第5話 ノック
その時のことを思い出すと、Eさんはまるで包囲されているようだと言った。
Eさんは大学一年生で独り暮らしだ。田んぼが広がる田舎町のアパート、その1階の一番奥の角部屋に住んでいる。広さは8畳ほどの、ごく一般的な賃貸住宅だった。
Eさんが異変に気づいたのは11月のうすら寒い朝だった。
『コンコン』と玄関からノックの音がした。
宅配便か……もしくは友人が来たのだろうか、とEさんは腰を上げた。Eさんの家は学校にほど近い場所にあり、よく友人たちの溜まり場にされていた。
宅配便なら構わないが、友人だったら部屋を掃除しなければいけないから面倒だな。
そんなことを思いながらEさんは急ぎ足で玄関に向かい、扉を開けた。
しかし、扉の向こうには誰もいなかった。辺りを見渡しても人の気配はない。
玄関の向こうには無機質なアスファルトが広がる狭い駐車場がある。その向こうには単車線の道と田んぼが広がっている。これ以上ないほど視界の開けた場所だった。
しかし、誰もいなかった。
確かにノックの音を聞いたと思ったのだが、思い過ごしだったのだろうか……そう思いながら扉を閉めて、それから、ふっと疑問が浮かび上がった。
———そもそも、来訪者はどうしてインターホンを鳴らさずにノックをしたのだろうか?
友人なら、もしかしたら軽い気持ちで扉を叩きながら呼ぶこともあるかもしれない。だけど、さっきのノックからはそんな気軽さや親しみを感じなかった。初めて訪れた家の扉を、静かに控え目に、遠慮がちに叩くような音だった。
だが、一体それは誰だろうか?
得体の知れない来訪者。それがEさんが最初に抱いた違和感だった。
それからも時折、名乗りのないノック音が続いた。
コンコン、と手の甲で軽く叩くような感じの呼び出し音。しかし扉を開けても、そこには誰の姿もない。
それは必ずインターホンは鳴らさない。控え目なノックの音と共に現れる。
———しかし、姿は決して見せなかった。
これは異常だ。
そう思うのだが、具体的に何が、と問われると答えることができなかった。
ノックの音が聞こえる。扉を開けるが誰もいない。
……ただ、それだけ。
それだけのことを友人に話すのはなんだか憚られたし、相談するとしてもどう説明すればいいのかわからない。
だから、気にしないことにした。
きっと誰かの悪戯だ。たぶん、友達。それか近所の子どもたちだろう。
ノックの音は全部無視することにした。そんな異音、無視すればないと同然だし困ることではない。慣れてしまえば気にならなくなった。
とある深夜の2時、Eさんは趣味の漫画を描いていた。印刷所の締め切り日が近づいており、なかなか進捗がよくなかった。
少し休憩をとろうと机を離れてキッチンの冷蔵庫から冷たい水を出す。
コップに注いで飲みながら、ふと廊下の向こうにある玄関扉が目に入った。
———明日もあの扉は鳴るのだろうか。
ノックの音が頭の中で思い出された。Eさんは頭を振る。寝不足気味の脳が嫌なことばかり考えてしまう。
「……悪戯の犯人もよくやるよ」
自分に言い聞かせるように、わざと口に出して言った。
その時、扉が『コンコン』と鳴った。
Eさんは飛びつくように扉に近づくと、サッと開いた。今日ばかりは気が立っていて無視することができなかった。
しかし、やはり誰もいない。
Eさんはイライラとして扉を蹴った。今まで溜まっていた鬱憤が爆発してしまい、猛烈に犯人にことが気に入らなかった。
Eさんは外に出て周囲を歩き回った。駐車場に止まっている数台の車の裏、左右に伸びる道、田んぼの土手。しかしそのどこにも、誰の姿もなかった。
その日は冬の真っさ中で、外の空気は冷たかった。少しずつとEさんの熱が冷めていく。それと同時におかしい、という違和感ばかりが強まっていった。
Eさんがノックから扉を開けたわずかな時間に隠れられる場所なんて、やはりここにはどこにもないのだ。
そして、こうしている間にも周囲には人の動く気配など一切ない。
ふと、どうして今日は夜中にあの音が鳴ったのかと不思議に思った。
今までは午前中にばかりノックの音は鳴っていた。そう思っていたのだが。
(もしかして、今まで気づかなかっただけで、夜中にもノックはされていたのか?)
——深夜の眠っている時刻、見知らぬ誰かが扉の前に立ってノックをしている。
その様子を想像してEさんはぶるりと震えた。
「……疲れているんだ」
この数日を原稿に追われて睡眠不足だった。それが原因でこんなおかしな妄想に取りつかれているのだ。
Eさんはため息を吐きながら玄関に戻り、扉を閉めた。
すると、背後からコンコン、という音がした。
体が固まる。
今閉めたばかりの扉を、誰かがノックしたのだ。
Eさんは振り返って、扉を開ける勇気は出なかった。
その日から、ノック音の現象は頻度を増し、さらにおかしな動きを見せるようになった。
あるとき、Eさんはベッドで微睡んでいると、壁からコンコン、と音が鳴ったことがあった。
Eさんの部屋はアパートの角部屋。その壁の向こうには隣家があり、その間には1メートルもない狭い隙間があるだけ。そこから、コンコンと拳を打ちるける音がしたのだ。
それから時計が狂った。なぜだか、時刻を午前1時から2時の間を彷徨うのだ。電波時計で今まで時刻が大幅にズレるということがなかった新品なのだが、電池を買えても改善されなかった。
Eさんは段々とノイローゼな気持ちになってしまった。
だから、というわけではないが、ある日友人を家に招いて泊まってもらうことにした。漫画の手伝いをしてもらうためだ。
二人で机を並べて、静かに作業を進めている間、いつノック音が鳴るのではないかと気が散った。そのことを友人は不思議そうな顔をしていた。Eさんは笑われると思って、友人にはノック音のことは話さなかったのだ。
しかし、その日は何の音も鳴らなかった。
漫画の原稿を描きながら朝日に気づいた時、少々拍子抜けな気持ちがした。
——なんだ、鳴らないのか。やっぱりあれは気のせいだったのか。
そう思うと気が楽になった。今まであんな小さな音で気になっていたのが馬鹿みたいに思えた。
朝7時ほどに友人が帰ると言ったので、Eさんは原稿を手伝ってくれた感謝と共にそれを見送った。
ほとんど徹夜にも関わらずEさんは上機嫌だった。
夜中を通じて作業のしっぱなしで体が凝っていた。軽く伸びをして、鼻歌を鳴らしながら、用を足そうとトイレに入って便器に座った。
(仮眠をしたら大学に行こう。それよりも漫画の仕上がりが気になるな……)
その時はそんなことを考えていたと思う。
しかし、その瞬間——足元からコンコン、と音が鳴った。
足の真下——床の裏側から、誰かが拳を打ち付けている。Eさんの足の裏にしっかりとそのノックの振動が伝わった。
誰かがいる。
Eさんは確信した。
その後、Eさんはすぐにそのアパートから引っ越した。
次に住み始めた家には玄関に盛り塩を置いているということだった。
果たして盛り塩の効果のほどはわからないが、あれからはおかしなノック音は聞いていない、ということだ。
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