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「ここ違う。あと、ここも」

「えっ⁉︎そんなに⁉︎」

「そんなに」

 夏休みに入り十日が過ぎた。俺は毎日のように病院へ通い、見舞いついでに宿題を見てもらっているのだが…、案の定数学と国語と理科が壊滅的だった。この三教科に関してはいつも赤点スレスレになってしまい、学校…いやこの世からどうにか抹消できないものかと、日々思案しているくらいだ。

「くそ~…この三教科だけはいらないと思うんだよな~俺」

 ベッド用のテーブルに顎を乗せ、うだうだと弱音を吐いている自分を横目に、雪は英語の宿題をパラパラと捲る。

「理科や数学はまあ…いいとして、英語はできるのに何で国語ができないの?」

「うっ…」

 その言葉に俺はぐうの音も出なかった。そう、なぜか英語はできるものの、国語は三教科の中で一番壊滅的なのだ。これに関しては俺だけでなく、教師でさえ頭を抱えるほどに。

「だって、国語は答えがない分、率直に思ったことを書けばいいから簡単だとかスガ先が言うけど、俺にとってはそれが一番難しいんだって」

「菅原先生の言っていることは間違いじゃないよ。そもそも、何で苦手なの?」

「物語を読んでると眠くなるというか…純文学なんかも何が言いたいのか全くもって分からないし、漢字もちょっと…あ、児童文学ならまだ…」

 指をいじくりながら魚のように視線を泳がせ、もにょもにょと言い訳まがいなことを呟いていると、彼女は溜息を一つ吐いた。

「そうだとしても、ちゃんとやらないと駄目だよ。せめて漢字はできておかないと」

「ぬぅ…」

 俺は椅子に座り直し、嫌々ながらも宿題に取り掛かる。分からない漢字にぶち当たる度に助け舟を求めるも、「自分で調べなさい」の一言で振り払われてしまった。

 雪は昔から、神童と呼ばれるほど頭が良かった。一応中学校に入っているものの、まともに通えたことはほとんどなかった。小学校でも保育園でもそうだ。だからこそ、学校に通えずとも自力で勉強し、周りと引けを取らない成績を誇る彼女は、本物の努力型の天才なのだろうと思う。

 ふと、視線を白い紙から細い線で縁取られた彼女の横顔に移す。長いまつ毛が黒曜石の瞳に差し掛かり、前髪から落ちた影は沈んだ面持ちを浮かび上がらせる。毎年夏が来ると、雪の横顔はとても寂しく見えた。その侘しく掠れた横顔のまま、線香の煙のように不安定で消え入りそうな声を響かせ、また君は夏に溶け込むのだろうか。

しばらくの間、やけに静かな病室には字を書く音と紙の擦れる音、蝉時雨と微かな風鈴の音だけが清と溶け込む。

「私は、物語は好きだよ。その人が想い描く世界を感じ取れるから…」

雪は突然、独り言のように喋り出した。

「その人が人生を削って描いた物語だから…」

 時折、彼女は思い立ったようにすらすらと喋り出す癖がある。多分、こうゆうのを独白と言うのだろう。誰に向けたでもないその言葉は、雪の内面を無防備に曝け出すようで、危うくて純粋な心の叫びのようだった。なぜこのような独白を言うのかは分からないが、こうゆう時、俺は何も言わずにそっと耳を傾ける。一つ一つの言葉を、逃さない為に。


「できた?」

「うん、一応」

 俺から宿題のノートを受け取ると、目を答案用紙と素早く行き来させる。

「…うん。できてるよ」

「あー、終わったー!」

「今日の分はね」

「心に刺さる言葉を言わないでくれ…」

 俺がそう言って机に野垂れ込むと、頭の上からクスクスと笑い声が降ってきた。顔を上げると、雪がこちらを見ながらおかしそうに笑っていたのだ。なんだか俺にまでおかしな笑いが喉からこみ上げ、周りに迷惑がかからないよう抑えた小さな笑い声は、天井や壁に反射し病室にこだまして窓から漏れていく。

 笑いがある程度収まったところで、鞄から二色のスケッチブックを取り出し、水彩で描いた朝顔の絵を雪へ見せる。

「家に咲いてた朝顔を描いてきたんだ。お前、朝顔好きだろ?」

「うん。…綺麗だね」雪の優しい眼差しが絵の全体を巡り、嬉しそうな微笑みが彼女の顔に浮かぶ。雪の喜ぶ笑顔は朝焼けのように柔らかく、それを見る度に心がぽわぽわと浮かぶ心地だった。

「絵、相変わらずうまいね」

「まあな!なんせ美術部部長で、コンテストで最優秀賞を取ったからな!」

「…え!何のコンテスト⁉︎」

 雪が目を見開き食い気味に近づく。「まぁまぁそう焦らない」と焦らしつつ、いそいそと作品と表彰状を鞄から取り出した。

「東京都の中学校の美術部から集まる、『中学生美術コンテスト』だよ。今回は水彩画がテーマだったんだ」

「そうなんだ、最優秀賞を取れるなんて凄いよ!この野良猫達の絵…凄く温かくて優しい感じがする」

 色の重なりや滲み、紙質からその情景を感じ取ろうとしているかのように、雪は余すことなく絵全体を見て回る。どことなくむず痒い鑑賞方法にそっぽを向きたくなるが、そう言ってもらえただけで俺は天にも昇る気持ちとなった。

「俺さ、国語は苦手だけど、雪の書く物語は好きなんだよな。物語の登場人物が全員生き生きしてて、読んでてわくわくするんだ」

「ふーん…」

 そっけない態度で彼女はそっぽを向くが、頬が少し赤くなっていたのを俺は見逃さなかった。残った対面時間を一分一秒無駄にしないよう、俺達は他愛もない談笑に時を費やした。

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あの物語のように… 水無月ハル @HaruMinaduki

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