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八月三十一日、平成の夏も今日で終わる。太陽も夏の暑さを少しだけ忘れたらしく、秋の気配を匂わせた風が窓を通る十六時過ぎ、浴衣の袖を見つめながら彼を待つ。
近くの神社では、今年最後のお祭りが開かれている。最も熱量が溢れた神輿の鈴の音と、祭囃子の音楽に心が波打つ。
「はい! 出来たわよ!」
後ろで髪を結ってくれていたお母さんに肩を叩かれ、看護師さんが用意してくれた全身鏡の前へ立つ。
天色の生地に白い朝顔が咲いた浴衣、リボン風に結われた白が交わった桃色の兵児帯。ゆるめにまとめたお団子には水色の花飾りが挿されている。お祭りには行けないものの、お母さん達が着付けてくれたのだ。
「うん! かわいい! 雪は青系の浴衣がよく似合うわね〜、さすが私の妹」
「そ、そうかな」
自慢げな顔をして頷かれ、なんだか照れくさくなってしまった。
「これを見たら、彼もイチコロかもね~? お母さん」
「あら、そうね!」
「そ、そうゆう意味で着たわけじゃないよ!」
「照れちゃって、かぁわいいやつめ〜〜!」
「ふふ、本当ね」
「違うから!」
どれだけ否定しようとも温かい目で見つめられ、まるで炎天下の中を歩いたように私の顔は真っ赤になってしまった。
そんな中、額に軽く汗をかきながら、お父さんがカメラバッグを下げて病室へと現れた。
浴衣姿を大袈裟なくらい嬉しそうにしては少しだけ涙ぐみ、私は妙な照れくささにはにかんだ。
お父さんは学生時代から大事に使っているカメラを片手に、私を中心に家族を撮り続け、そして初めて……カメラを触らせてくれた。
今までの思い出を振り返っていると、気づけば十八時まで十分を切っていた。
「あら、そろそろ十八時ね。お母さん達はちょっと出掛けるわ」
「あ、うん」
「ほら、お父さんも行くよ~」
「あ……いや、俺はもう少し……」
「何言ってるのよ、あなた。行くわよ」
「あ…………だから……」
ここにまだ居たいという顔をしていたお父さんだったが、無慈悲にもお母さん達によって両脇を掴まれ、引きずられる形で病室から去った。……なんだかお父さんが不憫に見えた。
時計の長針はじわりじわりと進み、まもなく十二の文字を指そうとしていた。十八時まであと三分……二分……一分……。時を刻むごとに私の鼓動は早くなる。この音が周りに聞こえているのではないかと思うくらい、耳の奥から忙しなく轟く。
丁度短い針が十八時を指した時、彼は両手に沢山の食べ物とおもちゃを抱えて現れた。
「雪! 見ろよ! 屋台でいっぱい買って……」
満面の笑顔で現れた彼の言葉はそこで止まり、ほんのりと頬が色づく。
「どうかした?」
「あ…………浴衣、着たんだ……」
「あ、うん。お母さん達が着せてくれて……」
恍惚とした顔で見つめられ、なぜだが私まで顔を赤らめてしまった。何度目かの恥ずかしさと照れくささが、イワシの群れに巻き込まれたように渦巻く。
「えっと……その浴衣、すっげえ似合ってるぞ!」
「あ、ありがとう」
彼は堂々とそういうことを言うものだから、こちらはいつも照れてばかりだ。
特に、今日は物凄く照れ疲れしている気がする……。
それにしても……、
「屋台で随分買い込んだみたいだね……」
「まあな!」
彼は屋台で買ってきた、たこ焼きや焼きそば、焼き鳥に綿飴、その他ゲームの景品などをどさどさと置き、机のほとんどが景品と食べ物で埋め尽くされた。
「近くで見るともっと多いね……」
「色々買い込んできたからな。景品はほとんど射的で取った!」
彼はこういう時、本当に嬉しそうに笑う。射的は彼の得意分野で、よくお祭りで景品を大量に持ってくる。子供の頃から何も変わっていない姿に、自然と口角が上がる。
「……あはは、良かったね。そのうち出禁にならないようにね」
「おう!」
ひまわりのように笑う彼を見ていると、心がぽかぽかして幸せな気持ちになる。
「あと、雪にはこれ!」
そう言って彼は、リュックから大きな林檎飴を取り出した。
