第25話:お前には分からない


 蛇が言葉を発すると同時に、深度『一』の迷宮に濃密な魔力が充満していく。

 以前に深度『十』の環境を経験しているマヒロでさえ、むせ返りそうなほどの濃度。

 そんなものを、低階層しか知らない人間が浴びればどうなるか。


「ッ……なんだ、これ……!?」

「クソ、身体が……!」

「蛇……? 一体、何が……」


 次々と膝を折っていく冒険者たち。

 辛うじて動けそうなのは、マヒロ以外には斎藤だけだった。

 その斎藤も、突然現れた大蛇の威容を前に心が呑まれてしまっていた。

 恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい!

 頭の中を恐怖が埋め尽くす。抗いがたい畏怖に、本能が屈服しかけている。

 知っている。マヒロはこの感覚を知っていた。

 姿かたちは前に目にした時とはまったく異なるが──。


「《円環》……」

『見つけましたよ。見つけたぞ。我が身に傷をつけた不届き者。

 奇妙な星を持つ愚かな冒涜者よ。私はお前を見つけたぞ』

「ッ……!!」


 これまでで最大級の悪寒。大蛇が向ける視線には、凄まじい殺意が込められていた。

 死ぬ。動かなければ、確実に死ぬ。


「“この身は、夢幻の如く。《幻影の歩みイリュージョン・ステップ》”!」


 気力を振り絞り、呪文を叫ぶ。

 発動した魔法は術者個人に限定したごく短距離の転移。

 攻撃を避けるため──ではない。

 このまま同じ場所に留まれば、蛇の殺意は他の冒険者たちも巻き込んでしまう。

 故にマヒロは、魔法で蛇が開けた縦穴の反対側へと転移する。

 赤い瞳は獲物を見失うことなく、ピッタリとマヒロの方を向いていた。


「っ……おい、夜賀……!」

「逃げろ! コイツの狙いは俺だ!

 逃げて、《組合》に……いや、《迷宮王》に連絡を!」


 並の冒険者では、どれだけ集まったところで神様に捧げる供物にしかならない。

 可能性がある相手は、最強の冒険者である《迷宮王》しかいない。

 向こう岸の斎藤に叫びながら、マヒロは蛇を……《円環》のズリエルを見た。

 放つ神気に呑まれぬよう、歯を食いしばりながら。


「狙いは俺だけだろう、神様。付き合ってやるから、来いよ」

『不敬なり』


 笑う。爬虫類の表情なんて、普通は読めないだろうけど。

 この瞬間、蛇の顔が笑っている事はマヒロにも理解できた。

 獲物を弄ぶ捕食者の喜悦。

 それを滲ませながら、大蛇の姿をした《円環》は動いた。


「な……っ!?」


 蛇が身じろぎをした。たったそれだけの事で、起こった変化は恐るべきものだった。

 迷宮が揺れる。蛇の周囲にあった構造が、またたく間に別物に組み変わる。

 人間大の通路は大きく拡大し、壁や天井は波が引くように遠ざかる。

 まるで、迷宮自体が《円環》が通れる道を作っているようだ。


『立ち向かうか? 逃げ出すか? 私はどちらでも構いませんよ』

「化け物……!!」


 走る。《遺物》である靴の力で、駆け出す足はとても軽い。

 斎藤たちの近くから引き離すためにも、マヒロは全力で通路を駆ける。


『ははははは! 獲物を追う享楽というのも久々だなぁ!!

 さぁどこまで逃げる? 逃げてどうする?

 行き着く先は同じだろうが、精々あがいて楽しませてくれよ人間!』


 好き勝手ほざく化け物に、内心で『やかましい』と吠えながら走り続ける。

 ズリエルの言う通り、逃げてからのプランなんて何も考えていない。

 兎に角、この神様気取りの怪物を他の人間から引き離す事しか頭に無かった。


 どうする? どうすれば良い?

 幸い、魔力に適応した身体は以前よりも強靭で、走る事も今は苦ではない。

 が、必ずどこかで体力の限界にはぶち当たる。

 ただ逃げて時間を稼ぐだけでは、いずれどうしようもなくなるのは明白だった。


『さて──ただ逃げ回るだけでは、少し趣に欠けますよね?』

「ッ……!?」


 すぐ背後から囁かれる蛇の声。

 寒気を覚えたマヒロは、反射的に床を蹴って跳躍していた。

 瞬間、貫くのは無数の棘、棘、棘。迷宮の一部が変化した石造りの棘。

 もう疑う余地はなかった。

 《円環》は己の意思一つで、好きなように迷宮の構造を操れるのだ。


『ははははは! 上手い上手い! だったらコレはどうだ!?』


 床が、天井が波打つ。粘土というより、その動きは完全に水か何かだ。

 上と下から襲ってくるのは、鋭い牙を備えた大顎だ。


「“雷よ、我が歩みを助けたまえ。《電光歩法ライトニング・ステップ》”!」


 ただ走るだけでは間に合わない。故にマヒロは呪文を叫ぶ。

 稲妻の軌跡を虚空に描き、加速した足は紙一重で閉じる牙を回避する。

 出来れば、このまま少しでも距離を離したい。

 そんなささやかな思惑など、神の理不尽はあっさりと蹂躙する。


『あぁ、本当にお上手ですね。面白いですよ、貴方』

「っ……嘘だろ……!?」


 距離感が全く変わらない。魔法による加速で駆け抜けたはずなのに。

 マヒロは気づく。気づいてしまった。

 これは逃げる者と追う者が演じる追いかけっこではない。

 いつでも捕らえられる者が、あえて逃げる者を捕らえずに弄んでいるだけなのだと。


『下で血を流させられた時は単純に不快だったが、コイツは確かに興味深い。

 ただの人間だったら、もうとっくの昔に死んでいるはずだぞ?』

「何を……!」

『言っている意味が分からないですか?

