第9話:新たな朝が訪れる
朝は、目覚ましのアラームが鳴り出すよりも早く目を覚ます。
しばらくはベッドの上でぼーっと過ごし、スマホが音を発したぐらいで身を起こす。
マヒロにとって、いつもと変わらぬ起床だった。
前日がどれだけ大変だったとしても、身体に染み付いたサイクルは変わらない。
「んん……っ!」
まだ眠気の残る頭を持ち上げ、大きく伸びをする。
窓の外を見る。陽の光が一人きりの部屋に差し込んでいる。
いつもと変わらない朝の風景。今更思うことなんて、何もないはずだ。
「……起きよう」
誰に聞かせるでもない言葉を呟いて、一人頷く。
アリスと別れた後、《組合》への説明などで結局それなりに時間を取られてしまった。
予想していた通り、受付の人は半信半疑という反応だった。
一応は報告として受け取ってくれて、後日また精査するという事で何とか解放された。
何度も連絡を試みてくれていた斎藤にも、生存報告のメールは入れた。
それらを済ませて帰宅した頃にはもう夜中で、後は倒れる勢いで眠ってしまった。
「今日は学校……いや、土曜日か」
休日なら、特にバイトを入れてない限りは寝直すところだが。
多分、今日はいつもとは違う日になる。
思い出すのは、昨日の迷宮深層での冒険。
《迷宮王》アリス。
彼女の事は、もう消えそうにないぐらい脳に強烈に焼き付いている。
アリスは、必ず連絡すると言った。自分は、また明日と応えた。
だから気合を入れて──と、考えたところで耳障りな音が鳴り響く。
スマホに設定した、目覚まし用のアラームだ。
そういえば切り忘れていたと、マヒロは枕元のスマホを手に取った。
「…………ん?」
画面を指でタッチし、音を止めたところで気が付く。
冒険者用アプリからの通知が来ている。今度はそっちに指先を移動させる。
開くと、アリスからのメッセージが届いていた。
その名前を目にしただけで、軽く心臓が跳ねた気がした。
片手を胸元に当て、文章を確認する。
『山分けした報酬は、口座に入金した。確認しておいて欲しい』
実に簡素な一文だったが、マヒロは嬉しかった。
昨日のことは現実で、報酬は二人で冒険を行った分かりやすい証明だ。
だからマヒロは、報酬そのものはあまり気にしていなかった。この時点までは。
文面に従い、アプリ経由で自分の口座を確認し……。
「え?」
思わず、間の抜けた声を上げてしまった。
マヒロは学生で、貯金は精々数十万程度で大した額ではない。
生活費や学費やらで常にカツカツなので、口座を確認するのはいつも憂鬱だった。
「……何だこれ……え? ゼロの桁数がおかしい……ような……?」
数える。見間違いかと思い、何度も目を擦りながら。
一、十、百、千、万、十万、百万、千万……。
「ちょっと、嘘だろ……!?」
何度確認しても、アプリに表示されている数字は変わらない。
アリスからの入金によって、貯金が百倍ぐらいにまで増えてしまっていた。
おかしい。何だこれは。どう考えてもあり得ない金額だ。
一瞬で混乱の嵐に叩き込まれたマヒロは、急いでスマホを操作する。
アプリに登録された仲間情報から、アリスの項目を選択。
迷わず通話のボタンを押して、待つこと数秒。
『──やぁ、おはよう少年。爽やかな目覚めかな?』
「おはよう御座います、アリスさん……! 急に電話して、申し訳ないんですけど……!」
『報酬は確認してくれたかな? いや、すまないね。なんだかんだと手間取ってしまって』
「確認しました、しましたけど何ですかあの金額は……!?」
意味が分からない。一夜で状況が変わるにしても、流石に変わりすぎだ。
通常預金の上限をあっさりぶち抜いたので、知らない間に口座も分裂しているし。
焦るマヒロに対して、アリスは電話越しに喉を鳴らした。
彼が混乱する事も、彼女は予想していたのだろう。実に楽しそうな声だ。
『落ち着きたまえ、アレは正当な報酬だよ。
私も少し驚いたが、私たちが採取したあの花は未発見の新種だったようでね』
「み、未発見の新種……?」
『あぁ、別段珍しいことじゃない。
迷宮の深層には、我々の知らない未知なんてものは実にありふれたものだ。
たまたま今回は新たな《資源》として使えそうな物で、その分金額が大きくなったがね』
何でもない事のようにアリスは笑うが、マヒロはまだ落ち着かなかった。
一回の冒険で得た報酬で、人生が変わってしまう。
比喩抜きでそのレベルの金額だ。
少なくとも、学生一人の学費や生活費など、当分心配する必要は無くなるだろう。
