エピローグ(後)

 あたしは下ネタ系の話がとことん苦手だ。すぐに顔に出るから手に負えない。

 そんなことをあいつらに知られたら、これまで築き上げてきたあたしの威厳というものが土台から崩れ落ちてしまう。

 だからあたしは顔を見られる前に逃げ出した。

 とくに目的地があったわけではないけれど、気付いたらあたしの足はグランドのフェンス際へと向かっていた。 

 ドラマなどではあたしのようなはぐれ者がいる場所といえば屋上だけれど、あいにくこの学校に屋上はない。 

 だから自然とここに引き寄せられてしまう。


 いつもの猫がニャーニャーと鳴きながら顔を見せた。

 デブっと太り気味の茶トラの猫だ。


「あれ? 今日は一人にゃのか? 相棒はどうしたにゃ?」


 あたしが猫語で話しかけると、茶トラ猫はフェンスの向こう側で『にゃ?』と首を傾げた。

 そうだよな。あたしが勝手に猫語と思っているだけで、本当に猫に通じる訳じゃないものな。そんなことは分かってる。

 何か食いもんあったかなー?

 ごそごそとスカートのポケットを手で探っていると、茶トラ猫は耳をピクッと動かし、『にゃ~ご』と鳴いてとことこと歩き出す。

 また振り向いて『にゃ~ご』と鳴く。


「…………」


 『俺について来い』と言っているのか? イケメン風に?

 こいつの性別は知らないのだけれど、あたしの中ではこいつはオスということになっている。何となく雰囲気がオスっぽいだろ?


 ――おいちょっと待て。あたしはさっきから誰に説明してるんだ?


 また猫が鳴いて振り向いた。


「……おいマジか?」


 もうあたしの中では、ついて来いと言っているとしか思えなくなっていた。



 ▽



 僕は今、猛烈に興奮している。

 フェンスの向こうにあの・・白黒の猫が表れ、じっとこちらを見ているからだ。

 食べかけの弁当の蓋を閉じ、いそいそと鞄からあれ・・を取り出す。 


「チチチ、おいでおいで。ほら、これ好きでしょ~? 食べにおいで~」


 おやつチューブの封を切り、フェンスの網のすき間から差し入れる。

 しかし、猫は一向に近寄ってこない。警戒してじっとこちらを見ているだけだ。


 僕の家では犬や猫はもちろん、ハムスターを飼うことすら禁じられてきた。

 アレルギー源になりそうなものから極力遠ざけるというのが両親の教育方針だったんだ。

 体の成長とともに少しずつ体力も付き、少し触れるぐらいなら大丈夫なことに気付いた。そもそも最近受けた検査によると、僕には軽い獣毛アレルギーはあったけれど、多少なら触れても大丈夫と医者が教えてくれた。

 だけど僕の方から猫を避けてきたという歴史は、そう容易く塗り替えられるものではないようだ。


 お目当ての猫に会えたという初動の興奮が冷めてくるにつれ、僕は一生猫と仲良くなれないのではという現実を目の当たりにして、心がしんしんと冷えていく。

 春だというのに冬の冷気にさらされているように身体も冷たくなっていく。

 そんな僕の足元を名も知らぬ甲虫が歩いている。


「にゃーご」


 ひときわ低い猫の鳴き声にハッと顔をあげると、いつの間にかもう一匹の猫が現れていた。

 マルっと太った茶トラ猫だった。


「にゃーご」

「にゃ~ん」


 二匹の猫は互いに頭をすり寄せ、ペロペロと舐め合っている。


 そういえば、あの・・時も阪本さんと白黒の猫が戯れているすぐ側にもう一匹、茶トラ猫がいたような……気がする? 


 二匹の猫が仲良さそうにじゃれ合っている様子を眺めていると、微笑ましいような、羨ましいような、楽しいような、寂しいような、嬉しいような、悲しいような複雑な気持ちになってくる。

 こういう心理状態を情緒不安定というのだろうか。いざ自分のこととなるとよく分からなくなる。


 これは……もう……だめだ。

 もう誰でもいいからペロペロとグルーミングをして慰めてほしい。

 もう誰でもいいから……


 あれ? 僕は何者なんだ? 猫だったのか?


 ああ、だめだ。

 どんどん気分が沈んでいく――


 サザ……


 木の葉がこすれる音がした。


「お、リョータじゃん……」


 明るいトーンの透き通った声。

 この学校でただ一人、僕を下の名前で呼ぶ、阪本さんの声だ。


「あー、やっぱりそれ、リョータのだったのか」


 阪本さんはフェンスに挿したおやつチューブを指差して言った。

 口元は笑みを浮かべている。


「阪本さん……どうしてここに?」

「それはあたしのセリフだろ。リョータはこんな所で何をしているんだ? エサをやってるつもりになっているんだろうけど、どう見てもお前、猫にガン無視されているじゃん?」 

「えっ」


 心臓が跳ねた。


「こ、これ警戒されている訳ではなくて無視されているの? ……まだ慣れていないだけで……慣れれば仲良くなれるかも……」

「甘いんだよリョータは。あたしを誰だと思っている? あたしは猫語を話せる猫女だぜ!」

「ね、猫女ー!?」


 一瞬にして某有名漫画に登場するあのキャラ絵が頭に浮かんだ。

 あれは猫娘……だったっけ?


