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「う~ん……」

「どうしたの? そんなに唸って」

 腕組みをして唸っていると、雪は読んでいた本から目を離し問いかけてきた。

「何の絵を描くのか悩んでる最中」

「またどこかに絵を出すの?」

「うん。夏休み明けに「中高 夏の絵画コンテスト 」ってゆうのがあって、三年もやりたい奴は応募する感じで、折角だし描こうと思ってるんだ。雪に宿題を手伝ってもらったから八月は余裕たっぷりだし」

「でも、描きたいものが見つからないの?」

「そーなんだよー……」

 手短に返事をして再び頭を巡らせる。夏と言えば蒼い空に白く大きい入道雲、空の色を移した透き通る海、ハイビスカスや朝顔の花、小さな夏を感じる平凡な日常……考えればたくさん出てくるが、どれもこれもピンとこなかった。

雪を見ると、すでに本を読む体制に戻っていた。その本の題名は「春と修羅」、作者名は宮沢賢治と書かれていた。宮沢賢治ということは純文学なのだろうが、純文学は詩でさえ読めないので、何がいいのかいまいち理解できない。

「どうかした?」

 俺がジーと見ているのに気付き、可愛らしく首を傾げて問いかけてくる。

「あ、いや~……純文学って何が面白いのかなーって思って」

「ああ、この本は純文学だったね。……そうだね、純文学の中には言葉遣いが難しいものはあるけど、この宮沢賢治の作品は面白いし比較的読みやすいよ。宮沢賢治は自分が感じた世界の美しいところを、思うままに描いた作家だと私は思うよ。ただ読むんじゃなくて……そう……このきらびやかな世界を想像することで、宮沢賢治が一生の内で感じてきた世界が目に浮かんでくるんだ……」

 雪は心から楽しそうに言い、すっと瞼を閉じる。きっと彼女瞼の裏には、その綺麗な世界が広がっているのだろう。俺にはその感覚がよく分からず、雪の世界へ一緒に入れない虚しさがなんとももどかしい。

 雪は瞼を閉じたまま、笑顔で語り出した。

「特別なものじゃなくても良いの。日常の中で普通に存在しているものでも、詩や物語は出来上がるんだよ」

「ふーん……そうゆうものなのか? 俺は物語が作れないから分からん」

「そうかな」

 彼女は目を瞑ったまま、ピクリとも動かずに黙った。本当は眠っているのではと思うくらい動かなかったが……涼風のように透き通った声で朗々と語り出す。

 雪にならって瞼を閉じ、一言一句逃さぬよう耳を傾ける。

「蒼い世界は 小さな地盤と針と共に

 あかい星花は 軽やかな遊び屋と共に

 小さな小鳥は太陽に光り

 白絹は色交じり

 黄金の花は 雄々しく咲く

  ………………          」

 真っ白な頭の中で、色んなものが生み出されては踊っていく。パステルカラーの青や赤、黄色や白が世界を水のように漂う。短針と長針がすれすれで頭上を通り、ゆっくりと時を刻いでいる。世界は俺を優しく抱き上げそっと包み込み、母親の腕の中にいる浮遊感を覚えさせる。泳いでいるような飛んでいるような……形容し難い感覚に、現実にいる自分の体が動き出しそうになる。

 小さくも鮮やかな声で俺を物語の世界へと誘い、現実とは別の……俺達二人だけの世界おはなしを想像し夢想していく。

 言葉が終わりそっと瞼を開けると、彼女が微笑んで問いかけてきた。

「どう? 物語の世界は」

「……そうだな、やっぱ純文学は分かんないけど、雪が今語った詩を聞いてたら、凄い綺麗なものが見えたよ。やっぱ雪の話は面白いな!」

「えっ……!」

 雪は顔を赤らめ慌てふためき、勢いよく布団で顔を覆った。

 昔から感情を表すのが苦手で、何かを褒めるとこのように顔を隠してしまう。小さい頃はこの反応に物凄く慌てていたのを思い出し、なんだかかんだ俺も成長したのだということを実感する。

 何をするにも可愛らしくて、幼い頃から俺の心を掴んで離さない存在……むかし告白をして、別の意味で捉えられたときは少なからず悲しかった。

 もう一度、雪の物語は面白いと伝えると、顔を半分ほど布団から覗かせ、少し赤い顔で照れながら小さく笑った。


 互いの絵と小説の話をしていると、三時ごろに雪のお母さんとお姉さんが西瓜を持って病室を訪ねた。西瓜を片手に夕方まで雑談をし、帰りはおばさんの車に乗せてもらうこととなった。

 なんとなく外の空気を感じたくなり、断りを入れてから半分ほど窓を開けた。

 冷房のきいた車内へ、湿っぽい夏の空気が流れ込む。八月中旬に入る今週は、比較的涼しい夕暮れになるだろうと天気予報では言っていた。しかし、夜が近くになるにつれ五月のような高温の空気がまとわりつき、夏の涙が降ってきていると感じるのだ。

 薄花色に覆われた空の向こうには、夕陽とオレンジの空がポツリと消えかけていた。その夕陽が消えると空は青藍せいらんの色へと沈み、蝉時雨の声は虚しく吸い込まれ、二度と帰ってくることはなかった。

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