第16話:一難去った後に
過去に経験したのと同じ、内臓が持ち上がるような浮遊感。
すぐに始まる自由落下の後、いきなり冷たい感触が全身を包み込んだ。
水に落ちたのだと、マヒロはすぐには理解出来なかった。
ただ急に肺に水が入り込んだせいで、若干パニックになってジタバタともがいてしまう。
「ヤバい……!?」と思った瞬間、強い力が沈もうとする身体を引っ張った。
細いけれど、長く力強い腕。身体に触れる柔らかい感触。
少しして、首から上がようやく水面にたどり着いた。
「は……っ、げほ、がはっ……!!」
「……大丈夫? ほら、ちゃんと水吐いて」
背中をバシバシ叩かれ、飲んでしまった水をげほげほと吐き出す。
全て出しきったところで、マヒロは大きく呼吸をする。
「た、すかった……?」
「うん、多分。あれ、転送罠だって知ってたの?」
「いや……ただ、何となく……前に引っかかった時と、似た感じがしたから……。
もしかして、とは思ったけど……確信は、なかった、かな」
「……そもそも、転送罠がどこに飛ばそうとするかも分からないのに。
無茶するね、君」
呆れたようなため息。
ここで、言葉を交わしている相手がアリスではないと気づいた。
「あの、貴女は……」
「ありがとう。君のおかげで、助かったよ」
濡れた黒髪に、一対の黒い角。
マヒロを抱えたまま泳ぐのは、思った通りくるいの方だった。
先ほどまでと違うのは、鬼の面を被っていない事。
着水の衝撃で外れたのか、下に隠されていた素顔も露わになっていた。
思っていた通り、表情にやや幼さが残る美しい少女の顔だった。
距離が近く、思わず見惚れてしまったマヒロに、くるいは緩く首を傾げる。
「……ワタシの顔、何かついてる?」
「えっ? あぁいや、そんなことはないので、大丈夫です……!」
「そう? とりあえず、岸まで泳ぐから。しがみついてて」
「いや自分でも泳げるんで……!」
「装備着たままで泳ぐのは、慣れてないと溺れるから」
反論は許さず、くるいはまひろを抱えたまま泳ぎだした。
柔らかい。アリスと違い、彼女は身体に鎧を身に着けてはいなかった。
なので抱えられると、意外と豊かな胸の感触が直に伝わってくる。
水の冷たさなど無関係に、マヒロは顔が熱くなるのを感じた。
「そ、そういえば、アリスさんは……!?」
「一緒に落ちたはずだから、多分そこらへんに沈んでると思う」
「沈んで……いや、それならすぐ助けないと……!」
「大丈夫」
三人の中で、アリスが間違いなく一番重武装だ。
当然、水に沈めば浮かんでこない危険性も一番高いはず。
慌てるマヒロだが、くるいは冷静に抱える腕の力を強めて抑え込む。
「あいつが水で沈んで死ぬような奴なら、もうとっくの昔に死んでるから」
「ハハハハハ、無茶苦茶言ってくれるじゃないか! くるい!」
「うわぁっ!?」
派手な水音と共に、いきなりアリスが水面から飛び出してきた。
ずぶ濡れであること以外は、相変わらずの甲冑姿に大剣を背負ったスタイルだ。
どう考えても水に浮きそうもないが、アリスは普通に泳いでいるようだった。
驚くマヒロの肩を、アリスは満面の笑顔でバシバシと叩いた。
「いやぁ、つくづく持ってる男だな少年!
あれは事前に楔を噛ませていた罠だろう?
そいつを転送罠だと予想して、くるいの力で楔ごと踏ませたか!
