第9話 湖

 Rさんの住んでいるあたりは室町やら戦国時代の戦の名残が数多く残っている場所だ。


 それゆえに観光地に恵まれているが、同時に心霊スポットも多い地域だった。


 そんな色々な意味で人気な地元だが、その中でも有名なのが、とある湖だ。


 どうやらその湖は古くからあるらしく、昔ながらの物騒な逸話がいくつか残っているらしい。Rさんも小さい頃から祖母に「悪い事をしたら、あの湖に捨てるからね」と脅されることもあり、なんとなく怖い印象のある場所だった。


 Rさんはその湖に関する歴史的な話題についてはあまり知らない。友達から聞いた心霊現象というのも「女の霊が湖畔に立っていた」だとか、ありきたりなものばかりだったと思う。


 それにRさんの住む地区からその湖に行くには、県境の大きな山を越えなければならなかった。郊外にあることもあり、用事がなければ近づかないような場所だ。そのためRさんはこれまで湖の怪談を知ってはいたが、実際に訪れることはなかった。




 地元の大学に進学したRさんが、部室で友人たちとたむろしていた時のことだった。


 仲のいい友人のKさんが、その湖に行ってみようと言い出した。


 Rさんが大学生の時はオカルトブームと呼ばれる時期で、幽霊譚や超能力などが一種の社会流行としてもてはやされていた。Kさんは仲間の中でも怪談が好きで、積極的に心霊スポットに向かうタイプの人間だった。


 そんなKさんに誘われて最初は嫌がったRさんだが、Kさんに説得されるうちに行ってもよいと思うようになった。理由としては人生で一度くらい心霊スポットに行くのもおもしろいかもしれない、という好奇心。そしてもう一つの理由が、昔から怖がらされてきた心霊話の正体を暴いてやろう、という猜疑心だった。


 それに心霊スポットに行き慣れたKさんが一緒にいるのも心強かった。結果として、その数日後に二人で湖に行くこととなった。




 湖に向かう当日、Kさんは自家用車でRさんを迎えに来てくれた。


「これ、実は親父のなんだ」


 Kさんはこっそりと悪戯を企む子どものような表情でRさんに打ち明けた。


「いいのか」と聞くと「大丈夫。ちょっと行ってすぐ帰るだけだしな」と彼は笑った。


 二人はそのまま湖に向かった。予定では一時間ほどで到着するはずなので、ちょっとしたドライブだ。


 時刻は昼過ぎで空も明るい。その日の天気予報は一日中晴れだった。


 二人で他愛もない話をしながら道を進んだ。しかしあと20分程度の距離になった時、道がガタガタと悪くなり始めた。どうやら路面が古くなっており、ところどころひび割れた悪路となっているようであった。


「なんかそれっぽくなってきたな!」


 悪路に喜ぶなんておかしなやつだ、と思ったが、Rさんの方でも未開拓地に乗り込むような気分になって、普段なら悪態をつくところだが、その時はちょっと興奮した。


 Kさんは嬉しそうに笑う。悪路に喜ぶなんておかしなやつだ、と思ったが、Rさんの方でも未開拓地に乗り込むような気分になって、普段なら悪態をつくところだが、その時はちょっと興奮した。


