第3話:その名は《迷宮王》
一瞬の浮遊感。それから直後に始まる落下。
視界はぐしゃぐしゃに乱れ、背中を強い衝撃が打つと同時に停止した。
息が詰まる。吐き気が酷い。
嘔吐しそうなところを、マヒロはギリギリで堪えた。
「っ……どこ、だ……ここ……?」
何故か生きていた
鈍りかけた思考をどうにか回し、我が身に何が起こったかを分析する。
身体は異常に重い気はするが、今は状況の確認が優先だ。
だから、マヒロは見た。幸いその場所は、低階層よりずっと明るかった。
視界に飛び込んで来た景色を認識……した瞬間、絶句していた。
「……ま、さか」
喉が乾き、声が掠れる。先ず見えたのは、驚くほど広い空間だ。
天井が霞み、端から端までがとてつもなく離れた大空洞。
マヒロが転がっているのは、その中心付近だ。
そそり立ち崖にも等しい壁には、人工的な彫刻が満遍なく刻まれている。
芸術に明るくない素人の目から見ても、それらは素晴らしい出来栄えだった。
恐らく神の似姿だろう。美しく凛々しい男女の像が、ある種の秩序の下に並んでいる。
他にも壁には異様なほど大きい穴が三つ開いているが、その先は暗くて見通せない。
神殿という単語が、自然と脳裏を過ぎった。
未だ荒らされていない、神聖にして不可侵の領域。
つまり、この場所は──。
「っ……くそ……!」
立ち上がろうとして、失敗する。身体が思うように動かない。
嫌な予感が当たった。マヒロは震える声で呟く。
「ここ……深層の、未踏領域かよ……!」
ほぼ間違いない。身体が言うことを聞かないのは、高濃度魔力の中毒症状だ。
《アンダー》に広がる迷宮内を満たす魔力は、深い場所ほど濃度が高い。
低階層の薄い魔力にしか慣れていない身体は、深層の濃い魔力には耐えられない。
浅瀬から、いきなり深い水底に沈められたも同然の状態だ。
「ぐっ……ごほっ、げほっ……!!」
苦しい。呼吸の一つさえ重労働だ。
気を失えば、待っているのは確実な死。だから意識だけは気力で繋ぎ止める。
痙攣している指で、ポケットからスマホをひっぱり出す。
一縷の望みを賭けて画面を見るが、当たり前のように圏外だ。
「は……やく、脱出……しない、と……」
己に言い聞かせる形で呟く。しかし、具体的にどうすれば良いのか。
文字通り、右も左も分からない。
自分がどこにいるのか、どちらへ向かえば良いかも判然としない。
ここは誰も知らぬ迷宮の奥底。迷い人は、ただ死の訪れを待つしか無いのか。
「っ……いいや、死んでたまるかよ……!!」
歯を食い縛る。折れかけた心を、強引にでも引き起こす。
そうだ、こんなことでは死ねない。
『ちょっとした不幸が原因で、運悪く死んでしまいました』、なんて。
少なくとも、生きてる内に受け入れるのは真っ平ごめんだった。
「この……少し頑張れよ、ポンコツ……っ」
手足はやはりまともに動かない。だからマヒロは、身体を無理やりにでも引きずった。
変わらず、行くべき道は見えていない。
だとしても、こんな場所に留まり続けるよりかは……。
「……なんだ、今の音……?」
音。振動。気のせいかと思ったが、気のせいではない。
ズシリ、ズシリ。最初は小さかったが、徐々に大きく。合わせて床も震える。
何かが来る。発生源は、壁に開いた大穴──いや、『通路』の一つだ。
──今すぐ逃げなければ、死ぬ。
本能が全力で警鐘を鳴らしているが、身体は動かない。
魔力中毒と、理性を押し潰す恐怖。
それらに縛られてしまったマヒロは、もう何も出来ない。
やがて、地響きと共に絶望が姿を現した。
「……巨人」
口からついて出た言葉の通りの存在が、穴を潜って出てくる。
巨人。見上げるほどに巨大な怪物は、概ね人間に近い形をしていた。
岩山がそのまま動き出したかのような、筋骨逞しい巨躯。
身に付けているのは古びた貫頭衣と、後は右手にぶら下げた錆びた大鎚のみ。
頭に毛髪は無く、顔の三割以上を占めるのは大きな単眼だ。
単眼巨人(サイクロプス)。地上では、神話か創作でのみ語られる伝説の怪物。
それが今、現実の脅威としてマヒロを見下ろしている。
しかも一体ではなく、三体に半ば包囲された状態だ。
『■■■■■■』
『■■■■■■■■』
『■■■■■』
「…………っ」
巨人たちは何かを喋っているようだが、内容はマヒロには理解できなかった。
つまり、この巨人たちは魔物だ。
魔物以外の知的種族なら、《
言葉による意思疎通を図れない以上、対話で切り抜けるのは不可能。
事実、巨人たちの単眼に凶暴な衝動が渦巻いているのが一目で分かった。
『■■■■■■■■』
『■■■■■』
一体の巨人が、地に伏すマヒロに向けて左手を伸ばした。
掴まれて、少しでも力を入れられたら、それだけで人体は潰れて死ぬ。
食う気なのか、弄ぶつもりなのか。そこまでは分からない。
どちらにしろ、あの指に触れた瞬間に死が確定する。
丸太みたいな指先が、目の前まで来て──。
「……死んで、たまるかっ!!」
マヒロは叫んだ。恐怖を押し退け、本能のままに吼えた。
魔法が発動する。何の魔法を使うかとか、全く意識しないままで。
まともに使える術で、巨人に通じるものなんて一つもない。
だから賭けた。自分でも何が起こるか分からない、意図的に起こした魔法の暴発。
──どうせ死ぬなら、最後まで抗ってやる……!!