「わぁ……!」
「雪の好きな林檎飴、頼んで大きいのにしてもらったんだ!」
「ありがとう……」
美しい曲線を描いていた林檎飴は、半透明な赤いに蛍光灯が反射し、小さな虹色がぱちぱちと煌めいていた。それはまるで、世界に一つしかない大粒の、魔法で着飾られた宝石のようだった。食べられないにしても、惜しくなるほどに。
「あとな、絵も完成したぞ!」
「え! 本当!」
大きな手提げカバンからいそいそとB4のキャンパスを取り出し、表面を下にして私に手渡した。
破いたり汚さぬよう、そっと受け取り手元に置く。私をモデルにした絵がどんなふうに完成したのか……手渡された途端、私の心臓はうるさく高鳴る。
慎重に裏返した先には…………紙一面に広がる不思議な宇宙だった。
絵の中心には何かを楽しそうに語っている私がいて、その周りに銀河鉄道の夜が穏やかな色合いで、きらきらと輝いては霞んで……また輝いていた。
病室は窓からの逆光でほんのり薄紫色のレースを被り、徐々に青へ移り変わって宇宙と融合している。
私の周りには、ぬらぬらと黒光りする列車が白い煙を吐きながら廻る。左から順に、牛の先祖の骨を調べる大学士達、美しい白銀の鷺達を捕まえる赤髭の鳥捕り、神々しく輝く南十字、優しく燃える赤い蠍座が描かれていた。
周りの色が喧嘩しないように組まれた繊細な色合いで、細かい所まではっきりと描き込まれている。人物と銀河鉄道の世界を着飾るよう、微かに淡く光る星々と、ビーズで表現された突起状の黒く細長いクルミ、カチカチ光る水晶の砂が一面に広がっていた。
銀河鉄道の夜を語り合ったあの日、私達がいたのは無機質な白い部屋ではなく、華やかでありながらもしとやかな、無限大に夢が広がる銀河の中にいたのだ。
「わ……ぁ……! 凄い! 凄く綺麗だよ! 色も形も整ってて…………まるで、この世界に本当にいるみたい」
「そ、そっか!」
大袈裟なくらいに褒められると、彼は顔を赤らめながら照れてそっぽを向く。昔から一寸たりとも変わらない反応に、つい笑い声が出てしまう。
「うん! すっごく綺麗だよ」
彼はさらに顔を赤らめ、真後ろを向くほどに上半身を捻らせる。
夢中になって話し続けていると、いつの間にか空は藍色へと変わり、より多くの人が神社を尋ねていた。
十九時になると、名物の花火が神社の近くで上がり。少し田舎の方に当たるこの町では高い建造物もないので、綺麗な花火を毎年病院から見ることができる。
「もうすぐ花火が上がるな」
「うん……」
彼は部屋の電気を消すと椅子を窓際に持って行き、花火が上がるのをじっと待つ。
一生懸命空を見つめる姿が、おやつを待っている子犬のようで可愛らしかった。
時刻通り一発目の花火が打ち上がり、大きな破裂音と共に赤い花を夜空に咲かせた。
太鼓よりも重厚な音は体を芯から震わせ、次々と咲く大花は瞳の中で鮮やかに回っては消えていく。
「おぉ! 一番でっけぇ花火!」
「うん、とっても大きくて、綺麗……」
花火を見上げているその瞳には、宝箱を開ける時みたいな高揚感が溢れ、宝石みたいにきらきら光っていた。
花火は青、赤、黄色にオレンジ、ピンクや緑など色とりどりに咲いては散って……散っては咲いてをひっきりなしに繰り返す。一瞬しか咲かない花火の命は、人間よりも蝉よりも短く、その姿は何よりも儚く堂々としていて、ただただ美しく……羨望する姿だった。
花火が始まり二十分ほど経つ頃には、私達の会話も少しずつ途切れていった。
花火の終わりが近くなる程漠然とした恐怖が近づき……彼と話す力が徐々に潰え、顔すら見れなくなってしまった。それでも、言わなければならない言葉は喉まで出かかっている。半年前から言えずにいた言葉は、今も頭の中でぐるぐると渦巻いている。
震える唇を何とか動かし、捻り出したか細い声で呟く……同時、大きな花火が咲いた。
「ごめんね……」
返事は帰って来なかった。彼は何も言わず花火を見ているのか、それとも花火の音で聞こえていないのか。どちらなのかは分からないが、顔を見ることはどうしてもできなかった。