どこに飛ばされるかも分からんのに、実行してのけた胆力も素晴らしいな!」
「ちょ、アリスさん痛い、痛い……!」
「アリス、叩くのやめて。沈んじゃうでしょう」
「ハッハッハ、私の細腕などくるいの馬力の前では問題にならんだろう」
抗議する二人に対し、やはりアリスは笑いながら応える。
と、マヒロを叩いていた手が、そのまま肩をがしっと掴んだ。
「さて、くるい。私より先に少年を救助してくれた事は、先ずは感謝しよう。
しかし、そろそろこちらに引き渡すべきだと思わないかね?」
「言ってる意味が分からないのだけど」
「いやいや、分からないなんて事はないだろう? 君だって私と同じレディなんだ」
「自分のことレディって言うの、凄くおばさん臭い……」
「なんだとぉ!?」
「沈む、沈むから、アリスさん落ち着いて……!!」
割とガチめにキレるアリスを、マヒロはくるいにしがみついたまま必死で宥める。
くるいの方は特に悪気なく言ってしまったようで、不思議そうな顔をしていた。
兎も角、先ずは水の中から上がるのが最優先だ。
その後もアリスとくるいがビシバシやり合いつつも、どうにか三人は岸辺にたどり着く。
水を吸って重くなった装備を引きずりながら、マヒロは大きく息を吐いた。
「助かった……いや、本当にありがとう御座います、二人とも」
「それはお互い様だろうさ。
少年が機転をきかせなければ、全員あの《円環》にやられていただろうからな」
「……ん」
アリスの賞賛に、くるいも短く同意を口にする。
《円環》。ズリエルを名乗る超越者を思い出し、マヒロは身を震わせる。
水の冷たさ以上の怖気。今はもうどこにも、あの化け物の気配は感じられない。
「……さて、問題はこの場所がどこか、だな」
呟き、アリスは視線を巡らせて周囲の様子を確かめた。
地底湖、と表現すれば良いだろうか。広い洞窟に、大量の水が溜まった空間。
面積は相当なもので、マヒロの目では端までは見通せない。
見たところ水質は綺麗で、悪影響があるようには思えないが……。
「体調に問題はないか? おかしいと感じたら、すぐに報せるんだ」
「あ、はい。分かりました」
「見た目は大丈夫そうでも、《アンダー》の水だからな。
恐らく魔力が含まれているし、下手に飲むとどんな効果があるか分からん」
真剣に気遣い、アリスはマヒロの顔色を確かめようと覗き込む。
距離の近さに関しては、それなり慣れたつもりではあった。
けれど今は水に濡れているせいか、アリスの雰囲気が普段とは少し異なっていた。
水に濡れているだけの些細な変化なのだが、心臓の鼓動は自然と早まる。
「? なんだ、少年。熱でもあるのか? やはり体調に変化が?」
「い、いや、これは違うんで……! ホントに大丈夫ですから……!」
「そうかね。まぁ、今は少年の自己申告を信じるが」
「……アリス」
衣服の裾を軽く搾りながら、くるいが呼びかける。
彼女は視線を地底湖へと向けたまま。
「ここ、ワタシ知ってるかも」
「ほほう、それは本当かね?」
「反対側の岸まで、回り込まないといけないけど。
多分、『ウチ』が使ってる水場の一つだと思う」
「『ウチ』……《百騎八鋼》の
ならば、ここは深度『三』辺りか?」
「うん。大分上に飛ばされたね」
さっきまでいた未探索領域の迷宮深度は『六』。
マヒロからすれば『三』でも十分に深いが、比較すればかなり上に移動している。
転送罠が飛ばされる位置はランダムで、連続で同じ場所を引く可能性はほぼゼロに近い。
ズリエルが追ってくる危険性は、とりあえず無いと考えて良いだろう。
「じゃあ、行こっか」
「? 行く、というと……」
「ワタシのホーム。それとも、ずぶ濡れのまま地上に戻る?」
くるいの言葉は、意外と言えば意外なものだった。
確かに帰るだけならば、アリスの持つ《遺物》を使えば問題なく帰還できる。
が、ずぶ濡れのまま戻るのは確かに色々と不都合が出そうではあった。
「その、良いんですかね……?」
「? 悪い理由あった?」
「いや、協力するのはあくまであの未探索領域での話でしたし。
その前までは、アリスさんと凄い戦ってたから……」
「……とりあえず、今は良いよ。やる気ないから」
そういえばそうだった、と。
恐らくは、くるいも指摘されるまで忘れていたのかもしれない。