 ご自分が奇妙な星を持っている事を、まさか自覚されてないのですか?』


 蛇が囁く間も、迷宮の構造は変化し続けている。

 上下左右、あらゆる角度から棘や牙がマヒロを刺し貫こうと襲いかかる。

 必死で躱した。どう避けたのか、自分自身でも分からなくなるぐらいに必死に。

 何度も何度も痛みが走り、身体の表面を熱い液体が流れる。

 痛い。痛いということはまだ生きてるという事だ。

 幸い──そう、本当に幸いな事に、致命的な傷はまだ受けてはいなかった。


『悪運、幸運、不運、天運。運命力という奴は、確実に存在する。

 それは人では認識できず、より高い視座でなければ決して見えぬものだが。

 はははは! おかしい、おかしいぞ?

 この状況に陥って、まだ紙一重で死なずに生き延びている。

 そんなもの、ただ『運が良い』だけで片付けられる範疇かっ?』

「ッ……!?」


 哄笑を響かせながら、蛇が一際大きく動いた。

 さっきまでと倍する速度で巨体がうねり、迷宮の構造を容易く蹴散らす。

 いつの間にか、蛇の頭が目の前にある。

 言葉通り、睨まれたカエルも同然の状況でマヒロは足を止める他なかった。

 生臭い吐息が顔にかかる。三対の瞳が、魂まで見透かすように覗き込んでくる。

 動けない。下手に動けばどうなるか。


『……まさか、とは思っていましたが。ははは、やはりそうですか』

「……さっきから、一体何の話をしてるんだ」

『分からないか? まぁ分からんか。何の自覚もないままこれまで生きてきたか。

 ははははは! 実に滑稽だなぁ! もしこれが演技なら大したものだが!』

「…………」

『あぁ、失礼。気を悪くしないで頂きたい。

 私はただ、久しくなかった新しい『』との出会いに歓喜しているだけなのです』

「……? 同類……?」


 意味が分からない。どういうことだ?

 何故、こんなどうしようもない化け物相手に『同類』扱いされねばならないのか。

 理解できずに困惑しているマヒロに、蛇は笑う。


『分からぬのなら、それで良い。

 《シジル》も持たぬ愚かな人間であるなら、それまでの事だ』

「っ……」


 変わらず、ズリエルが言っていることの意味はまるで分からない。

 分からないが、危機的状況である事だけは理解できる。

 どうする? どうすれば良い? 結論など出るはずもなく、動揺で視界が揺れる。

 このままでは、と──そう絶望しかけた時、胸元が微かに震えた。


 その振動を、マヒロは軽く左手で抑える。

 心臓が一度大きく脈打ち、それから鼓動は徐々に落ち着いていく。

 余裕ぶった蛇の前で、ゆっくりと右手を下へと動かす。


『抗ってみますか? それもまた一興。

 死の淵を垣間見れば、あるいは奇跡の一つも起こせるやもしれませんよ?』

「………」

『はははは! 戯言だぞ、真に受けるなよ!

 あるいは、己の剣で我が身に傷つけられた事がそんなに嬉しかったか?

 その程度の奇跡を一つや二つ起こそうが、人間如きに《円環》は崩せんぞ』

「……そうだな、分かってる。

 俺は、少し前までは低階層を這いずってたような、何の変哲もない冒険者だよ」


 右手で、腰に下げた竜殺しの剣を握る。

 柄に指を絡め、刀身をゆっくりと引き抜いた。

 ズリエルに警戒の色はない。愚か者を見下ろす、超越者の余裕があるのみだ。

 怖気づきながらも、マヒロは目をそらさなかった。

 相手の視線を釘付けにするように、真っ直ぐに三対の瞳を見ていた。


「お前みたいな、神様気取りの化け物には分からないだろうな」

『ほう? 一体何が分からないと?

 この迷宮で最も強く、偉大である《円環》の私が』

「俺はただの人間で、だからこそ出来る事なんてたかが知れてる。

 けど、それは決してお前には分からない事だ。ズリエル」

『ははははは! 良く吼えるじゃないか、人間!

 だったら教えてくれよ、一体今のお前に何が出来るんだ?

 そのちっぽけな剣を持って挑んだところで、この身に傷一つ付ける前に死ぬだけだぞ?』

「分かってる」


 笑う。笑いながら、胸元を抑える左手に少しだけ力がこもった。

 そこにしまってあるのは、武器でも何でもない。単なるスマホだ。

 つい先ほど、メッセージが届いた事を報せる振動を放っていただけの。


「だから、俺に出来ることなんて──ただ、仲間を信じて待つことぐらいだ」

「うん、お待たせ」


 声は、余裕ぶった大蛇の背後から聞こえた。

 軽い挨拶を口にしながら、くるいは手に持った戦斧を思い切り振り下ろした。

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