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 夏休みに入ってから早数日、もう八月になってしまった。夏の暑さがもっとも厳しくなり、冷房を点けた上で雨戸を閉めなければ溶けてしまうほどだった。

 俺は病室で最後の宿題に取り掛かっている。相も変わらず、回答を間違えてはダメ出しをされての繰り返しだった。今は俺の宿敵と言っても過言ではない国語に取り掛かっている。その名は『読書感想文』……最も苦手とし最も不可解な宿題である。俺でも読めるだろうと雪が用意してくれた童話の内容を思い出しながら、なんとか賞賛の文章を捻り出す。小学校から一貫して存在する謎の宿題……一体誰がこのような文化を思いついたのか。是非とも皮肉の感謝状を送りたいくらいだ。…………そんな文章力はないけれど。

「あー……終わった~」

 毎日宿題をしていた所為か、頭がオーバーワーク寸前で少し痛くなり、力無く机に沈み込む。

「雪~、誤字脱字見てくれ〜俺にはもうそんな気力はない〜〜〜。……雪?」

 突っ伏したまま作文用紙を振っていると、返事が帰って来ないことに疑問を抱き顔を上げると、雪は穏やかな顔をして眠りこけていた。

「俺が宿題と葛藤してる間に眠るなんて……」

 肩で小さく息をして、静かに眠っている雪にちょっとだけムッとしたが、天才的な閃きが電撃のように降りてくる。おもむろに鞄からスケッチブックを取り出すと、筆に任せるまま彼女を描きだす。

 雨上がりの中庭のように黒く濡れた繊細な長髪は、太陽の光を反射して天使の輪を描く。真冬の空に振る小雪のように白く透き通った肌は、一度も穢れたことのない純潔さを感じさせた。細く長い睫毛にかかる前髪は、クーラーの風にそよそよと揺らいでいる。小さな枠に切り取られた青空と入道雲を背景に、真っ白な病室の中で鮮麗に息づいていた。

 その美しいもの一つ一つを逃さないように、俺はスケッチブックに筆を走らせ記憶する。

 風に吹かれた風鈴は、大人しく可憐な音色を響かせては霞んで消えた。

 呆然とした静寂に包まれた病室は、俺達だけをこの世界から切り離し、停滞した時間へと落とし込んだ。


     ※     ※     ※


「____________……あれ? 私、いつの間に寝たんだろう」

 私は朦朧とした頭で辺りを見渡し、スケッチブックを敷きながらうつ伏せで眠っている彼を見つける。私が眠っている間に彼も眠ってしまったのだろう。

彼が敷いているスケッチブックをそっと取り、最初から順に絵を見ていく。子猫の絵、向日葵の絵、小さな路地や学校の教室の絵など、見ているだけで心躍る絵ばかりだった。学校の絵は多分休み時間で、話し合ったり、トランプをしたり、ふざけ合ったりしている皆で溢れて…………とても、生き生きしている。行ったことのない中学校は、絵を通すだけでとても楽しそうで、時折夢に見る憧れの場所だった……。

 いくつもの針を刺された感覚に胸が痛み、急ぎめにページを捲ると…………そこには、眠っている私と空虚な病室に映える青空が描かれていた。右下に書かれた日付は今日を示しており、ついさっき描いたのだと理解する。

そういえば、自分を描かれるのが恥ずかしくて断っていたのに、眠っている時に描かれは怒って、またそれを何度も繰り返して……。

つい、小さく笑い声が漏れる。思い出は小さなきっかけで瞼の裏へ鮮明に映る。

向日葵のような笑顔でいつも明るく接してくれた彼は、私にとっては青空に映える炎陽のようだった。

光をたくさん浴びてどんどん輝かしくなる彼は、私には似ても似つかない存在だろう。

けれど、きっとこれからも大切で、大好きな人だろう。

今回も勝手に描かれていたものの、何だか怒る気にはなれなかった。とても繊細に描かれたこの絵は、私のことをよく見ていてくれていることの証明に思えたからだ。

泥棒のようにこそこそと描くんじゃなくて、私が起きている時に描いて欲しい気持ちと、恥ずかしいと思う気持ちがないまぜになっているのは秘密だ。散々断ったのに、今更描いていいなんて言えるはずもないのだ。

横を向くと、彼はよだれを垂らして気の抜ける顔で寝ていた。明るいくせ毛と、柔らかいほっぺが子犬みたいで少し可愛らしい。

そっと彼の頭を撫でてみる。柔らかい髪の毛は、撫でる度に指に絡まろうとし、なんだかおかしくて吹き出しそうになる。

………………いつまでも彼と笑い続けたい。そう願うことも、罰なのか。

ふと、昔の小さな小さな想い出が蘇った。彼はまだ、あの時のことを憶えているのだろうか。例え忘れていても、きっと私は守ってみせよう、きっと………………。

私は左手に力を込める。あの時を……この気持ちを指の隙間から溢さぬよう、揺らがないよう……。

「ふあ~あぁ……」

 突然、彼が大きなあくびをして上半身を起こす。私は頭に置いていた手をさっと取り除き、なんでもないような顔をして窓の方を眺める。

「あれ? 俺いつの間に寝たんだっけ……」

 彼は寝ぼけ眼のまま、風船のように柔らかい音調で呟く。

 彼は「んーっ……」と背伸びをして、目に小さな涙を浮かべては大きなあくびをまた一つ吐き出す。

「……私が起きた時には、ぐーすか寝てたよ」

「そっかあ……。そいや、なんか頭に温かいものがあったような……」

「……べ、別に何もなかったよ」

 胸がドキリと鳴る。こんな些細なことでさえ素直に言えない私は、小さな嘘を山のように募らせていき、本当に大切なことを言えなくしてしまう。

「そうかなー。なぁんかあった気がしたんだけどなぁ……う〜ん……」

 しかし、彼が鈍感で助かってしまう自分もいる。小さな嘘に気づかないなら、きっと目の前を覆い尽くすような嘘には気づかないはずだから。

「でも、何か優しい感じがしたんだよな」

 その言葉に、さっきとは違う意味で胸がドキリと鳴る。恥ずかしさと照れ隠しが織り混ざり、私はまた知らないふりをして、視線を窓の外側に向ける。

 すっかり日が傾いてしまった空は、朱頂蘭やハイビスカスの花よりも赤い、鮮やかな茜色を着飾っていた。油絵の具をべったりと塗りたくった空は、上部を深い青で縁取られた絵画を思わせた。

「お! すげぇきれいな夕暮れだ!」

 子供のようにはしゃいだ声をあげる彼が愛おしく、その瞳に浮かぶ星に目を細める。

「そうだね……」

 この思い出は、これからもこの先も、私達の大切な思い出としてずっと残ると思うと、とても嬉しいものだった………………けれど、涙が出そうになるのはなぜだろうか?

 しばらく二人で黙って夕陽を眺めていると、彼は椅子から立ち上がり帰ることを告げる。

「また明日」

「おう! また明日な!」

 手を振って彼を見送ったのち、再び夕陽の空を眺める。時の流れは思ったよりも早く、気づけば空と世界は薄紫色に染まっていた。世界はどこかふわふわしていて、私でも自由に歩いたり走ったり、空さえ飛べるようだった。陽が隠れようとすると、空は少しずつ藍に支配されていく。天の川や星々が輝きだす時間……もう少しで夜が来るのだ。

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