い取った。


『素晴らしい。世界には私の知らない宝がまだまだある。

 もっと集めなければ、もっと奪わなければ。もっと、もっと、もっと。

 私の宝の山が、私よりもずっと大きくなるぐらいに』


 『竜』は歓喜していた。だから『竜』は気がつかなかった。

 積極的に人を襲う『竜』の暴虐を、いつまでも許すほど人間も甘くはない事を。

 弱く脆い人間の中には、『竜』を殺し得る『例外』も存在する事を。

 思い知らされたのは、『竜』が彷徨いだしてから間もなくだった。


 輝く王剣を掲げる女冒険者を筆頭に、『竜』を殺すための討伐隊が組織された。

 今まで多くの人間を焼いた炎が、まるで通用しない。

 魔法を使っても、それを上回る威力と精度を持つ魔法に跳ね返される。

 無敵であるはずの鱗は剥がされ、不死身に近いはずの生命が死に蝕まれる。


『何故だ? 何故だ? 何故こんなことになった? 私は何を間違えた?』


 生まれて初めて、『竜』は恐怖していた。

 恐れ慄き、無様に絶叫しながらも死を与えようとする冒険者たちから逃げ出した。

 逃げて、逃げて、どう逃げたかも分からないぐらいに逃げ続けて。

 『竜』は、かつて自分が外へ出るために壊した塒の跡に戻っていた。

 そこにはもう、暗闇も静寂もない。宝物も別の場所へと移してしまった。

 何もない。かつて『竜』が満たされていたはずの、閉じた世界はどこにもないのだ。


『何故だ? 私の世界はどこへ行った? 私は何を間違えた?』


 答えは出ない。死ぬ寸前ぐらいにボロボロな状態で、『竜』はただ嘆き続けた。

 どれだけ嘆いたところで、誰もいない地の底で応える者などいるはずもない。

 だとしても、『竜』は嘆いた。嘆いて、嘆いて、嘆き続けた。

 聞く者もおらず、ならば応える者など現れるはずも──。


『……誰だ?』


 白い、光。眩く、決して触れる事は叶わないはずの輝き。

 『竜』は呆然とその光を見ていた。

 嘆きに込められた祈りを聞き届けたかのように、白い『ソレ』は『竜』の前に立った。

 そして。


「──あぁ、人間風情がっ! 我を何だと心得ているのだ!!」


 憤怒と憎悪に塗れた少女の声が、地の底で強く木霊する。

 《円環》の一つたるズリエル。彼女は未踏領域の最奥に一人座していた。

 広大な部屋と、その大半を埋め尽くす大量の金銀財宝。

 金貨の山を玉座代わりに座り込み、ズリエルはギリギリと牙を鳴らしていた。


「腹立たしい、腹立たしい。私の眷属すら退けるとは。

 あぁ痛い、痛い、痛くて涙が出てしまいそうだ。

 私の血肉を無駄にするなんて、人間のクセに何と不遜なのでしょう」


 唸りながら、ズリエルは自らの右手を見下ろす。

 小指が半ばから千切れ、傷口からは微かに血も滲んでいる。

 報復のために送り込んだ大蛇を生み出すため、対価としたのは小指一本。

 《円環》としての力の総体と比べれば、別段大した損失ではない。


 まさに文字通り、指一本分にも満たない程度だ。

 だとしても、人間に二度も不覚を取った事実がズリエルを酷く不快にさせる。

 細い喉を掻きむしり、薄い唇は怨嗟の声を吐き出し続ける。


「我は《円環》、この素晴らしき迷宮世界を閉ざす完全なる存在だというのに。

 それを奴らは無知なまま傷つけ、無為に血を流させた。許せるものかよ!

 あぁ忌々しい、忌々しい! 供物を寄越せ、宝を寄越せ!

 お前たちの存在意義などそれだけだろう、そんな簡単な事も何故弁えない!!」


 叫びながら、ズリエルは足元に広がる金貨の一部を握り締めた。

 宝だ。ズリエルにとっての全てであり、自らの完全性を証明するもの。

 どれほど昔から集めた財宝なのか、かつてその上に横たわっていた自分が何者なのか。

 最早何も残っていない空っぽの《円環》は、ただ一人で財宝の玉座に君臨する。


「このままでは済ませられない。また眷属を送る?

 いいえ、それではまた不覚を取るかもしれない。ならば私が直接?

 いいえ、私は《円環》、迷宮を支配する神の一柱。

 それが怒り任せに人間の領域に自分から赴くなど、神としての矜持が許さない」


 傍から聞けば馬鹿馬鹿しいプライドだが、ズリエルは真剣だった。

 応える者もいない暗闇で、《円環》は孤独に言葉を重ね続ける。


「ならばどうする? 奴らをこのまま放っておくのか?

 それこそ《円環》として許せるはずが……いや、そうか。そうだ。

 奴らはオレを殺しに来る。人間が迷宮の脅威であるオレをこのまま放っておくか?

 殺すべき相手なら、殺せる時に殺す。それが人間という生き物のはずだ」


 笑う。喉を鳴らし、低く笑い声をこぼす。

 聞こえる。カチリ、カチリと。時計の歯車が噛み合った時のような音が。

 己を神と驕った蛇の耳に、運命が軋む音は確かに届いていた。


「であるならば、歓待の支度をしましょう。供物を捧げに、巡礼者たちがやってくる。

 身の程を知らず、神を殺せると思い上がった罪人ども。

 愚かさと無知の罪業は、お前たちの持つ宝物によって贖いとしましょうや」


 そうしてまた、足元の宝物の高さが増し、輝きも強くなる。

 喜びだ。かつての己を忘れても、ズリエルの中には古い歓喜だけは残っていた。

 笑う。笑う。大いなる《円環》は憤怒を忘れ、悦楽の予感に哄笑する。


「さぁ、早く来いよ冒険者ども。神たる《円環》がお前らを歓迎しよう。

 我が血を流させた罪人どもと、あと一人」


 思い浮かべるのは、取るに足らないはずだった一人の少年。

 未だに《印》は持っていないようだったが、彼もまた間違いなく──。


「は、はははははははっ! 祝祭だ! 祝祭だ!

 早く来い、宝を持って早く来い! 供物を捧げろ我は神だぞ!!

 迷宮を閉ざす完全なる《円環》を、砕けるものなら砕いてみろよ人間どもっ!!」


 財宝を抱いて、暗闇で安らいでいた『竜』はもうどこにもいない。

 この場にいるのは《円環》、強欲の天秤を揺らしている愚昧な蛇が一匹だけ。

 大いなる御力を迷宮に広げながら、邪悪な蛇は孤独に笑っていた。

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