「ごめんね…………」
今度は花火の音と被っていないけれど、言葉は帰って来ない。部屋の中には花火の音しか響かない。
私がもう一度言おうとしたが、彼によって遮られた。
「……なんでだよ」
その一言は私の背中に重くのしかかった。追及されたくない私には、彼の言葉が槍のように刺さるのを感じた。
「だって……約束を守れないから……」
「だからなんでだよ」
再び降り注ぐその言葉は、またしても私の背中に重く……重くのしかかる。
何かに阻止されているかのように、私の喉からは何も出てこなかった。
「なんでそんなこと言うんだよ。雪の悪いところは変なところで諦めるところなんだよ。我慢強いくせに、変なところで弱くて……俺より断然賢いのに……時々馬鹿で…………」
声は徐々に震え出し、顔を上げて彼の方を見ると……微かに肩が震えていた。
「だから!」
スツールを倒すほど勢いよく立ち上がった彼は、なりふり構わず私の手を掴む。
「簡単に諦めんじゃねぇ! 馬鹿! 手術が失敗するかもとか考えんな!」
彼の顔を見た瞬間、息が止まるような気がした。
常に太陽のような笑顔を浮かべ、あまり涙を見せたことのない彼の目から、大粒の涙が流れていたのだ。
その言葉に驚愕と後悔が溢れ出し、何かが小さく破裂した次の瞬間には、よどみなく涙が零れ言い表せない感情に心が支配される。
「な……なん、で、しっ……て…………」
「……おばさん達が話してるのを偶然聞いたんだよ。成功するかわからないけど、やらなきゃ死んじゃう手術があるって……」
「____……っ……! ……ごめん、ごめんね…………私……不安で、でも何も言えなくて…………生きたいのに諦めて! あなたにまで嘘を吐いて! ずっと……生きようって強く思ってた……でも……不安の方が大きくて……皆がいてくれたのに…………怖くて、怖くて堪らなくて____……生きたいよ。もっとずっと生きてみたい! 学校だって行ったことないし、友達も作りたいし、まだまだしたいことばっかりだよ!」
「だったら、だったら! 諦めんなよ! 病気にも手術にも負けてやらないって気持ちで挑まなきゃ、成功するもんもしねぇよ! 俺だってもっと雪の話聞きたいし、小説も読みたい! “約束”だって守れてない!」
“約束”……、彼は忘れてなんていなかった。幼い頃に交わした小さな夢。
……ずっと、私が“約束”を果たすのを待っててくれたんだ。
「うん……うん!」
そうだ、彼と交わした“約束”は、まだ守れてない。
________……ここで諦めちゃいけない!
「ありがとう……言ってくれて、ありがとう。もしかしたら死ぬかもしれないって思うと、ずっと気持ちが辛くて……そんなことをあなたに伝える勇気も出なくて……きっとこのままだったら、私……負けてた」
本当はずっと、背中を押してくれる言葉が欲しかった。優しく寄り添ってくれる家族にも勇気付けられたけど、丸まった背中を蹴るぐらい強い言葉を、彼から欲しかったんだ。いつだって彼の言葉は希望の光りで、今だってそう……私が欲しかったものを全部くれた。
肩を震わせて泣きじゃくる私を、彼は優しくも力強く抱き締めてくれた。
心の中には溢れんばかりの感謝が溢れて、熱く、熱く燃えている。涙は今も止まらない。止める方法すら今は分からない。ただ、今はこの涙を流すだけの時間が欲しい。
「絶対……“約束”を守ってみせるよ。絶対」
「あぁ、待ってる。いつでも描けるよ」
「……うん。…………あのね、もうタイトルは決まってるんだよ。私達みたいな、二人の子供のお話……それはね____」
祭りの最後を示す大きなしだれ柳が空へと舞い上がり、小さな線香花火を蛍のように身に纏い、今までで一番美しく咲き乱れて爛々と散っていった。
人々の歓声が収まった後は、小さく揺れる風鈴の音と、一生懸命に夏の終わりを謡う一匹のひぐらしだけが病室に響き渡った。
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