言葉が出てこないマヒロに、アリスは更に続ける。
『繰り返すが、それは君の働きに対する正当な報酬だ。
普通に生きるだけなら、この先真っ当な職につけば十分に足りるはずだ。
実際、これも珍しい話ではないんだよ。
大きく当てた冒険者が、引退してその後は慎ましやかに生きる。
人生一抜けという奴だな。誰もが望む冒険者ドリームという奴かな?』
「…………」
『どうする? 少年。私はそれでもいいと思っている。
この報酬で満足して冒険者から下りたとしても、誰も咎めは』
「昨日、言ったことが全てです。アリスさん」
試されている。アリスの意図を察した瞬間から、マヒロから動揺が消えていた。
普通は絶対に見ないだろう預金残高に、思わず心が乱されてしまったが。
見定めようとしているのなら、話は全く変わってくる。
「俺は、貴女の仲間になる。それはどれだけお金を積んだって、叶う話じゃない。
だったら、冒険者を下りる理由なんてありませんよ」
『……良いのかね? 普通に生きるだけなら十分過ぎる大金だぞ?』
「アリスさんはどう思ってるんですか、この金額」
『ちょっと高い《遺物》を一つ二つ買ったら、まぁほとんど吹き飛んでしまうな』
「はした金ですね」
『金銭感覚がイカれてしまうのは、深く潜ってる冒険者が常に患う病だよ』
笑う。マヒロもアリスも、楽しげに声を出して笑った。
『ところで、今日の予定はどうなっているかな?』
「特に何もありませんね。そういうアリスさんはどうですか?」
『私の予定は基本、迷宮に潜るぐらいだよ。つまりいつも通りという奴だ。
今日もこのまま《組合》に顔を出すつもりだ』
「なら、俺も行きます」
行ってどうするかは、まだ何も考えていない。
考えていないが、アリスが満足そうに頷いたのは気配で分かった。
『宜しい、では先ず《組合》の受付で待ち合わせをしようか。
君が私の仲間になるためにするべき事は、その時にでも伝えよう』
「分かりました、すぐに支度します」
『あぁ。私も出るが女をあまり待たせないでくれよ、少年?』
「ええ、また後で」
そうして通話は途切れた。口座の金額は、もう見えていなかった。
《迷宮王》が、アリスが待っている。彼女が言った通り、待たせてはいけない。
跳ね起きて、普段なら焼いてるパンをそのまま齧る。
朝食を抜くのはあり得ない。恐らくだが、今日も迷宮に入る事になるはずだ。
自前の支度などたかが知れているが、それでもやれる事はやらねば。
「ヨシ、行くか……!」
パンやら牛乳やらを詰め込んで、装備を手早く整える。
残った眠気を払うために気合を入れて、マヒロは部屋を飛び出した。
◆ ◆ ◆ ◆
電車とバスに乗って、いつも通りに《組合》の支部へと向かう。
正門をくぐって、中に入る。休日なので特に人が多い。
専業ではない冒険者が、日雇いの仕事を求めて受付に押しかける。
これまた良くある光景で、マヒロもその人の群れに混じった事は何度もあった。
変わらない《組合》の日常だが……ほんの少しだけ、いつもと違う事も。
「あっ、夜賀さん! こっち、こっちです!」
「ん?」
人の群れを避けて歩いていたら、聞き慣れた声が耳に入ってきた。
振り向くと、そこには顔馴染みの受付嬢の姿。
彼女が大きく手を振っている傍らにもう一人、マヒロが探していた相手も佇んでいた。
「アリスさん!」
「ん。思ったよりも早かったな、少年。偉いぞ」
微笑みながら、アリスは軽く手を上げて応える。
今の彼女の格好は、昨日見たのとは微妙に変わっていた。
身体の大半を覆う甲冑ではなく、腕や脚など要所を覆うだけの軽装甲。
ついでに例の大剣は下げておらず、腰には革袋一つだけぶら下げていた。
マヒロがアリスを見ていたのと同じく、アリスもまたマヒロの格好を検めていた。
底辺冒険者が、《支部》に登録すると共に支給される初期装備。
こちらも当然ながら、昨日と同じ格好なわけだが。
「死ぬな。そんな装備で大丈夫か?」
「いきなりですね」
「昨日のことは事故ゆえ仕方ないが、深層に潜るなら装備を整えるのは必須だ。
これから連れてくつもりの場所は、最深層ではない。
最深層ではないが、最近見つかったばかりの未探索領域の一つだ。
流石にその格好のままでは、自殺しに樹海に入るのと大して変わらんな」
「まぁ、それはそうですよね……」
文字通り、ヒノキの棒だけで危険なダンジョンに挑むのと同じだろう。
「振り込んだ報酬があるだろう?