「あ、違うな。それだとあたし自身が猫ってことになっちまうからな。……いや、そんなことより、リョータお前……まさか……」


 切れ長の目を大きく見開いた阪本さんの顔が、グイッと顔を近づいてくる。

 僕は思わず上体をのけぞらせるが、阪本さんは更に顔を近づけてくる。

 ウエーブのかかった茶色い髪からシャンプーの良い香りがした。


「この猫たちを利用してあたしの弱点につけ込もうとしてんのか?」

「へっ!?」


 今日一番の大きな声が出た。

 虎太郎に投げられた時よりも大きかったと思う。


「阪本さんの弱点!? なにそれ。猫が弱点……なの?」

「あ、ちがっ」


 今度は阪本さんが焦ったように口を手で覆った。

 それからしばらく考え込むような仕草を見せ、ハッと何か名案がひらめいたように手を打つ。


「そ、そうだよ。あたしは猫を見ると思わず猫語でしゃべりかけてしまう癖があるんだっ!」


 最後は何かを誤魔化すように語尾を強めて言った。

 もしや、何かを隠そうとしている?

 首を傾げて阪本さんをじっと見ていると、彼女はなぜか顔を赤く染めてそわそわし始めた。

 果たしてこの人は、学校一の不良と呼ばれる阪本さんと同一人物なのか?

 

 まあ、何はともあれ、これだけは伝えておかないと。


「それは……弱点じゃないんじゃないかな? 猫が好きで、思わず猫語でしゃべりかけてしまう阪本さん、僕は好きだけど――」


 次の瞬間、僕は胸ぐらを掴まれて、フェンスに背中を押しけられていた。

 視界の隅で猫が逃げていくのが見えた。


 顔を真っ赤にして、ふーふーっと荒い呼吸を繰り返す様子を見るに、僕は絶対に言ってはならないことを言ってしまったのだと後悔した。ぼくが放った言葉の何がが彼女の琴線に触れたのだ。

 しかしシャツが喉に食い込んで、謝ることもできない。


「こっちの世界はよー、相手に舐められたらお終いなんだよ! そんなことも知らねーで、あたしに意見を言うんじゃねぇーよ!」

「うっ……カッ……」


 苦しい。息ができない。けれど一方では、僕の頭の冷静な部分が『不良体質に懲り固まってんなー、この人』なんて呑気に呟いている。

 自分自身の『不幸体質』に対して、彼女のは『不良体質』だなんて。現実逃避ここに極まれりという感じだ。

 ここ数日間で何度も首を締め上げられて、いい加減慣れてきたのかも知れない。慣れとは恐ろしいものだ。


「おー、いたいた。おーいマーヤ!」

「カツサンドが売り切れだったから焼きそばパン買ってきたけどいーよなー?」


 不良仲間の二人が来た。あの時と同じように大きく手を振りながら。 

 阪本さんは僕のシャツからと手が離し、僕手首を掴んで引っ張った。


「に、逃げるぞリョータ!」


 あの・・時と全く同じ状況に、僕の全身に戦慄が走る。

 僕は足を踏ん張りもう一方の手で僕の手首を掴む阪本さんの手を上から握った。

 振り向いた阪本さんの顔は青ざめている。


「ゲホゲホ……ね、猫はもう逃げたから! ゲホッ」

「あ?」

「ぼ、僕らが逃げる必要はないんじゃないかな? ゲホッ」

「あ、そうかっ」


 そもそもあの時も逃げる必要はなかったんだ。猫娘の猫パンチよろしく人間離れしたスピードの腹パンを受けたときに猫は逃げていた。

 猫娘が猫パンチをするかどうかは存じないけれども。


 僕はもう同じ失敗を繰り返さない。

 不幸体質の人生に、僕は今終止符を打った――つもりでいる。


「逃げる必要はない……か。じゃあ、リョータもあたしらと一緒に昼飯食うか? あたしの子分を紹介してやンよ」


 ニッと笑う阪本さんの茶髪に染めた髪が、春の風に揺らめいた。


「そしてこれはあたしからの口止め料だ」

「口止め料なんていらないけど……さきイカ? いつも持ち歩いているの?」


 阪本さんは一人満足げな表情で、その質問には何も答えてくれなかった。



 ―― 了 ――

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

不良のマーヤさんは僕にだけ甘い とら猫の尻尾 @toranakonoshipo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