第7話 踏切
Rさんが小学生の頃の話だ。
Rさんの通う小学校までの歩道には線路が横たわっており、踏切を渡らなければならなかった。
Rさんの通学路では架道橋があり踏切を渡る必要はないのだが、少し離れた場所に住む友人のYさんは、その踏切を渡って登校していた。
その友人のYさんというのが少し変わった女の子だった。
彼女は時々なにもない虚空を見つめている時がある。それ自体はこの年頃によくあることだと思うのだが、Yさんはその何もない場所を見ながら、なぜだか笑う。
また、彼女は一人を好む性格だった。別に根暗だったわけじゃない。ただ、ふとした瞬間に彼女は姿を消すのだ。どこに行ったのかと探せば路地裏や、ある時は池の畔にいたりする。なぜそこに行ったのかと聞いても笑って誤魔化されてしまい、結局理由は誰も知らない。そんな変わった少女だった。
ある日、RさんはYさんと一緒に下校することになった。学校からの帰り道、本当なら道の途中で別れるのだが、この日は話が盛り上がって、Rさんは自分の通学路から逸れてYさんについていった。
しかし、踏切の手前まで来た時にYさんは「じゃあ」とRさんに手を振った。
ここまでか、とRさんは悟った。Yさんは自分のペースを乱されるのを嫌う性格だった。Rさんも話したかったことはたくさん話せて満足したので、そこで別れて帰ることにした。
「うん。じゃあね」とRさんも手を振って踵を返した。
元来た道を戻りながら、Rさんは何気なく振り返ってYさんの後ろ姿を眺めた。すると、Yさんがまた手を振るのが見えた。彼女もこちらに気づいて手を振ってくれたんだと思って、Rさんも嬉しくなって手を振り返した。
しかし、違った。Yさんは後ろのRさんを見ていない。彼女は背を向けたまま、目の前の踏切——線路の向こう側に向かって手を振っていた。
なんだ勘違いか、恥ずかしいな……とRさんは手を下ろした。しかしそれでは、Yさんは一体誰に向かって手を振っているのだろうか。
Yさんの視線の先に目を向けたが、4車両分ほどの広い線路があるだけで、その周囲には誰の姿も見えなかった。
だというのに、Yさんは嬉しそうに手を振っている。誰もいない線路の向こう側を。
翌日、RさんはYさんに昨日のことを尋ねた。
「あの時、誰かいたの?」
Yさんはあっさりと「うん、おばあちゃん」と答えた。
「おばあちゃん? Yちゃんの?」
「ううん。わたしのおばあちゃんじゃないけど」
そう言って彼女は少し照れたように笑う。
「やさしいおばあちゃん」
そうなんだ、と釈然としないままRさんは笑った。少し不思議だが、Yさんが嬉しそうなので、別にいいか、と思ったのだ。
後日、また彼女と下校を共にすることがあった。
学校が早く終わったので、学期末の時期だったと思う。時間に余裕があったので、RさんはYさんとゆっくりと歩きながら雑談に興じていた。
だらだらとおしゃべりは続き、やがて例の踏切までやってきた。踏切の手前、少し外れた場所に小さな空き地があったので、話し足りなかった二人はそこで立ち止まって話し込んだ。
その時、Yさんは何かに気づいたように踏切を振り返った。
「かんしょーさん」
Yさんはそう言うと、踏切に向かって手を振る。
「かんしょーさん?」
Rさんが首を傾げると、Yさんは秘密を打ち明けるようにRさんの耳元に口を寄せて、小さな声で話した。
「かんしょーさんは物知りなんだよ。なんでも教えてくれるお兄さん」
そしてまた線路を振り返って手を振る。
しかし誰の姿もない。踏切の向こうには線路と、さらに向こうは雑多な住宅街が広がっているだけ。そこに『かんしょーさん』と言われて手を振り返す男性の姿はなかった。
RさんはたまらなくなりYさんに話しかける。
「ねぇ、その人、何を教えてくれるの?」
「いろいろ」
Yさんは尋ねられたことが嬉しそうに笑う。
