第2話

 帰宅後、今日一日の疲れを癒すためにベッドへとダイブした。

 弾力性のある心地のいいマットレスは日頃の疲れやストレスを緩和してくれる。俺は体を脱力させ、マットレスの柔らかさを全身で感じ取る。


 うつ伏せ状態を維持しつつ、ポケットからスマホとイヤホンを取り出す。イヤホンを耳にセットするとスマホで動画サイトを開いた。本日配信されたアニメを試聴しなければならないのだ。


 学校の宿題はあとでやればいい。散々学校で学んできたんだ。帰宅直後くらいは娯楽を味わいたいものだ。そうは思うものの、授業中はたいてい寝ており、娯楽はなんだかんだ夕飯前まで嗜んでいるので、全くもって意味のない言い訳だが。


 自室にいる時ぐらいはイヤホンをつけず、スマホから音を垂れ流すのもありだろう。ただ、俺の場合は登下校や勉強中にイヤホンをつけているため、スマホで何かする際はイヤホンをつけるのが癖になってしまっている。


 それに、思春期の男子ならば不意にあれをしたくなる時もあるだろう。そう言った場合にすぐに励むことができるのもイヤホンをつけている利点だ。


『まったく、悠くんは本当にしょうがない人なんだから』


 今見ているアニメの主人公は、漢字は違えど俺と同じ名前だ。そのためヒロイン全員が俺の名前を呼ぶので、なんだか照れを感じる。中の人に呼ばれる時はこんな感じなのかとオタク特有の妄想を抱きながらアニメを視聴する。


「はあ、優兄のやつ。大事な日を忘れやがって」


 見ていると、突然とあるキャラの口調が変わった。『悠くん』から『優兄』と急に兄弟呼びになったのだ。それだけじゃない。声の調子というか、声そのものも変わったように感じる。


「今日は私と優兄が出会って10周年だっていうのに……」


 訝しげにアニメを見ていると、今度はキャラのアテレコが明らかにずれていた。口の動きと声の出が明らかに違っていた。


 そこで俺はようやく気がついた。

 これはアニメの声じゃない。イヤホンの言葉抽出機能が作動しているのだ。『ゆう』というキーワードを拾って俺の耳に届けてくれている。


「大事な人と初めて会った日を忘れるとは。だから優兄はモテないんだよ」


 俺は一時停止ボタンを押すと、ゆっくりと部屋の窓に目を向ける。窓の先には隣の家の窓が見える。赤色のカーテンに遮られ、部屋を見ることはできない。もうかれこれ、三年間は俺がいる時には開けられていないのではないだろうか。


 イヤホンから聞こえてくる声の主はおそらく京香だ。今日のお昼に聞いたばかりの声であり、10年という長い間聞いてきた声だから分かる。最初の段階で気づけなかったのは棚に置いておこう。イヤホン越しに急に声が聞こえてくるなんて初めての経験なのだから、反応が鈍っていたのだ。


「それとも優兄は私のことを大事に思ってくれていないのかな。もう10年一緒にいるから当たり前のことで慣れちゃったのかな」


 自分で買っておいてなんだが、今の俺はとてもいけないことをしている気分だ。京香の声を聞けば聞くほど、罪悪感に駆られる。だが、その罪悪感よりも先を聞きたいという欲求が上回っている。盗聴犯の気持ちが分からなくもない気がした。


「なーんか、私ばかり意識してて馬鹿みたいだ。勝手に一人で出会って10周年で盛り上がっちゃって。はあ、優兄の馬鹿。私は優兄のことを……冷蔵庫のプリン食べよ」


 そこで声は終わった。俺はアニメのことを忘れて終始、カーテンの方を注視していた。

 とても良いようで、とても悪いことを聞いてしまった気がした。明日から京香にどんな顔を見せれば良いのだろうか。


 それにしても、もう京香と会って10年の時が経ったのか。

 京香が俺の隣に引っ越してきたのは、俺が小学一年生の時だ。京香の家は共働きでよく内が京香のことを預かっていた。


 人見知りだった京香はリビングでゲームをしていた俺を食卓の一番離れた席で見守っていた。それが食卓の一番近い席、リビングのソファーの一番離れたところ、俺の隣と日に日に近くなり、気づけば一緒にゲームを楽しむこととなった。


 一緒に遊ぶほど仲が良かったものの、思春期に入った俺たちには、男女という異性の壁が大きすぎた。中学に入ってからは、家で遊ぶことはなくなった。たまに隣同士でお出かけや庭でバーベキューをしたりしたが、その際も互いに無愛想に接していた。


 無愛想なのは故意ではなく、どう接すれば良いのか分からないが故に起こったことだ。

 昔に比べて体つきが女っぽくなった京香に対して、どのように振る舞うのが正解なのか恋愛経験皆無の俺には分からなかった。


 互いに自室に居ながら話せる環境は、京香がカーテンで遮ったことでなくなってしまった。だから、京香は俺に対して愛想を尽かしていると思っていたが。


「私は優兄のことを……ねえ……」


 これは俺の方からアプローチしないといけないな。

 うつ伏せの体制をただし、ベッドであぐらをかきながら京香へのアプローチ方法について思案することにした。ついでに済ませるものを済ませておいた。


 ****


 翌日、俺は校門の前で京香が来るのを待っていた。

 スマホのメッセージアプリで連絡をしようと思ったが、俺はまだ京香とはアカウント交換していなかった。


 10年という長い期間が生み出した弊害なのかもしれない。幼い時から仲がいいため二人ともスマホを持っていなかったのだ。中学に入ってようやくスマホを手にした頃には京香と接する頻度はかなり薄れていた。


「桐谷先輩、何しているんですか?」


 校門近くで帰宅する生徒たちから京香を探していると、不意に見知った人物に声をかけられる。見るとお目当てである京香が俺の方へとやってきていた。まさか向こうから現れてくれるとはありがたい限りだ。


「よお。探していた人がいたんだ?」

「珍しいですね。独り身の先輩が人を探しているなんて。誰ですか?」


 俺は名前をいうわけではなく、京香を人差し指で指す。京香は俺の行動に1テンポ遅れて反応する。眉を上げ、目を大きくし、彼女もまた自分を人差し指で指さした。

 反応してくれたところで俺は京香に向けて言葉を発する。


「今日これからどこか遊びに行こうぜ」

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