マヒロ自身も理解し切っていない強い衝動。
強烈な意思は力となり、空間を満たす魔力と結び付き、あり得ざる結果をもたらす。
『■■■■■■ッ!?』
驚愕と苦痛。巨人の声が、先ほどよりも遠い。
帯電した空気の中、マヒロは気付くと数十メートルは離れた場所にいた。
遠ざかった巨人に目を向ければ、一体の左手が黒く焼け焦げている。
意図しない魔法の発動なので、マヒロも自分が何をしたか正確には分からない。
状況を見るに、何かしらの移動系の魔法が発動したようだ。
その余波に巻き込まれ、巨人の指先も焼かれたか。
予想外の事態に、巨人たちは動揺している。
今ならば、逃げることが出来るかも。
「……っ、ぁ……?」
不意に、意識が揺れた。身体は鉛へと変わり、這うことすらままならない。
実力以上の魔法を、無理やり行使した事による反動だ。
魔力中毒は急激に進行し、生命活動は深刻なレベルまで低下する。
放っておいても死ぬ状態だが、巨人たちは安らかな眠りなど許しはしない。
『■■■■■■■■ッ!!』
怒りの咆哮が、間近に迫ってくる。
視覚と聴覚は辛うじて無事で、激怒した単眼巨人の姿をはっきり捉えていた。
もう逃げられない。振り上げられた大鎚が落ちてくるまで、あと何秒か。
意思は諦めを拒絶しても、助かる術がなかった。
「ち、く……しょ、ぅ……」
呟く言葉には、悔恨が滲んでいた。
迫る死から、マヒロは目を逸らすことはしなかった。
それだけが今の自分に出来る、唯一の抵抗だと。
「──はて、これはどうしたことだ?」
「…………ぇ……?」
巨人の大鎚は落ちて来なかった。
代わりとでも言うように、マヒロの目の前に誰かが立っていた。
誰か。誰だ? ここは迷宮深層のはず。
そんな場所にいる人間なんて……。
「ここは現在確認できている限りの迷宮最深層。
私以外には誰も到達していない、完全未踏領域のはず。
だというのに、君は何故こんなところにいる? 見知らぬ少年よ」
「っ……?」
「そう、君だ君。私は君に話しかけているんだ。
悲しい独り言だと思われていたなら、実に心外だよ」
活動レベルが低下しているマヒロの脳は、何とか眼前の現実を理解しようとした。
いつの間にか現れたのは、一人の鎧姿の人物。
金色に縁取られた黒い甲冑に、色は同じで立派な角飾りが付いた兜。
風もないのに揺らめく外套は、背に生えた翼を思わせる。
右手には一振りの大剣が握られており、刀身は美しい茜色に輝いている。
あまりに幻想的なその様は、伝説に語られる英雄そのものだ。
『■■■■■■……っ!!』
「おっと──すまないね、巨人たち。別に君らを無視していたワケじゃないんだ。
ただちょっと、先を越されてしまったという事実がショックでね。
いや勿論、そんな事で怒りを感じるほど狭量なつもりはないよ? なぁ少年。
だから別に怯える必要はない。楽にしてくれ」
唸り声を上げたのは、三体の単眼巨人。
特にマヒロに指を焼かれた巨人は、黒甲冑の人物を強く睨んでいた。
右手に構えていた大鎚。
マヒロを叩き潰すはずだった得物が、半ばから切断されただの棒切れになっていた。
斬り裂いたのは、黒甲冑が携えている大剣だ。
巨人の武器を容易く破壊するなど、果たして人間に出来る芸当か。
『■■■■■ッ! ■■■■■■■■!!』
『■■■■■■■!!』
「ふむ、大激怒だな。ビビって逃げてくれたら楽だったが、流石にダメか」
「ぅ……に、げ……」
「なんだ、私の心配をしてくれているのかな?