 辺りは木々で覆われていて、昼間だというのに暗かった。しかし葉からこぼれる木漏れ日と影のコントラストが美しいと思った。


「そろそろじゃないか」


 Kさんがそう呼びかけた時だった、木々の間から水面がキラリと太陽光を反射したのを見つけた。二人は顔を見合わせて頷き合った。




 その後すぐに湖が見えてきた。地図を確認した時点で大きな湖だとわかってはいたが、実際に見ると対岸までの距離が遠いことに驚いた。


 辺りは背の高い木々で覆われており、湖畔は静かに揺れていた。湖岸は拳小のおおきさの石がころころと転がっていて、歩きにくそうだった。


 道路から直接湖に降りる道は見当たらなかったので、車は路肩に止めた。


 車から降りると、冷たい風が吹き抜けてRさんを震わせた。初夏だというのに、山の空気は冷たいことをRさんは初めて知った。


 湖の色は深い緑色で、山の影を閉じ込めたかのようだった。


 心霊スポットに来たはずなのだが、その長閑な景色を見ていると二人はキャンプにでも来たような気持ちになり、湖の周辺をふらふらと歩いて散策することにした。


 他愛ない話をしながらゆっくりと歩く。RさんとKさんは大学だけでなく出身中学校も同じだったこともあり、昔の思い出や将来への不安や期待などを、冗談を混じえながら話した。


 まるで人の気配がないので、つい二人の声は大きくなっていく。広い湖が気持ちを開放的にさせるのか、大声で笑ったりして気持ちがよかった。


 こんな感じならたまには心霊スポットに行くのもいいかもしれない、とRさんが思い始めたその時だった。


 Kさんが突然立ち止まった。


 彼はRさんとの会話の途中、ふと何かに気づいたように湖面の方を向いた。


 どうかしたのか、とRさんは聞いた。湖には特に異常は見られなかった。


「いや、なんかさっき湖面に何か……影のようなものが見えた気がして……」


 少しだけ、どきりとする。


 というのも、この湖で有名な怪談が『女の霊が湖畔に立っていた』というものだったからだ。


 その噂話を聞いた時は「なんだ、そんな話か。別に怖くないじゃん」と思ったものだが、こうして実際の場所で『何か』の気配に遭遇すると、嫌な気分になるものだ。


「……魚なんじゃないか」


 Rさんが言うと、Kさんは一拍遅れて小さく頷いた。


「うん……たぶんそうだろうな」


 二人はしばらくの間、じっと湖を見つめる。


 相変わらず湖は薄い漣を波打たせている。辺りは静寂に満ちていた。


 しかし、Rさんは次第にその静けさが怖くなる。


 湖面は揺れているのに、草や木々の擦れる風の音が聞こえないのだ。


 山とはこれほど音がしないものなのか?


 空気の冷たさも相まって、もはやRさんは寒いと思った。


 その時、パシャリと水の跳ねる音がした。


 二人はぎくりと肩を揺らす。


「やっぱり魚じゃないか」


 まるで言い聞かせるように口にしながら、二人はお互いに身を寄せ合った。


 不安なのか、静寂による恐怖なのか、いつまでも水面を見ていられないと思ったRさんはふと山の方を向いた。


 そこで、木々の間をサッと隠れる影のようなものが見えた。


 あ、と思わず声に出してしまった。


 すぐにKさんが「どうした」と問う。


「誰か、いた」


 Rさんは絞り出すように言った。影はまるで木の背後に姿を隠すように動いていた。


 もしかしたらまた動き出すかもしれない、とRさんは山を注視する。


 Kさんも山の方を睨むように見る。しかし、いくら経っても何も動くものは現れなかった。


「不気味だな」


 Kさんがポツリと呟き、Rさんもそれに頷いた。


 二人は顔を見合わせると、ゆっくりと元来た道に足を戻した。


 正体不明の何かにつけ狙われている……そんな気持ちの悪さが二人の背筋を冷たくさせた。


 二人は知らないうちに大股で湖岸を歩く。しかし大きな石で足場が不安定で、思うように進めない。それが妙に気持ちを焦らせた。


 そうしてやっと、車まであと少しと言える距離になった時、湖の方でまたポチャンと水が跳ねるような音がした。


 Rさんは立ち止まり、湖の方を見た。Kさんもつられたように立ち止まる。


 湖に、何かがいた。 


 黒い影だ。


 それが何かはわからない。だがRさんは頭の裏から痺れるような感覚がして目を離すことができなかった。


 湖の水面に浮かんだそれは、こんもりと小さな山のようなシルエットをしていた。ぷかぷかと浮かんでいるのはわかるが、距離があるせいか目を凝らしても姿がうまく見えない。まるでRさんを焦らすようにぷかぷかと水面で揺れるのだった。


