第6話 ひょっこりと
大学生のDさんが住むアパートは、玄関に入るとまず台所が出迎えてくれる。右手を見るとトイレと浴室。正面には六畳の洋室……という一般的な1Kの間取りをした部屋だった。
ある日、Dさんが風呂上がりに浴室の前で頭を乾かしていると、誰かに見られている気配がした。
夜の十一時のことだった。
気配、と言ってもそんな気がしただけだ。気のせいだろうと思ったから、特に気には留めていなかった。
Dさんはタオルを片手に部屋に戻ろうとした。部屋の扉は引き戸で左から右にスライドさせて開けなければならない。取っ手を掴もうと手を伸ばした時、その扉が既に数センチほど開けられていることに気づいた。
部屋の電気は消してあるので間隙の向こう側は暗闇に隠れて見えない。しかし、その隙間は、誰かが片目で覗くのにちょうどいい広さだった。
少々薄ら寒い気がしながらも、偶然開いていたのだろうと思って扉を開けた。
しかし、その向こうで何かが動いたのが見えた。
小さな影で、扉が右に向かって開くと、その影も扉の動きに合わせて右に向かって動くのが見えた。まるで、扉の影に隠れていて、慌てて逃げたような動きだった。
Dさんは部屋の明かりを点けたが、そこにはだれもいなかった。
次の日、Dさんは大学の研究が予定よりも長引いたため、帰りが遅くなってしまった。Dさんは電車通学で、普段はアパートから駅まで歩いている。しかし、その日は友人の車に乗せられてアパートの前まで送ってもらえることになった。
車内では二人で学校の愚痴、研究についての話し合い、ちょっとした恋の話しで盛り上がった。
Dさんのアパートの前まで来て車が止まった時、突然友人が「あれ?」と声を上げた。
「ねぇ、部屋、電気ついてるよ」
え、と声を上げてDさんも車窓から見上げると、確かにDさんの部屋の窓には明かりが点いていた。
「電気、消し忘れたかなぁ」
そう言って首を傾げたその時、フッと部屋の明かりが消えた。
――部屋に誰か、いる。
Dさんはゾッと背筋を震わせた。思わず友人の方を黙って振り返る。友人も目を見開いて窓の外を見ていた。
「……ねぇ、あいつじゃない?」
友人は恐るおそるといった感じで言った。あいつ。つまり、Dさんが以前付き合っていた彼氏のことだ。
Dさんは一ヶ月前まである男性と付き合っていた。普段は優しいのだが、常にDさんの動向を探ろうとする束縛癖のあった彼に辟易して、Dさんは二年の付き合いの末別れた。中々説得するのに苦労して、今では顔も見たくない程嫌っていた。
その男からは合鍵を取り返したはずだが、スペアキーでも作っていたのだろうか。 だとしたら、男のその執念にまた背筋が寒くなる。
「部屋までついていこうか?」
友人の気遣いにDさんは感謝した。正直、部屋まで一人で帰る勇気はなかった。
Dさんと友人は連れ添って、部屋の玄関口まで、足音を立てないようにそっと向かった。
扉に手をかけると、鍵は閉まっていた。
Dさんはカバンからいつも使っている鍵を取り出して開けた。
そっと扉を開けて中を覗き込むと真っ暗だった。
友人がスマートフォンのライト機能で、扉の隙間から中を照らしてくれたが、人の気配はなかった。
Dさんと友人は顔を見合わせる。とりあえず二人は中に入って照明をつけた。
やはり部屋には誰の姿もなかった。人の隠れられそうなクローゼットやベランダ、収納棚の中まで探してみたが、人のいた痕跡もない。
Dさんは首を傾げて照明を点けたり消したりしていたが、特に異常はなさそうだ。
「とにかく、何もないようでよかったよ」
友人はそう言って胸を撫でおろした。それじゃあ、と笑って手を振って出て行く。それにDさんも「ありがとう」と手を振って別れた。
あの男じゃなかったのだとしたら何が原因だったのだろう、と釈然としない気分だけを抱えながら、とにかく食事を摂ろうとキッチンで料理を始めた。
普段通りに食材を切り、フライパンで焼いて、皿に盛りつけて、さぁ部屋へ戻ろと振り返った時、部屋の扉の影からひょっこりと男の子が顔を覗かせていた。
それは、間違いなく子どもだった。小さな、小学低学年ほどの外見をした男の子。前髪をまっすぐに切り揃えており、にっこりと口角を上げて笑っていた。
そいつが、扉の影からひょっこりと顔を突き出して、キッチンに立つDさんを見ている。
Dさんは思わず後ずさった。手に持っていた皿が落下して廊下に料理が散乱した。
男の子は笑顔を浮かべたまま、扉の影、暗い部屋の奥へと引っ込んでいった。
Dさんは扉を乱暴に開けて、部屋の照明を点けた。
しかし、部屋には子どもの姿はいなかった。
それからというもの、時々男の子が姿を現すようになった。
それは決まって、Dさんがキッチンや廊下、浴室にいる時——明かりのない部屋から扉の影に隠れてこちらに顔を覗かせる。
また、逆に部屋の照明が勝手に点いていることもあった。照明を消して眠ったはずなのに、翌朝起きてみると煌々と照明の明かりが目に沁みた。
あるとき、友人と旅行に行った帰り道でアパートを見上げると、また部屋が明るくなっている時があった。その時、光を透かして白くなっていたカーテンに、小さな子どもの影が横切るのを確かに見た。
その男の子は必ず夜の暗い部屋に現れる。ぽっかりとした暗闇から、Dさんのことを覗くように顔を出すのだ。
笑いながら。
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