「私が知らなかったことを教えてくれる。でも、難しくてまだやったことないことがたくさんあるんだ」
すると、Yさんはハッと閃いたような顔をしてRさんを見た。
「そうだ。ねぇ、いっしょにしない?」
Rさんが「何を」と問うよりも早くYさんはRさんの手を引いて走り出した。
「かんしょーさんが教えてくれるから、Rとなら、できる気がする」
そう言ってYさんはRさんを連れて、踏切の手前まで連れてこられた。
田舎で路線が少ないのためか電車は中々来ない。信号機も静まり返っていた。
Rさんは不安でドキドキと心臓が鳴る音を聞いた。
「かんしょーさん」
Yさんが線路に向かって声をかけた。Rさんは誰かがひょっこりと顔を覗かせることを期待したのだが、やはりと言うべきか、誰も現れなかった。
「……かんしょーさん、どこ?」
RさんはYさんに問いかけたが、彼女は答えなかった。
誰もいない踏切に向かってしきりに頷いている。頬を赤くして、何かに”聞き入っている”ようだった。
一体彼女には何が聞こえているのか? Rさんにはわからなかった。
その頃には、さすがに幼いRさんもこれは異常だと感じ始めた。
Yさんは確かに不思議でちょっと変わった友人だったが、今の彼女はそういったものを通り越して――不気味だ。
早く帰りたいと思った。Yさんを置いてこのまま帰ってしまおうかと本気で悩んだ。すると突然Yさんが「わかった」と声を上げたので、驚いて彼女を見た。
YさんはRさんに目を輝かせて振り返る。「話聞いてたよね。いっせーの、でやろうね」と笑って言った。
Rさんにはかんしょーさんの声は聞こえない。困惑して「何を」と二度目の問いかけをYさんに投げた。「ねぇ、何をするの?」怖くなって再度尋ねる。Rさんは知らないうちにY さんの腕を掴んでいた。
しかしYさんは興奮したように息を荒くして笑うだけでRさんの声は届いていないようだった。
「ほら、いっせーの!」
そのままYさんはRさんの手を振り払うと、その勢いで思いっきり目を指で突いた。
Rさんは悲鳴をあげて退いた。
目から指を外したYさんは、なぜだかその血で濡れた両手を擦り合わせながら、下を向いて笑っていた。
その時、Y さんは何事かを口にした。今となってはRさんもはっきりと覚えているわけではない。
しかし、Rさんには次のように聞こえたという。
「これでいやなものをみなくてすむ」
そのあとのことはあまり覚えていない。
とにかくRさんはYさんが怖くなってその場を逃げ出した。悲鳴をあげながら踏切に背を向けて元来た道を走ったのだ。
無我夢中に走って、いつの間にか自宅のすぐ近くの道に辿り着いていた。
きっと、さっき見た光景は嘘だ、夢だったのだと思った。そう思いたかった。
後日、Yさんが死んだことを知った。踏切を無視して電車に轢かれたのだと、親が言っていた。
いつ死んだの、と聞きたかった。しかし、Rさんは怖くて聞けなかった。
あの時Yさんは「いっせーの!」と言った。
彼女はRさんも一緒に自分の目を潰してくれると思ったのだろうか。
Yさんが死んだのは、あのRさんが逃げたすぐ後なのだろうか。目を潰して見えない彼女は、そのまま電車に轢かれてしまったのだろうか。
Rさんはしばらくの間、他人の指というものが怖くなった。
自分の指だって、不意に油断した時に誤って目に入ってしまうのではないかと思うと怖かった。何度も指が目を潰すところを想像してしまって夢にも出た。
この小さな指だって、簡単に視界の全てを黒く塗りつぶすことができるのだ。
Yさんは結局事故死ということになったらしい。
Rさんは自分の見たYさんの最後を両親に話すことはできなかった。
結局、Yさんが手を振っていた”優しいおばあちゃん”や”かんしょーさんというお兄さん”が一体誰だったのか、Rさんは今も知らないという。
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