栗鼠・りす・コリスちゃん

 黒板にチョークを滑らす乾いた音は音階のない音楽のようで、聴いているだけで心が安らぐ。先生の低く落ち着いたトーンの声を聞きながら、僕はカリカリとノートに書き写す。

 ああ、僕は本当にこの時間が大好きなんだ。誰かと会話していなくても浮かないし、一人でいることに変な罪悪感をもたなくていい。


 なぜ罪悪感を持たなくてはならないのかだって?


 ふふふ、それが分からないというなら、きみも一度僕と同じ立場になってみるといいさ。

 今すぐ呪いの呪文をかけてやろうか?


 なんて、中二病っぽいセリフを頭の中で思い巡らせている僕はいま、どうしようもなく退屈な時間を持て余している。


 GWゴールデンウィークは遙か彼方に過ぎ去り、もう5月も終わろうとしているこの時期に、なぜ中学1年の学習内容を復習しなければならないのか。

 文字式の同類項を探すとか、左辺と右辺を天秤に乗せられた重りと見立てて方程式を解くとか。

 そんな基礎的な中学数学の内容を復習してからでないと、本来学ぶべき高校数学に入っていけないという現状。一方で授業中は禁止されているはずのスマホを隠れて弄っている生徒たち。負のループは延々と繰り返されていく。


 清林高校は山の麓に建てられた自然に囲まれた県立高校で、地元の林業を支える目的で創設された歴史がある。それが時代の流れと共に普通科として存続させたものの、県内でも指折りの不人気校として知られている。

 僕は中1の後半からほとんど不登校だったので、内申点がゼロでも入れる学校を探していたときに、ふと目にとめたのが自然の中で伸び伸びと学んでいる生徒が写ったパンフレットだった。


 ああ、こんな田舎の高校なら、人間関係のしがらみもなく学校生活を楽しめるんだろうなぁ……


 そんな甘々な未来を妄想してしまった僕はメルヘン男子だった。いや、メルヘン男子って何だよ。そもそもの話、そんな言葉が本当にあるのかどうか僕は知らない。


 確かに入学式前日に緊急入院して、人間関係作りに重要なスタートダッシュの時期を逃してしまったのは僕が悪い。

 でも、それにしたって、いい加減1人や2人僕に話しかけてくれても良いじゃないか!


 僕は極度の人見知りで、自分から話しかけることはできない。入院中は周りはほとんど大人だったから、黙っていても向こうから話しかけてきたので何の苦労も感じなかった。ところが同年代しかいない集団の中に入ったとき、まったくコミュニケーションがとれないことに気付いた。僕は極度のコミュ障だった。今さら変えられない。


 だから、皆の方から話しかけてきてくれ!

 笑顔で対応する心の準備は万全なんだ!

 僕はいつでも話しかけられるのを待っているからっ!


 もう僕はメルヘン男子どころか、メンヘラ男子と言った方がいいかもしれない。メルヘン男子ならあわゆくば一部の女子にはウケる可能性があるかもしれないけれど、メンヘラ男子なんて誰も相手にしてくれる訳がない。


 もう僕の人生は詰んだかもしれない。人生終了のBGMが流れ始める3秒前だ。


 机に突っ伏し頭を抱えて悲観していると、ふと顔を上げたタイミングで、とある女子と目が合ってしまった。


 栗色のショートカットボムの髪型で、卵形の顔の輪郭にくりっとした大きな目。僕から見て二つ隣の斜め右の窓側に座っている斉藤小里須こりすさんだ。

 皆には『コリスちゃん』と呼ばれている。名前そのままじゃんと思うかも知れないけれど、注目すべきはちゃん付けで呼ばれていることの方だ。

 キュルンと可愛らしい笑顔を振りまく、いわゆる『愛されキャラ』という属性を絵に描いたような存在だ。

 そんな彼女は、僕と目が合うと慌てた様子で前を向いた。


 次の時間も、そして次の時間も僕と彼女は目が合った。

 その度に彼女は慌てた様子で前を向いた。


 彼女は明らかに僕を意識している? なぜ? どうして?

 もしかして……もしかしなくても……これは……

 

 僕に気があるの?


 明け放れた窓から風が吹き込み、栗色の髪がふわっと揺れる様子を見ているうちに、彼女を世界の中心として周りの風景が色鮮やかに輝いて見えた。


 そう。僕は物語の主人公になったような気分に浸っていた。

 メルヘン男子の面目躍如だった。


 とはいえ、僕が主人公になったところで物語は何も動かない。何のイベントも発生しない。

 ただ目が合ったというだけで、向こうから声をかけてくることはなかったからだ。


 メルヘン男子からメンヘラ男子へと格下げだ。


 それはそうと、昼休みの僕の行動パターンは変わりなく続いていた。

 今日も今日とて、カバンに母の手作り弁当と猫用おやつのチューブを忍ばせ、僕は一人で体育用具倉庫裏へ足を運んでいるのである。


 やはり今日も猫はいない。あれから2週間毎日来ているのだけれど、相変わらず猫は姿を見せない。

 昨日置いておいたチューブはフェンスの向こう側にあるから拾えない。食べた形跡があるから、猫がここに来ていることは確かだ。


「――ンあ?」


 間抜けな声を上げて立ち上がった。今日は阪本さんが自宅謹慎から明けて復帰する日じゃないか?

 慌てて辺りを見渡すも、やはり猫の子一匹いない。

 不良の彼女は朝から登校することはほとんどないけれど、大抵は午前中のうちに登校してきていたはずだ。ならば、今日は来ないつもりなんだろう。


 僕はほっと胸をなで下ろした。

 また突然殴られたら怖いし痛いし死にたくなるし。

 それなら僕はなぜ毎日ここに来ていたんだ?

 

 決まっている。猫が心配だったからだ。

 でも……僕はあの猫がどんな毛色だったかすら覚えていない。

 

 時計を見ると昼休みはあと15分を切っていた。

 僕は母の手作り弁当を口にかっ込みながら、明日はもっと陽の当たる場所を探してみようと思った。



 その日の放課後、僕の下駄箱に花柄模様の便せんが入っていた。

 差出人は記載なく、宛先の欄には横書きで『亀山くんへ』と、女の子特有の丸い文字で書かれている。

 

 僕は周りに誰も居ないことを確認してから、震える手で封を開けた。


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