ややバツが悪そうな顔をしながら、くるいは誤魔化すように頭を掻いた。
気になって、マヒロは傍に立っているアリスの方を見た。
で──案の定と言うべきか、《迷宮王》は勝ち誇るかの如き満面の笑みで。
「ハッハッハ、まぁあの戦いは私の完全勝利であったからな。
うん、だが良いぞ。共に死線をくぐり抜けて生還した仲だからな。
目下の無礼など気にせず水に流すのも、目上が示すべき寛大さという奴だろう」
「やっぱりもっぺんやるかコイツ」
「くるいさん待って……! アリスさん、そんなベタベタな挑発しないで……!!」
「おいおい少年、一応はこっちは殴りかかられた被害者だぞ?」
確かに、それはその通りではあるのだけど。
再び大鎚を持ち出したくるいを、マヒロは必死に押し留めた。
くるいも、流石に命の恩人をぶっ飛ばしてまでやる気はなかったらしい。
感情が読みづらいポーカーフェイスを膨らますだけで、殴り掛かるのは止めてくれた。
大人しくなった少女を見て、アリスはうんうんと頷く。
「やはり良い子だな、くるいは。育ての親の教育が良いのだろうな」
「知らない」
「ハハハ、照れるな照れるな」
「別に照れてない。ホントに、アリスのそういうところが嫌い」
「なぁ少年、これはいわゆるツンデレという奴と考えて間違いはないよな?」
「多分ですけど、大分間違ってると思います」
言うほど嫌ってない気もするが、くるいがアリスを鬱陶しがってるのは確かだった。
黒角の少女は怒りを態度で示しつつ、濡れたままの姿でさっさと歩き出す。
「ワタシは平気だけど、このままじゃ風邪引くよ。早く行こう」
「あ、そうですね。アリスさんも行きましょう」
「うん、行くのは構わないが……本当に、私が行って構わないのか?」
「…………」
アリスがくるいに向けた問い。マヒロだけは、その意味が分からなかった。
先を進んでいたくるいは、ほんの少しだけ足を止める。
沈黙は数秒ほど。彼女は変わらぬ表情で、アリスの方を見た。
「ワタシは、別に良いよ。パパがどう思うかは知らない。
というより、ワタシよりアリスの方が分かるんじゃないの?」
「……そうだな。あぁ、全くその通りだな」
「で、来るの? 来ないの?」
「行こう。私も濡れネズミのままでは流石に堪える」
「そう。じゃあ、ワタシについて来て。ホームまで、そんなに遠くはないから」
言って、くるいは先導する形で岸辺を進む。
アリスがその後に続き、マヒロはアリスの傍らに並んだ。
「アリスさん……?」
「くるいの養父は、《百騎八鋼》の序列一位。創設者であり総長でもある男だ。
《怪力乱神》などという、厳つい二つ名の方で呼ばれている。
更に付け加えるなら、私の元仲間だった奴だ」
「……それは」
以前に聞いた、彼女の話を覚えている。
元々いた仲間たちは、全てアリスの元から離れてしまったと。
だからアリスは、今はたった一人で迷宮の深層へと挑み続けていた。
「アイツとは一番の古馴染みでな、この《アンダー》の迷宮に挑み始めた頃からの仲だ。
……が、まぁ喧嘩別れに近い形になってしまってな。
下手に顔を見せたら殺されるかもしれんが、多分きっと大丈夫だろう」
「…………」
「うん? なんだ、少年! そんな顔をしてくれるなよ。
確かに不安要素はあるが、これは少年にとっても悪い話ではないんだぞ?」
「? それは、どういう意味ですか?」
「アイツは魔法使いだ。しかも、《怪力乱神》なんて異名がつくほどの凄腕だ。
少なくとも、私はこの迷宮でアイツより優れた魔法使いは知らん」
懐旧を滲ませる声を口にしながら、アリスは笑った。
どこか遠くを見ている目は、もう過ぎてしまった日々を映しているのか。
マヒロは何も言えなかった。黙ってしまった少年の背を、《迷宮王》は軽く叩く。
「喧嘩別れした私が言う事ではないやもしれんが、アイツは良い奴だ。
少年が悩まされている魔法暴発についても、きっと正しい知識で助けてくれる。
だから、何も不安に思うことはないぞ? 私が保証しよう」
「……はい。信じますよ、アリスさんが言うんですから」
よろしい、とアリスは笑顔で頷いた。
それ以上は口を閉ざして、マヒロはいつの間にか大分先へ行ったくるいの後を追った。
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