先ずはその金を使って、装備を整えるところからだな。
《組合》には《遺物》を取引きする場所もある。
そこでなら、それなりに効果的な《遺物》を買い取ることも出来るはずだ」
「……すいません。全く利用したことがないので、ちょっと分からないんですが」
「ん? そうか、いやそれはそうか。
アンコモンの《遺物》でも、相場は大体四百から六百はするものな。
これまでの少年には縁遠いものだな」
当然、単位は万が付く。これでも《遺物》としては比較的に安い方なのだ。
《遺物》の扱いに慣れた高位の冒険者ほど、金銭感覚が崩壊する主な要因でもある。
「…………あのー……」
と、二人の間に申し訳無さそうに声を挟んだのは、取り残された受付嬢だった。
他の受付はパンパンなのに、ここにはマヒロとアリスしかいない。
知っている者も知らない者も、例外なくアリスを避けている結果だ。
何人かは遠巻きにヒソヒソと噂話をしているが、一体何を言っているのやら。
……きっと、《迷宮王》は周りの会話なんて全部聞こえていますよ。
声に出して警告してやりたいのは山々だったが、今はそんな余裕もなかった。
「うん? 何かな? あぁ、業務の邪魔をしてしまったかな。
それならば謝罪しよう。マヒロ少年、ここでは何だから場所を変えようか」
「あ、はい。分かりました」
「いやいやいや、決してお邪魔ってワケじゃあないんですけど……!」
さっさとその場を後にしようとする両者を、受付嬢は慌てて引き止めた。
いや、別に引き止める必要はないかもしれない。
必要はないかもしれないが、胸に芽生えた好奇心は抑えきれなかった。
「あの……アリス様と夜賀さんは、一体どういうご関係で……?
一応、私も昨日は夜賀さんの報告は伺いましたが……」
「えーっと……」
なんでそんな、《組合》の長であり最強の冒険者と仲良さげに話してるんだ?
受付嬢の視線から感じるのは、大体そんなところだった。
まぁ、意味が分からないだろう。
マヒロが同じ立場なら、きっと似た反応をした。
彼女自身が口にした通り、昨日の報告は起こった事実をありのままに伝えた。
その話の上だけなら、二人は単なる救助した者とされた者だ。
一緒に未踏破領域を攻略した……なんて、ただの与太と判断しても仕方ない。
だというのに、昨日の今日で何故こんなに仲が良いのか。
報告を聞いただけの受付嬢からすれば、目の前の現実はあまりに不可解だった。
「ええと……」
「あっ、いやすいませんっ。不躾なのは分かってるんですが……」
関係性。果たして、どんな言葉で表するのが正しいか。
明らかな戸惑いと共に困惑するマヒロに、受付嬢は慌てて両手を振った。
ただ、アリスだけは平然とした顔で、傍らに立つマヒロの肩に腕を回した。
驚く少年に顔を寄せ、悪戯好きな猫の笑みを浮かべる。そして。
「そうだな、彼氏だ──と言ったら、君は信じるかな?」
あっさりと、周囲にも聞こえる声で爆弾を投げ放った。
「……はい??」
「あ、アリスさんっ!? いきなり何を言って……!!」
「ハハハハっ、そこは嘘でも喜びたまえ。
さて、業務を邪魔してすまなかった。私と彼はこれからデートでね。
ここで失礼させて貰うよ」
肩に腕を回したまま、アリスは狼狽するマヒロを悠々と引きずっていく。
人の波が自然と道を開ける様は、さながらモーセの十戒の如しだ。
残された受付嬢は、ただ呆然と去る背中を見送る。
「……彼氏って……アリス様、今ご自分がおいくつだと……!!」
《アンダー》の地下迷宮が現在の文明社会と繋がってから、三十年以上。
最初の冒険者であり、今も最前線を独走する《迷宮王》の実年齢がどれほどか。
思わず口走った受付嬢の失言には、その場の誰も触れなかった。
代わりに、空いた窓口に順番待ちの冒険者たちはぞろぞろと集まり出した。
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