「あれは、なんだ」


 Rさんがその正体を見定めようと睨んだ。


 その瞬間「おい!」とKさんの驚いたような声と共に、強い力で背後に引っ張られる。


 思わず悲鳴をあげてたたらを踏んだRさんを、Kさんは怒気と驚きを含んだ表情で背中を揺さぶった。


「お前、なんで、そっちに行くんだよ!」


 え、と思わず戸惑って瞬きをしていると、足の異変に気づいた。靴がぐっしょりと濡れていたのだ。


 隣に立っていたKさん曰く、あの湖面の『何か』を見ているうちに、Rさんはまるで吸い寄せられるように足を湖に向けて歩き出したということだった。


 Rさんはゾッとした。無意識に歩き出し、足を水の中に踏み込んでいたことに気づきもしなかった。


「やばい。早く帰ろう」


 そう言ってKさんがRさんの腕を掴んで引っ張った。


 また、チャプンと湖で音が聞こえた。


 振り返るな……振り返ってたまるか………。


 そう思うのだが、どうしてもあの『何か』の正体が気になる。


 そんなRさんの気持ちを煽るように、湖の方ではちゃぷちゃぷという音が断続的に聞こえた。


 そしてそれは、少しずつと近づいていた。


 もうあと少しで車に行ける。あとは路面に出るだけ。そんな距離に至った時、油断していたのか、Rさんは思わず後ろを振り返ってしまった。


 湖には相変わらず黒い小山のような『何か』があった。それはやはり先ほどよりも近い距離に浮かんでいた。それを見てしまった時、Rさんは振り返ったことを後悔した。


「あれ、人じゃないか?」


 黒く見えたのは髪だった。その絡まるような長い髪の下には異様に白い部分がある。果たして服の色なのか、もしくは肌の色なのだろうか。肌なのだとしたら、人間の肌とはあれほど白くなるものなのだろうか。



 その後、二人は慌てて車で山を降り、公衆電話に駆け込んで警察に電話をした。


 警察が来るまでの間、二人は山の麓にあるスーパーの駐車場で黙って待つことにした。その間始終無言だった。Rさんは定期的にくる胸のむかつきの扱いに困った。吐きそうな気分なのに吐けない。そんな気持ち悪さ。


 Rさんは思った。あの湖にいた間、始終異様な静けさと何かの気配を感じていた。それはどれも微かなものだが、それに似合わず圧倒的な存在感を放つ。


 やがて警察が来た。


 あらかじめ案内してほしいと言われていたので、それに応じるためにまずKさんが車から出た。


 しかし外に出て車の扉を閉めた途端、Kさんは突然「なんだこれ」と戸惑うような悲鳴を上げた。


 慌ててRさんも外に飛び出すと、Kさんが何に怯えたのかがわかった。


 車に大量の手形が残されていたのだった。



 その後、気が動転した二人は警察によって自宅まで帰された。


 それぞれ両親にこっぴどく叱られてしまい、特にKさんは親の車を勝手に持ち出したこともありしばらく外出禁止にされてしまったということだった。

車は手形が取れたのかは聞けなかったが、後日学校で会ったところ「車は廃車になった」とだけ教えてもらった。


 湖に浮いていたのはどうやら女の死体だったらしい。身元が判明し、一応二人には知り合いかどうか警察に確認の連絡があったが、知らない人だった。


 どうして死体はあのタイミングで浮かんできたのか、山に現れた影が何者だったのか。それは今もわかっていない。




 余談だが、両親にこっぴどく叱られた後、祖母はぽつりと「だからあそこに捨てるんだよ」と肩をすくめて呟いた。


 祖母が説教のたびに口にした決まり文句が、この時ほど怖いと思ったことはない、という話だ。



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だれかの怖い物語 秋野 圭 @akinok6

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