君は実に紳士的な男だな、他人に気遣われるなんて何年ぶりだろう。
良いね。君は私の未踏を横取りしたが、その恨みは今のでチャラにしよう」
どうやら、未踏の迷宮に先に入られたという事実を、余程気にしていたらしい。
偶然入り込んだだけのマヒロからしたら、ほとんど言い掛かりに近い話だ。
何か答えるよりも早く、動かない身体が宙に浮いた。
地に伏せていたマヒロを、黒甲冑が片手で担ぎ上げたのだ。
「転がしておいても良かったが、流石に危ない。
少々苦しいかもしれないが、しばらく我慢していてくれ」
「な、にを……?」
「邪魔者を蹴散らす」
邪魔者を、蹴散らす。死にかけたマヒロの脳は、一瞬理解できなかった。
殺気と敵意をまき散らす三体の単眼巨人。
間違いなく、邪魔者とは彼らだ。しかし、それを蹴散らす、なんて。
『■■■■■■■■■■ッ!!』
とうとう、巨人の怒りは物理的な攻撃となって襲ってきた。
高々と振り上げられる二本の大鎚。得物を失った巨人は、代わりに拳を掲げる。
圧倒的なパワーと質量が大気をかき混ぜ、小規模な嵐を引き起こした。
人間なんて軽く吹き飛ばされる圧力に対し、黒甲冑は迷いなく前に出た。
荒々しい風を踏み越え、素手の単眼巨人の足元へ。
『■■■■っ!?』
最初の一刀は、先ず巨人の両足首を深く斬り裂いた。
苦痛に叫びながら、堪らずに巨人は膝をつく。
瞬間、その巨体を足場にして黒甲冑が駆け上がる。
二刀目が巨人の喉笛を抉り、間を置かずに三刀目が分厚い頭蓋を容易く断ち割った。
我が身に何が起こったか、知らぬ間に巨人の一体が絶命した。
仲間が呆気なく殺されたと、別の巨人が認識する前に。
『?』
「──これで、あと一つ」
背の外套を翼と広げて、黒い甲冑が宙を駆けていた。
そしてただの一太刀で二体目の巨人、その首を完全に切断したのだ。
どれほどの技量と業物ならば、こんな真似が出来るのか。
兜の下から放たれる眼光を受けて、最後の巨人は大きく身を震わせた。
『■■■■■■────ッ!!』
だがそれは、恐怖したが故ではない。
得物の大鎚を両手で構え、単眼巨人はこれまでで一番激しく吼えた。
腹わたを潰されそうな圧力に、抱えられたマヒロは死を覚悟した。
「ハッハッハ! 戦力差が分からぬ獣ではなかろう!
勝てぬと知りながら、それでも吼えるか巨人の戦士よ!」
対して、黒甲冑は笑っていた。
その意気や見事と大笑し、片手で大剣を強く握り締める。
「来いっ!!」
『■■■■■■■■────!!』
通じぬ言葉と、通じる鋼が重なった。
巨人はバッターのフルスイングの如く、大鎚を横薙ぎに叩き込む。
直撃すれば粉微塵になる一撃に、黒甲冑は微動だにしない。
ただ、手にした大剣を振り上げて。
「手ぬるい────!!」
弾いた。巨人の大鎚に、刃を合わせて受け流したのだ。
力と速度、技量、タイミング。
どれか一つでも欠ければ我が身が砕かれたろう絶技を、笑いながら成し遂げる。
そして致命の隙を晒した巨人の首に、返す刃が閃いた。
「戦士よ、安らかに」
首を斬り落とされ、巨体が地に落ちる。
戦いは激的に始まり、劇的に幕を閉じた。
死にかけの身でありながら、マヒロは心臓が強く脈打つのを感じた。
熱い鼓動の中、目の前の人物が何者かを思考する。
人類が到達していないはずの迷宮深層に、ただ一人で活動する冒険者。
強大な巨人三体をあっさりと蹴散らす戦力。
該当する人物の心当たりは、たった一人しかいなかった。
「……ま、さか……《迷宮王》……?」
《
生ける伝説そのものの名を、マヒロは掠れた声で呟いた。
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